即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

ブログのさびしさ

2010年09月21日 21時29分35秒 | ブログ
ブログ開設4周年の記事の中でもご紹介したある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)というブログ。

前回たかがブログじゃないですか。という記事をご紹介しましたが、今日はブログのさみしさ。という記事。
とても興味深いし、4年もブログを書いてきた身としては、共感する部分が多い記事です。
一部引用させてもらいます。
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2ちゃんねるのような掲示板とかmixiのようなSNSと比べると、圧倒的にブログはさみしい感じがするんですね。なんでだろうな、と考えると、やはりツールの機能から来るものがあるのでしょうね。基本的に、ブログはパーソナルなツールですよね。自前でやってる人なら持ち家、私みたいな@niftyのココログを借りている人は借家ですが、自宅には変わりがないわけで。その点、2ちゃんねるもmixiもコミュニティーですよね。パソコン通信の頃は、ニフティフォーラムなんかもありました。

 <中略>

 mixiなんかは、mixiに入るという感じで、2ちゃんねるに至っては「住人」という言葉もありますよね。みんなが住む場所、それは「寮」とか「下宿」みたいな感じでしょうか。だけど、基本、ブログは自宅の書斎という感じ。書くときも、私の場合なんかだと、PCはオフライン。仕事をしたり、飲みに行ったり、パチスロ打ったり、本を読んだり、音楽を聴いたり、そんな日常のあと、吉本隆明さんの言葉を借りれば「25時間目」に書く、みたいな感じでブログのエントリーを書いています。

 その「25時間目」に書く言葉を誰に伝えたいのか、というと、これは「不特定多数」としか言いようがない人たちに対してなんですね。実名匿名論争がらみのエントリーでも、何度か言ったことがありますが、この「不特定多数」というところがSNSにはないブログの魅力でもあって、だから、芸能人なんかもブログを始めるのですよね。

 この「個人」が「不特定多数」に言葉を伝える、というのがブログのさみしさの原因でもあって、そのさみしさが魅力であるんだろうなと思うんですよね。1日160万PVもある『しょこたんブログ』だって、そこに中川翔子さんとファンがつながりあうという感じではありませんよね。私のようなおっさんから見たら、あのブログに中川さんの孤独みたいなもの感じるし。あの人は、きっと頭のいい人でしょうから、ああいう「しょこたん語」とかブログのコスプレとか、そういう全部が、自分の孤独に打ち勝つための自己表現のような気がするんですね。なんかうまく言えないけど。

 顔も知らない人のブログでも、読んでると、優秀さ、未熟さを含めて、その人自身が見えてしまうのがブログなんですよね。そういう意味では、私もそう見えている可能性もあるけどね。で、そんな中で、継続的に読んでいるブログが突然更新がなくなったり、休止したりすると、読んでるこっちがなんか心配になったりして。だからといって、コメントとかしないですけど。PCの向こう側から、日常生活で楽しくやってくれているのを密かに祈るくらいしかしませんけど。

 毎日、何億もの言葉がブログを通してネットをただよって、これだけブログが普及してしまったいま、その消費スピードは強烈なものがあるし、その中には誰にも読まれない言葉もあるだろうし、届かない孤独もあるでしょうけど、とりあえずは、そんなさみしさと引き換えに、ひとつの孤独を不特定多数にとりあえず届けることができるかもしれない可能性を手に入れたんだろうな、と思うのですね。『ウェブ進化論』の梅田さんのように、それをポジティブな言葉だけでは語れない自分がいるけれども、私たちの孤独が手に入れた可能性は、そのさみしさも含めて、きっと、いいものであるのだろう、とは思うんですよね。
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自分の孤独に打ち勝つための自己表現
この「個人」が「不特定多数」に言葉を伝える、というのがブログのさみしさの原因でもあって、そのさみしさが魅力であるんだろう

そうだなあ。そうかも。

でも、有名人ブログと違って僕はそれほど不特定多数に向かって発信してるっていう気はない、というか、薄い。
こんなこと書くと彼は喜ぶだろうなあ、とか、この駄洒落はあいつに受けるだろうなあ、というようなターゲッティングした仲間内に向かって書いてるという意識がかなりある。
だけど、もちろんそれだけじゃなく、不特定多数というか、誰が読んでもわかるように意識しつつ書いてるつもり。
常連だけで変に盛り上がってるSNS的なブログは嫌いだし、初めて来てくれた人でも平気で気軽に入ってきてくれるような家が望ましいと思っているので。

それにしても多少の孤独感は時々だけど感じることがある。

そんなさみしさと引き換えに、ひとつの孤独を不特定多数にとりあえず届けることができるかもしれない。

一生懸命書いていても、大して見る人もなく、ネットの広い海の中に埋もれていくんだろうなあ、と思ったりすることもある。
そんな思いもあり、寂しさをまぎらわすために、自分のために、メモ代わりとして書いてるのだと自分に言い聞かせたりしてる。
自己暗示。自己弁護。

自分のためのメモなんだから、誰も見なくても、つながらなくても、一切関係ない。

>孤独を不特定多数に届けることができるかもしれない・・・

そうか、ブログって寂しがり屋の人が書いてる?
孤独のネットワークってこと?
孤独の人の友達はまたみな孤独?
孤独の輪が広がる?
孤独の連鎖?

顔も知らない人のブログでも、読んでると、優秀さ、未熟さを含めて、その人自身が見えてしまうのがブログなんですよね
だからといって、コメントとかしないですけど。PCの向こう側から、日常生活で楽しくやってくれているのを密かに祈るくらいしかしませんけど。

知らない人でもその人が見えてくる。
そして、知らない人なのに、元気出して、とか、うまくやって、とか、密かに祈っている自分に気づいたりする。

この非現実の世界ではあるけど、なんとも人間的な関わり。

寂しい気持ちも、愛に近い感情も、すべてひっくるめてブログと関わったことでもたらされたものなのでしょうね。
まあ、いろんな意味でブログって面白いです、ほんと。
コメント
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