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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

終戦後60年 道 遥か !

2005-08-15 19:38:56 | 思い出 1 生い立ち、
 75歳の今です。60年前、15歳 あの日は永山農業学校の1年生で、6月から出ていた援農の終わった日でした。
 
 あの悲惨な戦後の生活、そして、そこから立ち直った日本をこの目で見てきた。

 二度と戦争はしない、そんな誓いと、そんな憲法に誇りを持って生きてきた60年だったと思う。

 あの日から後、世界の中で、あちらこちらで戦争が起きているのを、づっと見続けている。

 イラクでは、毎日アメリカ兵が何人も殺されている。戦争ではなくテロなのでしょうが、イラク戦争の続きであるわけです。

 イラクのテロ組織、武装勢力の抵抗が続く限り、イラクの復興はどんどん遠のくし、民間人への犠牲も減らないのです。でも、武装勢力は抵抗を続けるのでしょう。自衛隊の復興支援に行っているサマワは最も治安のいいところという。それでもまだまだ、復興にいたっていないという。

 抵抗勢力にも言い分とか、大儀とかはあるのでしょうが、今は国の安定と復興に総てをつぎ込む時ではないのでしょうか。

 イラク戦争の是非は、国の復興後でも世界に問うことが出来るはずです。今、武器を放棄して復興に向かえば、世界中からの支援と協力を受けられて、復興の速度は加速するはずです。  しかし  それをしない。  民衆を楯としてのテロは必ず民衆の犠牲を伴うのです。それもよしとする考えがイスラムの教えなのでしようか。判らない、、、、、、、、。

 
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永山農業 3年 卒業記念写真の1枚

2005-07-23 21:31:36 | 思い出 1 生い立ち、
 この仲間が私の永山時代の仲間です。「スズラングループ」と名づけて、三高寮歌の節で歌まで作って、いい気になっていた。その仕掛け人は私だったのです。しかし、このグループの中心はこの頃、川村尚になっていたのでしょう。写真の真ん中にいる男です。
 私は、なんとも覇気に欠けた駄目男になっています。汽車通になり、仲間とも一寸距離が出来ていたかもしれません。
 一番悪いのは、勉強を全くしなくなっていたということです。1年2年のときの写真と比べるとよくわかるような気がします。
 手前左端が本田君ですが、彼だけが他界してしまいました。今クラス会に出てくるのが川村と私の隣に写っている稲田、手前右端の田中君は、2回続けて欠席していた。清水君は出てきたことなし。
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永農 2年時  チョット生意気な、、、

2005-07-19 21:49:39 | 思い出 1 生い立ち、
 入学時の写真をこの前出したけれど、その写真との落差、チョット自分でも驚いている。
1年の8月に終戦、学校の雰囲気も全く変わって、あの上級生の恐怖から解放され、のびのびしてきた証なのでしょう。
 しかし、このあたりから、確かに勉強から遠ざかったのです。そんな感じが出ています。2年の途中から、安足間からの汽車通になり、今考えると大変な通学でした。
 
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永山農業学校へ入学

2005-07-17 21:44:34 | 思い出 1 生い立ち、
 小学6年の時、父に「幼年学校へ行くかな」といったら、「お前は師範学校へ行きなさい、師範学校を卒業して兵隊に行ったら将校になれるから」といわれて、その気になった。そして昭和20年2月旭川師範学校の予科を受験した。何と不合格であった。之はショックだった。
 
 後、受験できるのが、農業学校と工業学校、商業学校だった。父に永山農業を受けなさいといわれて、もおどこでもよかった、とにかく受けた。無事合格した。 嬉しかった。 
 
 当時、農業学校でも序列があって、空農(岩見沢農業)、永農(永山農業)、勝農(帯広農業)、名農(名寄農業)、の順になっていた。全道から集まるのだが、農家の出でない、私みたいのが結構多かった。

 入学して、寮(敬忠寮という寮)に入ったのだが、このときの思い出は多い。この写真の戦闘帽の白線は、この年卒業した、東雲の先輩、男沢良吉さんに貰ったもので、一年生には不似合いのものだった。それが原因で後で先輩に叱られることになる。
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小学校時代の思い出 東雲 水槽の山

2005-07-16 21:57:34 | 思い出 1 生い立ち、
「水槽の山」これは、東雲にあった安足間発電所の水槽(水力発電の水が、此処でいったん堰き止められ、2本の導水管に送られ下の発電所の発電機を回すことになる)の設備がある山なので、此処に住む者は、このように呼んでいたのです。ここは、東雲の子供たちの格好の遊び場で、特に冬はスキー場として使われました。この一枚の写真は、何年生の時かよく覚えていないのですが、男3人の真ん中が私です。ストックが長いのは、自分用が無くて、親父のストックを使っていたからなのです。真ん中にいるのが吉田鉄郎先生で、この先生が詩吟などを聞かせてくれて、それが私の詩吟のルーツでも有ります。私と先生の間の方が多分男沢良吉さんで、大変頭のよい先輩で、東雲小学校から初めて上級学校(永山農業)へ進んだ方です。こんな姿でスキーをしていたのです。
 
 男沢さんのお父さんは、発電所の職員で、発電所の職員住宅に住んでいて、この発電所職員が東雲のインテリー集団でも有りまして、いろいろなことで、私たちにも大きな影響を与えてくれたのでした。
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大雪山 石室 昭和19年7月 修学旅行は山登り

2005-07-14 18:47:11 | 思い出 1 生い立ち、
 昭和19年7月、高等科2年 修学旅行  それが大雪山の登山だったのです。
私の小学校は、上川村字東雲で、此処から大雪山の登山口、愛山渓まで20K=5里なのです。終戦前の大変な時期ですから、汽車での旅行など出来る状態では有りませんでした。
 それで、愛山渓1泊、層雲峡1泊の2泊3日での登山が修学旅行になったのです。
この時の、愛山渓で、朝見た大雪山の山肌の美しさは、身震いするほどだったし、それから何年か登山を続けるきっかけになった。
 朝6時、愛山渓を出発、永山岳を経て石室を通り、その日の内に層雲峡まで下りて、層雲閣に一泊次の日銀河、流星の滝を見て帰ってきたのですが、私は、体調を崩し滝を見に行けなかったのです。
 写真は、石室で撮ったものですが、右から二人目、白シャツの横が私です。結構仲間の中ではませて見えます。どうも、名前の定かでないものもいて、申し訳ない感じです。
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1歳5か月の写真

2005-07-13 21:30:28 | 思い出 1 生い立ち、
 昨日、1年生の写真を書き込んだが、これは、私のもっとも古い写真ということになります。この写真の場所は、上川尋常小学校の校庭のはずれだそうです。この自転車は立派ですが、当時の草浦校長先生が私を乗せて遊んでくれて、ついでに写真も撮ってくれたのだそうです。
 この直ぐ近くに一棟2軒の住宅があったのを記憶しています。
ここで、先の小学一年に入学するまでいたのです。
 此処が私のルーツで、一度寄ってみたいと思いつつ、終にまだ実現できない。場所はきっと特定できるはずです。なぜなら直ぐ近くにお寺が有り、それはあるはずだし、そこの現在の住職は私を知っているはずだからです。
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小学1年生の入学写真があった

2005-07-12 21:33:37 | 思い出 1 生い立ち、
スキャナーを手に入れたので、古い写真も整理できると思い、車庫の棚に埃りまみれに なっていたふるい写真を引っ張り出してみたら、こんな写真があった。
 小学校入学の記念写真。我ながら、かわいい写真じゃないか。一緒に1歳5か月の私が自転車にまたがっている写真もあった。
 これらの写真を、アルバムに編集したいのだが、少し勉強しなければならないのでしょう。
なお、この写真を撮った後、間もなく東雲に行く事になったのだと思う。
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父の思い出

2005-04-17 21:35:17 | 思い出 1 生い立ち、
 どこかで書いたことがあるのだが、父は私が小学校に入学した時に、上川村字東雲小学校の校長になった。当時がどんな状況だか分らないが、34歳くらいで校長になったのだからなかなかだったのだと思う。
 とても話が上手だった。学校での人達も沢山集まって式典をする時、またの青年が兵隊に行くとき、校庭で激励会をする、また、校長は青年学校のこうちょうでもあるので、青年団で挨拶するとか随分演説をする機会があって、聞いたものだが、子供心にも上手だと思った。また、書も達者で、賞状を筆で書いていたが、見事だった。
 煙草飲みだったが、凄くえらいと思ったのは人に煙草をせびることを一切しない人だった。校長先生は、とても偉くての冠婚葬祭、出征兵士の送別会には必ず呼ばれる。そして煙草が切れると帰ってくる人だった。また歌が好きで上手だった。の人が学校の集会の後とか、正月などには沢山やってきて、我が家で宴会をやるのだがそんな中で酔って歌を歌うのをよく聞いたがうまかった。札幌師範の本科教員養成所を出ていて、師範学校の卒業生ではないのだが、オルガンも上手だったし、私が壊したそうだけれどバイオリンを弾いていたのだそうです。
また、麻雀が好きで、東雲では、近くに発電所が有り、そこの所員が、言えばのインテリーで麻雀をやる人がいて、よく出かけていた。私が永山農業に通うようになった頃、麻雀は大学卒業するまで覚えるなと言っていた。しかし、第三師範(旭川師範)の本科に入ったときに覚えてしまい、美瑛の田舎の学校に転任していた頃は、先生方と父と一緒によく麻雀をやったものだ。
 あの時代、父は結構洒落ていたのだと思う。そんな父の一面は受けていると思うが、書は駄目、話は下手、歌も下手、何でこんなに似ていないのかと今でも残念に思う。
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2005-04-08 20:34:30 | 思い出 1 生い立ち、
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