不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州の日本人

2018年06月27日 | 昭和元年~10年
管理人のおば(父の妹)は、結婚と同時に満州に嫁いだが、おばが話す満州吉林市の生活は、ほぼ下記の本の記述に重なる。
おばたち満州の日本人は、全員が満州にとどまることが出来なかった。それほど、日本人は嫌われていた。


「いのちと帝国日本・14」小学館2009より転記する。
それにしても、昭和初期の「婦人公論」は、内容が冷静で、かつ出版も可能だったことにも驚く。
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

南満州における日本人の自由な居住が承認されたのは、対華21ヶ条要求を受けて、1915年に締結された南満東蒙条約によってであった。
1914年には約3万にすぎなかったが、1931年には9万人が住むようになった。
だが日本人が多いのは奉天と営口だけで、ほかは中国人の方が多かった。
日本人は広大な満州の一部分に、へばりつくように生活していた。
通貨は中国人社会とは別に日銀券を使用し、日本人のみを相手にしていた日本人商店で買い物をするのが日常的だった。
中国語も学ぼうとせず、日本では不可能な使用人を置いた派手な生活を送っていた。
お金を稼ぐことを目的に満州に来た人日本人が多く、その目的が達成できれば帰国する人が多く、人口の流動が激しかった。
1920年時点で在満日本人14万のうち、10年以上は20%、62%以上が在満5年未満であった。


婦人公論「満州で見た日本婦人」1926年11月号、
満州の日本人が、自分たちの区域のなかに鎖国していることを指摘し、現地の生活に適応しようとはせず、極寒の満州で和服を通す婦人や、内陸部にいながら刺身などの新鮮な魚にこだわる日本人の姿を描いた。

山川菊枝は「日本民族と精神的鎖国主義」と題する文章を「婦人公論」1927年1月号に発表した。
山川は、この世に生まれ落ちたときから
日本は「地上の楽園」であり、
日本人は世界一優秀な民族で、
それ以外の国や民族は「辺土」であり「皇化せぬ蛮人」であるということを聞かされつづけてきた日本人が、植民地に行ってどうして異民族に学び、異郷の風土に適順しようとする心持になりえよう。と述べた。
日本人にとっての真の問題は、植民的能力の問題以前に偏屈な郷土的愛国心と民族的優越感の問題であるとした。
植民地で生活した日本人にほぼ共通することであったが、満州の日本人には、異文化に適応し、異民族から学ぼうとする姿勢が、決定的に欠けていたのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甘港事件

2018年06月25日 | 大正
「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(甘港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。
1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。

事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼港事変 国辱記」は、陸軍332名、海軍44名の戦死者を掲げ、国家的大屈辱であるとした。
巻末に慰問のための綴じ込み葉書を付けたこの本は8月5日で10版を数えた。
国内の新聞は野蛮な過激派を批判する一大キャンペーンをはった。
だが事件の背景には、魚をごっそり獲ってしまう反感など、反日感情が存在していた。

いっぽう極東ロシアに住むロシア人に反中央、反モスクワの意識が強かったのも事実である。日本軍はそうした一部の人びとの期待にこたえる形で「極東共和国」の樹立を画策したのであった。

結局、日本軍が沿海州から撤退を完了したのは1922年10月25日で、米騒動やデモクラシーの拡大という国内情勢を考えると、これ以上の駐留は不可能であった。

こうして、5年近くに及んだ日本軍の「シベリア出兵」は、世界中の批判のなかで、無惨な失敗に終わった。
居留民の保護を名目とした出兵が、逆に日本人に対する反感を増長し、現地での生活が困難になり、日本への引揚を余儀なくさせてしまう結果となったのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シベリア出兵

2018年06月25日 | 大正
シベリア出兵より日本軍が狂い始めたような気がする。

「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

シベリアの沿海州やアムール州には多くの日本人が居住し、またそれを上まわる数の中国人や朝鮮人が住んでいた。
ロシア人のほかに北方少数民族もあわせ、複数民族社会の様相を呈する地域だった。

シベリアにも1917年の10月革命の波が年の瀬に押し寄せて来た。
1918年1月、イギリス政府は珍田駐英大使に日米英共同で出兵することを申し入れた。
そのような時「チェコ軍団」の問題が浮上した。
チェコ軍はソビエト政府に反旗を翻し、各地で反革命勢力と協力しながらウラジオストクに向けて大遠征を試みた。
ここに、チェコ軍を赤軍から救済するという「大義名分」が登場した。
出兵に慎重だったアメリカも日本に共同出兵を申し入れた。

小倉12師団の8910名を派兵、日米英に加えフランス・伊・中国が参加した。
その後、7万を超える最大規模の兵力となった。

当初日本軍は、反革命政権樹立を画策したが、革命支持派がパルチザン運動を展開しはじめると、それに対する掃討作戦を展開していった。
パルチザン部隊に手を焼いた日本軍は、村落をまるごと焼き払うなど、民間人も区別ない討伐戦を行った。
大戦後、チェコスロバキア共和国が成立し、チェコ軍が帰国を始めると救援の使命は終わったと、アメリカ軍は1920年1月より撤退を開始し、4月に完了した。
アメリカ軍がいなくなると好き放題できると沿海州全域で総攻撃を開始した。
名目のない日本軍の駐留は、兵士たちの士気を低下させ。軍規を弛緩させていった。

シベリア民衆のほとんどが日本軍を敵視していた。略奪に加え、性病が蔓延していった。
1918年8月~1920年10月までの性病患者が2012名。
死者が1387名、負傷者は2066名だった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

墓地

2018年06月25日 | 昭和51年~64年
お墓には、個人墓や共同墓地やお寺の墓地がある。
庄原では共同墓地化で火葬が増えたとあるが、笠岡では昭和40年頃まではほとんどが土葬であったような気がする。終わったのは昭和50年代と思う。


「庄原市の歴史 通史編」より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

埋葬地

共同墓地は、一般には新しい墓が多い。明治中期からのものがほとんどである。広島県は明治25年、一定の場所に墓地を設けさせ、利用に規制を加えた。
一戸の墓地面積は制限され、火葬による埋葬が一挙に広まり火葬場が村々で設置されるようになった。
土葬墓の習俗は比較的長く続いた。共同墓地でも、土地に余裕がある家ではその後も続いたが、現在では墓は飽和状態である。
土葬の習俗も庄原市域では昭和40年代には終わったものと思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻作り

2018年06月25日 | 江戸~明治
笠岡では「備中三白」の綿があり、麻の栽培歴はないように思える。
庄原市では綿より麻が盛んだった。

「庄原市の歴史 通史編」より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

麻の栽培から機(はた)を織るまで。

春に良畑に種まき
必ず小鳥がやってくるので鳥追い小屋を建て、小屋から引っ張って鳴子を鳴らした。

手入れ
本葉が3枚くらいで間引き、下肥を2,3回汲んだ。
収穫
背丈以上に伸びた麻は、土用の入りが過ぎた7月23.24日頃に刈る。
麻は一日のうちに刈って蒸し終わる作業をこなさなければならない。
根元を刈る。葉を落とす。
麻を麻蒸(おうむし)する。10数人が必要で、近所や親せきが馳せ参じる。子供は競って見物に集まった。
晩には夕食を出した。年にめったに見ない白米飯の顔を拝むのもうれいしいことだった。今でも窯が残っている。
蒸したものは畑にひろげで干し、二日目に麻に残っている葉をたたきつけ落とした。三日目に干し終わる。
麻へぎ
麻は皮を剥ぐだけずつ前夜に川か池に浸し、束のまま石で重しをし、剥ぐ日に持ち帰った。「川通い」といって苦しい仕事で、水から上げる前は踏み洗いをした。
剥ぐには土間や納屋で二人向き合って一束を剥いだ。竿にかけて乾かした。

紡績
剥いだ皮は貯蔵できるので、農閑期に紡績した。
まず皮を繊維にする。
灰を入れて煮る。一握りずつ、片手でしごいて「扱麻」にした。
濃い米ぬかの汁に扱麻を入れて、その後に陰干しする。
繊維を引き出し、よって糸にする。
もういちど鍋で煮て乾かした。
糸はチキリ巻き、カザリ掛けをして織機(おりばた)に上げる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家船(えぶね)の事

2018年06月25日 | 昭和41年~50年
岡山県側に「家船(えぶね)」は、見聞きしないが、瀬戸内海の西部では存在し、
特に尾道市は千光寺と並び有名だった。

「尾道市史第4巻」より転記する。
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

家船・末子相続制

家船という古いしきたりは、多くの漁業に残っている。
必ずしも吉和だけの専売特許ではない。
漁業者は、船を家として各地を放浪するので、自然とそうならざるを得ないのである。
すなわち海のジプシーなのであるが、吉和の漁民はほとんど陸に家を持っている。とはいうものの土地はほとんど借地である。

三間ほどの漁船に一家族が世帯をもっていれば、時と共に親夫婦も、子供も年をとる。
適齢期に達した子供には嫁をとってやると共に、船を一艘造ってやって、分家させるのが親の義務であった。
末子が後に残り相続した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和30年代頃の農村(都窪郡清音村)

2018年06月24日 | 昭和31年~35年
農作物の変化は激しい。
近年は作物の変化から、耕作地→休耕地への変化が多い。

「清音村誌」(現・総社市)より転記する

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
本村の農業生産物を列記すると、
1・米
2・麦
3・い草
4・いちご
5・ふき
6・雑穀類
7・各種野菜など
であるが、
今日全く姿を消したものとして
1・綿
2・薄荷
3・大麻
4・甘蔗
5・和牛
6・菜種など
が挙げられる。

1・綿・・・昭和4年のアメリカの経済恐慌により、大暴落。栽培をかんしょ、桑に転換した。
2・薄荷・・・明治30年代頃から昭和32年頃まで栽培された。化粧香料の需要がなくなり栽培されなくなった。価格の高低がはなはだしかった。
3・大麻・・・(記載済)
4・甘蔗(かんしょ)・・・戦後の甘味料の不足が目立ち、大幅に面積が拡大し、搾り機を備えて数人で共同経営する農家も現れた。暫くして外国からの粗糖の輸入が活発となり、昭和28年頃から全く栽培されなくなった。
5・菜種・・・大正時代においては、水田裏作としてのナタネは植物脂肪の確保と植物油粕により栽培は続けられたが、満州から大量の移入が始まり大正末期から減少の一途をたどった。昭和23~25年頃復活したが所得が低下し、麦作と並行して現在の栽培ゼロとなった。
6・和牛・・・大正時代には数戸で共有が多かった。昭和の初めから一戸一頭または二戸で一頭が増加した。肥料不足を補うことも手伝って飼育頭数が漸増した。昭和30年代に入るや耕運機に代わられ、遂に昭和35年には僅か1~2頭の頭数となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和初期の農村(和気郡佐伯町)

2018年06月24日 | 昭和元年~10年
第一次世界大戦では、日本に成金者が出た事が知られているが、田舎の生活も大きく変化したようだ。

和気郡「佐伯町史」より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

生糸の輸出が好調の為、佐伯地方にも養蚕を中心とする農家が増えた。
すなわち、大正3年(1914)から大正8年までに一挙に4倍はね上がった。
水田を桑畑にするもの、畑の多いところは一面桑畑になった。
まゆ生産は年3回もできるという好条件で農村経済を大きくうるおした。

農民の生活も大きく変化した。「からさお」や「干歯こぎ」による原始的な脱穀方法はすたれ、足踏みの脱穀機が普及しはじめ、動力による「モミスリ機」も登場した。
肥料も「過リン酸石灰」をはじめ、化学肥料が使用されはじめた。
衣類も木綿や麻の手織り、手染めが中心であったが、好景気をさかいにして姿を消した。
はき物でもゴム底の地下足袋があらわれ、小学生も藁草履をはずかしがり、ゴム裏や麻裏をねだるようになった。

食料以外の生活必需物資はほとんど買い入れるようになり、自給自足を原則とした農村経済は大きくくずれ、資本主義的生産関係が農村にも深くしんとうしてゆくのであった。
そのため農村の古い民族や習慣がすたれ、若い者は村に伝わる昔話や伝説を知らないようになった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大麻の栽培

2018年06月21日 | 農業(農作物・家畜)
童謡「母さんの歌」は、いい歌だが
♪かあさんは 麻糸つむぐ 1日つむぐ ・・・
の「大麻」と「糸をつむぐ」(←手作業)はその時代を、あまり想像できない。が、

清音町では戦時中頃、大麻の栽培、家内工業で紡いでいたようだ。

「清音村史」(現・総社市)より転記する

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

大麻の栽培
大麻はマニラ麻に替わるものとしてはじめられ、主として家庭工業との結ぎつきで上中島・古地・軽部・三因の畑地で、一部水田で栽培され、畳表の経糸としてその殆どが利用され、家庭工業としてヒメヨリ機により経糸に加工され、農業収入の支えに役立っていた。
昭和23年頃から、大麻の子実が麻薬の原料になることから、その栽培は許可を要することになり、ついに化学繊維の発達による経糸の出現のため、昭和20年代後半から栽培されなくなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シベリア出兵と尼港事件と「陽明丸」

2018年06月21日 | 大正
尼港事件と、笠岡市ゆかりの茅原基治船長の「陽明丸」によるロシアの子供800人救出(大正9年7月~9月)は、同じ年に起きている。

忘れ去られた感がある「尼港事件」が地方の市史に載るのは珍しい。
(岡山県和気郡)「佐伯町史」より転記する。


xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

シベリア出兵と尼港事件

大戦中ロシアには革命がおき帝政が倒れてロマノフ王朝は滅亡した。
革命政府は直ちに同盟国側と単独講和を結んで連合国側の戦線から離脱した。
そのためロシア領内にいたチェコスロバキアの投降兵約20万は一時孤立してしてしまった。
これを救援する目的でイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本などは大正7年(1918)にシベリア出兵した。
兵力は4ヶ国で1万5千、日本は六個師団7万5千人であった。
日本はアメリカと相談してシベリア分割を目論み、英仏は革命が自国に及ぶことを恐れて国内戦に干渉するのが目的であった。
しかしレーニンによって指導された革命軍が圧倒的勢力で国内を支配したので各国は大正11年(1922)に撤兵した。

このシベリア出兵中、日本にとっては非常に不幸な尼港事件がおきた。
この事件を一兵士として体験した久永余吉は次のように語っていた。
「大正9年(1920)2月28日、黒龍港口のニコライニエフを占領していた日本軍は、数千のパルチザンに包囲されて降伏した。
のりこんできたパルチザンの一団は乱暴の限りを尽くし、3月11日には兵器弾薬の全部引き渡しを要求した。
隊長石川少佐は翌朝逆襲を試みたが敗退し、隊長は戦死、領事館に集まった守備隊、居留民も全滅した。
18日朝残った140人の居留民と兵士は河畔の獄舎に送られた。解氷期をまちかねた救援軍は6月6日遂に尼港に到着したが、時すでに遅かった。
パルチザンは5月24日夜半、虜因はすべて虐殺し、火を放って逃げたのである。
両眼をえぐられた者、5本の指をきられた者、皮をはがれたもの、女はほとんど衣類をはがれ凌辱されていた。
獄舎の壁には「大正9年5月24日、午後12時を忘れるな」と鉛筆で記されていた。
白系露人1万5千人、日本人700の死体は市中いたるところに散乱し、尼港全体はさながら場と化していた」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする