しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

初代宮内庁長官の「拝謁記」①

2019年08月30日 | 昭和26年~30年
8月20日のすべての新聞は、一斉に初代宮内庁長官の「拝謁記」で埋まった。
故・田島道治長官のノートや手帳が,遺族からの提供を受けたNHKから公開された。
専門家の意見は、目新しいものはなく、従来の追認や確認的な資料のようだ。

山陽新聞 2019年8月20日の記事より転記する。

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昭和天皇戦争反省語れず
日本の独立を祝う1952年5月の式典で、昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたにもかかわらず、当時の吉田茂首相の反対で「お言葉」から削除された。
「私はどうしても反省という字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)
吉田首相は「戦争をお始めになった責任があるといはれる危険がある」と反対。
お言葉から削除された。

軍部の暴走
「終戦で戦争を止めるくらいなら宣戦前か或いはもっとはやく止める事ができなかったかといふような疑問を持つと思う」
「事の実際としては下剋上でとてもできるものではなかった」(51年12月17日)
と後悔を記している。
南京事件にも触れ、
「ひどい事が行われている」と聞いたが「此のことを注意もしなかった」と悔やんだ。

退位の可能性
「国民が退位を希望するなら少しも躊躇せぬということも書いてもらいたい」52年12月。
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黒塗りの家

2019年08月29日 | 昭和16年~19年
太平洋戦争の末期、
米軍からの空襲を避けるため、白壁の家は黒く塗るように政府・軍から始動された。

全国にある白壁造りの家は、急遽、壁を黒く塗って空襲から逃れようとした。


そうゆう家は、戦後によく見られたが、さすがに今では減ってみることもなかったが、
今日、それらしき家を見つけたので、地域の方に確認したら、その「黒塗りの家」であった。


(2019.8.29 岡山県浅口市内)
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毛野無羅山の植林と砂防ダム

2019年08月28日 | 大正
いったい山陽地方の山々は、どれだけはげ山だったのだろう?

「里庄町誌」 昭和46年発行より転記
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小川郷太郎教授の砂防論
新庄出身の京大小川教授は、明治39年ドイツへ留学、その後オーストリア・イタリア・フランス・ベルギーと各国を歴巡した。
ある日母校新庄小学校で講演した。
「私は子供の時から郷里の山や川を見て育った。
だから山ははげたもの、川は天井川ときめていた。
この度の留学で欧州各国の山や川を見ると山は黒々としており、川は底を流れているのであります。
はげ山の下の村では何年経っても、発展の見込みが無いという事をつくづくと感じました。
諸君!
この村の近き将来ないし永遠の将来を思って、あのはげ山を真っ黒な山にしてみようではありませんか。
わが庭に植える一本の松の木があったら、その木を山へ持って行って植えてください」と。
小川教授の話は村民に大なる感動を与えた。
大正初年、毛のむら山の砂防工事の設計がたち、県と農林省の荒廃地復旧事業となった。
山へは松とサンカイ(ハゲシバリ)をいっしょに植え、過リン酸を一株五寿ずつやったところよくきいた。
谷口には石堰堤を造ったので土砂流出の憂いがなくなった。
県知事も毛のむら山に登山した。
岡山県の砂防は全国的に有名で、視察に来ると里庄村を指ざされたので、全国や朝鮮からも視察に来た。
昭和3年、農林大臣から褒章を授与された。
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横島(福山市内海町)のタンク・鞆の高射砲

2019年08月12日 | 市町村史
岡山の記憶 第9号・2007年より転記する。

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「鞆後山高射砲陣地」探査記
昭和17年ドーリットル機の空襲で、呉鎮守府は初の空襲警報を発令した。
当時、高射砲陣地とする鞆・後山からすく近郊の横島(福山市内海町)に岩国陸軍燃料廠貯油槽を設置していた。
タンクは航空燃施設では国内最大規模で11基(円型・直径30m、高さ10m)を誇った。
のち計画される高射砲陣地はこの要地防空が主任務だったのは明白である。
8月8日夜、四国、荘内半島で福山へ針路をとったB29、91機は洋上4.000mの高度を保持し、福山に焼夷弾を投下した。
福山空襲時に対空発砲が行われた事実はつかめなかった。
一方、B29飛行58連隊の航空日誌には、対空砲火のあった記録が残っているが、反撃された砲台位置の記録はなられなかった。

武装解除
高射砲陣地の高射砲・付属機器はGHQの命令で解体されたり爆破された。
室浜廠舎は外地引揚者が入居した。
解体放置された鉄材は、朝鮮戦争の金ヘンブームで小片まで持ち去られ姿を消した。
それから高射砲陣地跡は放置され、まったく忘れられてしまった。
高射砲台座へは阿伏兎自然遊歩道東口から山林にはいればよい。砲座跡は保護のため粘土と土で覆っている。
証言 能登原
この村落に住む人は高射砲陣地や海後山(監視所)は日常的に望見することができた。
発射訓練は昭和11年11月ごろから。
風船(気球)を揚げ、それに向けて発射する砲煙を見た。
国民学校児童は慰問にいった。
昭和20年になると暁部隊が学校に泊まり松根油作業をしていた。

岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油所
昭和15年燃料廠が発足。
同時に陸軍により航空燃料貯油建設を開始する。
今もタンク防護壁と桟橋が残り、付近山間部には機銃座も最近確認された。
朝鮮戦争時には米軍が接収した。
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戦時中の教育(矢掛中学ほか)

2019年08月09日 | 昭和16年~19年
旧制矢中はある年、予科練に全生徒が受験願書を提出したことが知られている。


「矢掛町史・本編」より転記

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戦時中の教育(矢掛中学ほか)

中学生以上では、海軍兵学校、陸軍幼年学校、士官学校などに優等生の志望が増え、海軍甲種飛行予科練習生などの志望には半強制的な指導が学年全員になされた時や所も出た。
兵士になる年齢に達しない、あるいは志望しない生徒は、勤労動員で武器生産工場で働いた。
矢掛中学校の場合、敗戦の前年には五年生は航空機製作所(現三菱自工)、四年生は造船所(相生市・石播)三年生は航空機製作所で栄養失調と病気と闘いながら勤労奉仕をした。
一・二年生は開墾・田植・稲刈・麦播、麦刈などで食糧増産に励んだ。

学年の進級には配属将校の発言力が増し、上級学校進学用の内申書には、学業に代わって勤労成績が大きなウェートを占めるようになった。
敗戦の年には一年繰上卒業、四年生五年生は同時卒業の実施という非常事態となり、雨天体操場(体育館)は学校工場となり、地下壕を掘り、すべて本土決戦に備えた。
学校教育は全く破壊され、児童・生徒・学生はことごとく無謀な戦争遂行のための手段とされてしまったのである。
その人的物的被害は、権力を持つ者よりも持たない弱い人者、中央よりも地方、都市よりも農山漁村、富豪よりも小市民、要領のよいずる賢い者よりも生真面目で純粋な者の身の上に、戦争の経過に正比例して、大きくのしかかっていったのは、痛恨の史実である。
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