即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

将棋と武士道精神

2007年08月08日 20時12分07秒 | 将棋
将棋界の真相
田中 寅彦
河出書房新社

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以前、連盟の古い体質について、違和感 という記事書きました。

そこに登場する現理事の書かれたものなので、2004年11月発行のものではあったけど、読んでみました。

連盟の目的
『将棋道の普及・発展を図り、併せて国際親善の一翼を担い、人類文化の向上に寄与すること。』

この目的に向かって全力を傾けていたとは言い難い。

今までは、主体的に動かなくても、各新聞社が全部やってくれていた。
棋戦を作り、高額の賞金を出し、棋譜を毎日載せてくれていただけでなく、アマチュアの大会の後援までやってくれていた。

こんなぬくぬく状態に気づいたのは、いわゆる《ハブル》だった。
羽生の7冠で、将棋界に注目が集まり、連盟にマスコミが殺到したけど、将棋を知らない人たちに対する広報のやり方がわからず右往左往するのみだった。

この騒動が起こったことで、連盟が変わる大きなきっかけになった。

抜本的な改革が必要になった。

なんていう話から、今後、将棋界はどうなっていくんだろう、という考察がいろいろ。

今後、羽生世代は、対将棋ソフトは、女流棋士は、連盟は、順位戦などのシステムは、国際化は、普及の方法は、などなど。

そして、将棋の明日は明るい、と。

「将棋の底流に流れる武士道文化」、
という章が、面白かったので紹介します。
(今の朝青龍問題とリンクしてますね。)

将棋は日本の伝統文化。

何から何まで細かくルールを決めるのは、日本的な文化ではない。

最低限のルールだけで、あとは武士道の精神にて行う。

「礼に始まり、礼に終わる。」

ルールになくても、恥ずかしい行為はしない。

ルールの範囲内なら、何をしても良い、という西欧流の考え方とは違う。

わびさびの世界。

例にあげてあるアマチュアの審判の時の二歩の説明の話。

打った人が気づいたら、『二歩でした。負けです。』と自ら申告してください。
相手が二歩を打ったら、『二歩です。自分の勝ちです。』というのは、将棋の精神に反します。
『それは二歩ですから、お戻しください。』と言うのが人の情けです。
それに対して二歩を指摘された方は、
『すみません、戻します。』と甘えたりせず、
『申し訳ありません。私の負けです。』
と言ってください。
これが将棋の精神であり、日本文化のあり方です。

何から何までルールで決めないともめるのでは、日本文化ではない。
礼儀に則って、お互い自主的に相手のことを慮って判断する。
最低限のルールだけで、後はやりとりのなかでお互いの気持ちを尊重して決めていく。
これが長い歴史の中で育まれてきた日本の伝統的な文化。

ルールにはないこと、網の目をかいくぐるようなこと。
そういうことをすると、そうまでして勝ちたいか、となり、軽蔑され、誰も相手にしなくなる。

従ってルールは必要ない。礼の問題。心のあり方の問題。
仁、とか、義、とか、
藤原正彦著『国家の品格』に出てきたのと全く同じ話です。

アメリカの訴訟社会のことは、前にも書いたけど、
契約書がすべて、ひとつも漏れがないように、細かくありとあらゆるケースを想定して、抜かりなく網羅する。

よくある契約書の最後の条文に、
上記以外の件は、お互い誠意を持って話し合い解決する。
ってありますよね。

これに意味を持たせるのか、あって無きが如しなのか。

相手を信用して契約するのか、信用せずに契約するのか。

信用して臨む、というのであれば、重箱の隅をつつかなくてもいいだろうけど、信用できない相手かもしれない、という前提だと、しっかりありとあらゆる場合を書いておいてクレジットしておかないと、騙されてえらい目にあう。


将棋って、子供たちへの普及のこと考えても、とってもいいと思う。

今の社会でどんどん欠けてきている人の徳、とか、忍耐とか、惻隠の情、とか。

勝ち負けに拘るのでなく、人の道を究める。

将棋道、という世界に誇れる良き日本の伝統文化。

そんなことあまり考えず、ずっとファンで来たのだけれど、
改めて、将棋って素晴らしいものだなって、あらためて思うきっかけになった本でした。
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