しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

平櫛田中

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市西江原町  西江原小学校

平櫛田中は、明治5年、岡山県後月郡西江原村に生まれた。
管理人の母は西江原の生まれで、祖父母や叔父が住んでいた。
晩年の叔父は「田中(でんちゅう)には負けん」というのが口癖だった。






田中先生は郷土の人にとって、芸術文化の誇りであり、長寿の目標でもあったようだ。






田中先生の言葉は日本人に愛される格言になった。

いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる

六十七十は はなたれこぞう おとこざかりは 百から百から









叔父は田中先生の寿命に追いつく勢いがあったが、結果は98歳で亡くなった。
母も、たぶん目標にしていたと思が、母は95歳で亡くなった。
叔父も、母も、長生きできたのは田中先生長寿のおかげ、も少し感じる。



撮影日・2018年11月25日

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六代菊五郎鏡獅子

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市井原町  田中苑
ブロンズ
作者 平櫛田中
像高 180cm 台座 130cm
昭和49年建立
岡山文庫



現在の菊五郎(=藤純子の夫)は八代目。
六代目はお祖父さんになる。

井原市の田中美術館には、猿股一枚でポーズをとる六代目の木彫り作品が展示されている。
田中(でんちゅう)さんも六代目も、この作品に向き合う真剣な姿が、見る人に感動を与える。






”でんちゅうくん”は井原市のゆるキャラだが、
名称から田中先生の姿のはずだが、ゆるキャラの実態は”鏡獅子くん”になっている。








撮影日・2016年11月16日


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岡倉天心 (井原)

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市井原町 田中美術館 ~五浦釣人(ごほちょうじん)~
ブロンズ金色塗
作者 平櫛田中
(昭和45年)
像高220cm 台高 140cm


五浦(いづら)には3度ほど行ったことがある。
五浦の前は大海原で、その水平線の先にアメリカがあるのを実感できる。
天心先生お気に入りの地というのも、わかるような気がする。

断崖から太平洋を望む景色はすばらしいが、平和なことばかりでなく、
隣に位置する平潟港では、戊辰戦争で官軍が上陸し奥羽越列藩同盟の磐城藩を攻撃した。
太平洋戦争の時は、風船爆弾がこの地からアメリカに無差別攻撃で飛んだ。





「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

五浦

五浦に行きますと、六角堂というのがありまして、これは天心さんの屋敷から先がすぐに海に面していて、
断崖になっていて、断崖の中腹が六角堂という、夢殿にあやかったお堂があるの。
天心が一人で降りて行って、そこで座禅を組んで、お経を読んでいる。
やっぱりロマンチストだな、こういう一種の先駆者というのは。
孤独だったのですね。

半年ボストンにいて、日本へ帰れば横浜からまっすぐに五浦へ行くんです。
そして翌日には,釣りにでかけるのです。
一人孤独の士、東洋の哲人に帰ったわけです。




撮影日・2020年4月2日



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岡倉天心 (福山)

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・広島県福山市 JR福山駅前  ~五浦釣人(ごほちょうじん)~
平櫛田中 1975年


福山市民から「つりびと」とか「つりびとぞう」と呼ばれ親しまれている、平櫛田中作の「五浦釣人」像。
最初は駅の真ん前に置かれていたが、何度か移動した。
今は駅前というより駅西の感じだが、それでも駅前での待ち合わせ、となると「つりびと」となる。









「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

岡倉天心

天心の父は越前福井の藩士でした。
16歳で東京帝国大学文科大学に入学し、
当時東大の外人講師だったフェノロサは、哲学、政治学なんか教えていました。
卒論を2週間で美術論をデッチあげた。
このことが、後年の天心の人生コースをきめる機縁になりました。

天心は英語がよくでき、フェノロサの通訳を兼ねていました。
フェノロサは日本美術が新鮮で、物珍しさもあり、もう一度日本美術を見直そうと・・。

『日本美術史』で、若き天心とフェノロサが法隆寺の夢殿の秘伝を開いたときの記述、
秘伝を開けたらにおっていて、そこからヘビや鼠がいっぱいでてきた。
ひとつひとつ巻物をはがしていった。


明治22年美術学校を開設する、数えで28歳。
日本画と木彫りでスタートした。
美術学校を追われ「日本美術院」を建てる。

今度は茨城県五浦、海岸の小さな別荘へ引っ込む。
そうすると弟子の、
横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山、こうゆう人たちが先生を慕って、海辺の小さな村に皆行って、
天心の教育に従い、絵を描いた。
日本文化史上、五浦時代という。

明治34年インド旅行。詩人タゴールと意気投合。
インドの青年向けに「東洋の理想」を出版。
民族意識に燃えてきた青年の心を引き立てた。
戦争中、日本語に訳され、それがずいぶん売れた。
「アジアは一つ」というキャッチフレーズが「大東亜共栄圏」の構想に悪用された。
一面では、軍国主義に利用される要素が,天心のナショナリズムの思想の中にあったのも事実でしょう。

ボストンに半年、日本に半年住むようになる。
天心の本で一番売れたのは「茶の本」、6~7ヶ国語に訳されています。






「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行

岡倉天心(五浦釣人)  福山駅
制作・平櫛田中
設置・昭和50年

作者平櫛田中が師と仰ぐ岡倉天心が、五浦海岸で釣にひと時を托す姿を写したもの。






撮影日・2011年5月14日


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山鹿素行

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・兵庫県赤穂市  赤穂城跡
制作・作者不詳
設置・昭和33年


山鹿素行

1622~1685
江戸前期の儒学者・兵学者。
会津生まれ。
官学である朱子学を批判したため、播州赤穂藩に流される。
配流中に藩主や重臣に尊敬され、この間に素行の学問を代表する著を完成している。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行





「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行

山鹿素行

義士の行動に大きな影響を与えた山鹿素行は、
軍学者であるとともに、すぐれた儒学者であった。
官学である朱子学を批判して古学を唱導したために、赤穂の浅野家に預けられ、
そこで配所の月を眺めながら長年月を過ごしたことがあった。
その時、家老であった大石家とはとくに交友が深く、
内蔵助にも大きな影響を与えていたと思われる。
素行が唱えた武士道は、
江戸時代の武士の経典にように信じられたが、
それは、それまでの武士道の考え方とは少し変わっていた。
素行の武士道をみると、
「人事を尽くして天命を待つ」ということばがそのまま通用する教えであった。
泉岳寺でもすぐに腹を切らないで、
後は公儀の決定に従うというやり方は、まさに素行の教えの実践であった。










撮影日・2018年12月14日

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