しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「い草」の盛衰

2020年03月30日 | 昭和41年~50年
「い草」の盛衰
山陽地方では、広島県松永から岡山県都窪郡にかけてい草が多かった。
管理人は昭和44年と45年に”臨時雇用者”として10日間ほどい草刈に行った。
臨時雇用者は、お金だけが目的で、雇い主もお金だけで釣っていた(と思う)。
一日4.000円~5.000円だったような記憶がある。
(土方仕事が一日1.200~1.500円だった)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「早島歴史紀行」 平成28年 早島教育委員会編 学校教育ビジョン発行

い草王国「岡山」
昭和15年(1940)岡山県のい草作付面積は、3600ヘクタールに及び戦前の最高を記録しました。
そして終戦後、昭和21年はわずか3ヘクタールという状況で、まさにゼロからの出発でした。
昭和26年に戦前の水準を回復しました。
そして昭和30年代になると岡山県のい草産業は、その作付け、畳表の生産ともに最盛期を迎え岡山県は名実ともに「い草王国」として全国に君臨しました。
昭和37年に岡山県が発表した調査書によると早島町では、農家数436戸のうち約7割の312戸がい草を栽培し、製造者数301戸のうち282戸で、早島の製造業者のほとんどがい草関係であったことがわかります。
ちなみに戦後、岡山県のい草作付けが最高となるのは昭和39年の5548ヘクタールでした。

公害
岡山県のい草が最盛期を迎えようとしていた昭和39年3月、倉敷市中島のい草先端がこげ茶色に枯れ始めるという事件がおこりました。
調査の結果、近隣の工場から出される亜硫酸ガスが原因ではないかということでした。
翌年は倉敷市福田の東塚や広江のい草が枯れ始め、「水島の石油化学工場の排ガスによるものである」という報告をおこないました。
昭和43年には早島町や茶屋町にも先枯れが発生、価格が暴落した。
昭和49年、岡山市・倉敷市・都窪郡・浅口郡の農家13.053戸と補償総額10億3千万円で企業と覚書調印した。

落日のい草王国
昭和30年代黄金期を迎えたが、その後は減少の一途をたどり昭和49年には940ヘクタールと激減し、全国一の座も熊本県に譲りました。
水島工業地帯は、岡山県の主要ない草産地に近接していました。
必要とされる労働力は、まさにい草生産地域から提供されたのでした。
真冬の植付と炎天下の刈取りという重労働に加え、価格の動向に一喜一憂していた農家にとって、安定した雇用と収入は大きな魅力でした。
さらに工業化の波は労働者の不足を招きました。い草農家では毎年、刈取り時期に多くの労働者を県北や四国から臨時雇用してきましたが、これらの地域も工業化が進み重労働のこの仕事は敬遠され労働力不足となりました。
また生活様式の変化で畳の需要も減り、追い打ちを公害による被害で、品質の低下や価格の低迷、進まぬ原因究明で、農家の意欲は萎えていきました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オリンピック返上

2020年03月26日 | 昭和11年~15年
東京オリンピック返上

2020東京五輪は1年延期になった。
82年前に、東京五輪は中止になっている。

今思えば、宇垣外相の意見は当然だが、当時はたいへんな決断だったろう。
その時父は、徐州から(新型コロナウイルスの)武漢へ進軍していた。


それと一言、
82年前の河野一郎さんから、現在の太郎大臣まで、事実上の世襲がつづくことが、現在の国会議員の劣化を証明している。
こうゆう事態が不可能になるような”憲法改正”なら、憲法改正に賛成する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

東京オリンピック返上

昭和13年7月15日、日本政府は、
昭和15年東京で開催予定の万国博覧会の延期と、第12回オリンピック大会の中止返上を発表した。
理由は、「何年かかるかわからん戦争をやっているのに、万博やオリンピックでもなかろう」(宇垣外相談)ということだった。
昭和11年7月ヘルシンキと決選投票となり、ベルリンオリンピック開催式の前日、ベルリンでのIOC総会で投票が行われ、36対27で東京に凱歌があがった。
東京では各社の号外が、決定を伝え日本中がわきたった。
東京大会が開かれる昭和15年は、紀元2600年に当たり、最高の祝賀イベントにできるという狙いも秘められていた。

 しかし、日中戦争が始まり、国際世論も日本に不利にあり、東京開催反対論も出てくるようになった。
こうして、昭和13年2月カイロでIOC総会が開かれ、東京大会の可否を最終的に決めることになった。
日本からは、加納治五郎主席代表らが出席した。
加納の説明によって、東京開催反対論はひっこみ、満場一致で東京開催が確認されたのであった。
加納は日本への帰途、氷川丸で肺炎のためあっけなく最後を遂げた。横浜入港2日前だった。
そのからわずか二か月後に、東京オリンピック返上が決定したのだった。

ところで、当時議会で東京返上論を主唱したのが、若き日の河野一郎(政友会)だった。
戦後東京オリンピックの担当大臣は、河野一郎その人だった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜街道・七隠・・・その2

2020年03月16日 | 大正
明治時代に鉄道が通るまでの日本は、人も物も、道路でなく川や海を船で移動するのが主だった。
大門~笠岡間の”七隠れ”と呼ばる道は、そのことを証明している。


(古道・七隠れ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「大津野のあゆみ」 平成15年 大門町誌編集委員会より転記

大門駅の設置以前から既に引野から大門を経て笠岡に至る道は通じていたが、明治8年に道路の幅員が1間から2間に拡張され、荷車や人力車の通交を便利にした。
大正に入ると「大正記念事業」として、内務省から各県郡村道の改修を施すことが指令され、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
大正11年8月に「道路法」が設置され、大門駅前を通る道路は県道となった。
更に、昭和4年には県道福山~笠岡間は第二国道に昇格している。

1920年(大正9年)旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。大正15年から一部国道となる。


・・・・・・・


「野々浜むかし語り」1991年野々浜公民館発行

笠岡に行く道は、大正ごろに改修されて今の国道筋を通るようになった。
しかしそれ以前は七隠れと呼ばれる悪路だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樺太地上戦

2020年03月16日 | 昭和20年(戦後)
樺太は米軍の空襲も受けず、大戦中でありながら平和に暮らしていた。
昭和20年8月9日から、突然戦争状態になり混乱しつくした。
状況は満州国とほぼ同じ。


・・・・・・・・・・・・

「NHKスペシャル・樺太地上戦・終戦後7日間の悲劇」角川書店・2019年発行より転記


「宝の島」
樺太は1905年日本領土になった。
それから40年後、樺太は日本で最も豊かな地域であったという。
公務員の給与水準を高く設定していたため、全国農村から若くて優秀な若者が学校の教員などとして数多く押し寄せていた。
豊かな天然自然を生かした漁業や林業に加え、各地に製紙工場が設立され、炭鉱の開発も相次ぎ、「宝の島」とまで呼ばれていた。
鉄道網や道路網も発達、人口約40万人。
戦火に脅かされることも、食糧不足に陥ることもない、宝の島にありつづけた。
あの夏、
わずか2週間ほどの間に、樺太で人々が築き上げた暮らしや財産はすべて失われた。
ソ連軍の攻撃によって奪われた命は五千とも六千とも言われる。


陸軍第88師団(樺太師団)
8月16日、札幌の第5方面軍より「自衛戦争は継続すべし、樺太を死守せよ」の軍命令が届いた。
戦後第5方面司令官・樋口季一郎中将は戦後、
「私自身はソ連がさらに進んで北海道を侵攻することがないかという問題に直面した。
ソ連の行動如何によっては自衛行動が必要になろう」。
樋口中将が北海道占領の”防波堤”として樺太死守を命じたと考えられる。
しかし、樺太師団にはそもそもソ連軍に対抗できるだけの戦力は無く援軍もなかった。いわば捨て石の状態に置かれた。


推移
8月9日・樺太国境にソ連軍が侵攻。
8月13日・緊急疎開が始まり、宗谷丸が大泊を出港。(軍や官庁の関係者のみ)
8月14日・国民義勇隊を発令。
8月18日・占守島攻撃。
8月19日以降・局地的に停戦すすむ。
8月20日・ソ連、真岡砲撃・侵攻。
8月21日・ソ連総司令官「サハリン占領後、23日までに北海道北部占領の準備をすること。開始時は追って指示する」。
8月22日・ソ連、豊原空襲。樺太から北海道へ向かう三船が殉難。1708人死亡。樺太全土の停戦協定成立。
8月25日・ソ連、南樺太の占領が完了。
9月1日・ソ連、国後・色丹占領。
9月2日・東京湾、ミズーリ号で降伏文書に調印。
9月3日・ソ連、歯舞群島占領。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和46年の広島・・・①

2020年03月14日 | 昭和41年~50年
福屋前の傷痍軍人

広島の百貨店・福屋の前に、いつも白衣姿の男性が3人ほどいた。
座って、募金箱を前にお辞儀を繰り返していた。
アコーディオンが(勇壮でなく)沈んだ感じの軍歌を流していた。
歳の頃は戦後26年目だから、45~55才位の元軍人だった。
それから2~3年後、
あれは傷痍軍人でなく、身体は元気な人で
福屋の時間が過ぎると「しゃきっとして、お金をもって、高級車に乗って去っていく」のを見たという話を多く聞いた。
当時、東京や大阪にはこうゆう偽の元軍人が繁華街にいたそうだが、
中四国では岡山や松山で見たことがないので、大都市限定の偽傷痍軍人だったようだ。


昭和天皇が広島に

会社の隣に広島グランドホテルがあった。
ある日、昭和天皇が広島に来てパレードをした。
グランドホテルから出るときか、来た時に天皇をはじめて見た。
生まれて初めて天皇を見た。特に皇后はよく見えた。
いつもの笑顔で手を小さく振っていた。
実家に帰った時、このことを祖母に教えた。
家には父・母・祖父・祖母がいたが、話したのは(普段いちばん話をしない)祖母だった。
祖母以外は、このことに反応がないだろうと思っていた。
(家では、祖母以外から「天皇」という言葉を聞くことがなかった)


超スピード運転が得意の課長

会社には社内報があり、毎月発行されていた。
毎月、どこかの課が職場紹介というページがあり、仕事でなく課員の紹介をしていた。
ある月に人事課が載り、課員の特技も紹介される。
人事課長の特技はなんと「超スピード運転が得意」と載った。
当時でも、これ書いていいのかな?と思ったけど、やはり今でもそう思う。
まだ珍しかった車通勤ですよ、と言いたかったのかな?


会社の上司に挨拶なしの無言(トルコ風呂で)

広島の薬研堀は当時、トルコ風呂が盛んで
お店に入ると待合室があり数人の客が自分の番が来るのを待つ。
番になるとトルコ嬢が両手をついて個室に案内するというシステム。
或る日、同期のTくんが待合室で上司に会い、しばらく同じ場所で待機したそうだ。
その時間はとてつも長く感じたそうだ。そうだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽明丸とシベリア出兵⑫笠岡市図書館の陽明丸船長「茅原基治」コーナー

2020年03月13日 | 大正
笠岡市図書館2fにある茅原基治コーナーには、B5サイズで茅原船長の航海図と顕彰のチラシが置いてある。





その航海表と歴史本のその時代とを重ねてみる。
国をあげて反ロシアをあおる最中に、陽明丸が人道的な行動を起こすことができたのだろうか?

・・・・・・

笠岡市図書館のチラシ

大正8年(1919)9月アメリカ赤十字はロシアの子供たちを船に乗せてロシアを離れ、混乱が落ち着いたらロシアの親元に返すという救出計画をたてました。
世界中の船舶会社に救援を依頼しましたが、引き受けてくれるところはどこもありませんでした。
この困難な呼びかけに応じたのが、勝田汽船の社長であり、船長に茅原が選ばれました。
大正9年(1920)7月9日、
ウラジオストク港から、陽明丸はロシア人の子ども779名をはじめ、ロシア人女性など合計960名を乗船させ出航しました。

・・・・・・

「近代日本戦争史・大正時代」平成7年 監修 奥村房夫 紀伊国屋書店発売

1920年3月12日午前2時、
日本軍および自警団合わせて400名。赤軍派は、中国人、朝鮮人、労働者など含めて約4000。
日本軍は夜襲、市街戦となったが、共同出兵の支那砲艦四隻からも集中砲火を浴び、13日には領事館が包囲された。
石田副領事は家族と共に自決した。
残った隊員は投獄され労役につき5月25日、
アムール河畔で生存者病人、居留民を含め計122名虐殺され放棄された。

3月13日閣議は尼港救援隊派遣を決定したが、尼港に到着したのは6月3日だった。
惨状を知った政府は6月29日の閣議で、同事件の保証としてサハリン州の占領を決定、北樺太に混成旅団の配置を決定したのである。


・・・・・


「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父は葡萄酒の密造をしていた

2020年03月06日 | 昭和41年~50年
子供の頃、衣食の多くは、田舎の農家は自給自足や、近所との物々交換で生活していた。
そのうちお酒。

家では、
お酒(日本酒)は高価なので、焼酎を飲んでいた。
お酒は客があるときに限り、熱燗をしていた。
ビールは高価であり、アルコール度も低く対象外だった。(冷蔵庫もないが)

他に葡萄酒があった。
盆が過ぎて葡萄の出荷が始まる。傷や腐ったつぶをバケツに入れて、手でも揉みながら葡萄酒造りをしていた。
父が造った葡萄酒は、父と祖父が飲んでいた。
子供も正月などハレの日に杯についで呑んでいた。アルコール分が弱いのか、呑む量が少ないのが原因か、酔った記憶はない。

日本の経済も暮らしも大きく変わっていた大阪万博の頃、父は税務署から密造の摘発をされたそうだ。茂平では葡萄農家が4~6人ほど挙げられたようだ。
時は、茂平の干しイチジクが禁止された頃と重なる。



xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 2015年 青弓社発行より転記。

葡萄酒の自家醸造は合法?だった

昭和24年、婦人雑誌「女性の友」のお料理欄には、家庭で葡萄酒を造るって「楽しいではありませんか」と一升瓶の図とともに書かれている。
昭和7年の「家の光」には、
つくりませう!葡萄酒
と自家製法が、かなり専門的に書かれている。


xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


ニュー井原新聞・縮小版 昭和42年8月21日


”ぶどう酒は造るまい”
笠岡税務署が呼びかけ


笠岡税務署では、今月7日から31日まで「ぶどう酒の密造をなくす運動」を展開している。
これは、最近における酒類の密造状況が米を原料にしたものかが次第に減少し、ぶどうを原料とした密造が漸増の傾向をみせているためで、法律に違反するするとの認識は十分持ちながらも、ぶどう果物の入手が容易である、製造方法が簡単などからこのたびぶどうの出荷最盛期を迎えて一般の自覚を呼びかけることになったもの。

従って、この密造酒帽子宣伝期間、ヤミ酒は造るまい、飲むまい、譲り受けまい・渡すまい、などの周知徹底を図るため左記の行事をもくろんでいる。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする