1869年、フランスのル・カトー・カンブレジに生まれる。はじめ法律家を志すが、1890年、盲腸炎の療養中に絵画に興味を持ち、画家に転向、ギュスターヴ・モローに師事した。
マティスの初期の作風は写実的なものだったが、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャン、の影響を強く受け、形や面を単純化して色彩を強調するという革新的スタイルに到達する。長年にわたり所有したセザンヌの油彩画『水浴する三人の女たち』が新たな作風を確立するための支えとなったという。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、粗野ともいえるほどの単純化した線と大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになる。
線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。マティスにとってハサミは鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している。
晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂は、マティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。
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1839年、ポール・セザンヌは裕福な銀行家の息子として南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。自然主義文学の創始者として知られる小説家エミール・ゾラとは少年時代からの友人であり、その交友関係は1886年に絶交するまで続いた。
1862年、画家を目指しパリに移り住む。パリではロマン主義絵画のウジェーヌ・ドラクロワや写実主義のギュスターヴ・クールベ、印象派のエドゥアール・マネの影響を受け、カミーユ・ピサロにより印象派の技法の手ほどきをうける。
当時、パリの「カフェ・ゲルボワ」に集まっていた、後に「印象派」と呼ばれる画家のグループにもセザンヌは加わっていたが、無愛想で人付き合いの苦手な彼は、ここには自分の居場所を見出せなかったようだ。ただし、印象派の仲間のなかで、年長者のピサロとは意気投合し、1872年にはポントワーズで、1873年にはオーヴェル=シュル=オワーズでピサロとともに制作している。
1874年の第1回印象派展には、代表作の一つである『首吊りの家』を出品した。セザンヌは1877年の第3回印象派展に出品したのを最後に同展への出品をやめ、1880年代からは故郷エクス=アン=プロヴァンスに引きこもり、晩年に至るまで一人黙々と自己の絵画を追求し続けた。
セザンヌの絵は世間から全く認められなかった。初めてサロンに入選したのは「画家の父」という作品で、1882年、43歳のことであった。このときは友人の審査委員に頼み込むことで、やっと入選を果たしている。
1886年、ゾラの作品「製作」が自分の失敗をほのめかしているとして、長年の親友であったゾラと絶交している。また同年、父親を亡くしている。これらを契機にパリを捨て、故郷のエクサン=プロヴァンスに戻っている。故郷ではサント・ヴィクトワール山などを題材に、多数の作品を制作している。内縁関係であった妻とは1886年正式に結婚。同年、父の遺産を相続して経済的には恵まれていたが、セザンヌの仕事の意義はなかなか理解されることがなかった。
1895年に開かれたセザンヌ展が成功したことを契機に、セザンヌの絵は広く受け入れられるようになり、晩年は巨匠としての地位を確立させた。
セザンヌは、時間とともに移ろう光の効果を追求する、印象派の非科学的な技法には不満を持っていた。そして、絵画とは、3次元の世界のイリュージョンを2次元の画面に写し取ることではなく、自然を幾何学的にとらえ、2次元の平面に、面と色彩からなる秩序ある世界を構築することだと考えた。こうしたセザンヌの探求はキュビスムをはじめとする、その後の20世紀美術の動向に決定的な影響を与えた。
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