しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三月三日 雛祭り 

2023年03月03日 | 城見小・他校

子どもの頃、
女の子の家で「ひな祭り」を祝うことはあったかもしれないが、
雛人形がある家は、城見にはどの家にもなかった。

管理人の家では行事も何もなかった。念のため、姉に確認した。
「家では何もしていない。よその家の雛飾りも一度も見たことはない」

しかし、楽しかった思い出はある。
城見保育所では、先生(保母さん)が千代紙でお雛様を折って壁に飾っていた。
そして小学校と合同の学芸会で”今日は楽しいひな祭り・・”を歌っていた。

それだけで、じゅうぶん楽しい「ひな祭り」だった。

・・・

 

・・・

雛祭り

「岡山県史」

春の節供は雛祭り・女の節供・桃の節供などと呼び、

旧暦三月三日の行事である。

古くは上巳の節供といって、三月の初めの己の日に、厄難を人形に負わせて、

川や海に流し送る水辺の行事であった。

後にはもとの意味が忘れられて、人形を飾って、それを再びしまっておく習わしに変わった。

しかし、古くなった人形は今も川に流したり、堂や宮などの一定の神聖な場所に送る習わしが残っている。

 

笠岡市北木島町の大浦や高島の高須では古い形の流し雛の行事がある。

三月一日に餅を搗いて雛餅をつくる。

二日の夕方までに紙雛を作り雛段に祀る。

三日の日の満潮の時に、朝、浜辺で拾ってきた貝を殻のまま炊いたものと三つと、

火のついた線香と、桃の枝などをそえて紙雛を舟に乗せて

「加太の浜に無事にお帰り下さい」と唱えて海に流す。

遅くても昼前までには流す。

高島では四日に流す。

 

・・・

 


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

ひな祭り

三月二日を宵節供といい、
三月三日はひな祭りである。
桃の節供・女の節供あるいは三月の節供ともいって、
女の子たちが優しく健やかに育つことを願う行事である。
床の間にひな壇を飾り、ヨモギ餅を菱形に切ったものや、
アラレや白酒を供える。
ひな祭りの御馳走としては赤飯・ちらし寿司・アサリ貝のすまし汁・ワケギのぬたなどであった。
古くから、資力のある家では雛段を飾った。
ひな祭りが終わったら、すぐに箱に納める。
そのままにしておくと、嫁入りが遅れるといわれた。

・・・

 

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


上巳の節句

女の子がひな様を祭りぼんぼりなどを供えることから、ひな祭りという。
朝早く起き、桃と柳の枝をくくり合わせて表座敷通りの屋根にさす例がある。
これは桃はきれいに美しく
柳はやさしくとの願望からきたもといわれている。
よもぎもちを作り、
これを菱形に切り神仏及びひな様に供える。

・・・

「神島史誌」  神島協議会 昭和60年発行

三月三日の桃の節句はひな祭り。
ひな壇に、ヨモギを入れた菱餅に、香りのいいユブの葉を入れてひいたキナコをつけ、
買って来た丸い綿菓子のついた柳をそえる。
女児を祝う節句で、昔は女性が仕事を休んだ。
氏神さまと荒神さまへまいった。

 

・・・・

 

 

撮影日・2019.3.31 (笠岡市北木島町  笠岡市指定文化財「流し雛」)

 

 

 

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建国記念の日

2023年02月11日 | 城見小・他校

「建国記念の日」は制定(昭和41年)当時も、現在も賛否があるが、
あまり大きな問題になっていないのは「紀元節」時代から現在まで、
生活とのつながりがないからだろうか?

 

父母の時代・・・「紀元節」、重要な学校行事。
管理人の時代・・・「紀元節」も「建国記念の日」もなかった。(平日だった)
子の時代・・・「建国記念の日」、休日。

 

 

・・・・

義母の話


談・2022.2.6
(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。
分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)
紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。
3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。
その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。

 

・・・・

 

「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。


まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

 

・・・・

 

・・・・・


「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

式のために登校した四大節

元旦・紀元節・天長節・明治節が四大節。
国民全員が仕事を休んで祝意を表す日だった。
各学校は登校して祝賀の式をあげ、これを祝った。
授業はなく午前中に帰宅したが、家は祝日とは関係なく、いつもの農作業が待っていた。

式は10時ごろから始まるので、こういう日はたっぷり遊んでから集団登校した。
四大節には共通した式次第があった。
「君が代」の国歌はなぜか必ず二回つづけて斉唱。
御真影の奉拝、
勅語の奉読、
の三つとも厳かに行なわれた。

式場には正面には臨時の仮御殿が設けられ、
奉安殿から移した御真影が安置してあった。
両陛下の写真は、拝礼の間は扉が開いていたので、薄絹のベールを通して拝むことができた。
勅語の奉読が終わり、みんなやれやれの気持ちでほっと息つく間もなく、
校長の長い長い話が始まる。

紀元節

一年でも最も寒さの厳しい頃であった。
校長から神武天皇の話を聞いた。
こういう話は種が一つだから、毎年同じ話の繰り返しになり、
そのうえ話下手ときたからちっとも面白くはなかった、
天皇の日本建国については、大いなる誇りをもつようになった。
天皇の東征についても、本当にあった話として受けとめた。

・・・・・

 

 

 

・・・・

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

子供の愛国心   有吉佐和子

紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。
前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。
日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。

二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。
紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。
「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。
日本人は世界第一級の国民なのだ。
日本は一等国なのだ。
皆さんは、それに恥じることのない立派な日本人になる義務を持っている」
光輝ある二千六百年の歴史を講義したあとで、校長先生はすっかり興奮していた。
先生はツバを飛ばしながら,一等国民である私たちを激励したのであった。

 

・・・・

 

・・・・

撮影日・2020年11月30日  (笠岡市高島)

 

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茂平の七夕

2022年08月04日 | 城見小・他校

子どもの夏休みの日、家の横の道を、垣根越しに子どもの声と七夕が歩いていた。
大きな声と、半分見える七夕飾りで「ああ、そうか今日は七夕か」と気づくのが毎年のことだった。

西ノ谷の子どもが何組かで七夕飾りの行列、・・・といっても横に倒して路上をひこずりながら海に向かっていた。
胴山の子どもは、それで七夕当日と知り、庭の七夕飾りの紐を解いてから、海に向かう、
それが茂平の子どもの「七夕の朝」だった。

 

 

親たちは畑(のえ)に行って家は留守った。
夏休み期間は、茂平の親たちにとって、一年のかきいれ時で子供が起きた時にはもう、家にいなかった。
子どもは、七夕飾りを横倒しの状態で、茂平の水門まで持っていった。
水門前の海(「ひどう」と呼んでいた)に七夕飾りを流した。
先着や降着の七夕があり、子供心に”七夕”という行事を感じていた。


七夕飾りは、藪に行って竹を1本伐って家に持ち帰るところから始まった。
次に番屋に行ってナスビやスイカの飾りと、こよりなどにする紙を買ってくる。
紙に願い事を書き、こよりは女の子が作ってくれた。
家の庭(かど)の端にある杭の木に竹を結び、飾りをつけた。

毎晩、夕方になると涼み台と呼ぶ長方形の木製の台に座ったり、寝ころんで、
天の川や織姫や彦星を見ていた。
暗くなる前は蝙蝠が数匹飛んでいたが、夜になるといなくなっていた。
その頃には一日の仕事を終えた父も星を眺める日々があった。
(母は一度もない。女性は半分奴隷の時代だった)

後から想い出すに、子どもがいない家、子どもが男だけの家ではその家で七夕飾りを見たことがないような気がする。
女の子が主体の行事だったのだろうか?


・・・・


今日は「七夕の日」。
恥ずかしながら、管理人の子ども時代の「七夕」。↓

 

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城見小学校の修学旅行、宮島へ行く

2022年07月29日 | 城見小・他校

”旅行”といえば、学校行事の「遠足」か「旅行」しかなかった。
家族旅行という言葉も、それに相当する旅行も、城見小の児童には関係ない、当時の日本の普通の農村の学校だった。

それだけに学校行事の旅行、とりわけ修学旅行となると、もう1年ほど前から楽しみだった。

行った場所、泊まった旅館、汽車の中、いろんな記憶がはっきりと残っている。

・・・

城見小学校は隔年で、広島・宮島と四国の屋島・琴平が修学旅行の行先だった。
私たちの年は広島だった。
四国よりは広島の方が良いと思っていた。

朝の暗いうちに家を出て、暗いうちに学校に着いて、点呼の後、歩いて大門駅へ向かった。
県境の講口池のあたりで、夜が明けて来た。
その頃の講口池ふきんは、国道2号線とは言え松林の暗い道だった。

大門駅で引率の先生と生徒(62~63人)は、汽車に乗った。
修学旅行はスタートした。
もちろん、各駅停車で鈍行の、蒸気機関車だった。
昼前に広島駅に着き、バスか徒歩で比治山に登った。
比治山で持ってきた弁当を食べた。

工場見学で東洋工業に行った。
まだ四輪車(キャロルI)は造ってなく、バタンコを造っていた。
工場見学が終わって、全員にボールぺン’(だったと思うが鉛筆だったかも)が配られ、うれしかった。
そのボールペンには”東洋工業”と刻まれていたことにも驚いた。
普通の商品に企業名があるのを見たのは、これが初めてだった。

次に原爆資料館に行った。
原爆資料館にも入った。
焼けた肌や衣類の被爆者は衝撃だった。

その日の宿泊は宮島だった。
季節は”秋”の10月末頃、
”安芸”の宮島に着いた。
ガイドさんの話で、「あきの宮島」とは「秋の宮島」でなく「安芸の宮島」であることを、初めて知った。
宮島の大鳥居の下で記念写真を撮った。
ちょうど干潮の時だった。

その夜、
大広間に寝ているところを、先生は何度も見回りにきた。
寝小便をしないように、「便所にいけ」と言っていた。


二日目は岩国に行った。

岩国の錦帯橋に行って、渡った。
錦帯橋付近の河原で遊んだ。
「あの山が岩国城」と説明されたが、まだ天守再建されず、単なる山にしか見えなかった。
橋の袂の土産物屋から、
マイトガイ小林旭の「アキラのズンドコ節」が流れていた。
当時、渡り鳥は歌も映画も大ヒットしていた。

 

 

バスは岩国基地にはいった。
広い芝生が広がり、ぽつんぽつんと米軍兵の一戸建て平屋の住宅が並んでいた。
洗濯ものを干す兵士の夫人や、子供を見て
しかも二つの人種、白人家族と黒人家族がいた。
映画館でしか見ない外国人を、初めて直にみた。
バスの車内では、そのことに感動する声が聴こえた

帰りは、先生がトンネルが多い理由で呉線経由で大門駅まで帰った。
修学旅行は楽しかった。
楽しかった、その一番は呉線のトンネルだった。
呉線はトンネルと瀬戸内海の景観が魅力だが、
小学生であるから、または海は毎日みているからか
海の景色はまったく気にならなかった。

大門駅まで戻り、歩いて城見小学校に戻った。
そこで解散し、
茂平の人は茂平に向かった。
帰りの道は、暗くなり、家に着くころは真っ暗闇になっていた。

家に帰ってから、
岩国では「白い蛇」を見ていないことに気が付いた。
それが残念だったが、いまだに雪辱できていない。




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城見小学校6年生との”昔話”

2022年07月06日 | 城見小・他校

2022年7月5日、母校・城見小学校6年生に昔話を語る機会があった。
私はFさんと2人で6人グループの前で話した。
そのFさんの話を、記憶があるうちに書いて残す。
(注意・聞き間違いがあるかもしれない)

 

・・・

 

Fさんの話

 

私が城見小学校に入る時、
城見小学校は「城見国民学校」に変わりました。
私が卒業する時に、「城見国民学校」は無くなりました。
第一回目の「金浦中学校」(青年学校かも?)の入学生です。

校庭に奉安殿がありました。
その前を通る時は、頭を90度まげてお辞儀をしていました。
ある時、お辞儀の仕方が悪いと午前中ずっと廊下に立たされたことがあります。
奉安殿の北隣に宿直室がありました。
奉安殿を守るために先生が寝泊りしていました。

 

(城見小・奉安殿)

 

式の時は、校長先生はモーニング姿で、白い手袋で、奉安殿からの教育勅語を受け取っていました。
校長先生はその時は、極度に緊張し、手が震えていました。

遠足先は、吉浜の天神、大見山などです。

 

戦争の行方が悪くなるころ、疎開してくる生徒で教室はいっぱいでした。
50何人の同級生が70人を超えるようになりました。
教室の机を横列だけでなく、縦にも囲むように置きました。
前に行く(教壇・黒板)のがぎゅうぎゅうでした。

学校の農園(大見山の麓)に芋を植えていました。
その頃、肥料はなにもありません。
上級生は学校の便所から肥たごを担いで、そこまで運んでいました。

空襲警報は日に二回出る時もありました。
どの家や地域にも穴を(防空壕を)掘っていました。
家の壁は黒く塗っていました。
大津野飛行場から近いので、城見もグラマン戦闘機の攻撃を受けることがありました。
その時は、家の壁などにへばりついていました。

学校の講堂(真田講堂)に兵隊さんが来て、場所を半分使っていた時がります。

 

(城見小・綱引)

 

終戦後、私の家に、買い出しに来た少年がいました。
着るもの、または糸と、食べものを交換するのです。
こちらが渡すものは芋でした。
その時の少年は、同じ年の子でした。
無事、家まで帰ったのでしょうか、今でも気になります。
たぶん、大人に取られた(横取り)のではないかと思います。
みんな、その日の食べものに飢えていたのですから。


・・・・


以上は記憶を文章にしたもの。
再度、Fさんにお聞き・確認して、城見地域の歴史記録にしたいと思っている。

 

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茂平のイナとり

2022年07月02日 | 城見小・他校

城見小学校の6年生に、昔ばなしを依頼されたので、

話す内容を整理した。

・・・・・


イナとり

茂平イナとりは9月第一日曜日と決まっていました。
茂平の子供にとって、それはそれは楽しみな行事でした。
用之江や大冝の子供も見に来ていました。

何日も前からポンプ場から24時間排水のエンジン音が聞こえていました。
ぽんぽんぽんぽん♪
その音を聴きながら、わくわくしながら当日がくるのを持っていました。

その日、
主催者である茂平消防団は総出で、内海周辺に配置、入場料を徴収。
茂平婦人会はお店を出していました。

イナとりの人は、全員男性で、道具はウダで、まれに投網の人がいました。
ウダは竹で編んだ円形の籠で、それを自転車に積んでやってくる。
なぜか東西からでなく、北の方から来る人が多かった。
府中、新市、井原方面からで、
用之江の道と、野々浜の道はウダを積んだ自転車で連なっていた。

よーいどん、の合図で参加者が同時に内海に入る様は壮観だった。
ウダを上下しながら前進し、魚がいれば手をつこんで、魚籠(びく)に入れていた。
一人の漁獲量は30~50cmのイナとボラを5~10匹程度だった。
終わると、外海に入り、身体や道具の汚れを落とし、
なじみの民家の井戸水で潮を落としてから帰っていた。
帰るころは来週の「野々浜のイナとり」を話題にしながら去っていた。

なお内海の魚は、当日以外は「浜の良やん」の独占した漁場で、
良やんは、その日、腕を組んで満足そうに見つめていた。

 

(画像は笠岡市教育委員会から借用)

 

イナとりは戦前からある伝統行事でしたが、
高度経成長の頃、趣味の多様化などで自然消滅的に廃止されました。
たぶん、竿で釣る方が時代にあっていた?
廃止して数年後、茂平から海はなくなりました。

写真のこと
この写真は、ほぼ終盤と思う。序盤は、この数倍の人が内海にいる。
背景の山畑は、桃とビワが多かった。
山に桃の花が咲く頃、茂平が一年で一番美しい時だった。

・・・・

 

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中学生の頃

2021年01月18日 | 城見小・他校
同じクラスのA君は

A君の家は生江浜で漫画本などの貸し本屋をしていた。
兄・姉たちが中学校を卒業後働いていた。
その兄姉が、末っ子であるA君だけは高校に進学を…
と。

中学3年の6月頃その話をA君から聞かされ(相談され)た。
担任の先生に就職でなく進学に変えるよう報告するのがまず…・ということを話したが
担任は「今更そういう事はできない」という返事であった。
我ながらどうしてできないのか、どういう問題があるのか理解できなかったがA君が落ち込んでいない様子であったのでそれが救いであった。

それから10数年・・いや20数年かな?A君から電話があった。あの時のことは話さなかった。



・・・・・


堀口先生は

 

金浦中学校の名物先生でその名を小学生まで知られていた。

熱心で熱血で父兄からも、子供からも一目置かれる先生であった。
姉は堀口先生の担任が2・3年、兄も2年の時「堀さん」の担任であった。
私は担任の経験は残念ながら無かった。堀さんのクラスはしっかりしていた。

ところで堀さんは今に言う日教組の教育そのものの面があった。
日教組教育は自分は嫌いであったが、堀さんの熱心な教育は皆が認めるところであった。 

それは昭和30年代の話であり、堀さんは30代の若さで病気のため亡くなられた。



・・・・


「てなもんや三度笠」


テレビがもしあれば、相撲の若乃花を見たかったが若は既に引退し、柏・鵬時代になっていた。

やっと、中学2年の5月頃我家にTVがついた。

その頃、鶏を200羽ほど飼っていが日曜日は僕がえさをやっていた。山陽TVの11:30から30分間面白い番組があった。それが「あたり前田のクラッカー・・・」ではじまる「てなもんや三度笠」だった。



(テレビのチャンネル数は三つ。放送時間も短い)


・・・・



その日の朝(ケネディ暗殺)


昭和38年11月23日(日本では休日・アメリカでは1963年11月22日)金浦中学の仲間たちと鴨方の遥逍山にいく朝、ラジオニュースが「アメリカのケネディ大統領は遊説中の・・・・・狙撃され・・・・死亡しました。」

な、な、な、なっ!

そのまま遥逍山にいった。
遥逍山では仲間たちと遊んでいるが放送塔からは30分おきくらいに「ケネディ暗殺」のニュースが流れていた。
その時僕は金浦中3年生であった。放送塔からはその時ヒットしていた「高校3年生」や「美しい十代」が流れていた。
快晴の休日だった。

家に帰ってTVを見るとケネディ一色であった。
それにしても個人的にも、過去のニュースのトップを聞かれれば自分の人生中では「ケネディ暗殺」と思う。


2000年02月03日


・・・・・


地図帳たてれば顔は見えず


今思えば確かに人数は多かった。

60人弱の生徒が一つの教室にいた。校舎は木造、窓枠も木のガラス戸だった。それは市内のどこの小中高とも同じ。
城見小学校の同級生は60人ちょっとで、6年間30人二クラスの生活だった。

金浦中学校は一挙倍増の60人弱のクラス。
「これが中学校だ」と思ってもいたので当時何も感じなかったが、今想えば確かに多かった。

地図帳、音楽の本などを机に立てれば教壇の教師からは、遠くて見えなかった。

それは高校も同じだった。K高校は一クラス55人の7クラスあった。



2002年3月12日




 


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銃後の女学生生活(笠岡高等女学校)

2021年01月15日 | 城見小・他校

(昭和14年新入生)「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校 昭和47年発行



銃後の女学生生活

教育部(昭和15年)

4月24日 各学級より5個宛て、慰問袋を調整して岡山聯隊区へ託送す。

4月25日 各学区に別れて戦没勇士の墓参清掃をなす。

5月26日 応召遣家族へ第一次の奉仕作業を行なふ。主として麦刈りをなす。

6月4日 第二次奉仕作業を行をなす。
(7月1日)1.4.5年生遺家族の田植え奉仕をなす。
(7月3日)2.3年生同じく。

7月7日 支那事変記念日に付き前線将兵の労苦を偲びて慰問文730通を認め、郷土部隊へ送る。

7月17日~25日 8日間、大塚工場より委託されたる軍需服作業をなす。

9月12日 3.4.5年生によりて軍需品作業をなす。銃後奉仕強化運動期間実施要項。

10月7日 正午を期し戦没軍人の英霊追悼、傷病軍人の平癒及出征軍人の武運長久祈願。

10月11日 慰問品150包を岡山療養所へ送る。

12月9日 従軍看護婦宛慰問袋77個を送る。

12月24日 郷土部隊勇士宛の慰問文654通を認め姫路第48部隊本部へ発送す。


(千鳥29号)



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戦後の教育(岡山県教育史)

2021年01月09日 | 城見小・他校
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行


(笠岡市立大井小小学校百年誌)

戦後の教育




終戦処理

8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止
8月25日岡山県の通達
一 御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること
二 ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか

戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。

国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。




占領軍の指令

連合国軍最高司令部(GHQ)は12月15日、
国家神道、神社神道に関する指令により
ご真影、奉安殿、英霊室、校内における神社、神棚等はみな除去されることになった。
県は二度にわたり撤去を指示しさらに指示したが、一部の学校では完全に実行されず、軍政部の注意により22年1月至急措置の通牒を出している。

ご真影は21年1月初旬、各地方事務所に奉還、地方事務所から県庁に奉還し、県では吉備津神社の浄火により焼却した。

教育勅語は23年7月までに回収された。



学校教育法

義務教育年限の延長。中等教育を全国民に開放
学校体系の単純化。複雑な体系を改める
男女共学。男女差別の撤廃



岡山県軍政部の指導と干渉

昭和20年10月、呉の米軍第六軍の岡山進駐とともに岡山軍政部が置かれ、呉の中国軍政部の管轄下となった。
焼け残った岡山郵便局の二三階を使用して、産業、経済、厚生、公安、衛生、教育、情報の各課を置き、約4年間県政全般にわたって監督した。
教育課長は係官と通訳を伴い抜き打ち的に学校を巡察してはきびしい摘発を行った。

校舎内外を厳重に点検し、寄宿舎・倉庫なども調べ、武器、武道具、削除教材、体育の号令のかけ方や勅語、ご真影の処理、教員の前歴など細かく視察した。


21年12月15日、笠岡男子国民学校を視察した際の質問
一校長に
授業で質疑や討論をさせているか 時事問題を教科で教えているか 教育勅語を取り扱っているか 英語を学習しているか 映写機はあるか 旧教科書は使っているか
武道具はどうしたか 軍隊の学校を出た先生はいるか 民主主義の講習を受けたか 新教科書で未着なものは何か 武道はやめているか 廃止の教科書はどうした
削除教材は削除したか 入学児童が入学を拒絶することはあるか 父兄会はどのくらい開催しているか
二教員(5人)に
民主主義教育研究の回数 不解の語句はないか 文部省の指示はわかるか・難語句はないか 学校長はどんなか
三児童(5人)に
先生はよくしかるか 宿題はあるか 選挙の話を先生から聞くか・それは面白いか 闇買い出しの手伝いをするか 武道をやっているか そのほか



(完全給食実施をよろこぶこどもたち・昭和27.11.5東小「笠岡小学校史」)

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軍国時代の教育(岡山県教育史)

2021年01月09日 | 城見小・他校
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行


(笠岡商業90年史)

児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲に備えて待避壕がほられた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童の保護が最重点だった。
20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登・下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。

工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。
阪神地区で被災したりして、岡山県内へ縁故疎開をしてくる児童・生徒は日を追って増加した。
生徒が学徒総員で出動してあいた校舎が工場や軍の施設として使用されることになった。
井原高等女学校は呉の海軍病院が、勝間田農林学校には熊本陸軍予備士官学校が再疎開したのをはじめ、全県にわたり20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、まるで学校が校舎を借用しているかのようであった。


昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は

矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)




(笠岡商業90年史)

海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、
戦車、通信、高射砲、鉄道、船舶、航空の中堅幹部を養成した。


18年兵役法の改正により、徴兵年齢が1年引き下げられ19歳となり、
大学、高等学校等の生徒に適用されていた徴兵猶予の特権が文科系にはなくなり、現役兵として入営する生徒もでてきた。
18年12月のいわゆる学徒出陣がこれにあたる。



教練と配属将校

大正14年4月、陸軍現役将校配属令が制定せられ、教練教授要目ができ、
男子の中等学校、高等学校、専門学校、大学等に体操とは別に教練が課せられた。
学校における教練の実施状況を査問するため、査問規定が定められた。

この査問は、教練成績の評定だけなく、学校全体に対する評価と考えられていたので、
各学校では査問成績を競った。
教練の行事として、
野外練習、県下中等学校連合演習、軍隊兵営宿泊訓練、実包射撃、狭窄射撃(きょうさくしゃげき)、軍事講話などが行われた。
配属将校は軍直属で学校の教職員との間に、生徒指導の面で各県ともトラブルが起き、学校運営上難渋したことが多かった。
学校長の理想と、未熟で一徹な配属将校の要請との間にしばしば食い違いが起こった。
しかし、校長が配属将校に命令する権限はなかった。



軍隊的規律

15.16年頃から児童生徒は2列縦隊にならび、上級生のもとに通学するようになった。
教師に対してはいっせいに挙手の礼を行い、職員室に入るときは氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも体育に武道(薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵。
16年の中等学校入学生から、男子の制服はスフ地の国防色、制帽は戦闘帽で、ゲートル着用となった。
教師の長髪も少なくなり、国防色の国民服が制服化した。
国民学校も中等学校と変わらないようになった。



学校報国団

15年9月、文部大臣は校内を報国精神に基づく心身一体の修練施設として団体たらしむことを指示した。
16年3月、文部次官は報国団組織を結成し、団長(校長)のもとに総務、鍛錬、国防訓練、学芸、生活その他の部がおかれ、
各部にはいくつかの班がおかれた。

多くの中等学校では、学年で中隊を組織し、学級は小隊となった。
岡山2中では1.2年生で第一大隊、3.4年生で第二大隊を編成した。
こうして報国の名を冠した団体は、産業界からマスコミに至るまで各界にひろく及んだ。
社長以下工員に至るまで全体を隊編成するありさまであった。

軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。
津島の陸軍兵器補給廠(岡山医大、六高、二中、一商など)、上井福海軍衣料廠(真備女)、倉敷絹織岡山(六高、市内中等学校)、三菱重工業水島航空機製作所(興譲館中、倉敷工)
倉敷絹織倉敷(生石女)三井造船、九州耐火煉瓦、品川白煉瓦、岡山駅などに出勤。



空襲化の御真影

空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には
市内公私立中等学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし、準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

焼失した学校の生徒の多くは、郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、出席したのは1~2割だった。

もっとも災害のひどかった深柢国民学校は、午前6時最後に校庭の一隅に立つ相撲場が引火類焼して僅かに奉安殿
を只一つ残したのみである。
児童の死亡49名、行方不明11名計60名の小さい魂を失った。


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