しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

西山公のトイレ

2024年02月17日 | 江戸~明治

東映「水戸黄門」

 

西山公が住む西山荘のトイレは杉が使われていたそうだ。

杉の葉っぱは、酒屋さんの軒先の杉玉が知られているが、
鮮魚やおせち料理でも見る。
そしてトイレにも使用された↓が、
それは黄門様の西山荘限定だったのだろうか?
それとも高位の武家や大店の商家にも普及していたのだろうか?

 

(岡山県井原市・田中苑の「西山公」 2023.11.2)

・・・

「トイレの考古学」 大田区立郷土博物館 東京美術 平成9年発行

 スギ

植物との関係で忘れられないトイレに、徳川光圀が隠居した西山荘(茨城県常陸太田市)の小使用トイレがあります。 
ここでは、熨斗(のし)の形をした小便器が部屋の隅に備え付けられています。 
熨斗の形は上の方が直角になっていますが、この部分が部屋の角に合わせて置いてあるので、
便器を跨(また)いで用を足すことになりま す。 
そこで、周りに小便が跳ねると困るので、便器の中にスギの葉が敷いてあるのです。
 
このスギの葉は大変便利で、 
小便が跳ねないだけでなく、
用を足している時の音が聞こえなくなる、
匂いが消せると、
3つの利点があるのです。

・・・

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孝女・津留の顕彰碑

2023年12月19日 | 江戸~明治

場所・岡山県井原市七日市町・孝津公園


今もつづく「春の褒章」「秋の褒章」は明治10年頃制度化されたようだ。
表彰や勲章は、体制の安泰に一定の効果があり
江戸時代から孝子・孝女はお殿様や為政者からご褒美をもらっていた。

 

笠岡近辺では、
浅口郡大島村柴木の孝子・甚助が有名であり、井原には孝女・津留がいた。

 

・・・

講談社の絵本  

孝女といえば、なんといっても、歌にも映画にもなった”孝女白菊”

・・・

 

庶民教化活動 孝子伝の刊行
各藩は、孝子をはじめとする忠臣・義士・貞女などのいわゆる善行者を表彰するという方策がとられた。
江戸時代においては「孝は百行の本」といわれ、孝は「五倫五常」の道を代表する最も重要徳目であった。
孝行なる者、法令に忠実に従う者、質素で勤勉なる者などは支配者の期待する人間であった。
一方、幕府は、寛政元年全国各地の為政者に対して、孝行または奇特なるもの褒美ありしは、記録あるかぎりは「孝義録」の資料集めを始めた。 
これらの孝子伝には、酒飲みの父親にも身を粉にして尽したとか、いやな病人の看病をいとわなかったとか、孝行の概念が誰にもわかるような、具体的な事例をとおして紹介されている。
これらの孝子には藩主から、金・銀・銭・米等 が褒賞としておくられている。


孝子頸彰
岡山県内でもこうした孝子伝の刊行と、地域によっては孝子の顕彰碑が建てられている。
孝子をはじめとする善行者の表彰は、明治に入ってからも県知事などによってしばしばおこなわれた。
表彰状と賞品が手渡され、各町村はそれを名誉なこととしたのである。

井原市出部の孝女佐藤津留は七歳にして父を喪ったが、病床の母を看病するかたわら一心に働き、食物はまず病気の母に与え残りを自分がたべたという。 
津留が成長して結婚話が起きても、母親に孝養ができないというので断わったというもの。
明治八年県令から表彰された。
昭和五年になって石碑が現在の井原市に建立された。
なお、津留の話は昭和初期後月郡教育会によって編さんされた副読本にものせられている。

「岡山の教育」   秋山和夫 岡山文庫 昭和47年発行

・・・

孝津公園 訪問日・2023.12.18

・・・

 

「ふるさと探訪 出部の史跡」 いずえ地区まち協 平成30年発行

 

七日市町の日芳橋手前の道を100mほど南下した道路の右手に「孝津公園」がある。
これは、母に孝養をつくした孝女津留にちなみ名づけられたものである。

佐藤津留碑(法学博士男爵 阪谷芳郎題額) には、
興譲館長 山下秋堂の次のような碑文が刻まれている。
孝女佐藤津留は、弘化2 (1845)年七日市に生まれた。幼い頃父を亡くし、母と姉と3人で暮らしていた。 
母と姉は病弱なため、津留は7歳の時から姉を励まし、母の看病に尽くした。 
近所から食べ物をいただくと、津留はまず母にささげ、次に姉にすすめ、残りがあれば自分が食べていた。 
津留の手厚い看病のお陰で母の病気も少し良くなったので、姉は近くの村へお嫁に行った。 
その後は田畑を耕し、一人で養っていた。 
晴れた日には、前のはふご(わらで作ったかご)に母を乗せ、後ろのはふごには農具を乗せ、天秤棒で担いで田畑に行きのあぜの木陰に母をおろし、時々会話して 母の心を慰めながら田を耕した。 
夜は母の枕元にすわり背中をなでたり、 肩をもんだりした。 母が眠った後は、静かに糸車を回し、夜遅くまで糸をつむいで家計を支えた。 
津留が年頃になった時、周囲の人々が養子を迎えるよう勧めたが、 母の孝養が思うようにできないと断った。
明治18(1885)年1月、 岡山県令(今の県知事) は、津留の孝心をたたえ、褒賞金を贈り表彰した。 
明治23(1890)年6月、母の病気が重くなり、 津留は十日余り、ほとんど寝ないで看病した。 母は多年の孝養に感謝しながら78歳でなくなった。
明治24(1891) 年津留の孝心の素晴らしさがついに宮中にまで知られ、 緑綬褒章 (親孝行など特に優れた人に与えられる賞) を賜った。 
そして、 時の文部大臣、井上毅は、津留の孝養に痛く感激し、 彼の文章が女学校の教科書に掲載されると、その孝養は全国に知れわたった。
津留は大正15(1926)年3月11日、82歳で亡くなった。
昭和5 (1930)年1月、地元の有志の人たち は、津留の孝心を永く後世に残すため自然石の基壇 (高さ210cm) の上に佐藤津留碑を建立した。

「ふるさと探訪 出部の史跡」 いずえ地区まち協 平成30年発行

 

・・・

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十七瀬川栄吉の墓

2023年12月19日 | 江戸~明治

場所・岡山県井原市西江原町

井原市西江原町に十七瀬川の墓があった。
笠岡市金浦にもあるので、同じ力士の墓だと思った。

 

ところが、
家に帰って調べると、
金浦にあるのは

・・・

「孫たちに語りつぎたい金浦」 金浦地区まち協・金浦公民館  平成25年発行


十七瀬川龟之助力士
寛延2年 (1749) ~ 天明7年 (1787)
本名 内山亀之助
享年 38歳
墓所 笠岡市金浦西浜墓原
「相撲の史跡」によると、「西浜で過ぎたるものが3つある。
夜灯、庄屋に、十七瀬川」とうたわれ、「小田郡誌」に巻酒樽を片手にて捧げ瀧飲したと伝い、墓は十七瀬川常用の煙管一本を換金して建てたという。
安永2年10月 東3段目
江戸番付
安永3年8月 安永7年7月
安永7年7月 天明6年8月
幕内東前頭12枚目 東前頭19枚目 東前頭19枚目 西前頭47枚目
大阪相撲西幕尻限りで死亡。 


・・・・

井原市の墓は、
十七瀬川栄吉の墓
で、
墓石の裏側には、「慶応四年戊辰三月建」が刻まれている。
たぶん力士で、二代目十七瀬川と推測される。

ここ100年間、またはそれ以上の間井笠地方から関取の相撲取りは出ていない。
そもそも力士になった人すら聞かないが、江戸時代にはお相撲さんになった人がいたようだ。

 

 

撮影日・2023.12.18

 

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お祖父さんの自慢話

2023年07月05日 | 江戸~明治

祖父(1893~1992)は、
明治26年広島県深安郡下竹田村に生まれた。
4男だったので、茂平の農家に養子結婚した。
平成4年に亡くなったが、その時は、笠岡市の男性で2番目の長寿だった。
4人の子がいるが、
戦死者もなく、今も2人が健在。
(その長命の系統にあやかりたいと、ひそかに、いつも願っている)

子どもの頃、風呂で話す祖父の話はワンパターンだった。
「百姓はいけん。月給取りになれ」

その話を信じ(職種は選ばず)、”会社員”になったが、
悪くはないが、いいものでもなかった。
でも、祖父が言いたかったことは、時代や社会や世相をからみて、
至極妥当な意見であったと思っている。

・・・

(昭和16年頃と思える家族写真・後列右側が祖父)

 

・・・

江戸時代末期、
日本の識字率は60~70%といわれ、
それが明治の文明開化成功の大きな要因とも言われる。
逆に言えば、
30~40%の人は読み書きが出来なかった。
昭和17年、茂平に嫁いだ母は
最初の村人からの依頼事項は、隣家の老婆からの手紙の代筆だった。
そういう事例は管理人が小学生までつづいた。

・・・・

2023.7.3
姉との雑談に出た、祖父の話。

(姉の話)

お祖父さんは高等小学校を出ていた。
それで、
”ひろこ(=姉のこと)よ、ワシは高等小学校を出とる。
それじゃけえアルファベットも言えるし、書ける。
わからん時はワシに聞け、おしえてやる”

・・・


大正生まれの、
父や母の時代の高等小学校は、
尋常6年、
高小2年、(義務教育6年)

明治の、
祖父の時代の高等小学校は、
尋常4年、
高小2年の時代。(義務教育4年)

ABCを習った祖父は大きな自慢だったのだろう。
でも、それを言える相手が孫娘しかいなかったのも、
養子のつらさだった・・のだろうなあ?

・・

 

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道⑤明治・大正の道

2023年06月28日 | 江戸~明治

明治に道らしい道はなく、
文明開化で馬車や荷車が通り、道は更に悪路になった。

政府は鉄道の敷設を進めたので、
道路は昭和30年頃まで、江戸時代とたいして変わらない状況のままとなった。

大正の末年、鴨方往来(浜街道)が旧山陽道から国道2号線をとって変わったが、
なんと車両通行さえおぼつかない国道2号線だった。

高梁川が一本の川となり、その高梁川に霞橋の架橋完成に合わすように、周辺の国道2号線はバスが通れる程度の道となった。
昭和3年のことである。

 

・・・

「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

明治維新
明治2年、諸道の関門(関所)の廃止が通達された。
その翌年より、本陣・脇本陣が廃止、助郷制度廃止、飛脚が廃止された。
しかし、
明治3年(1870)に人力車の開業、明治9年自転車の輸入が開始されるなど、
馬車の通行がさかんになると、
ケンペルなどが称賛した日本の街道も、たちまちその脆弱性を露呈した。
道路の痛みは激しく、改良の必要性は非常に高いものでもあった。
しかし、
明治政府の目は鉄道に向いていた。
早くも明治2年に東京と京都・大阪間を結ぶ計画を決定した。

明治19年の「道路築造保存方法」
道路の表面は割石で築造し、
馬車の通行が頻繁でない場合は砂利でもよいと、
馬車の通行が道路設計の基本になっている。


明治の道路
明治は、その後半で20世紀を迎えるのだが、
ちょうどその頃、自動車が輸入された。
最初は裕俗な上流階級のステータス・シンボルとして始まった。
乗合自動車(バス)、貸自動車(ハイヤー)が次第に大衆化し全国に広がり、
大正8年、道路法が制定された。
自動車が道路設計の基準として登場した。


大正8年道路法
初めて自動車交通が設計対象の一つになった。
このころ自動車台数は11.000台、
まだ馬車などが圧倒的に多かった。
両にらみの構造基準となった。

歩道と並木
もともと道路構造の基準に歩道という概念そのものが存在していなかった。
明治に残されていた並木の規定も姿を消した。
規定が現れたのは1970年(昭和45)である。
少なくとも規定上では、完全に忘れられたのである。

・・・・

・・・

画像は大正末年~昭和35年頃までの国道2号線(岡山県笠岡市笠岡~広島県福山市大門町)

 

浜街道(笠岡街道・福山街道)

撮影日・2020.3.19

笠岡市笠岡

 

笠岡市金浦

 

笠岡市用之江・天神鼻。ここで新旧の道が合流する。 手前が旧浜街道、お堂を挟んで新・浜街道

 

旧浜街道(笠岡市用之江)

 

旧浜街道(福山市大門町)

 

・・・・・


「美星町史 通説編」 美星町 昭和51年発行

町への道

明治後期以降に、
荷馬車、牛馬などが使われるようになる。
大正後期、美山村では
「近ごろ、道路の改修が着々と行われ、
村内いたるところ、荷車の通じること喜ぶべし」
とあり、
歩き時代の古い道の拡張がなされた。
こうした町への道も現在では「山道」とか「小道」と呼ばれるものとなり、
今は通る人もほとんどいない。


運搬

「オイコ」は女子の運搬用具として山仕事や家庭用品・農産物の運搬に使用された。
肩に担ぐものは「テンビン棒」がよく利用され、
笠岡の西浜(ようすな)や寄島からの魚の行商人、鴨方からのそうめんの運搬には、なくてはないない運搬用具であった。
大小便のたごを担ぐにも使用した。
大八車(荷車)は米・麦の俵、薪炭・木材などの重量のある物資の輸送に利用された。
大正10年に井笠鉄道が矢掛まで延長された。
大正14年井笠鉄道の乗り合いバスが開通した。


行商
行商人は、
笠岡西浜から魚、
井原から肉類、
出雲からノリ、わかめ、するめ
などを売りに来ていた。
総社、富山から薬を売りに来ていた。

仲買人

アイの仲買人がやってきていた。
アイづくりの次はハッカの栽培と養蚕が盛んになった。

売り出しと買物

割木、松葉を20貫くらい、天秤で担いで井原の向町や西江原の今市へ売りに行った。
種油、わかめ、こんぶや、
盆正月には、ゆかた、手拭、あさうらぞうり、扇子、コンペー糖などを買ってきた。

・・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

明治
明治9年、国道四号(東京~長崎)に組みいれられた。

 

・・・

大正
(Wikipedia)

大正9年、国道二号線(大阪~下関)となった。
大正15年、路線変更し、旧鴨方往来が国道となる。
昭和
戦後に自動車通行量が増加すると、笠岡市民が「日本一狭い国道」と称するほど狭隘で屈曲した悪路で、県道に降格した旧山陽道が1960年代初頭まで東西の主要交通路を担った。
地図上で変更後経路の国道収載は戦後以降である。

・・・

 

用之江~大門間は昭和初期、新道が完成した。バスが通れる道幅になった。

 

新道・福山市野々浜

 

新道・福山市大門駅(駅前が舗装されたのは昭和40年代になってから)

 

 

・・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行 


鴨方町の南北へ通じる道としては、安倉街道(寄島街道)がある。
また、遥照への道がある。地蔵峠から矢掛へ通じていた。
しかし、今日でも少し残っている旧道をみてもわかるように、
車力も通るのに困るほどの狭い道であった。

東西の旧国道は、里見川に沿って通っており、
道幅も狭く、しかも、曲がりの多い道であった。

この国道の他に、昔の鴨方往来が東西に通っていた。
この道も、旧鴨方の家並みのあるところは広い道であるが、
そこを出ると細い道となっている。

昔の道は、人が歩くのが中心の道だったので、
道幅も、二尺から三尺(一尺は約30cm)程度のものが多かった。
このような道でも
人々にとっては生活道路だったので、いろいろと工夫していた。
例えば、鴨方往来には鴨方川にある土橋は有名であった。
当時としては立派な橋であった。

・・・


「矢掛町史」  矢掛町

交通路

平野部を横断する東西交通は、旧山陽道・小田川の水運などで至便であったが、
南北交通は急峻な山地にさえぎられ、困難を極めた。

笠岡へ至る道は、
小田の観音橋を渡って南へ向かうため、峠もなく、
荷馬車、牛車、大八車で容易に行くことができた。
特に難儀をしたのは、
鴨方・玉島との交通であった。
鴨方へは徒歩のほか越えることは難しかった。
玉島へは明治40年代、切通しがつくられ峠が越えられるようになった。

・・

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道④江戸時代の道(道路とお参り)

2023年06月27日 | 江戸~明治

茂平は前面が海、三方は山に囲まれた地形で、
陸路・隣村に行く道が二本あった。
西の野々浜に行く道、坂里峠越。
北の用之江に行く、野上峠越。

坂里峠は、管理人が小学生の時は、怖くて目をつぶるようにして走り抜けた。
野上峠は、管理人のひいひい祖父さんは、(農夫であったが)用心のため刀を差して峠を越えていたそうだ。
つまり、
茂平への出入りは峠越えで、山賊が出る(という噂の)暗くて細い峠道だった。
おそらく、
江戸時代の道は、五街道や主要道以外は、似たような狭い道であったと思われる。


・・・・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行


近世
全国統一を目指した織田信長は、街道整備、関の撤廃など積極的に行った。
信長の道路政策は秀吉が次いだ。
秀吉の朝鮮出兵では、
膨大な物資や武器、大量の兵が山陽道を通った。
江戸時代は「西国街道」「中国街道」「中国路」ともいい、
江戸と長崎を結ぶ役目を担った。
参勤交代は瀬戸内海を舟で通行していたが、
享保期からは西国街道を通る大名が多くなり、幕末までつづいた。

・・・

(山陽道・神辺宿  2022年11月6日  福山市神辺町三日市通り )


・・・


「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

牛馬の蹄(ひづめ)
織田信長は路面の石を除き、牛馬の足を疲労させないよう、
路面の石抜き作業を行わせている。

橋の美化
織田信長は橋に欄干、街道に松や柳を植樹せしめた。


関所撤廃
織田信長は関所を撤廃、道路や橋をつけさせている。

山陽道建設
秀吉は九州征伐にあたり、毛利氏に対して
山陽道から九州にわたる長距離道路を建設させた。
秀吉は小田原征伐、その後会津まで幅三間の道路を建設させた。


江戸時代の道幅(五街道)
道路幅と並木敷地については間数の定めはなく、
おおよそ道幅は2間~3、4間まで、並木敷は9尺。
常識的な数字は10~11m。

路面
街道は一般に砂利道であった。
坂道では、しばしば石畳が用いられた。
箱根、金谷などが有名。

歩車分離

牛車による運送のさかんであった伏見~京都、大津~京都には、
早くから車道と人馬道とをはっきりと分離する構造がとられていた。
この大津街道では、車道の破損がはなはだしく、車牛が難儀しているようすが忍びないと、1736年
許可を得て花崗岩の白川石を敷き詰めた。
これが日本の軌道舗装の記録の初めてである。
その後幕府も、1805年蹴上~大津札の12kmを改修した。
古文書によると、
人馬道--道幅の南半分。砂利敷。
車道--道幅の北半分、
さらに輪道と牛道の三部分に分ける。
輪道は花崗岩の敷石、すなわち車石を置き
牛道の部分は敷砂利。


一里塚

一里塚の構造は五間四方(約9m)の小山上の塚の上に
一本ないし数本の榎または地方によっては松・杉・欅・さいから・檜などを植え、
一里山などと呼ばれていたと見られる。
榎については、
成長が早く、枝葉繁茂して根も広がって塚が崩れないなどの特性が見られた結果と思われる。
なお一里塚は街道の左右両方に置かれるのが通例である。


街道並木

東海道では松が主。

・・・

(香登一里塚   2022.12.2 岡山県備前市)

 

・・・

石橋の多い東海道
渡河については、
橋、
渡船、
徒歩、
の三方法である。

東海道の場合、
1.081橋。
うち石橋が559橋、土橋が400橋、板橋122橋である。


渡し場
川を渡るには、
橋、船越、徒歩越、馬越、蓮台越などの方法があった。
つまり、橋・渡船・渡歩の三方法である。

街道筋の管理
オランダ商館随員ツンベルグ、1776年記
この国のどこでも道路は非常によく手が入っていて、
道路も広く排水のために溝がついている。
ヨーロッパのどの国においても、
日本のように愉快かる容易に旅行することのないことは断言できる。
もっともこの国では、
ヨーロッパのように道路を破壊する馬車をもちいることを知らないから、
それだけ道路の維持は容易である。

・・・・

 

 

(鴨方往来 2021.2.13  笠岡市金浦)

 

・・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

鴨方往来

鴨方往来の概念
「鴨方往来」のルートは文献や地域によって異なるが、
ここでは備前岡山城下を起点に、備中を横断して備後福山へ至る道を「鴨方往来」とする。
戦国時代から近世にかけて、岡山県南部では盛んに干拓が行われた。
道は次第に南へ移っていった。
鴨方往来という呼称は地域によって異なってくる。「鴨方往来」「浜街道」等。
笠岡は古くから米蔵、綿、畳表の積出港として栄えた。

・・・

 

 

(金刀比羅 2022.5.28 )


・・・・・・

お参り

「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

社寺参り

戦国時代になると(熊野は)伊勢神宮にとって代わられる。
その後、
西国巡礼、四国88ヶ所巡礼のような周回型に移行する。
現在でも一形態として存続している。

・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

大名の旧暦の三月、四月に街道を通過した。
春以外の街道は伊勢参り、西国参り、出雲参り、金比羅参りの人々、
行商の商人、托鉢の僧、山伏、遊芸人などの人々が通行した。

・・・

 

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道③江戸時代の道(商品の道)

2023年06月27日 | 江戸~明治

茂平の新田である吉原は江戸時代、綿花畑がひろがっていたに違いない。
綿花は塩と米と並び、瀬戸内地方の代表品で「備中三白(びっちゅうさんぱく)」とも呼ばれていた。
明治中期に輸入綿花が入り衰退していったが、
農家にとっては換金作物であり、自給の糸・布・着物に必要な生活必需品を兼ねていた。

 

・・・・

「福山市引野町誌」 福山市引野町誌編纂委員会  ぎょうせい  昭和61年発行

「干鰯」
西廻り航路(北前船)に依って干鰯が盛んに入荷し、帰り荷には塩や古手を積んで帰る
(干鰯が入荷するまでは人糞尿、厩肥(きゅうひ)、山草などが重要な肥料元となっていたが、干鰯が入るようになると、米、木綿、たばこなどの生産力が飛躍的に上昇した)。
こうなってくると農産物自身の生産量が増加してくるし、その流通量が増加してくる。 

江戸時代から明治にかけての購入肥料は、
北海道のにしんの絞りかす、豊後いわしの絞りかす、伊予・伯耆のさわらかすの魚肥(干鰯)や
大豆かすが使われた。
しかし施肥量の主体は堆厩肥、緑肥、しば、草、木炭、人糞尿の自給肥料で、
寛政の頃かなり購入がはじまった。

明治後期から大正に入り、
魚肥は桃、葡萄などの果樹に適していることから、
稲には代わって大豆かすが重用され、また硫安、過燐酸石灰などの化学肥料が漸次浸透してきた。

・・・

(広島県福山市鞆港 2021年10月2日 )

・・・・

「吉備路と山陽道」  土井・定兼共著 吉川弘文館 2004年発行

玉島港
玉島港が栄えたもっとも大きな理由は、
玉島周辺農村の綿作の展開である。
綿作の肥料である干鰯・油粕を販売し、
農村からは実綿(みわた)・繰綿(くりわた)を集荷して出港した。

笠岡港
笠岡は中世から海運業が盛んで、寛文11年(1671)には村内に胡町・仁王堂町など15の町が出来ていた。


・・・・

(岡山県倉敷市玉島港 2022年4月1日 )

・・・


「江戸時代の瀬戸内海交通」  倉地克直 山川弘文館  2021年発行


塩の輸送
製塩には大量の薪が使用される。
これを塩木(しおぎ)という。
塩も塩木も輸送された。

海産物
鯛が最も多く、次いで蛸。
生物・塩物ともに大坂へ運ばれており、
大坂で商品価値の高いモノであったことがわかる。
その他に、
あわび・はまぐり・あかう・ちぬ・鰆・鰯・鯖・えそ・アミなどがみえる。

生魚を運ぶ生け簀付きの生船(いけぶね)による輸送が多い。

瀬戸内海の各地から大坂へ干鰯を運ぶ例が多い。
干鰯は急速に普及する金肥の代表格。
すでに近畿で商品作物の栽培が盛んになり、需要が高まっていたことがうかがえる。

材木・薪・炭
材木は土佐・伊予から大坂まで運ばれた。
割木・松葉
安芸・讃岐・土佐から大坂・江戸に運ばれた。
割木のうち、「塩木」は赤穂などに運ばれた。

周防・安芸・備前・伊予から大坂へ運ばれた。


農産物
灯火油の原料となる(種子・菜種)、
同じく灯火油の原料となる綿実(わたざね)が、大坂に運ばれた。
畳表・上敷・筵など備中から大坂へ移出されている。
たばこ、酒は相互流通した。
栗・こんにゃく玉・ゴボウ・大根・ねぶかなどもあった。


・・・

(岡山県倉敷市下津井港   2019.4.6 )

・・・


「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行

花形「北前船」


寛文12年(1672)日本海から下関に入り大坂に至る「西回り航路」が開発されると、
尾道、鞆、玉島、下津井、三蟠、牛窓などの各港は一段と活気を帯びて来た。

その年の秋口、瀬戸内海の島々に巨大な白帆を見え隠れさせながら、
千石船の一団が下津井港を目指して船足を速めていた。
「うわーっ、来たぞ」。
岸壁で出迎える港問屋、倉庫業者、はては髪結いから小間物屋まで、
港中が色めき立った。

北海道の松前、小樽を40~50日前に出発した「北前船」が初めてやってきたのだ。
「瀬戸内海沿岸部は干拓の歴史そのものでもる。
新田には有効な有機肥料が喉から手の出るほど欲しかった」。

北前船が運んできた干鰯、羽ニシン、ニシンしめかすなどが人気を集め、
江戸後期、下津井港では北前問屋が24~25軒も並んでいたという。
また、高瀬舟の終着港、玉島港では、港問屋が43軒と繁栄をきわめ、
繰綿、実綿、米が売り出され、
干鰯、茶、塩魚、菜種などが買い入れられた。

北前船の出港地は北陸地方で、
帰り荷に当時商品価値の高かった瀬戸内海産の塩を積んで帰った。
北前船は別名「塩廻船」とも言われた。

北前船は一枚帆の「大和型」から、明治に入ると「西洋型帆船」まで登場したが、
日本海が日露戦争の舞台になったのと、
北海道ニシンの不漁、
鉄道の発達などで
明治中期には姿を消してしまった。

・・・

(広島県呉市倉橋島・鹿老渡港 2013年1月15日 )


・・・・


「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。
 

・・・

「港の日本史」  吉田秀樹  祥伝社 2018年発行

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

・・・

 

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道②江戸時代の道(年貢の道)

2023年06月26日 | 江戸~明治

江戸時代は、年貢米による石高制の社会だったが、
では、その年貢米はどのように運ばれたのだろう。


田んぼで稲刈り→百姓家で米俵→庄屋へ運ぶ→代官所・城下の米蔵・湊の蔵→大坂・江戸、と思う。

庄屋に集まった米俵は→一番近い川か海の湊まで馬の背で運ぶ→舟で指定の湊の米蔵に運ぶ。
茂平に当てはめると、
茂平の湊から笠岡の代官所指定の米蔵に収納する。(ここまでは庄屋の責任)
笠岡湊から大坂・江戸の幕府米蔵まで運ぶ。(ここは代官所の責任)
だったのだろう。

 

・・・・

「美星町史・通説編」 美星町  昭和52年発行

年貢米の輸送

年貢米の輸送は大仕事であった。
九名村から、納められる年貢米は明治3年頃は玉島へとしたものである。
九名村から水内川舟場まで3里、
水内から玉島港まで7里半。
水内から玉島経由笠岡まで17里半であった。
連れの人足賃5日分、途中支度2人分、宿泊料5日分など、
輸送する年貢米のことを廻米というが、
その廻米にかかる村々の出費、「村がかり」となるわけである。

 

・・・・

「吉備路と山陽道」  土井・定兼共著 吉川弘文館 2004年発行

美作国山間部の年貢米


河岸まで馬や荷車で運び、そこから高瀬舟で川を下った。
流域各所に河岸があり、
それぞれの河岸に集められた年貢米は関係村落から庄屋が出勤して厳重に数量チェックした。
高瀬舟には船頭・水夫とともに上乗りと称する庄屋が同乗して川を下った。
大体四、五艘から多い時には十艘の船団を組み、
夜には繋いで番をした。
吉井川・旭川の河口湊で海船に積み換えられて、江戸・大坂へ向かった。



玉島港

高梁川では、新見からの高瀬舟は松山河岸までしか下れず、
それより下りの高瀬舟に積み換えられた。
継船制という。
天保11年(1840)、新見河岸から松山へは月に6度、
3と8がつく日の午前8時に出船と決まっていた。
成羽川では明和3年(1766)東城から玉島まで直行できる高瀬舟は4艘と定め、
物資は年貢米の他に、たたら製鉄や銅・鉛・煙草・檀紙などの産物が高梁川を下った。
河口で海船と連結出来た場所が玉島港である。
松山藩主水谷勝隆は玉島港を問屋稼ぎ場として公認した。
水谷氏は玉島港周辺の新田開発を進めると同時に、
船穂村から長尾を経由して玉島に至る高瀬舟の運河「高瀬通し」を設け、
玉島には蔵屋敷が設けられている。

・・・・


「江戸時代の瀬戸内海交通」  倉地克直 山川弘文館  2021年発行


米の輸送

海上交通の中心はモノの輸送である。
室町時代にも瀬戸内でのモノの輸送は盛んであったが、その多くは米か塩であった。
それが江戸時代になると質量とも大きく変化する。
多様なモノが大量に輸送されるようになった。
米が中心であることは変わらない。
岡山藩
江戸時代前期の城米輸送は、塩飽船がほぼ独占していた。
前年の秋から春までに、町船四艘で江戸へ藩米5255俵を運んだ。
岡山船、片上船、鴻池船が運んだ。
津山藩
高瀬舟から直ぐに海船に積み、少しでも陸に上げない、と命じている。
備前船が江戸へ運んだ。

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Web「古文書ネット」

年貢は個人ではなく村に課せられ、農民たちが分担して耕作し年貢を納めます。
米は秋に収穫され、納める年貢米は村の蔵である郷蔵(ごうぐら)に保管。
ちなみに小倉藩の蔵納めの期限は旧12月10日です。

年貢米を回送するための船積場所を津出場(つだしば)と言います。
津出場まで五里以内の運送は農民負担で、それ以上には五里外駄賃(ごりがいだちん)が支給されます。


廻船
幕府から江戸へ年貢米を運ぶ(廻米)にはかなりの日数を要し、享保二年(1717)旧9月の定めにより、
関東地方の翌年正月をはじめとして、越後・越前・能登・出羽などは旧7月を期限としています。

浅草の米蔵
江戸浅草の米蔵へ年貢米を納入の時は、代官が蔵奉行の仕方を立合い、見届ける義務がありました。
現在は、蔵前という地名だけは遺っています。

 

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「日本の町並み」 山川出版社 2016年発行

橋津藩倉

橋津集落の橋津川沿いには、鳥取藩の藩倉として利用されていた土蔵が3棟残されている。
橋津村は年貢米の集積地となっており、
藩倉は土壁が厚く塗られた土蔵造りであるが、床下部分には土壁を設けないことで通風を確保するという独特な構造となっている。

 

   撮影日・2020年10月13日 鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津   

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「海の交流」    中国地方総合文化センター  2012年発行

西廻り航路と東廻り航路
幕府の年貢米廻送のため、東廻り航路と西廻り航路が開拓された。


東廻り航路
それまでは荒浜(宮城県)から廻船で銚子まで運び、そこから川船に積み換え、利根川をさかのぼって江戸に運んでいた。
そこで瑞賢は房総半島に向かい、相模三崎に立ち寄って西南風を待ち、直接江戸湾に入るという東廻り航路を開いた。

西廻り航路
出羽国の城米を江戸に送るには、津軽海峡を経て太平洋に出、江戸に達するコースが一番近かった。
しかし津軽海峡の通過には危険も多かった。
そこで日本海を南下し、瀬戸内海を経て江戸に達する航路が注目された。
瑞賢は、
最上川の舟運を利用して城米を酒田に運び、そこから廻船に積み換えて海路をとった。
これが西廻り航路で、途中の寄港地に選ばれたのは、
佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、石見の温泉津、長門の下関、摂津の大坂、
紀伊の大島、伊勢の方座、志摩の安乗、伊豆の下田である。
そこに番所を設けて手代を配置し、航路安全を図った。
大型廻船は塩飽船が丈夫で最も多く採用された。
船も塩飽水夫も高く評価された。

・・・


海路の歴史

江戸時代には全国的な航路網が整えられ、
江戸と経済の中心であった大坂間には、菱垣廻船、樽廻船と呼ばれた定期便が就航する。

17世紀半ば過ぎ、東北地方の幕領米を江戸・大坂に運ぶため、二つの航路が開拓された。
東廻り・・・東北~太平洋~房総~江戸
西廻り・・・東北~日本海岸~下関~大坂
さらに18世紀後半には蝦夷地の松前までのびた。これは北前船とよばれ、
日本海岸に沿って西下、コンブ・サケなど蝦夷地の特産を大坂に運び、明治中期まで活躍した。

「すぐわかる日本の歴史」  小和田哲男  東京美術  平成12年発行

 

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道①古代~戦国時代の道

2023年06月25日 | 江戸~明治

瀬戸内海の島々のうち、
吉備・安芸(現在の広島県・岡山県)と讃岐・伊予(香川県・愛媛県)の国境は、タライの舟を流して決めた
というようなことを学校の先生がおしてくれた。
その説は、先生自身も自信がなさそうだった。

今、地図をひろげてみると、タライで決めたのでなく、
古代律令国家の役人が、国と国との真ん中を、中国・四国に平等に分けているのがよくわかる。
例えば、
大きな児島は吉備、小豆島は讃岐にと、
地形とにらみあわせての平等な配分がよく見とれる。


古代の山陽道は、現在の笠岡市域を通らず、
市域の半分ほどは海域で、”鯨”の地名が残るように、
時折、迷い込む鯨がいる海岸線が広がっていたようだ。


・・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

山陽道
古代の山陽道
近畿と大宰府を結ぶ、軍事、政治上の重要なルートであった。
馬を交通手段として駅伝システムが整えられた。30里ごとに(現在の約16キロ)駅家(うまや)が設けられた。

中世
駅家に変わり宿駅が設けられ、役人たちの鎌倉への往還が頻繁になってきた。
南北朝時代は戦の舞台、中世では独自に関所が関銭(通行税)を取り立てた。
市が出始めた。
伊勢神宮参詣が流行りだした。

・・・

(岡山県倉敷市真備町呉妹「琴引岩」 2022.3.30)

吉備真備公縁の琴引岩

古代山陽道は、この道だったのか?それとも小田川左岸だったのだろうか?

 

・・・

「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

鎌倉時代の橋

ほとんど木橋であったために、その遺構が少ない。
鎌倉時代の東海道にどれだけの橋があったかといえば、
東から、
瀬田、浜名湖。
橋の模様は『一遍上人聖絵』などの資料によるしかない。

関所

古代の関所は軍事的・警察的機構を果たすのを本質としたが、
中世の関所は経済的機能を主眼として、関餞の徴収を目的とした。
各所に関所が乱立した。


社寺参り

中世の旅の特徴の一つに社寺参りがある。
それによって道が拓かれたといってもよい。
熊野参詣はすでに平安時代から始まっている。
鎌倉時代に入ると後鳥羽上皇の23回をはじめ参詣者が多く、
随行者のひとりの藤原定家は、
「天下の貴賤、競いて南山を営む」
と嘆いたほどである。
熊野詣での道中はかなりの山道で、
貴族たちにとっては難行苦行の旅であった。
現世の利益と後生の極楽浄土を願うものであった。


・・・

 

 

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笠岡高校創立120周年

2022年10月08日 | 江戸~明治

(山陽新聞・2022.10.6)

 

祖母は明治27年に、茂平の農家の次女に生まれた。
長女が家を出たので、次女である祖母が養子取りになって家を継いだ。

家を出た長女

長女が小学校の5~6年生の頃、笠岡の町に「女学校」が出来ることが決まった。
その話を聞いた長女は、どうしても「上の学校」に行きたくなった。
吉浜の分限者の人で、子なしの人が、女学校に進学したいという少女の噂を聞いて、
茂平の家に来て「うちの養子になるなら、女学校にいかしちゃる」と話した。
長女は、親の言葉を待たずに「養子に行く!」
長女は家を出て、養女になり、そして「笠岡町立女学校」に入学し、卒業した。
第二回卒業生だった。

長女は一女を残して若くして亡くなった。
その一子は毎年、お盆に先祖の墓参りに来ていた。
父の従妹になるが、多くの親族(父の兄弟や従兄妹)が集まる中でも、その一子は話すことがしっかりし、容姿も優れて、話の中心にいた。

その父の従妹の思い出は、笠岡女学校に進学した祖母の姉とセットになって想い起こす。
創立当初の笠岡女学校の生徒は気鋭の人々の集まりであったに違いない。

 

(中国新聞・2022.10.7)

 

 

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