しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

梅干しを食べる

2024年04月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

梅干しは、もっとも身近な「食べ物」だった。

おやつとして、竹の皮に挟んで吸う。その後で食べる。
弁当として、弁当箱の真ん中にあるもの。
握り飯に入れるもの。
晩飯の食卓の中央に置いて、誰でも箸が届く、家族共通のおかず兼食後のお茶の友。

今、「握り飯」はコンビニの代表食品であるが、
梅干しには種がないようだ。
ごま塩で握ってなく、海苔がついている。
海苔は自分で巻いて食べる、新技法でおもしろい。


 

「江戸の町くらし図鑑」 江戸人文研究会  廣済堂 2018年発行


梅干し

梅干しは昔から身体によいとされてきた食品のひとつです。 
お弁当に梅干しを入れるのは、黄色ブドウ球菌、0-157の増殖を抑制するからです。 
梅干しを食べると元気になるのは、クエン酸の効果で、疲れの原因となる乳酸の発生を抑えるからです。 
疲労物質の乳酸はガンを増殖させる物質でもありますから、ガンの抑制も期待できます。
合わせて、抗酸化作用 があるリグナンもガンや生活習慣病を防ぐ助けになります。 
そして、クエン酸は血液を中和させ、サラサラにもしてくれます。
これは脳梗塞や心筋梗塞の予防になります。
アンギオテンシンⅡは血管収縮性作用のあるホルモンに働きかけ、動脈硬化の発生を抑制してくれます。
そして、糖尿病の予防にも効果があります。
そのほか、食欲増進や虫歯予防、カルシウムの吸収を助け骨の老化を予防してくれるので、 毎日一粒は食べたい食品です。 

 

 

「鴨方町史」 鴨方町  昭和60年発行

梅漬け 

たいていは一本ほど植えておいて、自給した。
梅干しにしたものを、赤シソやベニショウガなどと一緒に一斗甕に漬ける。 
学校弁当・野弁当・山弁当・握り飯などに入れる。
風邪をひいて寝るとか、頭痛や腹痛などのときには、粥に梅干しであった。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行


梅干し
梅干しは常備菜として大事な毎日のおかずであるから、梅の時期には毎年必ずしそと一緒に漬けておき、 古いものから食べるようにする。
とくに、申年の梅がよいとされ、申年にはできるだけたくさん漬けておく。
おなかをこわしたり、からだの調子が悪くて食欲のないときは「米のかゆと梅干し」に限るとされている。
風邪には、梅干しの黒焼きにお茶をかけて飲んだり、梅干しときざみねぎを茶わんに入れ、熱湯をかけて飲むとよく効く。 
二日酔いには梅干しに熱い湯をかけて飲む。
また、梅干しの粕漬は強壮剤になるという。
これは、梅を塩漬けして土用干しをし、砂糖、焼酎、みりんなどをふりかけながら、酒粕と梅を順々に漬ける。
毎日一粒食べれば病知らずともいわれ、効用は広く信じられている。

 

 

 

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豆腐を食べる

2024年04月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。
豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。
お金か、または大豆と交換していた。

すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。
父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。

農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。

 

 


「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


豆腐
煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。
豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。
苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち 苦汁を使った。

豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。
秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や 三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど作った。
正月餅を搗いたあと、温まっている平釜を使って正月用の豆腐を作った。 
人が死ぬと、米搗きとともに、豆腐作りに気をつかい、大豆の水かしから始めた。
旧十二月八日は、八日待ちとかコト八日といい、一年の仕事納めなので、豆腐やコンニャクを食べ、 一年中の砂をおろし、嘘はらいといって、誓文払いをする。
店に買い物に行くと、豆腐汁を食べさせてくれたりした。
また、折れた針を集めて針供養の日に、豆腐やコンニャクに刺し、針に感謝し、和歌山市加太の淡島明神に納める所もある。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐をつくる

豆 腐
秋から春にかけては家でつくり、夏場は腐りやすいので買って食べる。
大豆一升で四丁と交換できる。
家でつくるときは、一回に二升の大豆で豆腐一箱分(一〇丁)ができる。

・・・・・

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐

豆腐をつくるのは、正月、祭り、盆、法事などに限られ朝早くから二人がかりで豆をする。
二升一箱(亘二升で 豆腐一箱=一二丁)がふつうで、石田が一回転するごとに、さかずきに水こみ一杯ずつの大豆を石に流しこむ。 
大豆を入れすぎたときは、石田を二回転ぐらいさせてから 次の豆を入れる。この入れ方で目の細かい呉ができるかどうかが決まる。
豆が多くも少なくもなく、水も多くも少なくもないことがこつである。
豆腐は汁の実、白めえ (白あえ)、けんちゃんにする。
また、焼き豆腐、凍み 豆腐にして長もちさせる。 
おからは、野菜と一緒に炒め煮にする。

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


国民的な食品、豆腐
精進食品だった豆腐

大豆からつくられる豆腐は、中国・朝鮮・日本など東アジアに共通した食文化である。
日本では仏教伝来とともに、僧侶たちの精進料理の一つとして豆腐が伝えられた。
肉食を禁じられた 僧侶たちにとって、「畑の肉」ともいわれ植物蛋白質に富む大豆からつくられる豆腐は、日常的に不可欠な食品であった。
豆腐はごく最近まで"トーフー"というラッパの音とともに、豆腐屋さんが自転車で町内を回って振売りしていた。
今でも田舎に行くと、バイクに乗った豆腐屋さんが走っている風景を見かける。
また豆腐屋にブリキ製の容器やポールを持って買いに行けば、大きな包丁で水の中の豆腐を切って、売ってくれた。
このごろの消費者はスーパーやデパートなどの大型店でパックに入った大量生産された豆腐を買うケースが多くなっている。

凍み豆腐

真言密教の聖地、高野山は白胡麻と吉野葛でつくられた胡麻豆腐をはじめ、精進料理で有名である。
また高野山は凍み豆腐、つまり高野豆腐の発祥地でもある。
中世高野山の院坊で、台所に豆腐を置き忘れたところ凍っていた。
もったいないので、煮て食べたところ大変おいしかった。
これが凍み豆腐の始まりで、高野山の周辺には最盛期100戸ほどの業者があった。


 

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里芋

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。

実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。
美味くも、不味くもない野菜だった。

雨の翌朝は、
葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。

 



「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行

さといも

いねよりも古くから主食にされてきた野菜。
さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。
日本へは中国を経由して伝わりました。
縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。
山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。
はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、 
そのまわりに「子いも」や「孫いも」ができます。
子いもや孫いもを食べる品種、親いもを食べる品種、 両方を食べる品種があります。

 


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。

 


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

里芋
里芋は日焼けにあいやすい作物。
水田で田芋を作っているところもある。
呼称はコイモとかズイキ芋・・・。
寒さに弱く、腐りやすい。一日ぐらい干して、穴を掘ってスクモをいれることが多い。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

サトイモ 

サトイモは、子芋や親芋・ズイキ(芋茎)などを食用にするが、親芋はえぐくて食用にならない種類もある。 
子芋は 煮物にし、煮染めに入れる。
葬式や法事のときに煮て皿につける。 
ズイキはゆでて、皮を取って干す。
保存しておき、味付けしておかずにし、醤油飯とか五目飯に入れる。

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

サトイモ(里芋)
日本では稲作よりも早く、縄文時代から食べられていた。
中央の親芋のまわりに子芋、孫芋がつく。
ずいき
葉柄はずいきとして食用にされる。

 

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蜜柑(みかん)

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、
人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。
芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。
うらやましいな、と思った。
我が家にテレビはなかった。
ミカンもなかった。

日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。
国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。


その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。
笠岡湾の海に面し、

笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が
♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。
それは美しい風景だった。

父母のミカン畑は茂平では多い方だった。
いちばん本数が多かったかもしれない。
だが、
芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。
父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、
実が成り出したころは、出荷して儲けるミカンでなく、
家族で食べたり、隣近所に配ったり、親戚に贈ったりするミカンとなった。


父がよく、
「国が作れい言うて作ったもんで、儲かったもんは、・・・ねえ」
茂平のミカンはその代表作物だったような気がする。

 

 

 

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行

蜜柑


I 江戸時代
紀州蜜柑といえば、紀州から嵐のなかの荒海を運んだ蜜柑で大儲けした、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船の話が有名であるが、
これについては明らかな史料が存在しない。
むしろ元禄期に幕府の特権商人として成功し、材木調達で巨富を得た紀伊国屋文左衛門の出世談として付加されたもの。
これは文左衛門の豪放な性格から生まれた逸話で、紀伊国屋という屋号と紀州蜜柑とが結びつけられて、二世為永春水の『黄金水大尽盃』という小説に仕立てられたために、蜜柑船のイメージが定着したとされている。

もともと江戸初期において蜜柑は、上流武家の贈答品として用いられたものであった。
それが江戸市中に大量に出回り、大衆化して”蜜柑プーム"が起こるのが元禄期頃で、その後に地方都市へも普及していったことが明らかにされている。
とくに蜜柑は、気候などの関係で産地や季節が限定され、
遠隔地からの大量輸送が普及の前提となるため、初めは高級食品として上層社会の一部で楽しまれたに過ぎない。
しかし輸送のルートやシステムが整えられると、生産量や流通量も増え、価格も低く抑えられるようになり、
蜜柑は廉価な大衆食品となっていった。


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

国際的な蜜柑栽培


日本の蜜柑を代表するものが温州蜜柑で、現在、蜜柑といえば温州蜜柑を指している。
江戸初期に浙江省から伝来して、九州で栽培された蜜柑の一種があった。
それの突然変異した実生 から、温州蜜柑が発生したと思われる。
九州地方では温州蜜柑を仲島蜜柑と呼んでいる。
明治以降になると、温州蜜柑は全国各地でつくられるようになった。

アングロアメリカでは、温州蜜柑をテレビオレンジともいっている。
手軽に手で果皮を剥くことができ、テレビを見ながら食べられることからその愛称が付いた。

明治になってこれまで九州のみでつくられていた温州蜜柑が、愛媛県をはじめ各地で栽培されるようになった。
そして東京神田市場に初出荷されたのは明治14年(1881)のことであった。
愛媛県北宇和郡立間村(現吉田町)でこれまで主な商品作物であった生薑の生産が行き詰まったことから、 
明治7年(1874)、温州蜜柑の栽培に踏み切った。
現在この町はわが国でも有数の蜜柑産地になっており、
国東半島(大分県)まで船を使って蜜柑の出作りをしていることで知られている。

 

「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行

八朔と伊予柑

八朔や伊予柑は柑橘類であっても、蜜柑の仲間でもなく、またオレンジやレモンの系統にも属していない。
そこで雑柑の中に入れられている。

万延元年(1860)、備後国御調郡田熊村(現広島県因島市)の寺の住職が、ゴミ捨て場に自生している八朔を見つけた。
旧暦の八月朔日のころになると食べられることから、その名がついたといわれている。
八朔は夏蜜柑やネーブルよりも耐寒性が強く、温州蜜柑に次いでいる。
また病害虫にも強い。 
一般 に柑橘類の収穫は秋であるが、八朔は夏が旬になるなどの利点をもっている。 
八朔の年間生産量18万トンのうち、半分を和歌山県が占めている。
そのほか愛媛・熊本・徳島・広島の諸県がこれに次いでいる。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行  


わが国の果樹栽培

わが国の果樹栽培を見ると、古代から大正時代まで第一の果物は柿で、北海道と沖縄県を除いて、全国各地でつくられていた。
それが明治の殖産興業政策の一環として取り上げられた萃果(西洋リン ゴ)が、大正9年(1920)頃から伸びて、第二次大戦後には筆頭の果物になった。
しかし昭和35年、蜜柑が萃果を追い越した。 
それまで100万トンを越えていた萃果の生産は90万トン台と停滞しているのに、蜜柑はその後も伸びて、昭和54年(1979)には362万トンにも達した。

国連のFAO(食糧農業機構)の統計をみると、蜜柑はオレンジとして取り扱われている。
世界のオレンジ生産は4662万トンで、ブラジルが第一位で1076万トン、アメリカが第二位で1015万トン、日本が第三位であった。
1992年、世界におけるオレンジ生産は大幅にふえて、6551万トンになった。
日本の生産は半減して159万トン(全世界の2.4%となり、第10位に下がった。
これはバナナ、グレープフルーツやオレンジの輸入が自由化され、大
規模経営の外国産との競合が厳しくなったからである。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

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昆虫を食べる

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昆虫を食べたことはないが、年上の人は戦時中にバッタを「捕っていた」というようなことを言っていた。
母の話だと、茂平は農村なのでバッタを食べるほどの食糧難ではなかった。
飢えて食べたのか、害虫を取るのが子供の努めだったのか、学校か役場に供出したのかは不明。


下記↓に出ているうち、タニシは美味かった。
カエルのうち食用ガエルは飛び切り美味かった。
いまでも、その美味を思い出すほど美味かった。

 

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


動物性食品としての昆虫

現代日本人の多くは昆虫食と聞くだけで、「悪食」とか、「如何物」だと思っている。
しかしかつて 虫は貴重な動物性蛋白源であった。
世界的にみても、東南アジアの山岳地帯、メラネシアのニューギ ニア、アフリカなど焼畑耕作を営む発展途上国では、昆虫が常食になっている。
特に焼畑耕作の端境期には、虫は欠くことができない食料である。
日本は全国的には昆虫食が盛んであるとはいえないが、地域によっては虫がよく食べられていた。 
大正8年(1919)、農商務省農事試験場の調査によると、全道府県のうち宮城・富山・大阪・香 川など四府県を除いて昆虫が食用にされていた。
食用昆虫の数をみると、長野県が17種で最も多く、山口県 (12種)、山梨県(10種)、山形県・愛媛県(以下各8種)、福島県・埼玉県・奈良県・福島県(以下各7種)がこれに次いでいる。


いなご

全国的に食べられていた昆虫に、蝗がある。
稲作の害虫である蝗は、全国の水田に棲息していた。
つくだに
昆虫の中では見た目にもよいので、よく佃煮にして食べられてきた。
第二次大戦後、殺虫剤の大量消費とともに、蝗はほとんど姿を消したが、農薬の投下の抑制とともに復活した。

タニシ
田蝶は水田に棲む淡水性の巻き貝である。
貝殻をとって佃煮にして食べられたが、弾力があって実にうまい。
しかし、第二次大戦後、農薬が使われるようになってから、 田螺は水田から姿を消した。

さかな
沢蟹は淡水性の蟹で、水の清い渓流の礫の間に棲んでいる。
この沢蟹を天ぷらにしたり、あるいは 油で空揚げにして、酒の肴にしている。

・・・・


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行その3


養蚕は蚕の飼料になる桑の栽培を行ない、桑の実を収穫して蚕に与えて成長させる生業である。
蚕の幼虫は、黙々と桑の葉を食べて大きくなり、30~40日間で五齢を迎え、糸をはいて繭をつくる。
その直前の蚕は体の内部まで透き通って見えるが、それは繭殻をつくる蛋白質である。
伊那市では上簇間近い蚕を缶詰にして売っている。
見た目は姿、形ともに不気味だが、栄養の点では 蛋白質に富む高級食品である。

残った蛹は鯉などの飼料や肥料にされる。
しかし蛋白質や脂肪が多いので、缶詰にしても売られている。

カマキリ
カマキリの種類は多いが、蝗と同じようにして食べられる。 
薬用としては幼児の癖やリューマチの鎮痛剤などにも用いられている。

かえる
昆虫ではないが、両棲類の蛙も古くから食べられてきた。
香川県讃岐平野の溜池ではアメリカから 導入した食用蛙が飼われている。 
日本の在来種で一番うまいのは赤蛙で、鮭のような味がし、刺身にして食べられている。
これもまた子供の痔の薬としても用いられている。

 

・・・

長野伊那谷Web


国民的昆虫食「イナゴ」


日本の昆虫食の中で、もっともポピュラーな虫といえば「イナゴ」。
昆虫食にあまり馴染みのない人でも、
「イナゴだけは食べたことがある」「子どもの頃食べた」「おばあちゃんの家で食べた」などと話す人もいます。
1919年に昆虫学者、三宅恒方氏がまとめた報告書によると、イナゴは国民の50%以上が食べていたとされ、
いわば国民的昆虫食でした。
当時はイナゴだけでなく、蜂の子・カイコのサナギ・カミキリムシ・タガメなど55種類の昆虫が食べられていたとされています。
(出典:「食用及薬用昆虫に関する調査」三宅恒方)

・・・

 

 

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間食・副食

2024年03月31日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

間食と副食の区分がよくわからないが、
主食の補助としてみると
イモ、それも「ふかし芋」がまっさきに思い浮かぶ。

「ふかし芋」はいつも戸棚にあったので、つまんで食べていた。
たまに「おやき」をした。
「はったい粉」も粉に水か湯をいれて簡単にでき、よく食べていたが、
甘みがなくサッカリンをいれた。
稀に砂糖をいれた「はったい粉」は、それはそれは美味かった。

 

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

間食


店で売っているお菓子といえば、煎餅やこんぺい糖飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。
子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。
一般的なおやつは、大豆やソラ豆をコウラ(ほうろく)で煎ったもの、氷餅を焼いたり、あられを煎ったものであった。
氷餅は正月餅と一緒にまたは寒の内に餅を搗き、のし餅にして少し固まった時点で薄くへいで(はいで)長方形に切り、 干したものである。
砂糖で味付けしたもの、胡麻の入ったもの、豆板といってたくさんの豆が入ったものもあったが、
焼いたときに膨れやすくするため重曹を入れていた。
また、あられは餅を賽の目に切ったものである。
少し時間にゆとりがあれば、大豆や黒豆と糯米を煎ってぎょうせんにからめたり、おねり(主食の項 参照)も作った。
また、家の庭先や近くの野山にある桑の実、グミ、ユスラ、イタドリなども子供たちのおやつで、友達と遊びながら食べるのは楽しいものであった。
大人たちの間食といえば、大正十年ごろまでは沢庵を摘まみながら番茶を飲み、一息ついていた。
ソラ豆ができれば塩ゆでにして田圃へ持っていき、おやつにした。


「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


副食

農家、商家を問わず、日常食の副食は四季折々の野菜類や豆類、
町内でとれる淡水魚、行商に来る魚屋から購入する小魚類が主体で、あくまでも地元で自給できる食材料が中心であった。
そして、「ばっかり食」という言葉に代表されるように、収穫時には同じ材料が毎回の食事に登場した。
忙しい田仕事の合間に作られるおかずは、手間のかからないものばかりであった。

 

・・・

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

炒り粉 
炒り粉と呼んでいるが、麦コガシ・ハッタイコともいう。
裸麦をほうろくで炒って粉にしたものを茶碗に入れ、塩または砂糖を加えて、熱湯あるいは水を注いで箸でかきま
ぜて食べるる。

流し焼き
小麦粉を鍋または鉢に入れて水でかくか、砂糖を加えてかきまぜ、 ほうろくに流して蒸して食べる。

 

 

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柿を食べる

2024年03月30日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?
と不思議に思っていたが、
それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。

非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。

田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。
それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、
それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。


家に「渋柿」はあった。
大きな西条柿の木が一本あった。
竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。
吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。
吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。
毎年、吊るした縄から何個かを食べた。
あの甘い西条柿はほんとに美味かった。

 

(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上 2017.12.17)

「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行

江戸食物事情・果実のたのしみ
日本の果実
日本原産とされる果実は、ニホンナシニホングリ・カキなどで、かつては今日の果物のことを水菓子と称していた。
古代も奈良時代になると、「延喜式』には「菓子」として
梨子・桃子 柑子(蜜 の一種)・小柑子(金柑)・柿子・橘子・大棗・郁子(木通)・覆盆子(苺)・胡桃子(胡桃)・柚子・枇 杷・李子・栗子・椎子・菱子・揚梅・甘葛煎などが記されている。

中世に入ると、南北朝期の『庭訓往来」の「菓子」の項には、
生栗・搗栗・串柿・熟柿・干棗・ 花梨子・榛樵・麭・田鳥子・覆盆子・百合草が挙げられており、諸国の名産に「宰府栗」が見える。
栗のような木の実類を除けば、もっとも中世人に親しまれていた果実は、柿の類であったものと思われる。

江戸食
ここでは柿が圧倒的に多く、次が梨で桃と梅が続き、苺がかなり各地で生産されていた様子を知ることができる。
このうち柿は、干し柿とすれば季節を越えて保存が利きれて、 広く人々に親しまれたことによるものであろう。
また蜜柑は気候との関係から、生産地に自然の制約が大きかった。

 



「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

日本に原生していただろうといわれている。

 

聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行


つるし柿
渋柿はつるし柿にして、冬のおやつにする。 
皮むきは夜なべ仕事で、 へたを切る者、皮をむく者、縄にはせる者と手分けして、家族みんなでやる。
一たれ(六尺ほどの 縄一連)に50個ほどつけて、軒下につるして干すが、200たれくらいはつくる。
乾いてほとり(周囲)が固くなったら、一個ずつ指でつまんでやわらかくする。
これを二回くり返す。
最後に、びぼうき(机をとった稲穂の先でつくるほうき)でなで、そうめん箱やみかん箱にそば殻かわらを敷いて詰めておくと、白い粉がふいてくる。
正月には年玉として、子どもに二個ずつ配る。
お客さんには、湯飲みへ一個入れ、番茶か熱湯をかけて出す。 
小さくて皮がむけない柿は、輪切りにして干す。
中部台地の東南のはずれ菅野村では、串柿づくりが盛んで、「外でにこにこ、なかむつまじく」といって、両端に 二個、中に六個になるように、竹串にさして干す。お正月の縁起ものとして鏡もちに飾る。

「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行

干柿

小田字土井原は海抜200メートル前後の所にあり、副業として、この地方では干柿づくりが古くから盛んである。
畑のあちこちに柿が植えてあり、十月末からどの農家も干柿づくりを始める。
種類は西条、オカン、大玉、タマンボウなどでその中でも西条がいちばん多い。
高原上だけでは柿が少ないので、 小田、吉備郡一帯まで買いに行っていた。
皮むきを「けずり」といって、鎌を腰にさして固定し、柿をぐるぐる回して、手際よく仕上げられる。
十二月中旬になると、「手入れ」といって、半乾きの柿を一つずつ手でもんで、屋内で乾燥する。
すると、きれい に粉をふく。旧正月に出荷していたが、今では新正月に出している。
歳末のころになると、NHKテレビの天気予報番組の背景写真に、この地方の干柿スダレが毎年のように紹介され ているので、見られた人も多いと思う。

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嫁菓子をもらう

2024年03月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

「嫁どりがある」
それを聞けば、茂平の子どもたちの心は踊った。

 

【嫁菓子】
嫁菓子が楽しみじゃった。
ただでお菓子をもらえるから。

 

 

(おじさん=父の弟の嫁どり=昭和31年)

嫁どりは大きな娯楽だった。

 

 

【嫁どり】
嫁どりがあると言えば、楽しみなのは、

①「嫁菓子」をもらえる、
②「花嫁」を見れる。
③「嫁入り道具」が見れる。

 

①一番の楽しみは「嫁菓子」。
嫁菓子は紙袋に2~3箱のお菓子が入っている。
茂平の子どもは、お菓子を食べることはめったにない。

②花嫁を見れる。
頭にカツラを乗せ、白塗りで、しかも下を向いて歩く花嫁の顔は、皆同じ。
しかし、「花嫁衣裳」の女性を見る。
普段、農夫しか見ない茂平の子供にとっては大きな娯楽だった。

③「嫁入り道具」を見る。
これは正直、関心はなかった。
自転車やミシンやタンス類を見ても感じることは何もなかった。

 

大正時代のはじめ頃

(母に聞いた話)

母の父母=管理人の祖父母の結婚

 


祖父母の結婚式に嫁菓子を、近所の子どもたちに配ったが
子どもたちはもらっても帰ろうとしなかった。

嫁菓子をもらっても不満顔だったそうだ。


「取り子・取より嫁じゃけえ、二袋もらわにゃあいけん」
と言ったそうだ。
その事を母は笑い話として話した。


祖父母は、取子取嫁(とりことりよめ )だった。
おおかたの場合は、先にどちらかが養子になり、結婚によって二人そろうが、
祖父母の場合は結婚と同時に、二人養家には入った。

この珍しいことの訳を95才まで生きた母に聞く機会はあったが、
不思議とも、珍しいこととも思ってなかったので聞かず、ついに知ることはできなかった。

・・・

 

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子供の間食

2024年03月29日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

イモ・あられ・豆は、ほぼ年中あった。

果物
一家の生計を立てるものが、果物であったので、
その傷もの・変形ものが夏の間食になった。
・・・桃・葡萄・スイカ・ナシ瓜・枇杷・サトウキビ・ナンバ・イチジク・柿・ミカン・・・。

野山のもの
ビービー・シーシー・さるきん・野イチゴ・ナツメ・ニッケ・

川・池のもの
トーチカ

海のもの
ツブ・ドンガメ

家のもの
おやき・ハッタイコ・

買うもの
飴玉・アイスキャンデー・ニッケ紙・

買えなかったもの
ミルキー・・・不二家のペコちゃん・ポコちゃん。あれを食べるのは、憧れだったな。
チョコレート・・・中学か高校生になって初めて食べた。(チューインガムのロッテがチョコレートを作りだした頃)


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。

 

「北川の民俗」 北川の昔を訪ねる会 令和4年発行


子どもの頃の食べもの
おやつとしての果物など

昭和30年頃の果物については、大変に多い。 
大抵の家には、 お菓子になる植物が植えてあるのだ。 
子供も大人も食べる。 
桃、ビワ、 サトウキビ。 
サトウキビとは、砂糖を絞るための植物。 
この茎を10 センチぐらいに切って、口に入れて噛んで汁を吸う。 甘いのである。 
イチジク、ザクロ、甘柿、グミ(ビービと言っていた)、ユスラ梅、 桑の実(桑イチゴともいう)、ナツメ。
野には、アケビの実、とか山ブドウが。 
近くの人から梅雨の頃、スモモを貰っていた。

 

 

「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行

こどものオヤツ
豆類が多く、ソラマメ、ダイズのいりまめ、あげまめ。
砂糖というのは、玄米またはもち米と大豆のいったも 砂糖(Fブザトウ)で固めたものである。
山野のものとして、アサダ、ダイビ、アケミ 山ナスなどを採った。

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

子供の間食

春には、グイビ(ナワシログミ)やユスラ(ユスラウメ)ノイチゴ(ダイイチゴ・ナワシロイチゴ)・キイチゴ・マスイチゴ(カクミノスノキ)・シャッポン(イタドリ)・シイトー(スイバ・シイナ・ギシギシ)のとう・スモモ・ズンベー(ズンバエ)といって、ノボセ(チガヤ)の穂などを食べる。
ズンベーの白い地下茎をカンゾウだといって噛んだ。
竹の皮を三角形に包み、なかに梅漬けのシソを入れ、角から吸う。
カッコウといった。
炒った大豆やソラ豆・アラレ・カキ餅なども間食であった。
大豆とアラレ、または大豆とアラレと干し飯を一緒に炒ることもある。
また、砂糖をまぶすこともあった。

夏には、ビービー(ナッグミ)の実・サトウキビ・スイカ・マクワウリ・ヒンの実などである。

秋には、ヤマブドウ・ヤマナスビ(ナツハゼ)・アサドリ(アサダレ・アキグミ) ・カキカキのずくし・ミ カン・キンカン・アケビ・ガラビ(エビズル)・桑の実などを食べ、松の幹にできたこぶに出る甘い樹液を蜜といい、ササですくいとってなめた。
松ビービー(マツグミ)といって、松の木に寄生しているヤドリギの赤い実を食べたり、青い実はよく噛んで、口の中でトリモチ状に伸ばしたり、ふくらませたりして楽しんだ。
集落に一本程度あったニッケイの根を掘って、根を噛んだり、葉柄も噛むことがあった。
ゆでたクリや 蒸したサツマイモなども間食であった。
風呂をわかすと、しばしば焼き芋にした。
サツマイモの皮をとって輪切りにしてほうろくに並べ、少量の塩をふりかけ、鍋蓋でおおい焼く。
芋せんべいといった。

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醤油を作る

2024年03月28日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。
土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。
それは茂平のどこの家も同じだった。

 

(母の話)

醤油つくりの話


麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。
小麦を植え、大豆を植え。
麹を作り。

彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
唐臼で搗きょうた。

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。

どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。


醤油を搾る
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。


(父の話)
麹は作る人によって上手なウチがあった。

一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。


2002年5月26日

 

 

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

醬油 
自家製醤油を手醬油といった。
まれに作った家がある。 
第二次世界大戦中や終戦直後には、作る家が増えた。
原料は、大豆と小麦・塩である。
麺のもとは買って来て麹作りをし、四斗樽に仕込む。 
仕込みをしてしばらくすると、樽に籠を入れ、諸味をすくっておかずにした。
また、常に入れている籠にたまっ醤油は、調味料として使った。 
もろみ
醤油袋に諸味を入れ、フネに石の重しで絞った。
絞った醤油は釜に入れて炊く。
一番醬油である。
絞りかすの諸味は、樽にかえし水を入れ、塩を加える。
しばらくの間発酵させ、フネで絞る。 
二番醤油である。 
比較的早くから、醤油屋といって醸造屋ができたので、たいていは醤油屋で買った。
初めは一升徳利を持って行って、醤油を入れてもらった。
後には、醤油を入れた五升樽を持って来てくれるようになり、一斗樽 を持って来るようにもなった。
一升瓶が使われるようになってからは、一升買いをするようにもなるが、一斗樽の時代がなお続いた。

 

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


笠岡市吉田での醤油の作り方は、醤油一斗作るのに、小麦一升・大豆一升水五升・塩五升である。
仕込みをして、しばらくすると、樽に竹簀をいれておいて、汁杓子ですくって調味料として使い、
諸味(諸味噌)はおかずにする。
たびたび櫂をいれてかきまぜる。
黴がきたり、虫がわくからである。
よく溶けたころ、醤油絞り袋にいれてフネで絞り、それを釜で炊いて食用の醤油とする。
醬油絞りは二番醬油まで絞る。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

醤油
家でつくる醤油を手醤油といい、寒い時期につくる。
夏につくると虫になる(虫がわく)。
大豆一斗五升、小麦一斗五升、塩一斗、で仕込む。
一年たち、一夏越すと、もろみの表面に透明な液がでてくる。
こうなったら、もろみをしぼり、一番醬油をとる。 
家ではしっかりしぼれないので、もう一度塩水を入れて、 二番醤油をとる。 
しぼった醤油は焼酎がめに入れて、たもいたもい(大事に大事に残すように)食べる。 
しぼる前の もろみの中に竹を立て、いるだけかたくちにすくって使うこともある。
もろみはそのままか、ときにはいりこを炒って混ぜ、ごはんのおかずにすることもある。


・・・

醤油は、初夏から初秋にかけてつくる。
大豆と小麦を一 斗五升ずつ使う。
大豆は一晩水がしをしてやわらかく炊くが、味噌豆ほどにはやわらかくなくてもよい。 
小麦は炒り、石臼で荒くひき割る。
四つ割りくらいになったものや粉になったものがあるくらいにする。
この大豆と小麦で、醤油のもとになる醤油こうじをつくる。
味噌こうじと同じように、土間に青草を六、七すくらいの厚さに重ね、その上にむしろを二枚ほど重ねて敷く。 
むしろの上にひき割った小麦の半分くらいを平らに広げ、 
その上に水気を切って人肌より少し高めの温度に冷ました大豆を広げる。
さらにその上に、残りの小麦と種こうじを混ぜて広げる。
むしろの両端を持ってよく混ぜ、種こうじがまんべんなくゆきわたるようにする。
よく混ぜたら、むしろのまん中に盛り、上からもむしろをかけて熱がくるようにする。
手入れは味噌こうじとだいたい同じだが、少し時間をかけて、こうじが黄色くなるま でねかせる。 
こうじができたら、塩一斗五升に水三斗の塩湯を煮たてて入れ、一石桶に仕込む。
仕込んでからは、かいで毎日混ぜる。
大豆と小麦を合わせて三斗の実物(材料)から六斗の醤油がとれる。
一番醤油を三斗、また塩湯を入れて二番醤油を三斗とる。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
醤油
昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。 
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

日本独特の調味料、醬油


現在日本人が日常用いている醤油は、日本独特の調味料である。
大豆、小麦から醬油麹をつくり、食塩と水を加えて発酵させたものを指す。
このような醬油が普及するのは、江戸時代になってからで、それまでの醤油の素材や醸造法には紆余曲折があった。

大豆を煮るか蒸し、ほぼ同量の大麦もしくは小麦を砕き、両者を混ぜて麴をつくり、これに塩を加えて醪にし、
時折り攪拌して発酵・熟成させた醬油は、室町時代から始まった。
このころから江戸初期にかけて、企業による醬油生産が
紀州の湯浅、京都、和泉の堺、播州の龍野、下総の野田・銚子などで発展した。
江戸前期における醬油は堺・大坂など上方産の方が上質で「下り醤油」といわれて、江戸市場をも独占していた。
後期になると関東物の質が向上して「江戸紫」といわれるように、関東産で占めるに至った 。
 一八世紀後半、野田で茂木家や高梨家などが創業するが、両家はキッコーマンの前身である。
野田・銚子に多くの醤油企業が立地するのは、利根川と江戸川の水運で原料・製品の輸送の便がよかったことがあげられる。

 

「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行

しょうゆ

近世前期までは、江戸でもほとんどが、関西からのいわゆる下り醤油が使われていたが、
紀州の醤油醸造技術を採り入れた銚子をはじめ、
野田・土浦・成田・下館・川越など、関 東周辺からの醤油で、江戸の食膳が賄われるようになったのである。
このことは、江戸を中心とした関東周辺の農村が、新たな経済構造に組み込まれたことを意味する。
また全国各地からの名産物が、西廻航路や東廻航路によって船で江戸へと運ばれ、さまざまな海産物や調味料も出回っていた。
ただ江戸の食生活を支える日常的な野菜・根菜類は、こうした地回り経済圏から供給されていた。

「日本食物史」  江原・石川・東四柳  吉川弘文館 2009年発行

醤油の生産と流通 
日本の調味料として古くから発展した味噌に加えて、醤油が登場するのは、中世のことで、
湯浅醤油(和歌山県有田郡湯浅町)が知られるが、大規模に製造されるようになるのは江戸時代のこと。
味噌が各家で製造されることが多かったのに対し、醤油製造は酒造業と並び、発酵工業として発達した。
醤油の起源としては、醤を絞ったものとする説と味噌からにじみ出るたまりを集めたとする説がある。

文政期前後の料理書からは、醤油が調味料として盛んに登場するようになる。
刺身にも、わさび醤油が登場し、かば焼きに山椒醤油、魚の醤油付け焼きなど各種料理の調味として醤油が一般化していった。

 

 

 

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