しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

旧陸軍第十七師団司令部衛兵所

2022年11月23日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・岡山県岡山市北区津島 岡山大学構内
訪問日・2022.11.13 

 

岡山大学は聯隊跡地を、そっくり転地利用しているので、今も構内はひろく、
そして旧陸軍施設も点在している。

この旧陸軍第十七師団司令部衛兵所は現在、岡山大学情報展示室として利用され、
学生・市民に常時公開されている。

 

 


岡山大学情報展示室
(旧陸軍第十七師団司令部衛兵所)

明治44年(1911)建築。
木造平屋建、瓦葺、40m2の旧司令部衛兵所である。
外部はほぼ当時のままである。
外部巾木はタイル貼り。
柱は面取りがしてある。
戦争遺跡の遺構としてその価値を有している。

登録有形文化財・文化庁

 

 

 

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靖國の家

2022年11月23日 | 昭和16年~19年

(嫁いらず観音)

 


井原の町歩きをしていたら表札の横に、「靖國の家」プレートのお宅があった。

以前笠岡市笠岡では「遺族の家」を2軒ほど見た記憶がある。
戦前や戦時中のものかと思っていたが、戦後(初期だと思う)にも発行された可能性があるようだ。
この時代の記録・資料は、どうしてはっきりしないのか、いつも不思議というより不満に思う。


・・・

誉の家

(Wikipedia)


特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。
戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。
戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる。


類似した表現・表札
誉の家
名誉の家
遺族の家
勲の家

・・・

 

(井原市井原町)

 

撮影日・2022.11.18

 

 

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笠井信一

2022年11月21日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区丸の内 (烏城公園)

 

 

山陽路に聳えていた岡山城と福山城の天守閣は、その時期をほぼ同じくして、

昭和20年に米軍の空襲で焼失。

昭和41年前後、コンクリートで天守閣再建。

令和4年、改修工事が完成しお披露目。

 

岡山城天守閣は金の鯱が、いっそう光り輝いている。

 

 

 

その烏城天守閣の石垣の前に笠井信一・元岡山県知事の銅像が建つ。

笠井知事は戦前、貧民救済に尽力し、今も県政に名を残している。

 


笠井信一

(Wikipedia)


笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。

経歴
静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。
静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。
1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。
1907年1月、岩手県知事に就任。
1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。
1914年6月、岡山県知事に転じた。
1917年5月、後の民生委員制度の先駆となる済世顧問制度を制定した。
1919年4月、北海道庁長官に就任。
1921年5月、貴族院勅選議員に任じられ、交友倶楽部に属し死去するまで在任した。

 

撮影日・2022.11.13

 

 

 

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黒正巌先生

2022年11月21日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区津島 岡山大学構内

 

(岡山県の紅葉名所・岡大のイチョウ並木)

 

戦前、中国・四国には帝国大学がない地域だった。
そんななか、岡山県民が郷土自慢に話す学校が二つあり、
それが「六高(ろっこう)と医大がある」岡山県。

黒正巌先生のことは知らないので、碑文を丸写しする。
先生は六高の校長先生で、
終戦後に聯隊の敷地を教育施設へ変換に功績があった人。

 

(イチョウ並木の突当りに岡山大学図書館があり、その前に胸像が建つ)

 


黒正巌先生


岡山大学創設功労者である先生は、
昭和19年六高校長になられ、戦火に焼失した校舎を復興され、
またこの岡山に中国総合大学を新設する構想を立てられ、
進駐軍より旧陸軍用地25万坪と建物5万坪を接収するや即夜六高生250名を移して分校を置き県立農専の応援を得て、
この広大な敷地を確保し開学に努力されました。
先生は昭和24年9月、脳出血にて急逝されました。
13回忌を偲び岡大教官六高卒業生らにより建像した。

 

(それが黒正巌先生)

 

 

撮影日・2022.11.13

 

 

 

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山羽虎夫

2022年11月20日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区丸の内 (岡山県庁前・内堀)

 

金の鯱が輝く岡山城天守閣、
そのまん前に建つのが山羽虎夫胸像。
氏は今年11月に「日本自動車殿堂」入りした。

 

 

OHK岡山放送 2022年11/15(火) 18:01配信

自動車産業の発展や振興に貢献した人を顕彰する「日本自動車殿堂」に
岡山市出身の発明家で明治時代に国産初の蒸気自動車を開発した山羽虎夫が選ばれました。
11月15日、東京で表彰式が行われました。

山羽虎夫は岡山市北区表町で電気機器工場を営んでいた1904年、
国産初の蒸気自動車を開発しました。


欧米でも自動車が道楽的なものとされていた明治時代に
自動車とその動力源にいち早く関心を持ち、自動車大国日本の端緒を切り開いた点が高く評価されました。

 

 

 

撮影日・2022.11.14

 

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木原光知子

2022年11月20日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区いずみ町 岡山総合運動公園

 

 

木原美知子といえば、1960年代
映画の本郷功次郎と並ぶ、岡山県出身の大スターだった。

岡山市の山陽女子高1年生の時、東京オリンピックに出場し人気は全国区になった。
その後はテレビ役者や文化活動でも知られ、
水泳はバスターズで優勝したりしていた。

低音と、美貌と、なりより大陸的な人間性が魅力を感じさせていた。
59才で突然の死には驚いた。
広く愛された”ミミ”が銅像として公園に残っているのは嬉しい。

 

 

 


撮影日・2022.11.13(おかやまマラソン当日)

 

 

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村田兆治・元ロッテ選手が亡くなった

2022年11月11日 | 令和元年~

金浦中学校の卒業式での、来賓の挨拶の一部をよく覚えている。
「福山電波工高へ22名の合格者がありました」
通称”デンパ”の福山電波工業高校は、福山駅から遠く不便さがあったが人気も高かった。
そのデンパ出身の村田兆治選手は東京オリオンズに入団。
”カネやん”こと金田正一監督のもとのエース投手だったり、
日本人選手で初めて肩の手術、その後は”サンデー兆治”として活躍。
その名は山口瞳の小説”居酒屋兆治”になり、高倉健で映画化された。

 


プロ野球の大投手・村田兆治選手は引退後も速球派で、
全国各地を野球振興のため少年・少女選手を指導してきた。

 


2022年11月11日、火災の為亡くなった。


画像は、
2022年7月17日
岡山県笠岡市走出「古代の丘スポーツ公園」どんぐり球場 
”ドリーム・ベースボール”   ドリームチームvs笠岡選抜    

 

 

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スカイレール

2022年11月11日 | 無くなったもの

場所・広島県広島市安芸区瀬野川 瀬野駅~みどり中央駅
無くなった日・2023年末(運行終了予定)
撮影日・2015年8月21日 

 

 

山陽本線の瀬野駅~八本松駅は、区間距離が長い(10.6km)だけでなく、
急こう配でも有名、別名セノハチと呼ばれ、いちおう国鉄の名所だった。
八本松は山のイメージがあるが、
瀬野川は広島平野の端で広島市街地が近く大規模団地が出来た。
そこに”スカイレール”というモノレールとロープウェイを合わせた乗り物が運行された。
スカイレールは瀬野駅から急角度で団地を上り下りする便利な乗り物だったが、
2023年末で営業を止めることが中国新聞に載った。
理由は採算が悪いので、電気バスへの切替えを検討しているそうだ。

 


2015年に乗った時は150円だった。
まるで遊園地の乗り物のようで、スカイ感があり、乗り心地もよかった。

 

 

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栃木順作翁

2022年11月04日 | 銅像の人

場所・広島県庄原市東城町川東 東城小学校

「お通り」を見に東城へ行った。

 

・・・・

 

栃木順作翁

イベント会場の東城小学校の校庭に、栃木順作翁の胸像があった。

翁は東城町に多大な寄附をした功労者だそうだが、公園等でなく学校内に建つというのは珍しい。

 

 


栃木順作翁


明治3年2月8日東城町に生れ志を立てて海運界に入り大正4年栃木商会を神戸市に設立社運隆昌克く栃木汽船の基盤を築く
昭和22年12月19日芦屋市にて永眠す
行年78
翁は
郷土愛厚く昭和12年より4ヶ年東城小学校建設資金40万円福代道路舗装費1万円を又郷土緑化のため多数の苗木を寄贈する等教育産業に多大の貢献をなす
翁は
質実にして剛健富を致して奢らず
而も郷土のために巨費を投じて惜しまず
郷党皆翁の遺徳を慕い相謀りて胸像を建て後世に永く伝えんとする
美なる哉
昭和27年7月2日

広島県知事 大原博夫 撰文

 

撮影日・2022.11.3

 

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岩崎彌太郎

2022年11月02日 | 銅像の人

場所・高知県安芸市井ノ口甲  岩崎彌太郎生家

三菱財閥を創設した岩崎彌太郎生家は、高知市から室戸岬へ向かって約40kmの安芸市にある。
周辺はのどかな田園風景で、生家は農家と侍を合わせた”郷士”の造りになっている。

 

 


岩崎彌太郎像

           「あき物語」 安芸観光情報センター・安芸市

三菱グループの基礎を築いた異才

慶応3年(1867)、長崎に設立した土佐商会で腕をふるった彌太郎は、
廃藩置県の後に大阪に出、明治6年三菱商会を設立。
以後、明治経済界を席巻する活躍をし「東洋の海上王」と呼ばれるようにもなった。

彌太郎の曾祖父・彌治衛門が建てた家で、
当時の中農の標準的な家。
土蔵の鬼瓦には岩崎家の紋であり三菱のマークの原型といわれる「三階菱」がある。
また、庭の石組は少年・彌太郎が天下雄飛を託し、日本列島を模したものだといわれている。

 

 

 

 

「教養人の日本史4」 池田・佐々木共著 社会思想社   昭和42年発行

新会社・日本郵船

岩崎弥太郎は土佐の郷士の出身である。
土佐藩の参政であった後藤象二郎に見込まれたのが、実業界に手を染めるきっかけとなった。
廃藩置県で、これまで経営をまかされていた九十九商会を、ただも同然の値段で払い下げられ、
それをもとでに、
運漕業・製糸・製茶・樟脳など多方面の経営に手をのばすようになった。

岩崎は、最初から、権力者と結びつき、その保護をうまく引き出すのに、独特の才能を発揮した。
まず政府財政の責任者大隈重信と結んだ。
明治7年(1874)の台湾遠征は、兵隊と軍需品の輸送を一手に引き受けたのである。
この時えた膨大な利益をもとに、彼は明治8年(1875)に三菱会社をつくり上げた。

その頃、政府は海運業者に補助金を出すことにしていた。
岩崎がこれを利用したのはいうまでもない。
しかも彼は、それを海運業に投資するよりも、高島炭鉱んど鉱山の買い占めや、
日本最初の保険会社、東京海上火災保険の設立などにふり向けた。
やがて需要が高まるはずの事業を、あらかじめ独占しておこうとしたのである。
折からはじまった西南戦争でまた大利益をあげた。

明治14年政変で大隈が政府を追われると、三菱に反感を持つ官僚や資本家が、対抗策に出た。
渋沢栄一・益田孝らが共同運輸会社をおこしたのである。
猛烈な競争がはじまった。
三菱は赤字を出し、弥太郎は心労のため死んだ。
弟弥之助が後を継いだ。
明治18年(1885)、三菱・共同運輸が出資し日本郵船株式会社をつくることになった。
日本の海運業はこの会社が独占した。

 

 

撮影日・2022.10.26

 

 

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