科学は善か悪か、という議論がある。その答えは、科学は善でもなく、悪でもな
いと結論づけられている。すなわち科学そのものは善悪の判断ができないのである。
科学的な文明の利器の一つとしての小さな発電機を例に考えてみよう。排気が十分
場所で適切に使用されれば電気を発電することができて便利である。しかし、密閉
された小さな空間で利用すれば、一酸化炭素中毒で側にいる人が死にいたることも
ある。このように利用次第で善にもなり、悪にもなるのである。また、電気カミソ
リを例にとれば、適切に使えば便利な利器となる。一方、コードを付けたままカミ
ソリを風呂の中に投げ入れれば、入っている人を感電死させる凶器ともなる。この
ように、科学の利器一つをとってみても、善悪の判断をできないのである。自動車
とて同じことである。利用次第で善にもなるし、悪にもなる。このように、科学そ
のものは善でもなく、悪でもない、と云わざるを得ないのである。
さらに科学そのものは善悪の判断をできない。たとえば「人を殺すのは善か悪か」
という判断を科学そのものはできない。①人食い人種はかっていた。現在はいない
ようである。その社会では、人を殺して食べるのは悪ではない。共食いの一種だった
のである。②旧約聖書などでは「神」を信じない人は「積極的に殺せ」、その方が
「神」は喜ぶと明記している。その殺人は善として許されるという意味である。
③ブッダは、「殺すな、殺させるな」(法句経)と説いている。民族や、他国の人や、
考え方の違う人などは勿論のこと、すべての人を殺してはならない、と説いている。
このように社会学的にも、宗教的にも違いがある。また、戦争は大規模な殺人行為で
ある。見たこともない人同士が殺しあい、個人的な怨みがない同士で殺し合う戦争
は納得できない殺人行為である。しかし、自国を守り、平和を祈念しているのに隣
国が勝手に侵略してくることもある。この場合、侵略された国の軍隊が自国民の生
命、財産を守るために侵略軍の敵兵を殺す場合は許されるとブッダは説いている。
このように人を殺すという殺人や戦争などの善悪を判断するだけでも多種多様の解
釈があるのである。いずれにしても殺人や戦争等を肯定するのも、否定するのも人
間なのである。
ましてや科学が「殺人」の善悪を判断するすべがないのである。最終的には人間
が判断せざるを得ない。たとえば、ある人が他人の首を刀で斬り落として殺したとし
よう。「首の間を刀が通過して死なせた」、という事実しか科学は説明出来ない。その
殺人行為のどこが善で悪なのかという判断を科学はできない。なぜなら生命の価値観
を斟酌する力を科学はもっていないからである。また、科学そのものは善悪の判断力
は必要ないといえよう。科学を利用する人の問題だからである。原爆や水爆(原爆の
550倍)を造ったのは人間である。一度造れば、各国は競って原水爆を造りたがる。
それを根絶するのは不可能に近くなる。これも造る人間の責任である。
最近、あるテレビ局で銀河系以外の宇宙には、人間ではなく、ほとんど鉄とプラス
チックでできたサイボーグだらけの星があるはずである、という内容の未来宇宙図が
放映された。とんでもない科学者の説である。サイボーグを造るのは人間であって、
サイボーグがその星の中心となることはあり得ない。そのような星がもしできるとす
れば、恐ろしい結果になるであろう。科学者の妄想以外の何物でもない。人類はそれ
ほど馬鹿ではないはずである。ある話しが伝わっている。米軍が人間のクローンを改
良した人間ロボットを造ったという。ある時、そのロボットに眼前の犬を殺せと命じ
たら、殺すのを嫌がったという。それを見て、このロボットは使えない、と判断して
研究を止めたと云う。人間の命令を拒否するのであれば、反対に人間に襲いかかって
くる可能性を否定できなかったからだと云われている。この話しが本当であるかどう
か推測の域をでない。
しかし我々の地球はあと4.50億年存在できると云われている。21世紀で地球
が終わるわけではない。地底大都市であれ、その他の方法であれ人類はまだまだ生き
られるはずである。22世紀以降の理想的な人類の生き方を考えておくことを忘れて
はならない。
「殺人」などの価値観は、人間の知性の問題である。さらに窃盗などの価値観など
が集積されて正義という世界観が生まれるのである。そこに人類全体の平和が生まれ
る。科学一辺倒の考え方は危険であることを忘れてはならない。
いつか人類がこの地球上に再生する日は必ず来るものと信じている。そのためにも
これまでの人類史の検証を欠かすことはできない。新たな平穏な人類史を造るためで
もある。