しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

エスカレーターガール

2023年09月30日 | 失われた仕事

昭和40年代後半、
百貨店がイケイケどんどんという時代があった。
岡山には高島屋、
倉敷には三越、
福山には伊勢丹、
広島にはそごうの進出が決まった。
百貨店は元気がいい(経営に余裕)のでエスカレーターの昇降口に女性を配置した。
それがエスカレーターガールで、
役目はエレベーターガールと、ほぼ同じ。
「何階でございます。何々売り場がございます」という案内ガール。

この時代の小売業は百貨店vsスーパー(ダイエーや西友)の対決だったが、
スーパーにエスカレーターガールはいなかった。
エレベーターガールもいなかった。

 

時代はその後、
最初からエレベーターガールもスカレーターガールも置かなかったスーパーが、
百貨店よりも先に市場から去った。
大型店スーパーはほぼ壊滅、
百貨店はお金持ち階級や企業相手に現状死守の状態。

 

今の時代では、
エレベーターに社員を配置していた、
エスカレータに社員を配置していた、
ということが信じられないだろうが、
その時代には、
エレベーターそのものが町に珍しかった。
エスカレーターに至っては、さらに珍しい文明の機種だった。

 

・・・

 


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

エスカレーターガール

 

昭和の百貨店の花形と言えば、
多くの人が「上にまいりま~す」のエレベーターガールを思い浮かべるだろう。
一方で同時期に活躍したエスカレーターガールを想い出す人はあまりいないかもしれない。
上りエスカレータの乗り口の脇にスッと立ち、
浅めの美しいおじぎをしながら店内の案内をしたり、不慣れな客の乗降を確認したりする女性である。
1950年代から1960年代のほとんどの百貨店で見られた。
文字通り百貨店の顔であった。

 

・・・

 

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ジュークボックス

2023年09月30日 | 失われた仕事

ジュークボックスは店舗の中に、
今でいえば自販機のような感じで置かれていた。
高さは自販機より低く、大人の身長の半分くらいで、
目を下に向ければ、流行歌名が50~100曲くらい名札で並んでいた。

自分の好きな曲が決まったら20円(くらいだったと思う)を投入し、曲のボタンを押す。
曲が流れてくる。
つまり
一曲、3分間程度、20円で好きな曲を聴ける。
周りの人は、
無料で聴けてよろこぶ人もいるし、逆にうるさくて迷惑に感じる人もいる。

利用の多いジュークボックスは、予約してから順番に時間がかかった。
利用の多いジュークボックスは、こまめにレコードをヒット曲に交換していた。

利用者は10代か20代の若者が多く、
大人や子どもがジュークボックスの前で選曲している記憶はない。

1970年頃がいちばん流行っていたような気がする。

・・・

 

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

ジュークボックス


ボックスの中には50枚から100枚程度のシングルレコードが内蔵されており、
硬貨を投入して聴きたい曲のボタンを押すと、
その曲が大きめのスピーカーから中低音で演奏される。
1960年代から1970年代にかけての最盛期には、7万台ものジュークボックスが稼働していた。
好きな曲をお手軽に聴けるジュークボックスは、子どもにとって魔法の宝箱だった。

・・・

 

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風呂屋の三助

2023年09月29日 | 失われた仕事

10代、20代の頃、町の銭湯にはよく行っていた。
いろんな銭湯にはいって、値段も、趣向も、少し違うのを楽しんでいた。

しかし「三助」は見たことがない。
サラシ姿で入浴客の背中を洗ってるのを見たことがない。

思うに、
家に風呂が無い人が銭湯に行くが、
家に風呂が無い人は、「三助」の代金を払うほど生活に余裕はなかった。

町の銭湯に、ほんとうに「三助」はいたのだろうか?

 

・・・

(TBS「時間ですよ」)

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


三助


昭和30年代は銭湯1軒につき3~4人いたが、平成24年には全国で1人。
三助の日常は、
まず風呂を沸かす燃料の用意。
薪から、昭和30年代は石炭になった。
石炭ガラは舗装していない道の水たまりに入れて穴埋めした。
午後になると、風呂を沸かす。風呂場の掃除。
背中を洗うのは本来の仕事から見れば内職にすぎない。
やればやっただけ客からお金を貰えた。

・・・

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行


三助


三助とは銭湯の従業員で、
客の背中を流す男性のことである
戦後のある時期まで、
全国各地の銭湯に在籍していた。

流しを希望する客は、
まず番台で追加料金を払って札をもらう。
半股引にサラシ、ハチマキ姿の三助がやってきて、
背中と胸を洗い、肩をマッサージしてくれる。
最後に「バーン!バーン!」と背中を叩く。
三助は男だが、女湯にも普通に入って仕事をした。

三助はいきなりなれる職業ではなく、
最初は釜焚きや薪の収集からはじめ、
数年終業した後、
ようやく客の背中を流すことが許された。

・・・

 

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鋳掛屋(いかけや)

2023年09月29日 | 失われた仕事

日本の経済成長が始まると、
それまでの生活様式だけでなく、モノに対する思考も変っていった。
家にある鍋や釜やヤカンは、
(何度も何度も何度も修理され、最後にはクズ屋に売られ、溶かされていたが)
何かあると、新しいモノに買い換えられていき、古いモノはすぐに廃棄物となった。

 

・・・

(父の話)


談・2002.10.14

鋳掛屋


鍋ややかんを直しにきょうた。
してるようになってから来んようになった。

蝙蝠傘を直す人もきょうた。

 

・・・


「金光町史」


行商のほか、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。

 

・・・


「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行


鋳掛屋


直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。

 

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

鋳掛屋(いかけや)

鍋や釜など胴や鉄でできた容器の漏れに、白鑞(シロメ)・・錫と鉛の合金・・を溶かして入れて、穴をふさぐ仕事。
ふいごを持ち歩き、行商のようにその場で直すことも多かった。

「いかけ~、いかけ~」の声を聞いて、家庭の主婦が壊れた鍋や釜をもってきて、その場で修理してもらった。

戦後になってアルミで作られた金物が流通すると、
鋳掛屋の技術では修理できなくなった。
また値段も安くなったので、買い換えることが可能になった。

・・・


「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

鋳掛屋


穴の開いた鍋、釜、鉄瓶を修理する仕事。
天秤に小型の鞴(ふいご)や小道具をぶら下げて一軒一軒を回った。
もとは鋳物師から分かれた仕事。
鉄の鍋は裏側が酸化したり、黒くなったり、穴が開いたりした。
その穴を鋳掛屋が塞いで直した。
小さな穴は、鉄かアルミの棒で塞ぐ、
大きな穴は、まず周りをきれにに四角や丸に切り取って、
そこにブリキの板をはめ、最後に半田付けした。
庶民は何度でも直して使った。

・・・

 

 

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フラフープ

2023年09月28日 | 失われた仕事

フラフープというものが東京や大阪では子どもに大人気、というのは知っていたが
見たことも、したこともなかった。

やがて体に悪い(胃腸を圧迫する)という噂が流れ、
東京や大阪ではすたれてきた、という頃

茂平のような田舎でもフラフープを見ることができた。
(たぶん生産過剰の売れ残りや、投げ売り品が地方に回ってきたのだろう)
フラフープは男子よりも女子に人気があったようだ。
二三度、借りてぐるぐる回してみたが、
男の子にとっては、そう面白いおもちゃではなかった。

茂平で見る頃には既に、
身体に悪いのは噂でなく事実であることが日本中に知れわたっていて、
子どものフラフープ遊びは短い期間で消えて行った。

 

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行


フラフープ

アメリカでの大ヒットを受け、日本に上陸。
美容や健康への効果もうたわれ、
子どもから大人まで人気を集め
一か月で110万本を売り上げた。

だが、フラフープのやりすぎから、
もともと病弱だった子供の胃に穴が開いたり、
内臓疾患で倒れる子が相次ぎ、
輪のつなぎ目が外れて目を突く事故や、
路上でのフラフープが原因とする交通事故も起きるなど、
急激に社会問題化、
千葉県の小学校が禁止令を出すと、全国の小学校も禁止措置をとった。

その後、
ロックコンサートでのパフォーマンスや大道芸、
サーカスの出し物、
フラフープ競技会、
ダイエット用品など、さまざまなジャンルで取り入れられている。

・・・

 

 

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ダフ屋

2023年09月28日 | 失われた仕事

広島市民球場が原爆ドームの向かい側、基町にある頃
広島カープの試合を年に1~2度見に行っていた。

球場に入ろうとすると、見知らぬ男性から声がかかる。
その男はぼそぼそ話すので、
自分に言っているのか?それとも他の人へなのか?
聞いてほしいような、聞かれては困るような話し方なので、
何をいいたいのか?何を言っているのか?意味不明。
目立たぬ、地味な服装で、灯りが一番届かぬ場所に立っていて、
まさに”裏”という言葉が似合う男だった。

そういう男が試合が始まる前、試合が始まってからも立っていた。
「あれはダフ屋だよ」と同僚が言った。
ダフ屋のことは知っていたので、
あああれか、と男の仕事はすぐに理解できた。

それからは、
市民球場のダフ屋は、その場所へあたりまえにいる者、として普通に素通りするようにした。

 

・・・

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行


ダフ屋

「チケットあるよ、あるよ。」
1980年代の大阪球場周辺でよくダフ屋を見かけた。

開門2時間前に到着する客には「兄ちゃん、券余ってないか」
そう、そう仕入れの時間帯なのだ。
ゲーム開始直前、開始後に来場する客に、格安で売る。

 

堅気でない方々の影がちらつき、警察も監視を強めた。
ダフ屋は物陰に隠れた。

・・・

 

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サーカス

2023年09月26日 | 失われた仕事

サーカスを学校で見に行ったという話は聞くが、
自分は学校行事で見に行ったことはない。

 

 

小学生の時、春に「福山とんど祭」で二度見た。
三好サーカスと木下サーカスだった。
場所は・・たぶん・・今のローズコム、福山中央公園だったような気がする。

 

三好サーカスは興業場所を「三好サーカス」と染めた幕で囲んでいたので、
今でも、その名をよく覚えている。
自分と同じくらいの年齢の少女が綱渡りをしていた。
それを見て、かわいそうで仕方が無かった。
きっと「人さらいにあって、サーカスに売られてきた子だろう」と子供心に思い込んでいた。

 

木下サーカスは地球儀のような球形のなかでオートバイが爆音でぐるぐるまわった。
煙と音と排気の臭いがすごく、芸を楽しむという気はしなかった。

農家の子が二度もサーカスを見ることが出来たのは、入場料が安かったから。
親がもし、「映画とサーカスのどちらか」と言ったなら、
もう、それは一択だった。チャンバラ映画!
親が映画よりも、安い方を見せてくれた、と思っている。

・・・

三度目のサーカスは大人になってから、
20年ほど前、福山市の入江埋立地(現在の福山市立大学のところ)で「木下サーカス」があった。
見に行くと、
ライオンや虎や象がいて、サーカスというより「猛獣ショー」かと思った。
動物愛護団体から文句は来ないのだろうかとさえ思った。

 

♪旅の燕 寂しかないか おれもさみしい サーカスぐらし
 (「サーカスの唄」西條 八十)


サーカスはジンタの音色のように「さみしい」イメージを持ちつづけていた。
明るくて、(値段も)高くて、猛獣のサーカスは、なにかもう昔とは別物の気になった。

 

・・・

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

サーカス

「昭和33年1月現在 日本仮設興行協同組合 組合員名簿」
という資料がある。
サーカスや見世物小屋、お化け屋敷など、
祭礼や縁日に仮設の小屋を建てて興行する業者が結成した組合の名簿である。
この名簿で当時活動していたサーカス名とその規模を見ていこう。

「特々大」
世界動物博覧会。
ライオンやトラなどの猛獣ショー、
象やオットセイなどの曲芸とともに、
キリンやシマウマ、ラクダなどの珍しい動物を見せた。
動物サーカスと移動動物園を兼ねた大規模な一座だった。

「特大A」
木下、シバタ、有田、矢野の各サーカス。
「特大B」
キグレ。
「大荷A」
日本サーカス。
「大荷B」
赤林、原田、金城、柿沼、金丸、八木、田村。
「大荷C」
シバタ、田部井。
「大荷D」
菅野、オリエンタル、山根、井原、三好、池野、と続く。
後ろの方は「スガル」と呼ばれた。動物のいないサーカスだろう。

名簿のうち、現在も活動を続けているのは、
木下サーカスただひとつ。

・・・

 

 

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オート三輪 (棒型ハンドル)

2023年09月26日 | 失われた仕事

福山青果市場のオート三輪

学校が終わって、用之江から茂平に帰っているとオート三輪が後ろからやってくる。
オート三輪は茂平への峠道を越すのが能力いっぱいだった。
それで同級生数人でトラックの後ろを押していた。
峠道を登りきると、そのお礼に、トラックに乗せてくれた。
一人か二人が前に乗り、運転手の隣の助手席。残りの人が荷台に乗った。
助手席と荷台は、だいたい順番。
どちらに乗っても楽しかった。嬉しかった。

オート三輪は二日に一度くらい、福山から茂平の園芸場に果物を取りにきていた。
3時前後に茂平にきて、30分後くらいに、果物を積んで福山に帰っていった。
オート三輪に遇うのは、下校中の楽しみだった。
坂道をゆっくりと走って来る、
「来たぞ、来たぞ」。
3人~5人でトラックを押すと、トラックのスピードは気持ちぶん速くなる。
走りながら押す、
排気ガスを吸い込みながら押す。
その頃、車から出る排気ガスを吸うと文化というか、町の香りがしてうれしかった。

ある日の事、
学校から帰っていると、オート三輪が道路から田んぼに、頭から突っ込んでいた。

 

・・・

・・・


そのことがあり、
茂平に来る福山青果市場のオート三輪は新車に変った。
車がピカピカの新車になったことよりも、
ハンドルが円形に変っていたことに驚いた!
丸い形のハンドルで車輪の方向を変えることが出来る、ということがまだ子供には理解できなかった。

丸ハンドルのオート三輪は、
ハンドル以外にもエンジンの馬力がよくなっていた。
さすがに”クロガネ”(当時日本一といわれたメーカー)は違うという噂だった。
もう小学生が応援しなくても自力で悠々と峠道を越えるようになった。

だから、小学校を卒業するころには
「オート三輪を押したなあ、荷台に乗せてもらったなあ」というのは昔話になっていた。

・・・

 

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馬子(馬方)

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、
道はもちろん未舗装だった。
たまに荷馬車が通っていた。
荷馬車は農協前で休憩することが多く、
そこで水やカイバを食べ小休止していた。

茂平や用之江に馬を飼う人はなく、
荷馬車の馬を見ると、珍しいので、いつも馬見物をしてから去っていた。

・・・

茂平に馬を飼う人はなかったが、大冝に馬を飼っている人がいた。
農耕とたまに運搬に使用してようだった。

 

・・・

 

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

馬子(馬方)
馬に荷物や人を乗せて商売する人。
馬引き、馬子、馬追いともいう。

馬を引いて人や荷物を運ぶ労働者。
人足ともいう。
馬は駄馬が多く、農業などで使う馬よりも質が悪かった。

・・・

 

 

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モーターグレーダーが国道2号線を直す

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、
道はもちろん未舗装だった。
たまにモーターグレーダーが通っていた。

当時の城見小学校の生徒が目にするものでは、ずいぶん大きな車両で、
「道直し」とか「道削り」と呼んでいた。
この車両は”道直し”をする車で、
道を直すために、”道を削って”いた。

 

 

つまり国道2号線の路面の凸凹を削って、平に均しながら走行(自走)する工事車両。
走行後にローラーが来て踏めば固まるが、ローラーが来ることはなかった。
だから「道直し」の効果はほとんどなし。
家庭から出るアサリの殻を水たまりに捨てる方が、
まだ「道直し」の効果があった。

そういうモーターグレーダーの「道直し」だったから、1~2年ほどして国道2号線で見ることはなくなった。
城見小学校前の道路が舗装されるのは、それから5~6年先のことだった。

 

 

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