関西地区の4府県の寺院と神社の150ヶ所を
新霊場と指定し、観光客や巡礼者を呼び込もうと
するイベントが9月19日開かれた。伊勢神宮を
スタートとし、比叡山延暦寺までにいたる150
ヶ所の寺院と神社を新霊場に指定するものであ
る。昔の伊勢参りを模したものだという。その裏
にはホテル業界も関わっていると報じられている。
結論を簡単に野僧なりに云えば、大変なまやか
しである。
①仏教徒としての自覚がない。テレビニュース
を見て驚いた。まずバスで本装した大勢の僧侶が
降りてきた。次に仏教僧侶と神官が並ん伊勢神宮
に向かって歩く姿が映し出された。そして帰り際
であろうか、延暦寺の管主と思われる僧侶がイン
タビューに答えた発言に驚いた。「荘厳な伊勢神
宮に参拝できて感激している」というような意味
の発言をした。社交辞令的な意味合いがあるのか
も知れないが、一宗を代表する最高位の僧侶とし
ての威厳と格式、さらにはプライドを脱ぎ捨てた
お粗末なコメントだった。そのコメントは一般人
のするものである。何の宗教であれ、何の宗派で
あれ自分の属する宗教宗派が世界中で一番だと思
っているのが普通である。僧侶としての自覚がま
ったくない、といわれてもしょうがないであろう。
開いた口が塞がらない、とはこのことである。
②信仰心がない。仏教思想に対する信仰心がな
いから、上記のような発言をするのである。こん
なことを云えば一般人の方は不思議に思うだろう。
「坊さんに信仰心がないなんて、ありえない話だ
」、と。しかし、昔から「坊主の不信心」という
諺があるくらいである。何ら特段不思議な話では
ない。信仰心のない僧侶は日本中いくらでもいる。
「仏教以上の宗教、仏教以上の教えはない」とい
うのが仏教の信仰心である。
③太平洋戦争に対する反省がない。仏教界は先
の戦争で政府に協力的だった。この点に関しては
仏教界で論議が闘われてきた。しかし、その主流
は否定派の論客による少数派のものが主だった。
多数の僧侶は肯定派で、沈黙派といった状態だっ
たのである。表面的に否定的な発言する宗派や僧
侶がいたとしても、形式的、社会的な体裁を整え
るための本心と異なる欺瞞の表現だったといって
も過言ではない。「殺すな、殺させるな」という
ブッダの教えは日本の仏教界では何ら生かされな
い状態だったのである。日本に仏教僧侶が何十万
人いるかわからないが、「殺すな、殺させるな」
というブッダの言葉を本心から信じている僧侶は
どのくらいいるのか、アンケートをとると分かる
であろう。戦没者の慰霊の供養は仏教寺院でもし
ている。靖国神社に代表される神道の神社に最高
位に近い僧侶達が参拝すること自体、おかしい。
何を考えているのだろうか。「殺すな、殺させる
な」というブッダの教え信じないのであれば、あ
るいは信じたくないと思うのであれば、仏教僧侶
を辞めて神官などになればいい。簡単なことであ
る。ただ、特筆すべきは浄土真宗系列の宗派が日
本における戦後の平和運動に寄与したことは大き
な意味がある。
④廃仏毀釈運動を忘れたのか。明治の初期に起
こった廃仏毀釈は神道の神官による画策だったの
である。すなわち明治政府の出した「神仏分離令
」は、「一つの宗教施設の中に仏と神を一緒に祀
ってはいけない」、という趣旨のものだったので
ある。それを神官達は、「仏教寺院をつぶせ」と
いう政府の方針であると悪宣伝したのが廃仏毀釈
運動である。その結果、貴重な仏像や仏教寺院が
焼き討ちされたり、投げ捨てられたりしたのであ
る。それらを思い出せば、今回の霊場指定は何と
も無節操な僧侶の行動である。明治政府の出した
施行令もおかしいが、集団心理による行動も恐ろ
しいものである。
⑤商業主義の観光寺院化だ。今回の150に上
る寺院と神社の霊場指定は、単なる志を同じくす
るもの同士の勝手な取り決めで、「ありがた」く
も何ともない。権威もない。そんな所にお参りし
ても何の御利益もない。すなわち、現世利益を求
めて参拝しても、何の利益がないことを知るべき
である。第一、今回の計画はホテルがらみである
ことを見れば一目瞭然である。観光化で人集めが
目的である。ばかげている。かって「日本名僧名
墨展」なるものが開かれたことがある。それを見
ると有名寺院の住職などが主だった。どうやら有
名寺院や歴史ある寺院の住職が名僧だと一般人は
考えているようである。まったく形式論、権威主
義である。何度もいうように、そのような住職だ
からといって名僧とは限らない。信仰心があると
は限らない、社会のオピニオンリーダーとして適
格者であるとは限らないのである。この点につい
てはNHKも同罪である。いずれにしても今回の
霊場指定はまやかしであり、噴飯ものである。
新霊場と指定し、観光客や巡礼者を呼び込もうと
するイベントが9月19日開かれた。伊勢神宮を
スタートとし、比叡山延暦寺までにいたる150
ヶ所の寺院と神社を新霊場に指定するものであ
る。昔の伊勢参りを模したものだという。その裏
にはホテル業界も関わっていると報じられている。
結論を簡単に野僧なりに云えば、大変なまやか
しである。
①仏教徒としての自覚がない。テレビニュース
を見て驚いた。まずバスで本装した大勢の僧侶が
降りてきた。次に仏教僧侶と神官が並ん伊勢神宮
に向かって歩く姿が映し出された。そして帰り際
であろうか、延暦寺の管主と思われる僧侶がイン
タビューに答えた発言に驚いた。「荘厳な伊勢神
宮に参拝できて感激している」というような意味
の発言をした。社交辞令的な意味合いがあるのか
も知れないが、一宗を代表する最高位の僧侶とし
ての威厳と格式、さらにはプライドを脱ぎ捨てた
お粗末なコメントだった。そのコメントは一般人
のするものである。何の宗教であれ、何の宗派で
あれ自分の属する宗教宗派が世界中で一番だと思
っているのが普通である。僧侶としての自覚がま
ったくない、といわれてもしょうがないであろう。
開いた口が塞がらない、とはこのことである。
②信仰心がない。仏教思想に対する信仰心がな
いから、上記のような発言をするのである。こん
なことを云えば一般人の方は不思議に思うだろう。
「坊さんに信仰心がないなんて、ありえない話だ
」、と。しかし、昔から「坊主の不信心」という
諺があるくらいである。何ら特段不思議な話では
ない。信仰心のない僧侶は日本中いくらでもいる。
「仏教以上の宗教、仏教以上の教えはない」とい
うのが仏教の信仰心である。
③太平洋戦争に対する反省がない。仏教界は先
の戦争で政府に協力的だった。この点に関しては
仏教界で論議が闘われてきた。しかし、その主流
は否定派の論客による少数派のものが主だった。
多数の僧侶は肯定派で、沈黙派といった状態だっ
たのである。表面的に否定的な発言する宗派や僧
侶がいたとしても、形式的、社会的な体裁を整え
るための本心と異なる欺瞞の表現だったといって
も過言ではない。「殺すな、殺させるな」という
ブッダの教えは日本の仏教界では何ら生かされな
い状態だったのである。日本に仏教僧侶が何十万
人いるかわからないが、「殺すな、殺させるな」
というブッダの言葉を本心から信じている僧侶は
どのくらいいるのか、アンケートをとると分かる
であろう。戦没者の慰霊の供養は仏教寺院でもし
ている。靖国神社に代表される神道の神社に最高
位に近い僧侶達が参拝すること自体、おかしい。
何を考えているのだろうか。「殺すな、殺させる
な」というブッダの教え信じないのであれば、あ
るいは信じたくないと思うのであれば、仏教僧侶
を辞めて神官などになればいい。簡単なことであ
る。ただ、特筆すべきは浄土真宗系列の宗派が日
本における戦後の平和運動に寄与したことは大き
な意味がある。
④廃仏毀釈運動を忘れたのか。明治の初期に起
こった廃仏毀釈は神道の神官による画策だったの
である。すなわち明治政府の出した「神仏分離令
」は、「一つの宗教施設の中に仏と神を一緒に祀
ってはいけない」、という趣旨のものだったので
ある。それを神官達は、「仏教寺院をつぶせ」と
いう政府の方針であると悪宣伝したのが廃仏毀釈
運動である。その結果、貴重な仏像や仏教寺院が
焼き討ちされたり、投げ捨てられたりしたのであ
る。それらを思い出せば、今回の霊場指定は何と
も無節操な僧侶の行動である。明治政府の出した
施行令もおかしいが、集団心理による行動も恐ろ
しいものである。
⑤商業主義の観光寺院化だ。今回の150に上
る寺院と神社の霊場指定は、単なる志を同じくす
るもの同士の勝手な取り決めで、「ありがた」く
も何ともない。権威もない。そんな所にお参りし
ても何の御利益もない。すなわち、現世利益を求
めて参拝しても、何の利益がないことを知るべき
である。第一、今回の計画はホテルがらみである
ことを見れば一目瞭然である。観光化で人集めが
目的である。ばかげている。かって「日本名僧名
墨展」なるものが開かれたことがある。それを見
ると有名寺院の住職などが主だった。どうやら有
名寺院や歴史ある寺院の住職が名僧だと一般人は
考えているようである。まったく形式論、権威主
義である。何度もいうように、そのような住職だ
からといって名僧とは限らない。信仰心があると
は限らない、社会のオピニオンリーダーとして適
格者であるとは限らないのである。この点につい
てはNHKも同罪である。いずれにしても今回の
霊場指定はまやかしであり、噴飯ものである。
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