しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

五・一五事件(昭和7年5月15日)

2024年05月15日 | 昭和元年~10年

大統領や首相が暗殺されることは、世界でもたまにある。
しかし国の首相が暗殺され、その犯人にたいして
助命嘆願とか、求婚をする国民がいただろうか?
残念ながら、それが昭和7年の日本であり、しかも一等国を自認する国民であった。


いったい昭和7年とは、どんな時代だったのだろう。

・・・

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

少壮軍人が前年に計画したクーデター「三月事件」と「十月事件」はともに未然に発覚したが
この年2月に井上準之助 
3月に團琢磨が”一人一殺”を唱える血盟団員の手で暗殺され 
5月15日 
陸海軍人が首相官邸を襲い 犬養首相を殺害した

・・・

 

2023年4月1日   岡山市北区吉備津・吉備津神社   

・・・


とどめを刺された 政党内閣

血盟団事件の記憶もなまなましい五月一五日の白昼、
四班にわかれた 海将兵の一隊が、首相官邸、牧野内大臣邸、警視庁、政友会本部、日本銀行、三菱銀行本店などを襲撃した。
この事件に参加した勢力は、古賀清志、三上卓海軍中尉を中心とする10名の海軍青年士官、陸軍士官候補生11名からなる行動隊、
愛鄉塾頭橘孝三郎を主領とする農民決死隊、大川周明、本間憲一郎(紫山塾頭)、頭山勇 (天行会長、頭山満の三男)、長野朗ら民間における援助者であった。
クーデター全体の指揮は古賀中尉が当たることとなり、
第一段の行動として、三上以下の第一組が首相官邸と日本銀行を、
古賀以下の第二組が牧野大臣邸を、
中村らの第三組が政友会本部を、
明大生二名の第四組が三菱銀行を襲撃、
さらに第二段の行動として、第一~三組が集合して、警視庁を襲撃、
他方、別動隊として農民決死隊が日没ごろから市内の変電所を襲撃して東京を暗黒化する。
また川崎長光が「裏切者」の西田税を射殺する。
こうして東京を混乱におとしいれ、戒厳令下に、荒木貞夫陸相を首班とする軍部政権を樹立しようというものであった。

この計画で完全に成功したのは、犬養首相の暗殺だけであった。
首相官邸にいた犬養は「話せばわかる」といって制止したが、「問答無用!」のことばとともに拳銃で射殺された。
その他の各所では拳銃を発射して手榴弾を門前に投げるなどの示威を行なったのち、憲兵隊へ自首。


事件の公判は翌年7月から開かれた。9月にはいって下された判決は、
「青年将校決起機は諒とする」との理由で、意外に軽く、陸軍側10名はいずれも禁固4年、海軍側は古賀、三上の禁固15年を最高に、13年1名、2年2名、1年11名という結果であった。
これに対して民間側20名は、橘の無期を筆頭に、大川・後藤・池松武志各15年、最低3年6ヶ月となった。
橘は下獄にさいし、「自分に与えられた無期の判決は青年将校の身代りになりえた」 と洩らした。

首相を失った犬養内閣は事件の翌16日総辞職した。 
軍部は事件の結果を最大限に利用し、
それを政党攻撃のプロバガンダとするとともに、 
「純真なる青年将校」を政治圧力として自己の発言権をいっそう強化することに成功した。

「教養人の昭和史5」 現代教養文庫 昭和42年発行

 

・・・


昭和7年は今でも有名な事件が目白押しだが、
やはり「満州国」に関する事が目につく。


前年度(昭和6年=1931)に柳条湖事件勃発、15年戦争が始まっている。
その流れの延長で昭和12年に、日中戦争が起こり、
昭和16年には太平洋戦争。
昭和20年に敗戦。

昭和7年は15年戦争の2年目、
以後、日本は発狂したかのように神国化したが、国土は焼け野原になって終わった。

こうしてみると、
木堂先生が満州国を認めようとしなかったのは、
自己の命を懸けてでも国を護るという、本当の”国士”だったとも思われる。

 

・・・

■昭和7年の出来事

1月8日  李奉昌 桜田門外で天皇の馬車に爆弾を投げる
1月26日 相撲界の革新を叫び天竜ら脱退
1月28日 上海事変
2月9日 前蔵相・井上準之助暗殺
2月22日 肉弾三勇士の戦死を軍部が発表
2月2日 リットン調査団来日
3月1日  満州国の建国宣言
3月5日  三井合名理事長・團琢磨暗殺
3月24日  中野重治らプロレタリア作家検挙される
4月2日 東京の上野駅が新築落成
4月18日 浅草の活弁・楽士3千人がトキー映画に反対してストライキ
5月9日  大磯・坂田山心中事件
5月1日  チャップリン来日
5月13日  五・一五事件 犬養首相殺害
5月26日  斎藤実内閣成立
6月22日  警視庁特高警察部を設置
7月24日  全国労農大衆党と社会民衆党が合同社会大衆党を結成
7月27日  文部省農漁村に20万人の欠食児童と発表
8月7日 ロスアンジェルス・オリンピックの実況放送が行われる
10月1日  東京市の人口497万人余 世界第2位の大都市となる
10月1日 リットン調査団報告書が届く
10月3日 満州へ武装移民団410人出発
11月1日  大日本国防婦人会が発足
11月10日  日本橋・白木屋デパートで火災

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

・・

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

大阪のゴーストップ事件の2ヶ月前のこと。
福山で暴行事件があり、男を拘留した。
ところが、その男は福山聯隊の陸軍将校だった。
結局、警察が軍に謝罪し、事件は終わった。

 

・・・

「福山市史・下」  福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

異境で苦労しているであろう兵士への感謝の念と、
「暴支膺懲」の宣伝とが市民内部で相乗的に増幅して、
戦争支持が世論となり、批判の材料が与えられないまま無謀な戦争に引き込まれていったのである。
このようななかで、
昭和8年(1933)4月14日、
軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。
市内のカフェーで福山聯隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、これを取り押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は、
「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」
と逆ねじをくわせ、
第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」
と迫った。

結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。
非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、
結局聯隊側の言い分に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件であるといえる。
聯隊長は地方都市では「小大名的存在」であっただけに、
時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

(福山歩兵41聯隊跡)

 

撮影日・2023.3.28

 

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。
それが道路横断の信号機を見た初めてだった。
前を見ると赤、横を見ると青。
道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、
何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。
結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。

知られているように、
「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、
戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、
人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。

警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、
戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。

警官が戦前偉ぶっていた時代、
商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、
道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。
ところが、捕まえた男は兵隊だった。

 

・・・

陸軍は”皇軍の威信”にかかわると逆上。ついには天皇の耳にまで届いた。

・・・・

実録・天六交差点の対決(昭和8年)

「NHK歴史への招待23」 鈴木健二  NHK出版 昭和57年発行

 

(中村一等兵)

 

昭和8年6月17日、北大阪の通称天六交差点で小さな事件がおこった。
信号を無視しして渡ろうとした男に、巡査が注意した。
男は「憲兵以外の言うことはきかぬ」とけんかとなった。

男は陸軍第八聯隊の一等兵だった。
軍は、
「皇軍の威信に関する重大問題である」と警察に陳謝を求めた。

警察は、予期せぬ軍の強硬姿勢にがぜん緊張し、軍の発表から二時間半後に
「兵隊が私人で通行している時は、一市民として従ってもらいたい」と発表した。

こうして軍と警察は真っ向から対立することになった。
事件から9日後、
大阪府知事と第四師団参謀長が会談、一度、二度・・・決別。
一兵士と一警察官の争いは、第四師団と大阪府の対立に発展し、
「ゴーストップ事件」と呼ばれた。

 

(戸田巡査)

 

・・・・


当時国際連盟脱退などを通じて軍は、勢力を急速に台頭させ、
横暴ぶりを露骨に現わし始めていた。

一方、警察は特高を中心として、戦争に反対の共産党員を検挙するという実績をあげ、その力を国民に示していた。


・・・・


泥試合になっていった。

大阪憲兵は、巡査の尾行をつけ、身辺調査を始めた。
戸籍と名が違う、「府は無責任だ」。

警察は一等兵の過去を徹底調査、
「計7回の交通違反をしている」、
しかし馬糞の処理を怠ったとかいうささいなものばかり。

・・・

 

事件から一ヶ月後、ついに訴訟となった。
師団は憲兵隊へ告訴。瀆職(とくしょく)、傷害、名誉棄損などの罪。
市民の関心の高まりは、時代を反映してか、軍を応援するものが圧倒的に多く、
警察側には批判的な声が相次いだ。

・・・


事件から三ヶ月後、
大阪地方裁判所から第四師団および大阪府警に意見書が出された。
互いに刑事責任があり、喧嘩両成敗の判断を示した。
しかし、軍は激しく反発。謝罪の要求を崩さなかった。
暗礁に乗り上げた。

 

・・

10月半ばすぎ、
陸軍特別大演習が福井県で始まった。
天皇は荒木陸相に、
「大阪にゴーストップ事件なるものがあるそうだが、
あれはどうなったか?」
と下問があった。
陸相はただちに動き、急転直下、円満解決を見るに至ったのである。
第四師団参謀長と、
大阪府警察部長が、
互いに挨拶を交し合ってすべて水に流そうというものである。
そして、お互いに抱き合って終わった。

 

(和解する県警部長と師団参謀長)

 

(何も知らされず握手する、戸田巡査と中村一等兵)

・・・


それ以来、
警察の軍人に対する態度は消極的となった。
軍人や軍隊に手をつけることは我が身が危ないと身をもって知ったのである。

 

・・・


陸軍大演習がらみで解決(?)は、煙突男も知られている。

煙突男

川崎市の紡績工場の煙突に男が登った。
煙突の上で5日間過ごし、群集・見物の1万人が見上げ騒いでいた。
その時期に、
昭和5年陸軍特別大演習(福山市、浅口市ほか)があり、岡山に向かう天皇に汽車の窓から騒ぎを見られたくない関係者は、
男の要求をのんで、天皇が通る前に煙突からおろした。
男は2年後、山下公園で遺体で発見された。警察は「事故死」、世間では「拷問による虐殺」と伝えられる。

・・・

 

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五・一五事件・その2

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

小田県庁門 笠岡市笠岡 2023.4.3 (犬養毅は明治6~8年、小田県に勤務した) 

・・・

 

「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行

犬養首相、海軍将校らに暗殺される

昭和7年5月15日の夕方5時半ごろ、
三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍の士官候補生5名からなる一団が、
二台の自動車に分乗して首相官邸の表玄関と裏玄関に乗りつけた。
そして警護の巡査2人を撃ち、官邸でくつろいでいた76歳の犬養首相を襲った。
頭部に二発の銃弾を受け、同夜11時26分、絶命した。

・・・

妙乗寺 笠岡市笠岡 2014.2.9 (犬養毅の所属した小田県地券局があった)

 

・・・


「歴史街道」 2023・6月号

昭和史の分岐点
五・一五事件

政党政治の頂点を示した浜口内閣

浜口内閣はロンドン海軍軍縮条約を結ぶことに成功する。
ところが、天皇の「統帥権を犯している」として、海軍などが反発した。
浜口は一歩も引かず、枢密院に対しても果敢に論争を挑み、同意を取り付けた。
昭和5年11月、浜口首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。
翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満州事変が起こる。
若槻礼次郎内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進んだ。
柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、
当時の国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。
軍部は中国を懲らしめ、満州国という理想の国家をつくろうとしている---
そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

昭和6年12月若槻内閣は総辞職、その後を立憲政友会の犬養毅が継いだ。
翌年
昭和7年3月「満州国」建国が宣言された。
五・一五事件のわずか二か月前のことである。

報道される戦果に接するうちに
「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えているのは軍人ではないか」
として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、
失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、
現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。
「首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」
と当時の国民の多くが同情を寄せ、
減刑嘆願する署名活動が始まった。
手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まった。

五・一五事件に始まる対外戦争への道
五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、
昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、
「軍部がいなければ、クーデターを防げなかった」
とプラスの評価をされるようになった。
軍部が起した事件で、より軍部が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、
盧溝橋で軍事衝突が起こる。
この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが
ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

・・・

 

「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行
クーデターの下地を作った農村の疲弊

海軍側将校らの裁判が進むにつれて、全国から減刑を求める声が高まった。
三上中尉らの
「疲弊の極にある農村を救って健全な軍隊をつくらねばならぬ」
という陳述や、
資本主義の農村搾取を怒り、国家改造をはたしたのちにアジアを白人から解放しようという言葉に、説得力を感じさせる社会状況があった。

・・・

「歴史街道」 2023・6月号

 

青年将校たちはなぜ減刑されたのか

荒木陸相と大角海相は、大臣講話を出し、
青年将校らの行為は間違っていた、としながらも、その動機を
「至純」と評して、
「涙なきを得ぬ」と同情をあらわにした。
特に陸軍側は「私心なき青年の純真」を称えた。
満州事変を境に軍へ接近しつつあった大手メディアも、
被告の公私にわたる情報を盛んに報道し、
在郷軍人団体や教育関係者などが、減刑嘆願運動を担っていた。
当時は、
軍人を裁く権限が軍部にあったことにも注意する必要がある。

 

・・・

「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


日本は深刻な人口危機に直面しており、
それを解決するには軍事的な拡張しかない、というのが大方の見方であった。
国内の指導者はいずれも弱腰で優柔不断に見え、
一方で国民の意思と公徳心は後退していた。
増大する一方の人口と産業とをまかなっていくためには、
欧米列強に匹敵するようなそれなりの大帝国を手にしなければならない、
というわけである。

こうした考えが間違っていたことはほどなく歴史が証明することになる。
この考えに起因する戦いは無残をきわめた。
そして第二次大戦後の日本は、
帝国がなくなってかえって、
従来よりもはるかに繫栄し、成功した国家となったのである。

・・・

 

 

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五・一五事件

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

犬養木堂の選挙区は岡山県二区で、
父も母も、その選挙区内に住んでいたが投票権はなかった。
男性は25歳以上で選挙権、
女性には選挙権も被選挙権もなかった。

 

木堂翁は、普選にたいへん尽力した政治家。
昭和3年2月20日の「第16回衆議院議員総選挙」が、国政では初めての普通選挙。
この時、家では
祖父と曾祖父が生まれて初めて投票所に行っている(と思うが棄権しているかもしれない)。
祖父は明治生まれで平成まで生きたが、戦前の政治や政治家の話をしているのを見たことがない。

 

この選挙に、政界を引退していた木堂翁は無理やり立候補することになり、13,680 票で5位(最下位)で当選した。
翌年政友会総裁就任。

・・・
昭和6年(1931)9月、満州事変。
昭和6年(1931)12月、首相就任。
昭和7年(1932)5月、暗殺。76才。(その後、犯人は全員恩赦で釈放された)

 

・・・

 

(岡山市吉備津 2023.4.30)

 

・・・

5.15事件


サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。

5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。

事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。

道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。


・・・・

・・・・

 


城山三郎「落日燃ゆ」新潮社


(5.15事件の4ヶ月後)

日本政府は満州国を承認。議会も満場一致で賛成した。
これにより、関東軍の本庄司令官は爵位を与えられ、板垣、石原らの参謀連は要職に栄転した。
軍はいよいよ思い上がった。
天皇の御意向に背いたかも知れぬが、結果としては、日本の利益になったではないか。
天皇の御意向に忠実なのは「小忠」、天皇にご心配をおかけしても、皇国の発展になるようなら、それこそ「大忠」である。

それに、満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清・日露に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、「生命線」と考えるようになっていた。
朝鮮人80万人を含む日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、南満州鉄道の整備をはじめ、大連港の拡張、多くの炭鉱や鉱山の開発がされた。
満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。

万里の長城以北にある満州は「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、匪賊が跳梁する土地でもあった。


・・・・


5.15事件

サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。

たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。

軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。

 

・・・・

 

 

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犬養木堂⑥5.15事件後の国政

2022年06月07日 | 昭和元年~10年

(岡山市吉備津)

 

木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方
木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、事件はその付けが回った要因も大きい。

清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。

 

”無私”

(笠岡市今井公民館)

 

・・・・


「日本の歴史20」  岩波書店 1976年発行

斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。
はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。
概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、
軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、
無謀な「自主外交」を賛美し、
侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。

荒木陸相は皇国・皇軍・皇道をふりまわす精神家であるが、政治的才幹には乏しく、
「大和民族の満蒙支配たることは之を否むること能はさるなり」と述べている。
米ソに対し、万一の時は武力戦も辞せず、ときには連盟脱退もありうる、とした。

組閣直後、関東軍司令官より強硬な働きかけがあり、政党がこれに迎合した。
満場一致で「満州国」承認決議が可決された。
東京市民は祝賀会を開き、旗行列、提灯行列がくり出された。
リットン調査団の報告書提出の半月前であったことは、明らかに連盟に対する挑戦であった。

10月2日、リットン報告書が公表された。
融和的であったが、
翌3日の新聞は、
「全編随所に日本の容認しえざる記述」と評し、この頃「アジア・モンロー主義」がさかんに唱えられ、排外主義は高揚された。
世論は急速に軍部の希望する方向に傾斜していった。

内務省に国民更生運動中央委員会ができ、
言論機関や在郷軍人会・青年団を利用し愛国心高揚にのり出した。

昭和8年(1933)3月、ついに国連を脱退した。
日本は国際的孤立に陥り、軍部は総力戦体制を急いだ。
左翼運動の弾圧、皇国イデオロギーや軍国主義を高揚する行事が広汎に開催された。
脱退後、日本の最も恐れた連盟の経済制裁がなかったことは、
断固として所信を貫徹すれば連盟恐るるに足らずという観念を生ぜしめた。

・・・・・

 

 

 

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ズロースのはじめ

2022年04月15日 | 昭和元年~10年

ズロースは白木屋百貨店の火災がきっかけである、という本や新聞記事がよくあるが、実際はどうなんだろう?

母は火災前の、昭和6年頃にお腰からズロースに変わり、
おばも火災前の、昭和5年頃には既にズロースをはいてる。
なお、父方と母方の祖母とも、一生お腰のまま過ごしている。

少なくとも白木屋の火災は、いわれているほどには関係ないように思える。
ズボンやスカートの普及とも関係がいくらかある。
たぶん、
昭和になってから女性はズロースをはき始め、
戦時中からズボンを履くようになったのであろう。

昭和は、食べる物が激変したが、着るものも一変した。

 

・・・・・

(昭和7年、白木屋の火事)


「隅っこの昭和」 出久根達郎  角川書店 平成18年発行
 
ズロース

日本女性にズロースが普及するきっかけは、昭和7(1932)年12月16日の、日本橋の白木屋デパートの火災、といわれる。
和服の女性たちが、裾があらわになるのを恥じて飛び降りるのをためらい、逃げ遅れて焼死した。
しかし、むしろ関東大震災が、下着革命をうながしたようである。
関東大震災は、東京から江戸のなごりを一掃した。
関東大震災は、女性の服装も変えた。
被災時の逃げまどう姿から、洋服の利点を覚ったのかも知れない。
白木屋火災は写真が、普及に拍車をかけたということか。

・・・・・・


母の話(2013.7.15)

お腰、腰巻は赤やピンクがあったり、
冬になればネルのにしたり。
巻いて紐で結びょうた。
小学校の5年か6年からズロースをはくようになった。
おじいさん(母の実父)が、井原に出ちゃあズロースを買うてきてくりょうた。

・・・・・

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21

着物を着た記憶はない。
小学生からズロース。

 

 

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夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日  ~雑誌「主婦の友」~

2022年03月08日 | 昭和元年~10年


「ニッポンの主婦100年の食卓」  主婦の友社  2017年発行

夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日

夫はサラリーマンで、朝家を出て夕方まで帰らず。
妻は自分の裁量で家事をこなします。
当時の女性にとっては、夢の暮らし。

お見合いや家どうしの約束で結婚を決めた当時、
未婚女性は「箱入り」にされ、自由を制限されていました。
でも、
理解と収入のある夫と結婚して「主婦」になれば、
旅行やスポーツも楽しめます。
当時の記事には、山登り、海水浴、スキー、テニス・・・レジャー記事が満載。
まさに「青春」だったのです。






昭和6年

20歳前後の若い花嫁と、サラリーマンの夫。
「朝はクリームと粉(おしろい)で簡単にお化粧」
「朝食はパンと紅茶、果物」
「小鳥を飼う」
などリッチな感じ。
「買い出しは御用聞きにまかせる」
「寝る前には家計簿」
などは、大正時代から『主婦之友』が強調している賢い主婦像であった。


・・








・・・・・
管理人記・
リッチなのか、性付家政婦なのか、はっきりしない。
ちょっと世間離れしているような思いがする。

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満州帝国の日本人

2021年12月01日 | 昭和元年~10年
満州国の建国については、史書に必ず出るのが石原莞爾の思想や、日清・日露戦争からの利権に関する日本の国家的犠牲者数と膨大な国費であって、
けっして
そこに住む異国民のことが考慮されたことはなかった。

そのため、1945年の悲劇が生じたが
悲劇の人はまた加害者であった。
が、それを言う人は2022年の今も誰もいない。





満州帝国

「いのちと日本帝国 14」 小松裕 小学館  2009年発行

日本では不可能な使用人を置いた派出な生活。
そんな満州で育った日本人小学生が日本に修学旅行に来ると、
日本の女性はなぜあんなに働くのだろうと不思議に思い、
人力車夫や荷物運搬夫などを見ては、
日本には日本人の苦力(クーリー)が多い、と感じたという。

お金を稼ぐことを目的に満州に来た日本人が多かったので、
その目的が達成できれば帰国する人が多く、人口の流動が激しかった。

そのような満州の日本人社会をリポートした水野葉舟の「満州で見た日本婦人」が、
『婦人公論』1926年11月号に掲載された。
水野は、満州の日本人が、自分たちの区域のなかに
<まるで牡蠣のようになって閉じこもって、鎖国>
していることを指摘し、
現地の生活に適用しようとはせずに、酷寒の満州に行っても和服で通して身体をこわす日本婦人などの姿を描いた。

水野のレポートに触発された山川菊枝は「日本民族と精神的鎖国主義」と題する文章を、『婦人公論』1927年(昭和2)1月号に発表した。

山川は、この世に生まれたときから、日本は<地上の楽園>であり、
日本人は世界一優秀な民族で、それ以外の国や民族は<辺土>であり
<皇化に浴せぬ蛮人>であるということを聞かされつづけてきた日本人が、
植民地に行って<どうして虚心坦懐、謙抑平静な心をもって、異民族に学び、
異郷の風土に適順しようとする心持になりえよう?
敵意と排他心以外の感情を持って、他国と他国人に対することがどうしてできようか>
と述べた。

そして、日本人にとっての真の問題は、
<植民地的能力の問題>以前に、
<偏屈な郷土愛的愛国心と民俗的優越感の問題>
であるとして、
それが
〈日本人自身の解放の最大の障害になっている>
と指摘したのであった。

植民地で生活した日本人にほぼ共通することであったが、
満州の日本人にとっては、
異文化に適応し、異民族から学ぼうとする姿勢が、決定的に欠けていたのである。


「いのちと日本帝国 14」 小松裕 小学館  2009年発行






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婦人の公民権獲得運動

2021年08月28日 | 昭和元年~10年
婦人の公民権獲得の運動は、魁の人たちは世の人から、たいへん冷ややかな目でみられていたであろう。その中で活動した。

戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。
首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。



(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)




「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

岡山の婦人参政権獲得運動

岡山県特別高等警察課の調査資料によると、
1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇場で中国民報社主催のもとに、阪神から婦人弁士を招いて坂本鶴子(代議士の義妹)らの出演により、婦人参政問題を議論したことがある。

1926年(大正15)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相婦人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、
東京から会長らを招いて岡山、西大寺、倉敷の各地で演説会を開き、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来、支部長坂本鶴子、横山正江らを中心に月2回の婦人問題研究会やお茶の会を開き、パンフレットやビラをつくって宣伝につとめ、
各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解のある候補者の応援演説に駆け付け、議会に対して本部とともに請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。

1929年には岡山県会に公娼廃止建議案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
1929年4月現在の支部員は60数名。
婦人公民権は本年5月10日衆議院で可決されたが、13日貴族院の審議未了で実現しなかった。





「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

「婦人」の登場

『家の光』の発行部数は、「婦人」の地位向上と連動していた。
これには大きな理由がある。

戦前における女性解放運動は農村の無学な女性たちがその歴史的な前提条件を築いていたからである。
農家の女子は一家の衣食の世話を引き受けてすることは勿論、田畠の仕事をする、一家の会計も多くは主婦の任ずるところだ。

この論考は、日本の主要な輸出品である綿糸や絹織物の生産がもっぱら女性の「勤勉労働」によるものであることに注意を喚起する。
「日本国は日本の男子は我が婦女に対して深い感謝を表すべきである」。

要するに農村においては、女性が男性と対等の労働力だったのだ。
そこから男女間の社会的地位の平準化が進んでいく。


「働く婦人」

男子普通選挙制度が確立する。
つぎは女性参政権ということになった。
まず政友会が「婦人選挙法案」を持ち出す。
ついで民政党も地方レベルでの「婦人参政権」で対抗する。
欧米の主要国で女性参政権がないのはフランスとイタリアだけであり、
日本においても女性参政権は時間の問題に過ぎなかった。
問題は選挙権の付与にふさわしい「社会からの敬意に答えようとする」女性になれるかだった。

農村の女性は身近な生活実感レベルからの男女同権をめざし、
参政権には漸進主義的な態度をとっている。
たとえば『家の光』昭和7年7月号には、
「参政権よりももっと大事な問題は、家庭内でもっと自由を与えられ、
女といえば奴隷のようにされる境涯を脱出したいのです」
着物を仕立て直し、機を織り、養蚕がだめならクルミの栽培で借金を返す。
福神漬けを茶菓子の代用とし、夜なべ仕事で得たわずかな額ではあっても貯金をする。
恐慌化の農村を支えていたのは女性たちだった。


恐慌が促す社会進出

参政権といった政治的な地位向上よりもさきに、女性の経済的な地位向上が進んでいた。
助産婦、女優、看護婦、女給はもとより
美容師、裁縫師、タイピスト、電話交換手、会計、車掌、教員、事務員、飛行家、医師、そして巡査までにも、
どしどしと領域を広め男の領域をも侵略しつつある。
なぜこうなったか。
恐慌が女性の社会進出を促した。
夫の収入を補うためにやむなく仕事に就く。それが事実として、女性の地位向上をもたらすことになった。

同じ1931(昭和6)年、満州事変が勃発した。
国防婦人会が誕生し、「エプロン」(割烹着)が制服になり軍部の支援を受けた。
主な活動は出征兵士の見送りなど、停滞期が訪れた。







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