旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

朝日ジャーナル

2008年07月18日 01時53分34秒 | Weblog
1992年に廃刊となった「朝日ジャーナル」の記事のうち、編集者が重要であると考える記事を再編集した。そのアンソロジーが1993年に「朝日ジャーナルの時代」という書名で発行されている。久しぶりに「朝日ジャーナル」の記事に目を通してみた。

特に重要な記事は、目次では太文字のしかも大文字で印刷してある。1965年から1969年までの記事のうちで太字の大文字になっているのは、宮本陽吉の「アメリカの反戦歌」、J・P・サルトルの「知識人の役割」、小田実の「四人の米脱走兵」、特集「現代の青春 実存をかけた問い」、特集「セックスの今日的状況」、横尾忠則の「現代の偶像ビートルズ」、山本義隆の「攻撃的知性の復権」、秋田明大の「秋田日大全共闘議長の獄中日記」である。

引っかかったのが山本義隆の「攻撃的知性の復権」である。要するに何が言いたいのかよく解らない。記事の前半でかれは、全共闘運動に先立つ大学管闘争で大学側の当事者であるはずの教授たちを追及すると必ず、大学当局という言葉を引き合いに出して自己の責任から逃れようとしたことを引き合いに出しているうちに、自らも大学当局の一員であることに気がついて、どうしようもない自己矛盾に陥ったようだ。

ようやく自らの言葉で語るのは「僕たちの闘いにとって、より重要なことは政治的考慮よりも闘いを貫く思想の原点である。もちろん僕たちはマスコミの言うように玉砕などはしない。ひとりになってもやはり研究者であろうとする。僕も自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間・・・自覚した人間になって、その後改めてやはり一物理学徒として生きていきたいと思う。」である。では、その思想の原点や自覚した人間とやらはいったいどういうことなのか?なんとも空虚な総括である。

過去、医学部の研修医制度やインターン制度にみられた医師の卵たちの教授に対する、あるいは医療制度そのものに対する不満には頷ける。ところが、量子力学の研究者である山本義隆が東大全共闘議長として「大学の自治」や「研究の自由」という妙な連帯感を掲げて医学部に固有の問題に介入していった根拠が明らかでない。

たとえば、数年前に山本義隆は岩波文庫から2冊の量子力学に関わる翻訳本を出している。量子力学の歴史とは、ニールス・ボーア一派が唱える新しい物理学と古典力学との理論闘争の歴史に他ならない。古いものを守ろうとする側に挑戦するのは、新しい考え方を持った人たちであるというのは世の習いだ。

私は門外漢だから理解度は知れている。それにしても、山本のやさしい言葉使いと丁寧な訳注にもかかわらず、その翻訳は合理性や一貫性を貫こうとする余り、通読すると逆に曖昧な理解しかできなかったように記憶している。私の浅学のせいなのかどうか、いまだ判断に苦しんでいる。

岩波の翻訳とジャーナルの記事を読み終えて、自己の解体などと空虚なことを考える暇があったら、研究生活を続けてゆくために理学部大学院の改革をなぜ推し進めなかったのか。。学者の存在意義は研究実績にある。実績さえ残すことができればよい世界に政治を持ち込んだのが全共闘運動であった。大学当局の一員としてのリーダー山本の弱さ、限界を感じた。