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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天六事件 

2025年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・大阪府大阪市北区「天神橋筋六丁目交差点」
訪問日・2025年7月25日

 

昭和8年といえば、15年戦争が始まって2年目。
当時の市民にとっては「巡査」が威張る代表だったが、
戦争を背景に軍が市民生活を騒がせるようになった。


それを代表するのが大阪市の天神橋筋六丁目交差点で起きた「天六事件」。
そもそも事件でも、なんでもないものが
威張りたい、頭は下げたくないものどうしが、意地の張り合いをして
天皇まで騒動が伝わった。

この年日本は国際連盟を芝居じみた風にして脱退。
いよいよ軍も国民も発狂の兆しが見え始めた年となった。

 

 

 


(Wikipedia)

ゴーストップ事件は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩、
およびそれに端を発する陸軍と警察の大規模な対立。
別名は天六ゴーストップ事件、天六事件、進止事件。
満洲事変後の中国大陸における戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、
政軍関係がきかなくなるきっかけの一つとなった。


事件の経過

1933年(昭和8年)6月17日午前11時40分ごろ、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休日に外出した陸軍第4師団歩兵第8連隊第6中隊の一等兵(22歳)が、
市電を目がけて赤信号を無視して交差点を横断した。
交通整理中であった大阪府警察部曽根崎警察署交通係の巡査(25歳)はメガホンで注意し、天六派出所まで連行した。
その際一等兵が「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗したため、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、
一等兵は鼓膜損傷全治3週間、巡査は全治1週間の怪我を負った。

憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。
上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなった。
最終的には昭和天皇にまで達することとなった。

 
6月22日、第4師団参謀長の大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、
警察に謝罪を要求した。 
それに対して大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。
6月24日の第4師団長と大阪府知事の会見も決裂した。


巡査には私服の憲兵が、一等兵には私服の刑事が尾行し、泥仕合となった。
新聞をはじめとするマスメディアはこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。
この騒ぎは大阪市民を沸かせ、大阪の寄席で漫才の題材にもなった。

事件の処理に追われていた署長は過労で倒れ入院し、その10日後、腎臓結石で急死した。
事件目撃者の一人が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場内で自殺、轢死体となって発見された。


終結

天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。
11月18日、参謀長と大阪府警察部長が共同声明書を発表し、
11月20日に当事者の巡査と一等兵が互いに詫びたあと握手して幕を引いた。


 

 

・・・

天六事件の2ヶ月前、福山でも似たような事件が起こっている。

・・・

 

「福山市史・上」 福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

昭和8年(1933)4月14日、軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。 
事件そのものはきわめて単純で、午前1時20分ころ市内のカフェーで福山連隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、かけつけた応援の巡査とともにようやくこれをとり押さえ、
憲兵隊に引き渡したというものである。
ところが憲兵隊長は、「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、
 第五師団の安岡参謀長も「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」と迫った。
結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。

非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、結局連隊側の完勝に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件といえる。 
連隊長は地方都市では「小大名的存在であった」だけに、時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

 

 

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桜渓塾跡の桜

2024年04月08日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市芳井町簗瀬「桜渓塾跡公園」
訪問日・2024年4月7日


嘉永6年(1853年)に創立された、「興譲館」は、現在
全国屈指の歴史を誇る高校であり、女子マラソンの強豪としても知られている。
初代館長となった漢学者の阪谷朗廬は、それ以前、ここ”桜渓塾”で塾長を行っていた、

 

 

桜渓塾(おうけいじゅく)

嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が伯父山鳴大年、岳父山成直蔵の協力によって簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、
青少年の人材育成のため大いに尽くしました。
桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。

嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。
朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。
その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出しました。
大正2年(1913)、桜渓遺跡保存会によって記念碑建立、草廬補修、園庭植樹が行われ、
以後桜渓塾は興譲館館祖が初めて塾を開いた記念の地として保存されています。

井原市指定重要文化財
指定年月 平成17年3月
井原市教育委員会

 

 

 

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スネコスリの井領堂

2024年04月08日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市七日市町
訪問日・2024年4月7日

 

岡山県を代表する桜の名所のひとつ、「井原堤」(いばらづつみ)。
その井原堤から西へ進むと井領堂がある。

 

(井原堤)

 

江戸時代にはこの辺り、「スネコスリ」というお化けが出て
街道を通行する旅人を困らせそうだ。

 

 

 

「ふるさと探訪 出部の史跡」 いずえ地区まちおこし協議会 平成30年発行

いろんどう
井領堂(大師堂)


井領堂は、旧山陽道沿いの七日市町西の字井領 (現アクティブライフ井原東側)に建てられた辻堂で、 
写真右側に「南無阿弥陀佛」と彫られた名号碑に「宝暦十一年(1761) 己 天三月吉祥日 施主 藤代幸左衛門」
と刻されており、江戸時代の中頃には建立されていたことがわかる。
当時の井領堂は田の脇の寂しい所で、夜には「スネコスリ」という犬の形をした化け物が出て、
通行人のすねをこすると、とたんに通行人は歩けなくなったという、言い伝えが残されている。
岸加四郎氏 (井原の辻堂著者)によると、江戸時代 の辻堂は信仰の場というより旅人の休憩所であり、
地区民の集会所の意味合いが強かった。 
小さな石仏は旅の安全祈願のため地元民がお堂のそばに祀っていた。 
しかし明治以降、交通の発達に伴い辻堂は休憩所の機能を失い、
代わって堂内に仏像を祀る信仰の場に転化していったという。
現在の井領堂は、大正6(1917)年3月に齋藤金太郎氏により再建された。

 

(井領堂)

 

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神護寺本堂の桜

2024年04月07日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県笠岡市甲弩「神護寺」
訪問日・2024年4月6日

 

江戸時代後期以降の建築物は、笠岡ふきんでも、珍しくないが
江戸時代中期・前期となると滅多にしか見ることが出来ない。

まして、ここ神護寺の本堂は戦国時代の建造物。

本堂の前に立つと、
風雪に450年耐えて、神々しくさえ感じる。

 

 

岡山県指定建造物 
神護寺本堂

神護寺はもと神宮寺と呼ばれ、
甲怒(弩) 神社の別当寺として創建されたと考えられるが、
その時期は明らかでない。 
室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、
現本堂が永禄11年 (1568)10月に、
小田高清を大檀那として建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。
また寺内に、天正3年 (1575)8月18日死去した高清の位牌が祀られている。
戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。
さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天正15年(1587)10月に、
高清の子元家らが本堂の屋根を瓦葺きにしたこと、
他の一枚は文化3年(1806)4月に、甲弩村の村中を施主として屋根替えを行ったことを記録している。
このほか、右の天正15年の瓦葺きのとき用いたと思える古瓦四枚が残されており、
いずれも天正14年2月に宮内(吉備津神社門前町)の瓦大工五郎左衛門が焼いたと思える銘がある。
この本堂は市内最古の建造物である。

平成13年3月23日指定
笠岡市教育委員会

 

 

 

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「福山古墳ロードA」を歩く

2024年03月20日 | 【史跡】を訪ねる

場所・広島県福山市駅家町
日時・2024年3月19日

 

人柱・お糸さんの伝説でも有名な、駅家の「服部大池」。

 


その大池の駐車場からスタートして「福山古墳ロードA」を歩いた。

 

最初に、「熊野神社」。
この神社社殿は横穴式古墳の巨石の上に鎮座している。
古墳名は、「権現古墳」。

 

 

次に本日の主目的である、国史跡「二子塚(ふたごづか)古墳」。
長さ73m、幅68m、高さ41m、周溝ありの前方後円墳。

 

 

吉備王国の古墳だが、古代吉備国は現在広島県と岡山県に分かれ、
そのためか、王国の研究までも両県共同を感じないのが残念。

 

 

 

最明寺にある、「最明寺板碑 (さいみょうじいたび)」。

高さは約1.8m、幅は75cm、厚さは約10cm。
室町時代の板碑。

 

 

春の天気はおだやかで、古墳めぐりが楽しめた。

 

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鳥取城”渇え殺し”は、飢えで死に、次いで栄養摂取で死ぬ

2023年12月03日 | 【史跡】を訪ねる

昭和13年の秋、兵糧を現地調達しながら、大別山脈を越えて、やせ細った日本兵がようやく漢口(現・武漢市)に入城した。
国際都市漢口の倉庫には、山と積まれた米があり、飢えた日本兵は腹いっぱいにそれを食べ「いっぺんに食べ過ぎて死んだものもいた」
と、父は話していた。

おば(父の妹)は満州から引揚時、
「葫蘆島から笠岡に帰るまでの間、食べたものは博多港でもらったオニギリ二つだけ。
それで家に着いて、食べようとしたら舅が兄嫁に”いっぺんに食べさすな!”と大きな声で言った」
と話していた。

その二つの話を思い出す記事が今日、新聞に載った。

 

・・・


兵糧攻めの生地獄

「歴史と旅」 昭和57年12月号 秋田書店 


秀吉の軍勢による鳥取城包囲網が完成したのは七月十二日。
こうして数ある戦国の戦史の中でも最も悲惨かつ凄惨な戦い「鳥取城の兵糧攻め」がはじまる。
兵糧さえあれば、確かに鳥取城は容易に落ちる城でなく、
秀吉はとにかく新たな兵糧の搬入ができない完全包囲態勢をしき、とにかく城中の食 糧が食いつくされるのを待った。
九月ごろからは兵糧も底をつき、草や木の皮などで飢えをしのぐというありさまとなり、
さらにそれらも食べつくすと馬の肉を食べ、ついに餓死するものも出るようになった。
特に鳥取城の戦いが凄惨だったのは、 そうして餓死した人々の肉を、まだ生き残っていた城兵が食べたということであろう。
こうした、
「生地獄」(いきじごく)
を目の当たりにして、さしもの剛将吉川経家も講和開城の和議交渉に入る決断 をした。
結局、十月二十五日、経家が切腹し、城兵の命は助けられ、城は開城したのである。 (小和田哲男)

・・・

 

山陽新聞 2023.12.3 (新聞記事)

鳥取城 兵糧攻め
飢餓後の多食で急死
歴史書から推察  医師ら論文

 

 

1581年の羽柴(豊臣) 秀吉による鳥取城(鳥取市) の兵糧攻めで、落城後に助け出された人たちが、かゆを大量に食べた後に死亡たのは、飢餓後の栄養摂取で起きる「リフィーディン グ症候群」と推察できるとする論文を、東京都立多摩総合医療センターの鹿野泰寛医師らのグループが2日までに発表した。
 鹿野氏は「教訓的な逸話として後世に残すべきだと考えた」と話す。

鳥取城の兵糧攻めでは、3カ月以上に及ぶ籠城戦で 極度の飢餓状態が発生。
城主の吉川経家が切腹することで戦いは終わった。
ただ 織田信長の伝記「信長公記」 や豊臣秀吉の時代の出来事まとめた歴史書「豊鑑」に
「城内から助け出された人たちが食物を食べたが、過半数がすぐに死んでしま った」「かゆをたくさん食べた者はすぐに死んだが、少し食べた者は問題なかった」といった記述があっ た。
リフィーディング症候群は、低栄養状態にある人が急激に栄養を摂取することで電解質異常やビタミン欠乏症などの合併症を起こす病気で、死亡することもあ る。
鹿野氏らは食事量の違いとその後の症状の関係などから、同症候群が発生していたと確認し、論文は米医学誌に掲載された。
鹿野氏は、現代でも低栄養状態の患者に摂取する栄養量を管理する必要があると説明するときに、鳥取城 の逸話を例に出すことがあるという。
「鳥取城の兵糧攻めは、医学界ではリフィ ―ディング症候群と考えられる事例として有名な逸話 だったが、英語で医学的な 論文化はされていなかった。
海外でも患者への説明 に利用できれば、文化的財産として価値がある」と語 った。

 

 

・・・

画像は2020.10.14・鳥取城跡

 

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相方城の城門(現存する関ケ原以前の三城門)

2023年11月30日 | 【史跡】を訪ねる

場所・広島県福山市新市町戸出「素盞嗚神社」
訪問日・2023.11.29

 

(相方城城門・西門)

 

何年か前に”現存12天守”といった言葉ができた。
天守閣といっても弘前城や丸亀城は「御三階櫓」と呼ばれていたし、
備中松山城に至っては櫓よりも小さく、大きな古民家といった感じ。

天守閣や櫓と比べて地味な城門だが、広島県の芦田川の絶壁上に築かれた相方城には、石垣の遺構が残り、城門は移されて残っている。
昨日、イチョウを見に喧嘩祭で知られた「素盞嗚神社」に行き、
併せて城門を見学してきた。

相方城城門は関ケ原以前の城門では、日本に三つしか残らないうちの二つの城門であるそうだ。

 

 

(相方城城門・西門)

 

 

相方城城門
当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられている。
櫓は、一九七〇年代に 火災により消失した。
城門二棟のうち、比較 的保存状況の良い、東側の門について解説する。
城門に関する史料がないので、建築年代の確定はできないが、 建築様式と部材の風化状態から十六世紀末から十七世紀初と推定される。
城門の形式は、三間一戸の切妻造の薬医門で、装飾の少ない簡素な意匠になる。
鏡柱本柱は、城門に定型の五平柱であり、柱上に冠木を渡す。
後方の控柱は角柱とし、二股の貫で本柱と繋ぐ。
この城門は、高麗門が普及する以前の薬医門であることから、
現存する関ケ原の戦い (一六〇〇年)以前の城門は当地の二門と島根県益田市にあるのみで、貴重である。

新市町教育委員会
新市商工会青年部

(相方城城門・東門)

 

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遣唐使船

2023年05月07日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県倉敷市真備町箭田「まきび公園」
訪問日・2023.5.2

真備(まび)の「まきび公園」に行くと、記念館に遣唐使船の模型が展示されていた。

 

 

町制施行四十周年記念
遣唐使船模型

この遣唐使船は広島県倉橋町所有の復元遣唐使船を1/10に縮小したものです。
倉橋町の地元造船所の棟梁によって製作されました、

という説明板があった。

 

遣唐使船一隻には、
大使をはじめとする使節団以外に、通訳、医師、細工師、留学生、学問僧、船の漕ぎ手120人ほどが乗船していた

と説明文がある。

 

・・・
「船の歴史」 庄司邦昭  河出書房新社 2010年発行

7世紀から8世紀にかけて、遣唐使船など海外渡航用の船の多くが
安芸国で造られている。
倉橋島を中心とした一帯という説もあり、このあたりが古くから造船の町であったことがうかがわれる。
この時代の船については、
901年大宰府に流される菅原道真を描いた北野天神縁起絵巻がある。
ただこれは絵巻が製作された時期から推定して中世の13世紀前期の船の構造と特徴が描かれているとされる。

 

遣唐使船は「鑑真和上東征絵殿」や「吉備大臣入唐絵巻」など、
後代の絵画に描かれている。
100人ばかりが乗り、4隻で船団を組んで渡航したといわれる。
・・・

 

(左・吉備真備、右・玄宗皇帝)

 

 

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美星町八日市

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市美星町黒忠

訪問日・2023.4.16

 

美星町の八日市は山々がひろがる美星町に、突然のような商店街が出現する。
江戸時代から三歳市で町並みを形成していたようだ。

 

・・・・

「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行


黒忠八日市


黒忠八日市は、毎月八日、十八日、二十八日に市が立つ三歳市として、
近郊農村の中心として栄えた。
特に七月八日の盆市と、十二月十八日の暮の市とはともに大市であった。
川上郡・小田郡・後月郡の境界にあたり、
近くの村々はもちろんのこと、
成羽・地頭・井原・矢掛など各方面からの交通路が早くから通じ、
明治中期まで三斎市が立っていたのである。
笠岡や西浜(ようすな)からは魚や塩、
成羽・領家からアユ、
井原から酒と餅などが搬入され、
八日市は主として食べ物を扱い、
市には、民家のおもてを借りて商いをした。
暮の大市は、
コンブ・タイ・ハマグリ・ブリなど正月用品が商われて大にぎわいをした。
農家は、藍葉粉、タバコ葉を売りに出した。

明治中期幹線道路が谷筋を通るようになり、葉タバコの専売制や藍の衰退により、
三斎市は取り止めとなった。

・・・・

・・・

「美星町史」 美星町 昭和51年発行

近世・黒忠村

黒忠村高内原
高内原には八日市がある。
この市場は毎月8日、18日、28日の3日間、市が立って、
最寄りの村々から時の産物、諸品が売物に持ち出された。
7月8日と12月8日は大市だった。
おびす祭の入用銭として売物に応じて底銭を集めていた。

同じ三歳市であった後月郡東三原村枝郷高山上市は古くから毎月5日、15日、25日の三度と2月10日の巳の日に市を立ててきたので、諸商人が近国近辺より商品を持って売買市が立っていた。
文政2年(1819)ごろには、隣村の川上郡高山市村が新市場として繁盛するようになり、穀物、古着、小間物商が出入りを始めた。

 

・・・

 

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高山市(こうやまいち)

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県高梁市川上町と井原市芳井町

訪問日・2023年4月16日(日)

 

”弥高つつじ祭り”が4年ぶりに開催された。

つつじを見たあと、高山市(こうやまいち)を歩いた。

 

 

地図を見るとわかるけど、高山市は「備中」「備後」二か国の、ほぼ中央に位置している。
岡山県新見や、広島県東城の物資は高山市を中継地として繁栄した。

吉備高原の山間部にあるこの町は、備後に接し、
町内は川上郡・後月郡に分断され現在も岡山県高梁市と井原市に行政が分かれている。

 

・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高山市


高山市には毎月己の日には市が立ち、
特に春秋二度ずつの市は大にぎわいだった。
牛市・魚市・藍市・煙草市が立ち、
新見あたりでも「魚がほしけりゃ高山へ行け」と言われていたという。
成羽川と小田川の分水嶺にあり、
もとの高山市と三原村の村境が入り乱れ、旧市場敷地権のあとを残している。

もともとこの地方の交通路は、
吉備高原の尾根筋を縦横にはしり、なかでも「東城馬」という言葉が示すように、
この高山市を通る道筋は、高原の幹線道であった。
笠岡へ八里、東城へ九里の道程で、
東城の米、
笠岡の海産物を運ぶ東城馬の中継地として発達していった。
東城~河内~油木~上豊松~花済~杖立~高山市~千峰坂~吉井~井原~七日市~岩倉~蛸村~東大戸のコースを通り、
ここから小平井~追分~笠岡へ出るものと、
東大戸から西浜(ようすな)笠岡へ出るものがあり、駄送には二日を要した。

高山市の市場圏については「高山八八里」と言われ、
八里離れた八方の地点、すなわち
東城・上下・高梁・成羽・笠岡・矢掛・福山・府中と結びついていたという。

 

・・・

「備中町史」

東城-高山往来


東城・高山往来は笠岡からの魚の運搬路として発展したものと考えてよい。

笠岡から高山市まで約8里、高山市から東條間約9里、高山市から新見約10里であり、高山市を中継点として発展していった。
現在もこの地方の商人は祭礼や正月、春のさわらは、笠岡の西浜まで買いに行くことが多い。

高山市は穴門山神社の門前町として栄え、また備中国における陸路輸送の中心地であり、馬継場として繁栄した。
高山市の市場圏は10里四方といわれ、井原・笠岡からも送られてきた。
輸送機関は馬背・牛背であり、近距離では人肩で物資が運び込まれた。
東城からは、米・木炭・麦・大豆・小豆・こんにゃく・菜種等が高山市を経由して笠岡へ、
またその逆に笠岡から(七日市・井原)~高山市をヶて塩・魚類・海藻類の水産物、呉服等の日用品、砂糖、味噌等の調味料がもたらされた。

 

・・・

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