鹿児島に久成会が出来て、札幌にも出来た。
薩摩藩士であった村橋は、戊辰・函館戦争に軍監として戦った後、黒田清隆の勧めがあって、北海道開拓使となった。
その後、札幌ビール醸造所建設の重責を果たして、突然辞表を出して行方不明と成り、11年後に神戸で行路病者として死んでいったのです。
村橋は、北海道開拓の歴史の中で素晴らしい仕事をしていて、しかし、その功績が止みに埋もれていたのです。其れを掘り起こしたのが、現在手稲在住の田中和夫先生の小説「残響」だったのです。
慶応元年、薩摩藩は、イギリスに17名の留学生を派遣しているのです。まだ明治政府の出来ていないときに、それも尊王攘夷の旗頭の薩摩がイギリスに留学生を送ったというのも面白いのですが、その留学生の一人に村橋は入っていたのです。しかし、村は詩は1年で帰国したのです。
丁度、田中先生が、「残響」を書いた時、鹿児島大学の中村晋也先生が、イギリスへ留学した17名の青年の群像を「若き薩摩の群像」として彫刻されていたのです。しかし、鹿児島でも村橋のことは知られていなかったのです。田中先生が「残響」を上梓し、鹿児島市長に贈呈すべく、持参された。その折、偶然中村先生とお会いし、村橋の業績をお話し「残響」読んでいただくことになりました。中村先生は大変感動され、「田中さんは小説で村橋を後世に残した。私は彫刻で村橋を残す」と仰られ、後ほど田中先生が北大に残されていた村橋の写真を見つけ、中村先生に送った、その写真を基にして胸像「残響」が製作されたのです。
胸像「残響」は、中村先生の記念館に展示されていたのですが、たまたま北海道知事になつた高橋知事が初心表明演説で、村橋を引き合いに出し、北海道知事としての姿勢を表明したのでした。
これがきっかけと成り、村橋の胸像「残響」の北海道移設期成会が立ち上げられ活動が始まった。
鹿児島では、久成会が立ち上げられていました。北海道でも久成会が立ち上がりました。終に、一昨年、9月、胸像「残響」は、知事公館の前庭に移設されたのです。ご覧になっていない方が殆どと思いますが、知事公館の、西側の入り口を入ってすぐ左手に、素晴らしい胸像があります。どこに移設するか悩んでいた時、移設の場所は知事公館しかないと高橋知事が指定してくれたといいます。
100年の時を隔てて、鹿児島と札幌が一本の糸で結ばれたのです。薩摩のサムライ村橋が結んだ一本の糸のです。
今年も、9月23日、鹿児島久成会、札幌の久成会が胸像の前に集まりる筈です。
田中先生に手稲で講演をして欲しいと願って、たまたま関係している手稲コミュニティセンターに話を持ちかけていたら、9月の末の文化祭に講演の企画が上がってきて、明後日、田中先生にお願いする予定に成りました。
管財癒着の構図に抗した村橋の生き様は、今の時代こそ改めて見直す時だと思ったのしている。