昨日書いた「将棋と武士道精神」。
この話、今話題になっている朝青龍問題ともリンクするので、
相撲、相撲道についてちょっと書いてみます。
そもそも、相撲と将棋は、このように絡んでいます。
将棋の日の第一回のイベント。
芹沢八段が仕掛け人だったようですが、
なんと、蔵前国技館でやったとのことです。
それも土俵の上に将棋盤を置いて、十段戦の対局もやったそうです。
そして、8千人も集めた画期的なイベントだったとのこと。
「国技」の相撲と、「国民的頭脳スポーツ」の将棋。
相撲の世界にこんな名言があったとのこと。
69連勝をした第35代横綱、双葉山の言葉。
「われいまだ木鶏たりえず。」
出典は中国の荘子だそうです。
*****************************************
前人未到の69連勝を続けていた双葉山が安藝ノ海に敗れたのが、昭和14年一月場所四日目。実に3年ぶりに黒星を喫したにもかかわらず、この日の双葉山はまったくいつもと変わるところがなかったそうだ。
館内の騒ぎも意に介さず、普段通り土俵に一礼した後、東の花道を下がっていったという。
その日の夜、双葉山は知人に充てて電報を打っている。
「われいまだ木鶏たりえず」
木で作った鶏のように無心の境地に至れなかった自分をいましめ、さらなる精進を誓った言葉である。
連勝がストップしてもまったく動じなかった土俵態度、そして短い電文に込められた土俵への思い。孤高なまでに相撲道と向き合い、己の限界に挑み続けた双葉山の実像に迫る一言であるといえよう。
******************************************
木鶏の由来はこんな話だそうな。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
昔、王のために闘鶏を養う名人がいた。
ある日、王は名人に尋ねた。
『どうだ、もう闘わせてもいいかな』
ところが名人はこう答えた。
『いや、まだいけません。いまはちょうどから威張りして、闘争心があるのでダメです。』
しばらくして、王は名人に催促した。でも彼はうんといいません。
『まだいけません。他の鶏の声や姿に、いきり立つからダメです。』
しばらくして、王はまた催促した。名人はまだ許しません。
『まだです。目をつり上げ、力んで戦いたがるのでダメです。』
その後、王が重ねて催促したとき、彼はやっと承知した。
『まあ、よいでしょう。もう他の鶏の鳴き声を聞いても平気です。ちょっと見ると、まるで木で作った鶏としか見えません。徳が充実したのです。これでどんな鶏がやってきても、天下無敵です。』
戦いというものはこうでなければいけない。徳が充実してくれば、戦わずして勝つ、つまり相手を呑んでしまうことが起こる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
相撲は単なる勝ち負けではなく、
心を鍛練し、天にいたる「道」だという言葉。
血気が盛んだったり、相手のことを気にしたりするようでは、まだ徳が足りない。
この話を聞くと、
第68代横綱、朝青龍はまだまだ未熟だと思わざるを得ない。
強ければいい、ではない。
強いだけでは尊敬されない。
徳がないと、強くはあっても美しくない。
勝ち誇ったように、勝った相手の前でガッツポーズをする。
どうだあ、とばかりに、自分の強さをアピールする。
土俵の外の相手に手を差し伸べたり、気にかけたりする振る舞いはなかなかない。
相手を豪快にぶん投げて強さをアピールしても、何も美しくない。
勝ち負けに拘るのでなく、泰然自若。
昔の横綱はやっぱり違いましたよね。
絵になってた。技もきれいだったけど、立ってるだけできれいだった。
風格があった。
ひとつひとつの所作、表情、そして人間性が、
相撲の品格、横綱の品格、となる。
将棋も基本は同じだと思う。
勝負は勝負だけど、相撲道、将棋道、という道を究めること。
徳があり、美しくなければいけない。
相手への自然な思いやり、謙虚さ。
堂々とした取り口。
多くの人から愛され、尊敬される人柄。
横綱も、名人・竜王も、同じですね。
外国人の一人横綱とか、相撲界全体の問題や、
親方がちゃんと指導できていたのか、など、
本人だけの問題ではないとは思いますし、
朝青龍、立ち直ってほしいです。
そして、将棋界は、いつの日か、外国人棋士がタイトルを取るようになるのでしょうか?
われいまだ木鶏たりえず。
木鶏のごとく。
これ、勝ち組負け組みのような市場原理主義的になっている、
現代のビジネスとか、あらゆるものに、適用できることだなあ、
としみじみ思いました。
この話、今話題になっている朝青龍問題ともリンクするので、
相撲、相撲道についてちょっと書いてみます。
そもそも、相撲と将棋は、このように絡んでいます。
将棋の日の第一回のイベント。
芹沢八段が仕掛け人だったようですが、
なんと、蔵前国技館でやったとのことです。
それも土俵の上に将棋盤を置いて、十段戦の対局もやったそうです。
そして、8千人も集めた画期的なイベントだったとのこと。
「国技」の相撲と、「国民的頭脳スポーツ」の将棋。
相撲の世界にこんな名言があったとのこと。
69連勝をした第35代横綱、双葉山の言葉。
「われいまだ木鶏たりえず。」
出典は中国の荘子だそうです。
*****************************************
前人未到の69連勝を続けていた双葉山が安藝ノ海に敗れたのが、昭和14年一月場所四日目。実に3年ぶりに黒星を喫したにもかかわらず、この日の双葉山はまったくいつもと変わるところがなかったそうだ。
館内の騒ぎも意に介さず、普段通り土俵に一礼した後、東の花道を下がっていったという。
その日の夜、双葉山は知人に充てて電報を打っている。
「われいまだ木鶏たりえず」
木で作った鶏のように無心の境地に至れなかった自分をいましめ、さらなる精進を誓った言葉である。
連勝がストップしてもまったく動じなかった土俵態度、そして短い電文に込められた土俵への思い。孤高なまでに相撲道と向き合い、己の限界に挑み続けた双葉山の実像に迫る一言であるといえよう。
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木鶏の由来はこんな話だそうな。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
昔、王のために闘鶏を養う名人がいた。
ある日、王は名人に尋ねた。
『どうだ、もう闘わせてもいいかな』
ところが名人はこう答えた。
『いや、まだいけません。いまはちょうどから威張りして、闘争心があるのでダメです。』
しばらくして、王は名人に催促した。でも彼はうんといいません。
『まだいけません。他の鶏の声や姿に、いきり立つからダメです。』
しばらくして、王はまた催促した。名人はまだ許しません。
『まだです。目をつり上げ、力んで戦いたがるのでダメです。』
その後、王が重ねて催促したとき、彼はやっと承知した。
『まあ、よいでしょう。もう他の鶏の鳴き声を聞いても平気です。ちょっと見ると、まるで木で作った鶏としか見えません。徳が充実したのです。これでどんな鶏がやってきても、天下無敵です。』
戦いというものはこうでなければいけない。徳が充実してくれば、戦わずして勝つ、つまり相手を呑んでしまうことが起こる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
相撲は単なる勝ち負けではなく、
心を鍛練し、天にいたる「道」だという言葉。
血気が盛んだったり、相手のことを気にしたりするようでは、まだ徳が足りない。
この話を聞くと、
第68代横綱、朝青龍はまだまだ未熟だと思わざるを得ない。
強ければいい、ではない。
強いだけでは尊敬されない。
徳がないと、強くはあっても美しくない。
勝ち誇ったように、勝った相手の前でガッツポーズをする。
どうだあ、とばかりに、自分の強さをアピールする。
土俵の外の相手に手を差し伸べたり、気にかけたりする振る舞いはなかなかない。
相手を豪快にぶん投げて強さをアピールしても、何も美しくない。
勝ち負けに拘るのでなく、泰然自若。
昔の横綱はやっぱり違いましたよね。
絵になってた。技もきれいだったけど、立ってるだけできれいだった。
風格があった。
ひとつひとつの所作、表情、そして人間性が、
相撲の品格、横綱の品格、となる。
将棋も基本は同じだと思う。
勝負は勝負だけど、相撲道、将棋道、という道を究めること。
徳があり、美しくなければいけない。
相手への自然な思いやり、謙虚さ。
堂々とした取り口。
多くの人から愛され、尊敬される人柄。
横綱も、名人・竜王も、同じですね。
外国人の一人横綱とか、相撲界全体の問題や、
親方がちゃんと指導できていたのか、など、
本人だけの問題ではないとは思いますし、
朝青龍、立ち直ってほしいです。
そして、将棋界は、いつの日か、外国人棋士がタイトルを取るようになるのでしょうか?
われいまだ木鶏たりえず。
木鶏のごとく。
これ、勝ち組負け組みのような市場原理主義的になっている、
現代のビジネスとか、あらゆるものに、適用できることだなあ、
としみじみ思いました。