不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

平和教場 詩吟  

2015-12-05 20:22:13 | パークゴルフ
  昨日の天気予報があまり良くなく、ひょっとして吹雪になるかも?なんて心配していたけれど、昨夜わずかに雪が降って積もっていたけれど、雪かきするまでのこともなく、天気も全く心配いらなかった。

 教室は初め7名だったけれど遅くに加藤君が来て8名の稽古となりました。明日の審査会3名受審です。受審の方に少し時間を使うことにしました。

 後半は、受審者以外は「夜坐」をやってもらうことにして、一度範吟をし、みんな手一緒に一度稽古をさせました。つづいて、受審者は絶句の人は二題とも、上級の方は後半の分をやらせ、それ以外の方は夜坐をやってもらいました。加藤君の吟にはみんな圧倒されていました。良い手本になってくれました。みんなこの詩を気に入ってくれたようです。

 ある人から提案があり、住山教場長にこれ以上無理をさせないようにした方がよい。教場長を誰かに替わってもらう方がよいのではないですか。ということで、住山さんもやってくれる方がいれば是非そうしてほしいという意向で、結局、小田桐氏にお願いするようにしましょうということで纏まった。

 住山さんも90歳を超えています。元気ですがもう5年くらい頑張ってもらったのですから、いいタイミングかもしれません。

 町内会の同じ班の御主人が亡くなり、お通夜があったので家内といってきました。70歳でした。人工透析をしていることは知っていました。そして最近かなり弱っていられるのを知っていました。通夜での話では40年にわたって透析をされてきたということでした。手稲第二教場の大野先生も透析をづけていて、どんどん衰弱してゆく姿をとても痛ましく見ていたのでした。私も腎臓の数値があまり良くなくて、薬をもらっていますが、今のところ透析の心配はないようです。体質にもよるのでしょうが、寄る年波は容赦なく、いろいろな病気を運んできます。


 昨日、久しぶりにO君から電話が入った。何と、腰が痛くて大変だったりだけれど、渓仁会で注射をしたらいっぺんに治った。その勢いでカラオケを歌いに行ったという。そして帰宅して、今、バックが無くなっているのに気が付いた。カラオケの店に忘れてきたと思う。という話なのです。私への相談は、そのカラオケの店の名前が分かれば電話してみようかと思うということだった。しかし、私に電話を呉れたのが19時過ぎてからです。本人の話でその店夜はやっていないといっていたというのです。それじゃ17時には終わっていて、行っても無駄だから、月曜に行ってみなさいと話した。大事なバックを忘れる、これも歳のせいなのでしょう。私が行っていない店なので力になり切れませんでした。他人事ではありません。これからバックを持って出かける時には肩から斜めにぶら下げる、手から離さないそんな努力もしなくちゃならないかもしれない。
font>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手稲第二教場  詩吟

2015-12-04 19:23:22 | 詩吟関係
 今日は6日の審査を受ける4名の参加でした。当然のこと審査を受けるための稽古となりました。

 一気に上手になるわけは無い。しかし、少しでと思って頑張らせる。

 いつもは、審査前には特別手を入れないで、現状で頑張らせる方向に指導を持ってゆくのですが、今日はちょっとやりすぎたかもしれない。新人が二人いるのでついつい力が入ってしまった。

 教えることの楽しさは、審査を受けさせることにもある。お弟子さんがどんな吟をしてくれるかが楽しみなのです。なかなか期待通りの活躍をしてくれる方は出てこないけれど、仕方がないのです。北詩連に加入して10年になるけれど三ケ月ごとにある審査会に、すべて何人か受審させてきています。短縮合格が一人もなかったというのは一度くらいの気がします。今回は9名受審するのですが、どんな結果になるのやら。

 北詩連は本来いろいろな流派の集合体で、審査は統一してやるけれども、各流派の特色を尊重するという原則になっている。しかし、今は、他流からまとまって入会するのは全くなく、10年前私の会が 象堂流から独立して入ったのが最後なのでしょう。

 もうここまで来たら、一つの吟法に統一し、北詩連としての吟を名乗れるようにしてはいかがなものなのでしょう。研究部、審査部が教本の吟譜を作り上げ、何年かをめどにして統一した吟を確立させる。その方が、指導もしやすい。昔は優れた指導者も多く、審査も自信を持ってなされていたと思うけれど、今は安定感にかけているように感じてしまう

 時々、お弟子さんが所属する流派を尋ねられて困っていることがある。碌峭流で指導していますが、碌峭流と名乗ってくれとはとても言えない。北詩連といったら、詩吟学院(岳風流)のかたは、「あぁ 二句三息をあまり考えない会ね・・・」とかと軽く言う。今次第に一つの方向に収斂しつあるように思う。部分的にでも統一出来るところは統一してゆく方向を模索してはどうだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お酒! お酒!! おさけの思い出

2015-12-03 19:27:24 | 身辺雑記
 お酒を最初に口にしたのは確か17歳ころだったと思う。当時、父は田舎の小学校の校長先生で校舎にくっついた公宅に住んでいた。

 お盆になると校庭に櫓が組まれ中の大人も子供も集まって盛大な盆踊りが催される。踊る阿呆に、踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損々・・私は待ち焦がれて踊る阿呆でした。そんな盆踊りをしているときに、ふと父が「どぶろく」を仕込んでいるのを思い出し、そっと茶碗に注いで飲み干してみました。そして又踊りに加わったのですが、間もなく酒が利いてきて倒れそうになり、ついに我慢ができず家に戻り、ゲロゲロ戻して寝込んだのが最初でした。

 次が、第三師範本科一年に入学して、石北線の安足間から旭川へ汽車通を始めたとき、汽車通のパーティが確か当麻で開かれた。そして酒が出た。酒であることはわかったが、清酒か焼酎かも判らず、飲んだ。でも、その時は自分で加減したと思う。おいしいという実感は全くなく、それほど酔うこともなく終わった。

 大学時代もたまに仲間とバーに行くこともあったけれど、酔わない程度の、お金もかからない飲み方を少ししたくらいだった。

 沼田高校に昭和28年奉職したのですが、いい仲間がすぐできて周りの先輩たちには酒飲み、遊び上手な方も多く、夜な夜な町に飲みに出かけていた。安い給料だったので、つけで飲み給料が来ても借金払いでなくなるような生活が続いた。でも、そんなに羽目を外すこともなくも楽しい酒だった。給料のほとんどが飲み代になっていた。

 結婚してからは、めったに飲みに出ることもなくなッた。又、家で飲むということもなかった。

 美唄に転勤してからも宴会の酒は飲んでも深酒はしない努力をしていた。二次会などではお茶だけ飲むというありさまだった。

 そんな状態で札幌に転勤してきた。西陵高校に来た一年目くらいは、二次会についてゆき会場に入るなり具合が悪くなり吐いたりしてお茶だけ飲んで付き合ったりしていたのに、2年目から変わってしまった。いい飲み仲間ができ、飲み方も上手になり、酒での楽しみが判ってきた。そのころからカラオケもはやりだしていた。

 特にもう他界したF先輩はとても社交的な方で、しばらく手稲に住居を構えたこともあり、楽しい飲み屋を見つけてきて私とT君を連れて行ってくれる。そんな付き合いが重なるうちに私もいつの間にか結構飲めるようになって、また酒場の楽しさを知ることになってしまいました。

 札幌での現役生活は12年でしたが、2年目くらいから、退職後数年までは手稲の街でずいぶん楽しんだものでした。バブルの時期でしたから、飲み屋の数も多くはしご酒で楽しんだものでした。バプルがはじけてから、飲み屋がどんどん減り、手頃の値段では遊べない時代となり、最後「いの平」という小さな居酒屋さんが砦みたいになっていましたが、それも小野ママが倒れてから閉店となり、自分で飲みに行く場所もなくなった。まるでそれに呼応するように宴会などで飲みすぎると三日酔いみたいな有様で、もう飲むのも限界かなと思うようになってきました。

 年が明けると86歳です。もういいですね。大浦元老が数年前から宴会はノンアルコールビールにしている。私もそれに倣うことにしましょうか。ちょっと寂しい気がするのですが、体力がついてきてとくれないような気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の冬はどんな風になるのだろう

2015-12-02 19:37:32 | 無題
  11月に60年ぶりという大雪が来て、大雪を心配していたら今日現在では手稲の雪はほとんど問題なしです。おまけに明日は10度に気温が上がり雨になるという。おそらく雪は解けてしまうでしょう。どうやら今週中は雪で困ることはなさそうです。

 一時暖かくなっても、そのリバウンドみたいな雪が来るような気がする。

 今までの雪でも道内で見れば、かなりの降雪になっているところもある。札幌の中でもいろいろみたいだ。

 夏の集中豪雨のように、集中豪雪なんてことが起きるかもしれない。そんなことになったとき手稲が圏外になればうれしいなんて勝手なことを考えたりする。

 それにしても、灯油の値段が下がっていることはうれしい。ロードヒーテイングが思い切り使えそうだ。

 6日の日曜日は、北詩連の資格審査日になっている。どんな天気になるのやら。せめて曇りくらいであってほしい。

 北詩連の資格審査を受ける人数が何か目に見えて少なくなってきている感じがする。昨年新会員獲得のキャンペンがあり、西支部でも目標達成ということでいい動きだと思っていたけれど、その結果が表れてきていないような気がする。せっかく入会したけれど、活動のしない会員が多いということも考えられる。

 今年も普及部では一生懸命声を上げてくれているけれど、成果はいまいちあったとは言い切れないのだと思う。ちょっと思うことなのだけれど、在籍会員のテコ入れをもう少し頑張る必要がある。名前だけ連ねても、審査も受けない会員を何人も抱えるようじゃ困る。会のまとまった活動が目に付くようでなければ、新しい会員も来てくれないのじゃないでしょうか。

 主題から離れてしまったが、季節は師走に入ったのです。私の会ではどの会もそれぞれ工夫を凝らして納め会を計画してくれてる。会としてのまとまりは大切です。会員が少なければ少ないなりに、まとまらなければならない。会が楽しければ、友達をさそうのも誘いやすいはずです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六八会の案内が来たが、詩吟の教室と重なっているので欠席することにした

2015-12-01 18:56:01 | 身辺雑記
 六八会という同期会。会の由来は、昭和28年卒と28年卒が同期の同期会の名称なのです。

 私は昭和5年生まれの85歳です。私の学歴は上川村東雲小学校高等2年卒、永山農業学校卒、北海道第三師範学校本科一年終了、北海道学芸大学校1類卒です。

 これだけだとよくわからないのですが、第三師範までは旧制で、大学が新制の1期になるのです。

 北海道第三師範は旭川師範学校でもあります。私たちの学年は、旧制の第三師範学校で26年に卒業した者と、学芸大学の2類に進学して26年に卒業した者、それに大学一類で28年に卒業したものとに別れるのです。でも気持ちは旭川師範の同期なのです。それで、同期会は六八会と名付けてやってきているのです。本部は旭川に在り札幌に支部があったのです。本部は解散したのですが、札幌の支部だけ、集まれる者だけでも集まろうと、梅田君がまとめ役で進めてきてくれています。

 同期といいながらも、結構年上のものもいます。私は一番順当な歳です。それでも85歳、間もなく86歳になる。かなり衰えた仲間も多い。私はまだ元気なうちに入るのも知れない。中には叙勲されたものもいます。来年開かれるかどうかもわからないのだから。無理してても出席すべきだったかも知れません。今は集まっても老いを嘆きあうくらいの会になるのかもしれません。私などはうらやましかられる存在かもしれません。

 人間の一生なんてはかないものです。86歳ともなれば、生きているのがラッキーみたいなものだけれど、生きていることがつらくもなるのだ。

 最近は物忘れがほんとにひどくなっている。でも詩吟を教えたり、カラオケを歌ったりして困ることがないのだから、もう少し生きていることを楽しめるのかもしれない。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする