しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小三の春⑭校長先生の昼礼「踏切に気をつけて」

2019年01月31日 | 城見小・他校
土曜日の授業は昼までで、校庭で校長先生の訓話を聞いてから、各班別に1年生~6年生が列となって帰校するのが決まりになっていた。

小学校の学区内の真ん中を山陽本線が通っている。
茂平の児童は全員、用之江と大冝も半分近い児童が踏切を渡らないと学校への行き交いができなかった。
子供の暮らしには生徒全員が踏切と関わっていた。

校長先生の訓話にも、当然踏切の注意があった。
ある時の踏切注意の訓話は、子供心にも胸に響きすぎる内容だったので、今でもよく覚えている。

「踏切ではいったん立ちどまり、汽車が来ていないことを確認して渡ること。
汽車が来ていたら、決まった場所以上に近寄らない。
もし、踏切の近くにいると汽車が止まるかもしれない。

汽車を止めると大金が要ります。
そうなると、あなた方の親では支払うことができません」

つまり、子供の命なんかよりも、国鉄という権力の方がずっと大きかった。
校長先生の話に、腑に落ちないとも思ったのだろう、それで今でも覚えている。

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小三の春⑭校長先生の朝礼「朝は顔を洗いましょう」

2019年01月30日 | 城見小・他校
学校に行く前、顔を洗うのは春と夏と秋だった。
冬は冷たくて、起きたままの顔で学校に行っていた。

月曜日の朝は、全校朝礼があり、全生徒が校庭に集合した。
ラジヲ体操して、「きおつけー、前倣えっ!」
その後で、校長先生の訓話があった。
全員が聞くふりをし、聞いていないのが校長先生の話だが、
それでも、同じことを何度も聞かされると覚える。
それが「朝起きたら、顔をあらましょう」
そして「冬の水は冷たくありません、夏の水より温かいのです」と。

顔を洗うには、
冷たい空気に顔を切れながら「井戸端」に行く。
釣瓶を井戸に落とす、水を汲んで、引き上げる。
釣瓶から洗面器に水を移す、この時、水を散らさない。
かがんだ姿勢で片手で顔を洗う、両手を使うと両手が冷える。
顔を拭く。
以上だが、猫と同じ程度の洗顔だった。

1月や2月の真冬、何度顔を洗って学校に行ったろう?
月に2~3回だろうか、それも猫洗いで。

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小三の春⑬茂平に火の見櫓が建った

2019年01月28日 | 城見小・他校
小学校からの帰り道、いつものように4~5人で遊びながらの道だった。
丸山を過ぎて視界が広がるところ、そこで「火の見櫓」が見えた。
「わぁぁぁっ!」と声をあげながら、火の見櫓まで走っていった。
銀色に輝く火の見櫓はまぶしすぎる程、輝き、そして誇しかった。

以前、その場所の近くには半鐘が付いた、丸太の警鐘台があった。
その頃、東京には「東京タワー」が建設工事中だった。
東京タワーに似た構造物が茂平に出来て、(大人は知らないが)子供たちは毎日のように火の見やぐらを見上げて満足感を感じた。
火の見櫓には、遊びで何度も登った。
いちばん上の展望台に立つと、風が無くても揺れていた。
こわいので、登ったら早急に降りていた。
それを何度もして遊んだ。


岡山県のもっとも西南の僻地、茂平にも火の見櫓が建った。
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小三の春⑫井笠のバスガール”発車っ!オ~ラ~ィ”

2019年01月27日 | 城見小・他校
用之江を走るバスは当時流行っていた、歌の通りのバスだった。
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♪田舎のバスはおんぼろ車 タイヤはつぎだらけ 窓はしまらない
それでも お客さん ガマンをしてるよ それは私が美人だから
田舎のバスはおんぼろ車 デコボコ道を ガタゴト走る
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それでも用之江はよかった。バスがあるから。
用之江と大冝は笠岡~福山のバスが通っていた。

茂平の人は、バスを利用することはほとんどなかった。
町に行くには、大門駅まで出て、汽車で福山か笠岡に行っていた。


茂平にもバス路線が出来た。
笠岡~茂平で、日に3~4便往復していた気がする。
茂平園芸(農協)が終始バス停。
バスの時間前になると、番屋のおばさんが切符と小銭(釣銭用)の入った木箱を持ってバス停に出て来た。
冬は運転手さんように一斗缶の焚火を用意していた。客もそれで手を温めてからバスに乗っていた。

茂平でバスに乗る客は①用之江の茂平入口で降りて、福山行のバスに乗り換える人。②大冝または吉浜の医院に通院する人。③笠岡へ買い物に行く人。のどれかだった。

茂平にバス路線が出来た頃、時代は「田舎のバス」から「東京のバスガール」に変化しつつあった。
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  ♪若い希望も恋もある ビルの街から山の手へ
  紺の制服身につけて 私は東京のバスガール
  発車オーライ 明るく明るく走るのよ
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あるバスに乗った時、茂平を出て、用之江の踏切になった。
踏切前で、バスは一時停車し、若い女性の車掌さんが笛を口にして
”ぴっぴぴー”
手を挙げながら小走りしてバスを誘導した。
乗客のほぼ全員から、
「汽車がきょうるがーーーっ!!!!」
結局、車掌さんだけが踏切を渡り、
汽車が通り過ぎていからバスは踏切を渡った。
うつむいて、再びバスに乗る、車掌さんの姿が忘れられない。



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小三の春⑪火の玉

2019年01月26日 | 城見小・他校
ヒトダマ
近所のゆりちゃんは二歳年上の女の子だった。
ゆりちゃんの家は、横の道から墓場がよく見える場所だった。
「昨日の夕方、墓の上をヒトダマが飛んどった」と見た事を話す。
その話を聞くたびに、自分もヒトダマが飛んでいるのを見てみたい、と思った。

ヒトダマを見たのは、ゆりちゃんだけでなかった。
普通に生活をしていれば、1~2度くらいは出くわすのがヒトダマだと思っていた。
夏の幽霊映画にも、必ずヒトダマは飛んでいた。


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「旭町誌」 平成9年 旭町発行より転記する。

火の玉
火の玉は、鬼火とかヒトダマ(人魂)とも呼ばれている。
燐化水素だ、夜光虫だ等々諸説があるが、実際に見た人は少ないようで、話が一人歩きしている感が強い。
古来死んだ人のからだから離れた魂のこととされ、火の玉が飛んだので誰かが死んだとか、死ぬる前に火の玉が飛んだのを見たとか、新墓ができて火の玉が飛んだとかいろいろな話が伝わる。


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管理人記・
人が死んで土葬が無くなる頃、幽霊もヒトダマの話もなくなった。その類のことはオバケに変わった。
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小三の春⑩新国道(2号線)の工事が始まった

2019年01月26日 | 城見小・他校
よその町へ行くことはほとんどないので知らないが、「大門~笠岡」間の道はいちばん悪い、という話はよく聞いていた。
たしかに道は狭く、路面はでこぼこだった。
しかし、いちおうバスが通れる幅はあった。
・・・・・・・
国道二号線の工事が始まった。
城見地区では、大冝と用之江のうち、茂平入口から県境までが既存のバス道とかぶったが、それ以外は田んぼや山を掘ったり,盛ったり、崩したりした新しい道づくりだった。

小学校には、その新国道工事を横断しないと行けなかった。
工事には「ショベルカー」と呼ばれる見た事もない大きな移動式の機械が一台か二台使われていた。
学校への行き返り、立ちどまり、ショベルカーの動きを見るのが日課だった。

土木作業員の宿舎が林の中で、半分崩れかけていた、旧隔離病棟が使われた。
そこには家族持ちも入居し、幼い子供たちが遊んでいた。
幼児たちは買ってもらったオモチャの刀を腰に下げていた。
その頃の茂平の子供は、棒切れを刀にして遊んでいた。

宿舎の子供の刀を見ながら、うらやましいような、またうらやましくないような気になりながら家に帰っていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山陽新幹線や山陽道の工事では、用地買収で成金と呼ばれるほどの地主が何人もでたが
古い事とは言え、新国道の工事では、その類の話を聞いたことが無い。
まだ日本は貧しかったから、安い売買だったのだろうな。
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小三の春⑨瘡守神社のインチキ露店

2019年01月25日 | 城見小・他校
大津野村の野々浜に瘡守(かさもり)さんと呼ばれる神社があった。
今もある、場所は山陽本線の大門駅から東へ500m程の線路の北側の丘にある。

その瘡守さんのお祭りは、夜に露店が参道を埋める程に左右に並んでいる。
30円ほどのこずかいを親から貰って、そのお金をしっかりと持って、暗い夜道の峠越えをした。
峠を越すと広島県側になるが、野々浜漁港に近い。そこから北へ田んぼの道や、民家が点在する田舎道を北へ向かう。
山陽線が近くなるとほっとする。
線路の踏切を越えると、お祭りと露天の灯りが煌々と目に飛び込む。

参道には、どの店も子供の興味をそそる商品を並べて待っている。
その中に豪華景品をならべたクジの店があった。
その商品がどうしても欲しくなり、10円出してクジを買った。
クジは5枚あり、その内の1枚が当たりクジ。
最初、5枚のを買ったので確率は20%だったが、ハズレだった。
次に3枚に時に買った、確率は33%だったが、ハズレだった。
最後の10円は、2枚の時に買った。確率は50%だったが、ハズレた。
3回かったクジの当選率は100%を超すが、それでもハズレ。

その後も、他人がするのを(買うのを)見ていたが、5.4.3.2枚、すべてハズレだった。
子供を馬鹿にした露天商だと思った。

帰りの夜道は遠いけど、気持ちの重さも加わり、遠い遠い帰り道だった。


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小三の春⑧父は密造で捕まった

2019年01月25日 | 城見小・他校
葡萄畑ではキャンベルとマスカットを作っていた。
収穫したブドウは、房に付いた白い表面の粉に指が少しでも触れないように、成長の悪い粒を落として、それを等級に分けてから出荷していた。

葡萄の粒は、牛の餌にもせず、大きなバケツに貯めた後、井戸水で汚れを落とし、父は両手の手のひらでもみ返していた。
それが葡萄酒の密造の最初の工程だった。

父の葡萄酒造りは、物心がついた頃にはしていたので、たぶん戦前から、そして父の代の前からも造っていたのだろう。
田舎の自給自足の食べ物・飲み物の一つであると思っていた。

ところが、茂平で葡萄を作っている農家全ての家に税務署がやってきた。
その結果、父も密造の罪で捕まった。

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「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 青弓社 2015年発行 より転記

つくりませう!葡萄酒
家の光(昭和7年9月号)にこのような記事が掲載されておりました。

「自家製法」、
収穫期は成熟したものを晴天続きの午後収穫すれば,糖分は多い。・・・
今日の日本の常識でとらえると「密造を勧めているのではないか」でありましょうが、1932年では、合法であったと考えられれる。
葡萄酒が酒税法の仲間入りを果たすのは1940年(昭和15年)のことです。

敗戦からちょうど1年たった「主婦と生活」の8月号には、甘味料として葡萄酒の作り方が掲載されていました。その通り作ればアルコール度数は1パーセントを超える、酒造法でいう「密造」であります。


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「生きてゐる兵隊」

2019年01月25日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
第一回目の芥川賞作家・石川達三は、昭和13年(1938年)1月中央公論派遣で上海に行き、戦場を見聞きし「生きてゐる兵隊」を書いた。
中央公論の昭和13年3月月号に発表された。この雑誌は発売即日に販売禁止になった。
石川達三は裁判で禁固4ヶ月の判決を受けた。
戦後すぐ、昭和20年12月に単行本「生きてゐる兵隊」が河出書房から出版された。

「蒼氓・日陰の村」昭和47年新潮社発行 より転記

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「生きてゐる兵隊」

さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもついに城門をぬくまでには至らなかった。
西沢連隊はこの日連隊旗手を失った。
弾丸はただ一発で彼の左胸部をつらぬき、担架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
「連隊長殿に、残念ですと、伝えてくれ」そういったのが最後であった。

戦闘は夜を徹して行われ、翌26日の朝になってようやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。
永い戦いに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。

友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢連隊は無錫にとどまって三日間の休養をとった。
生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこうゆう場合であった。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし回った。
彼等は一人々々が帝王の暴君のように誇らかな我儘な気持ちになっていた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家まで出かけて行った。
道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。
そうして、兵は左の小指に銀の指輪をはめて帰って来るのであった。
「どこから貰って来たんだい?」
と戦友に尋ねられると、彼等は笑って答えるのであった。
「死んだ女房の形見だよ」


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小三の春⑦芝居を見に行く

2019年01月25日 | 城見小・他校
「伊豆の踊子」一行のような旅芸人が茂平にも来ていた。

映画はポスターで住民に知らせていたが、芝居はチンドン屋のように鉦や太鼓を鳴らしながら茂平を一周していた。
年に一回か二回、どこから来るのは不明で団長以下男女で4~5名程度だったような気がする。
寝泊りは集会場を利用していた。

興行は茂平集会場に付設の茂平ごらく場で、チャンバラ芝居をしていた。
カツラや刀やお化粧の人を見るのは、この時しかなかった。
芝居よりも顔や衣装の方が子供には面白かった。

興行は2~3日続いた。その後は、どこの村にゆくのか、噂にも聞いたことが無い。
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