しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満洲国建国と「試験的移民期」

2024年07月29日 | 昭和元年~10年

「満蒙開拓団」は、
農民家族ごと移民する「分村移民」と、未成人・青年による「青少年義勇軍」がある。

時期的には、
昭和11年までを「試験的移民期」で、昭和12年以後の「20ヶ年100万戸移住」移民がある。

移民の勧誘は、国からのノルマ数があり、達成に苦慮したようだ。
日米開戦後は「分村移民」と「義勇軍」とは同じ移民扱いに統一される。
移民は終戦の年までつづいたが、
ソ連の侵攻後は逆に国から棄てられ、さまざまな苦難と悲劇が生じた。

 

・・・・・・・・


「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


満洲国建国

つぎの大きなエポックは、またも突如として日本と中国の秩序関係をくずした「満洲国」の建国、
すなわち中国からの分離である。
日本陸軍が満洲の領有計画を修正したものの分離独立を強引にすすめた結果であった。 

その建国式典は1932(昭和7)年3月1日にあげられた。 
満洲国の最高の地位についたのは、 日本軍によってつれてこられた溥儀元清国皇帝で、執政として、一応の形をととのえた。
しかし、日本陸軍(関東軍)が経営するのは誰の目にも明らかだった。
世界のほとんどすべての国がこれを日本の傀儡国家と見て、日本の敗戦までその評価は変わらなかった。
結局これはアジア・太平洋戦争の遠因になるが、日本国内は湧いた。
というべきか、少なくとも表面的には祝賀行事一色になるが、識者の見方はもはや表面には出なかった。
日本の帝国主義的行為を批判する社会主義者は、この期間を通じて回復不可能な弾圧を蒙っていた。
この陸軍的植民地の出現は、在郷軍人にも影響を与えることになる。
卑近な事例では、満洲国に必要な 警察官への転職斡旋を本部はしてくれるかという問い合わせがふえてきたというのである。
日本人一般においても、ここで一旗あげられるかと思う者もでてきた。
農村の恐慌はまだつづいていたのだった。
そしてこれより少し後になるが、満洲国軍がつくられると、日本陸軍の指導のもとに補助軍隊として利用されることになる。
その軍隊への就職の道も開かれた。
日本陸軍で下士官だった者は満洲国軍の将校に任用されることになる。

・・・・・・・

試験移民

「第一回満蒙移民」の現況と募集が発表された。 
現在、満蒙にある第二、第八、第一四の東北各師管から農業従事者で既教育在郷軍人の中から選定されたとした。
気候風土が似ていること、移住した時風俗習慣を同じくすることで、統制、親和に便利であるという理由であった。
選定された者は9月に予備教育を受け、10月中旬に移住地へ行く予定とされた。
移住者には、旅費、農具費、家畜費、被服費、家屋建築費など計635円相当の移住関係費補助が見積もられた。
ほかに、移住してからの月間補助、収穫までの補助若干もみられた。
これが満蒙武装移民のはじまりである。

この第一次武装移民416人は10月中に満州佳木斯に到着した。
以後この実験的満州移民はなくなり、やがては日本農村の分村移民が主体になり、
村を二分して満州に移住した。
百万戸移住が拓務省の移民政策であった。

・・・

どこまでつづくぬかるみぞ

日本軍が満洲での軍事作戦をほぼ終了し、満洲国を建国した後も、満洲は不安定な治安状況であった。 
パルチザンによる抵抗がつづけられ、在満の日本軍は絶えず戦闘をつづけていた。
日本軍による表現でいえば、匪賊の討伐である。
その表現は早くから使われた。 
満洲国内に出没する匪賊の潰滅をはかる軍事行動がとられた。
その作戦を討匪行という。
満洲在地中国人の表現では反満抗日運動(戦争)とする。 
満洲国の樹立に反対し日本軍と戦うの意である。
藤原義江が歌った「討匪行」はそのころ国民の間でも広く歌われるようになった。

どこまでつづくぬかるみぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜

という歌詞が哀調のあるメロディにのって歌われた。

この匪賊=反満抗日軍は、当初は中国軍隊の残存兵だったが、
やがて、日本人移民が極めて安い土地代を与えて収奪した土地で農業を営んでいた現地農民、生業を奪われたものたちが主体になっていた。
「住民は匪賊の群に投ずるか或はこれと連絡をとらねば生命、財産の安全は期し得られないやうな悲惨な境遇にあった」。
そういう状況で何度か匪賊の襲撃にあい、屯墾団も何人かの死者を出した。

 

・・・

「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行


満州へ

昭和初期の世界恐慌は日本にも及び、昭和恐慌となって企業倒産や失業者の増大が相次いだ。
それは全国の農村においても米やその他の農産物の価格が下落し、農家の生活は慢性的に困窮していった。
その上人口増による耕地面積の不足が予測されるようになると、満州への移民が考えられるようになってきた。
特に昭和6年(1931)の満州事変、
そして翌年日本によって作られた満州国の建国によって、国民の間に満州進出への機運がたかまり、
農業移民の送り出しが関東軍や拓務省によって進められるようになってきた。

 

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「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

満蒙開拓団


日本では満州と内蒙古を満蒙(中国東北部)と称し、昭和6年(1931)の満州事変以後、
満蒙の安定支配を目指した関東軍の要請を請けて農業移民送出論が高まっていった。
また相次恐慌の打撃をうけて農産物価格の下落が激化して、慢性的な疲弊が深刻化した農村の経済問題の打開策が求められた。
政府は満蒙の開拓武装集団として治安維持・支配強化をはかるとともに、
農山村救済の一端として過剰人口の解決をはかるために次男・三男を農業移民として集団的に送り出した。

昭和7年6月、自治農民協議会が3万2千人の署名を添えて農民救済請願書を衆議院に提出した。 
農家負債の三年据置き、満蒙移住費5千円などを請願した。 
破綻した農家や零細農民に広大な満蒙の地への移民による再出発、自作農民になれるとの幻想を抱かせたのであろう。
同年9月、拓務省は第一次移民団を大連に送り出し、満州移民が始まった。

 

・・・

「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


農村窮乏の緩和、
満州での日本人の増加、
さらに、関東軍の戦力の補助をも兼ね、
現地人の土地を収奪した後に、
昭和7年から昭和11年にかけて 4次にわたる武装移民団が試験的に満州に送り込まれた。

・・・

 

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満州事変と爆弾三勇士

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

36人が各3人1組となって導火線の点いた爆弾かついで敵の鉄条網へ向かった。
ところが、そのうちの1組が途中でこけた。
それを見た隊長は、「戻るな!」と命令。
それで戻れず3人は爆死した。


その二日後の新聞記事。
隊長「国の為に死んでくれ」
隊員「皇軍万歳」
と叫びつつ3人は壮烈無比なる戦死を遂げた。


新聞と同時に国民は熱狂した。
新聞、ラジオ、芝居、銅像、歌、玩具、雑誌、映画に、
軍神であり英雄であり知らぬ人のない著名人となった。

子どもたちは”三勇士ごっこ”で遊び、
運動会では”三勇士競争”。


・・・

三人で爆弾をかかえた勇士のことは、
(我が家では)戦後もつづいた。
母はよほど感動していたのか、
小学生である管理人に何度も同じ話を聞かせてくれた。

・・・

 

(Wikipedia)

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


爆弾三勇士


軍部は鉄条網爆破の三人の死を誇大に報道することになった。
この三兵士は爆弾三勇士、あるいは肉弾三勇士と呼ばれるようになった。
そして、新聞紙が別々にたたえる歌を募集、競作になって三つの歌ともに国民に歌われるようになった。
なかでも有名になったのは当時詩壇の長老、与謝野鉄幹の作詞「爆弾三勇士」(『東京日日新聞』選定)である。
そして 劇化されて上演される。
やがて、銅像もつくられる。
日清戦争の木口小平、日露戦争の広瀬中佐(海軍)、 橘中佐(陸軍)につぐ昭和の軍国美談になった。
戦場の激戦が連日報道されると、銃後が湧く。
緊張もひろがる。

愛国号献納運動は上海事変の戦況報道でさらに拡大した。
ほとんどの飛行機献金はこの上海事変期間中に飛躍的に伸びた。
実際に上海戦では航空機の動きが目立ち、両軍の空中戦闘もあった。
それが銃後に反映されたのである。

・・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

新聞の役割

もう一つの慰問金運動については、新聞の役割がもっとも大きかったことを認めておかなければならない。
新聞は一方で戦況を伝えて戦争をあおる役割を果たしつつ、
多数の一般市民を献金に動員した。
その献金の届け先は陸軍もしくは海軍で、その取扱いにあたっては在郷軍人会の全国組織が利用されたわけである。
こうして、新しい戦争イベントの中に在郷軍人分会は地域の大衆の一部分として、また在郷軍人会の全国ネットの枠組みの中での役割をえたというべきであろう。
こうして、この時期、在郷軍人会は銃後の要に位置するようになった。


映画の役割

また、この時期の”情報”においては映画の役割にも注意が必要である。
三原分会が活動写真会を開い観衆を集めたように、
在郷軍人会は国防思想の普及宣伝に映画(活動写真)を利用した。
講演と同じくらいに在郷軍人会本部は映画フィルムを貸し出している。
1931年以後年々増えて、1934年には1434回に及んでいる。
映画の利用は大正末期から始まっていた。
満洲事変の原因の一つにあげられる中村大尉事件が開戦後すぐに映画化されていたのに驚かされるが、
当時の映画製作は短期間で事件の余韻のあるうちに上映された。
1932年に入って上海事変が起きると、 爆弾三勇士の劇化映画化もそのスピードで行なわれている。
そして、“活動写真”でありさえすれば大衆は先を争うように見に行った。
大衆動員の大きな道具になったのである。


銃後の形成

新聞社の慰問献金は1931年10月16日の『朝日新聞』(東京・大阪とも)社告ではじまったようである。
2ヶ月後には約23万円、さらに半年後には約45万円に達した。
これが満洲事変の銃後形成に果たした役割は大きい。
愛国機献納運動の嚆矢(こうし)は10月下旬、東京市駒場青年団の10銭拠金だが、軍用飛行機献納運動は府県と大都市の地方行政機構に献金の主導権が移った。そうでなければ実現不可能であった。 
こうして満洲事変ではじめて「銃後」の形成をみた。

満洲事変の銃後は上海事変の勃発によって全国的に固まった。
上海事変は、最初、1932年1月28日の中国正規軍と上海駐留の海軍陸戦隊との武力衝突で始まった。 
陸戦隊は苦戦をつづけ、ついに陸軍の出動になる。
まず、金沢の第九師団、ついで宇都宮第一四師団、善通寺第一一師団が派遣される。 
満洲に送られた兵力より多い出動になった。
全国的な動員を見たわけである。

上海に上陸した最初の陸軍兵力、第九師団はすぐに激戦にさらされた。
攻撃路を開くため鉄条網の爆破が必要になり、
爆薬を抱いた三人の工兵がその身もろとも突っ込んで爆破に成功したという兵士の美談。


・・・


「福山市史 下」 福山市 昭和58年発行


満州事変下の福山 

昭和6年9月19日早朝、市民の耳目をいっきょに外に向けさせる事件の発生が伝えられた。
関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、以後15年間に及ぶ戦。
満州事変、日中戦争・太平洋戦のきっかけとなった。15年戦争という。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞・ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・恤兵金・肉弾三勇士などのキャンペーンを行なったので、
福山においても、そうした動きが活発になった。
9月24日、朝日新聞社の主催で市内3ヶ所(大黒座、盈進商業、誠之館)で開催された満州事変映画会には、 
木曜日の昼間であったにもかかわらず、2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼間に劣らぬ盛況で、 
「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会排日資料展や、
第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などが開かれるが、
福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、
福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東 ・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

3円の為替を呉海軍鎮守府へ送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。
満州事変は、国民の間に起こった恤兵金・慰問袋などの慰問運動をはじめとするさまざまの行為が「美談」に仕立てられたことで、きわだった特色をもっている。
こうした「美談」は、子どもから大人までも巻き込み、
学童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行なった献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報ぜられている。
また、第五師団や在郷軍人会の首唱により、兵器献納資金の酸金も全国にさきがけて行なわれ、67万円を集めて軽爆撃機4機が献納され、
うち一機は「第33福山号」と命名された。

慰問袋は愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、
日用品のほか子どもたちの図画や作文がそのなかに入れられた。
そのすさまじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。

このほかさまざまのことが「美談」に仕立てられた。
春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、 
金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり孤を作ってえた金を寄付し、
増川・門田高女生徒が千人針やお守り袋を送付し、出征・看護婦従軍志願者が血書を提出して志願 したことなどが、
「自発的=国家主義!懸念ヲ発揮」した「時局美談」として、市町村の手で宣伝された。

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昭和6年満州事変起こる、昭和7年上海事変起こる

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

昭和の初期、「不景気」「娘の身売り」など社会不安の中、
「満州事変」は起こり、海軍は陸軍に遅れずと「上海事変」を起こした。

戦勝の報道に、国民は興奮し旗行列・提灯行列で迎合した。
以後は一貫して太平洋戦争へと戦争の一本道。
”15年戦争”の始まりであった。

 

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


満州事変起こる

「(昭和6年9月)18日の夜は降るような星空であった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
時刻は10時過ぎ、轟然たる爆発音と共に切断されたレールと枕木が飛散した。 
こうして柳条溝事件にはじまる「十五年戦争」の幕は落とされた。

 

・・・


「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

関東軍の独走ぶりに、政府はもちろん、西園寺公爵あたりも、「実に今日は困った状態に なった」「実に困った実情である」と嘆息をくり返した。
若槻首相は嘆き、
「日本の軍隊が日本の政府の命令にしたがわないという奇怪な事態となった」
「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という関東軍独立説までささやかれた。

暴走したのは、関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、「軍司令官が管外に出兵するときは、奉勅命令による』という規定に背き、
天皇の御裁可もまだ届かぬ先に、関東軍応援のために、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州へ送った。


昭和6年12月、若槻内閣が「事変処理に対する政治力の欠如と内閣改造に対する閣員の意見不一を理由に退陣。
政友会単独の犬養内閣がつくられると、青年将校に人気のある皇道派の荒木貞夫中将が、まだ五十四歳の若さで陸軍大臣となった。
この荒木の人事によって、軍は参謀総長に閑院宮載仁親王をかつぎ出した。
参謀総長が外務大臣あたりに文句をいわれてはおもしろくない。
皇族であり軍の長老である閑院宮を戴くことで、統帥部として威圧を加えようというのである。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。
この新しい軍中央は、積極策に寛大になった。そして、 翌昭和7年1月には、事変は、上海に飛び火した。

関東軍は独走し続け、3月には満州国建国宣言が行われた。
5月15日、犬養首相は海軍将校の一団に襲われて斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。 

9月15日に、日本政府は満州国を承認。
議会も満場一致でこれに賛成した。


満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清、日露の両戦争に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、また「生命線」と考えられるようになっていた。
そこは、「10万の英霊、20億の国幣」が費やされた土地であり、単なる隣国の一部ではないという感覚が育っていた。
事実、昭和5年におけるわが国の満州への総投資額は16億を越え、これは満州における全外国資本の七割を占めていた。
そして、朝鮮人80万人をふくむ日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、長春・旅順間の南満州鉄道の整備をはじめ、大連の拡張が行われ、多くの炭鉱や鉱山の開発がなされた。
また満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。
これらの地域は、関東軍や日本の警察が警備するところから、治安も良く、
それまで軍閥や匪賊に悩まされていた民衆が、他の地域から流入し続けた。
万里の長城以北に在る満州は、「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、その間に匪賊 が跳梁する土地でもあった。

一方、日本の国内は、世界恐慌の波にさらされて、不景気のどん底に在った。
失業者は街に溢れ、 求職者に対する働き口は10人に1人という割合。
それにもまして農村、とくに東北の農村地帯は、冷害による凶作も加わって、困窮を極めていた。 
娘を売るだけではない。
事変で出征する兵士に、「死んで帰れ」と、肉親が声をかける。
励ますのではない。戦死すれば、国から金が下りる。その金が欲しい。

植民地らしい植民地を持たぬ日本にとって、満州こそ、残されたただひとつの最後の植民地に見えた。
しかも、関東軍の石原莞爾参謀たちは、これを植民地としてでなく、 
日本人をふくめたアジア諸民族の共存共栄の楽土にするという意気ごみであった。
「五族協和」そし 「王道国家の建設」がうたわれた。
ロマンチックな夢を、石原たちは抱き、これがまた、国民の多くに受け容れられる夢にもなった。

関東軍の突出は、屏息寸前の日本に 活路を拓いたという見方も強かった。
大方の新聞論調がそうであり、議会が満場一致で満州国を承認したのも、そのためであった。

 

・・・

「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


戦争の拡大と町民の生活
昭和恐慌

昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の暴落と海外金利の低下という世界経済の中で、
昭和5年1月21日、米ナショナル=シティ銀行は日本から米国に正貨(金)を現送した。
前年11月に決まっていた金解禁が現実化したのであった。
これにともなって金貨の大量海外流出を招き、日本円は円高になった。
円高になると日本製商品の価格は上昇し、輸出は減少しだした。 
世界恐慌は日本に波及し、昭和恐慌と呼ばれ、この不況は昭和7年頃まで続いた。
当時の状態を『山陽新報』でみたい。 

昭和6年5月10日から10回にわたって「浅口郡青年座談会」を玉島で開き、それを記事にしたものである。 
金光町からも2名が参加し総勢20名の座談会であった。
新聞の見出しは、
「好い副業でもなければ貧乏人は食えぬ」、
「火の消えた様な真田」
「里庄から出る酒屋働き2千人」
「漁村は全く引合はぬ」

 

満州事変勃発

金光町には
昭和4年金光温泉が開業することに決定、
昭和5年金光駅構内に公衆電話が設置、
昭和6年金光教上水道完成。東北地方は冷害・凶作となり、農村不況はさらに深刻化した。

中国では国民政府の主導による国権回復の運動が盛り上がり、
関税の自主権の獲得、
治外法権の撤廃と関東軍の撤退と満鉄の回収要求であった。

中国はまず満鉄の独占的地位の打開をめざし、東三省で日本が求めていた新鉄道の建設を拒否する一方、 
自国鉄道敷設を進め、運賃を値下げし貨客の吸収に務めた。 
満鉄の経営不振は中国鉄道との競合の結果でもあった。
ここで台頭してくるのが関東軍の軍人達で
「満蒙の権益がおかされる」という危機意識を抱く、満蒙領有構想を持つ一派であった。
彼らは「経済上・国防上、満蒙は我が国の生命線」を合言葉としたが、
マスコミもこの言葉を抵抗なく受け入れていった。
そして、満州を日本の勢力下におこうとして武力占領を計画した。 
昭和6(1931)年6月27日中村震太郎大尉事件、同年7月2日の万宝山事件を経て、
同年9月18日柳条湖事件を起こし中国軍に攻撃を加え、満鉄沿線の主要都市を占領した。 
これが満州事変とよばれたのである。

・・・

 


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行


第一次世界大戦の戦後恐慌から始まって、
関東大震災による震災恐慌、金融恐慌、更に世界恐慌の波をかぶった農村恐慌と、
大正末期から昭和初期にかけての我が国は、息つくひまもないほどの不景気のあらしに襲われた。
特に、昭和5年(1930)に入ってから、米価・農産物価格が暴落して、農村社会の貧窮は深刻であった。
このような国情の中から、満蒙地方を日本の「生命線」として、
この地帯への民族的な進出を図ることによって、国内の矛盾を解消しようとする考えが、軍部や右翼思想家を中心に強く唱えられるようになった。
こうして、昭和6年(1931) 9月、関東軍の謀略によって始まった満州事変を手始めに、日本はいわゆる「十五年戦争」の時代に突入することになった。

戦火は、翌7年の上海事変、昭和12年(1937) 7月からの日華事変(日中戦争)へと拡大し、
更に第二次世界大戦とも連動して、昭和16年(1941) 12月8日、ついに太平洋戦争が引き起こされたのである。 

・・・

 

「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号


保阪正康の昭和史を味わう (第4回)

昭和四年から八年ごろまでの、いわゆる昭和初期、
農村は工業恐慌の影響と豊作・凶作からくる市場価格の不安定さにより、未曽有の苛酷な状態に置かれた。

昭和六年九月の満州事変は、軍部による満蒙地域の利権拡大を意図したものだが、
つまるところ日本は軍事主導による戦略で解決策をめざすことになったのである。 

・・・

 

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五・一五事件(昭和7年5月15日)

2024年05月15日 | 昭和元年~10年

大統領や首相が暗殺されることは、世界でもたまにある。
しかし国の首相が暗殺され、その犯人にたいして
助命嘆願とか、求婚をする国民がいただろうか?
残念ながら、それが昭和7年の日本であり、しかも一等国を自認する国民であった。


いったい昭和7年とは、どんな時代だったのだろう。

・・・

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

少壮軍人が前年に計画したクーデター「三月事件」と「十月事件」はともに未然に発覚したが
この年2月に井上準之助 
3月に團琢磨が”一人一殺”を唱える血盟団員の手で暗殺され 
5月15日 
陸海軍人が首相官邸を襲い 犬養首相を殺害した

・・・

 

2023年4月1日   岡山市北区吉備津・吉備津神社   

・・・


とどめを刺された 政党内閣

血盟団事件の記憶もなまなましい五月一五日の白昼、
四班にわかれた 海将兵の一隊が、首相官邸、牧野内大臣邸、警視庁、政友会本部、日本銀行、三菱銀行本店などを襲撃した。
この事件に参加した勢力は、古賀清志、三上卓海軍中尉を中心とする10名の海軍青年士官、陸軍士官候補生11名からなる行動隊、
愛鄉塾頭橘孝三郎を主領とする農民決死隊、大川周明、本間憲一郎(紫山塾頭)、頭山勇 (天行会長、頭山満の三男)、長野朗ら民間における援助者であった。
クーデター全体の指揮は古賀中尉が当たることとなり、
第一段の行動として、三上以下の第一組が首相官邸と日本銀行を、
古賀以下の第二組が牧野大臣邸を、
中村らの第三組が政友会本部を、
明大生二名の第四組が三菱銀行を襲撃、
さらに第二段の行動として、第一~三組が集合して、警視庁を襲撃、
他方、別動隊として農民決死隊が日没ごろから市内の変電所を襲撃して東京を暗黒化する。
また川崎長光が「裏切者」の西田税を射殺する。
こうして東京を混乱におとしいれ、戒厳令下に、荒木貞夫陸相を首班とする軍部政権を樹立しようというものであった。

この計画で完全に成功したのは、犬養首相の暗殺だけであった。
首相官邸にいた犬養は「話せばわかる」といって制止したが、「問答無用!」のことばとともに拳銃で射殺された。
その他の各所では拳銃を発射して手榴弾を門前に投げるなどの示威を行なったのち、憲兵隊へ自首。


事件の公判は翌年7月から開かれた。9月にはいって下された判決は、
「青年将校決起機は諒とする」との理由で、意外に軽く、陸軍側10名はいずれも禁固4年、海軍側は古賀、三上の禁固15年を最高に、13年1名、2年2名、1年11名という結果であった。
これに対して民間側20名は、橘の無期を筆頭に、大川・後藤・池松武志各15年、最低3年6ヶ月となった。
橘は下獄にさいし、「自分に与えられた無期の判決は青年将校の身代りになりえた」 と洩らした。

首相を失った犬養内閣は事件の翌16日総辞職した。 
軍部は事件の結果を最大限に利用し、
それを政党攻撃のプロバガンダとするとともに、 
「純真なる青年将校」を政治圧力として自己の発言権をいっそう強化することに成功した。

「教養人の昭和史5」 現代教養文庫 昭和42年発行

 

・・・


昭和7年は今でも有名な事件が目白押しだが、
やはり「満州国」に関する事が目につく。


前年度(昭和6年=1931)に柳条湖事件勃発、15年戦争が始まっている。
その流れの延長で昭和12年に、日中戦争が起こり、
昭和16年には太平洋戦争。
昭和20年に敗戦。

昭和7年は15年戦争の2年目、
以後、日本は発狂したかのように神国化したが、国土は焼け野原になって終わった。

こうしてみると、
木堂先生が満州国を認めようとしなかったのは、
自己の命を懸けてでも国を護るという、本当の”国士”だったとも思われる。

 

・・・

■昭和7年の出来事

1月8日  李奉昌 桜田門外で天皇の馬車に爆弾を投げる
1月26日 相撲界の革新を叫び天竜ら脱退
1月28日 上海事変
2月9日 前蔵相・井上準之助暗殺
2月22日 肉弾三勇士の戦死を軍部が発表
2月2日 リットン調査団来日
3月1日  満州国の建国宣言
3月5日  三井合名理事長・團琢磨暗殺
3月24日  中野重治らプロレタリア作家検挙される
4月2日 東京の上野駅が新築落成
4月18日 浅草の活弁・楽士3千人がトキー映画に反対してストライキ
5月9日  大磯・坂田山心中事件
5月1日  チャップリン来日
5月13日  五・一五事件 犬養首相殺害
5月26日  斎藤実内閣成立
6月22日  警視庁特高警察部を設置
7月24日  全国労農大衆党と社会民衆党が合同社会大衆党を結成
7月27日  文部省農漁村に20万人の欠食児童と発表
8月7日 ロスアンジェルス・オリンピックの実況放送が行われる
10月1日  東京市の人口497万人余 世界第2位の大都市となる
10月1日 リットン調査団報告書が届く
10月3日 満州へ武装移民団410人出発
11月1日  大日本国防婦人会が発足
11月10日  日本橋・白木屋デパートで火災

「1億人の昭和史」 毎日新聞  1975年発行

・・

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」その二・福山市、軍・警の対決

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

大阪のゴーストップ事件の2ヶ月前のこと。
福山で暴行事件があり、男を拘留した。
ところが、その男は福山聯隊の陸軍将校だった。
結局、警察が軍に謝罪し、事件は終わった。

 

・・・

「福山市史・下」  福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

異境で苦労しているであろう兵士への感謝の念と、
「暴支膺懲」の宣伝とが市民内部で相乗的に増幅して、
戦争支持が世論となり、批判の材料が与えられないまま無謀な戦争に引き込まれていったのである。
このようななかで、
昭和8年(1933)4月14日、
軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。
市内のカフェーで福山聯隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、これを取り押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は、
「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」
と逆ねじをくわせ、
第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」
と迫った。

結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。
非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、
結局聯隊側の言い分に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件であるといえる。
聯隊長は地方都市では「小大名的存在」であっただけに、
時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

(福山歩兵41聯隊跡)

 

撮影日・2023.3.28

 

 

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昭和8年6月17日 「実録・天六交差点の対決」

2023年06月17日 | 昭和元年~10年

小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。
それが道路横断の信号機を見た初めてだった。
前を見ると赤、横を見ると青。
道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、
何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。
結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。

知られているように、
「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、
戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、
人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。

警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、
戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。

警官が戦前偉ぶっていた時代、
商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、
道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。
ところが、捕まえた男は兵隊だった。

 

・・・

陸軍は”皇軍の威信”にかかわると逆上。ついには天皇の耳にまで届いた。

・・・・

実録・天六交差点の対決(昭和8年)

「NHK歴史への招待23」 鈴木健二  NHK出版 昭和57年発行

 

(中村一等兵)

 

昭和8年6月17日、北大阪の通称天六交差点で小さな事件がおこった。
信号を無視しして渡ろうとした男に、巡査が注意した。
男は「憲兵以外の言うことはきかぬ」とけんかとなった。

男は陸軍第八聯隊の一等兵だった。
軍は、
「皇軍の威信に関する重大問題である」と警察に陳謝を求めた。

警察は、予期せぬ軍の強硬姿勢にがぜん緊張し、軍の発表から二時間半後に
「兵隊が私人で通行している時は、一市民として従ってもらいたい」と発表した。

こうして軍と警察は真っ向から対立することになった。
事件から9日後、
大阪府知事と第四師団参謀長が会談、一度、二度・・・決別。
一兵士と一警察官の争いは、第四師団と大阪府の対立に発展し、
「ゴーストップ事件」と呼ばれた。

 

(戸田巡査)

 

・・・・


当時国際連盟脱退などを通じて軍は、勢力を急速に台頭させ、
横暴ぶりを露骨に現わし始めていた。

一方、警察は特高を中心として、戦争に反対の共産党員を検挙するという実績をあげ、その力を国民に示していた。


・・・・


泥試合になっていった。

大阪憲兵は、巡査の尾行をつけ、身辺調査を始めた。
戸籍と名が違う、「府は無責任だ」。

警察は一等兵の過去を徹底調査、
「計7回の交通違反をしている」、
しかし馬糞の処理を怠ったとかいうささいなものばかり。

・・・

 

事件から一ヶ月後、ついに訴訟となった。
師団は憲兵隊へ告訴。瀆職(とくしょく)、傷害、名誉棄損などの罪。
市民の関心の高まりは、時代を反映してか、軍を応援するものが圧倒的に多く、
警察側には批判的な声が相次いだ。

・・・


事件から三ヶ月後、
大阪地方裁判所から第四師団および大阪府警に意見書が出された。
互いに刑事責任があり、喧嘩両成敗の判断を示した。
しかし、軍は激しく反発。謝罪の要求を崩さなかった。
暗礁に乗り上げた。

 

・・

10月半ばすぎ、
陸軍特別大演習が福井県で始まった。
天皇は荒木陸相に、
「大阪にゴーストップ事件なるものがあるそうだが、
あれはどうなったか?」
と下問があった。
陸相はただちに動き、急転直下、円満解決を見るに至ったのである。
第四師団参謀長と、
大阪府警察部長が、
互いに挨拶を交し合ってすべて水に流そうというものである。
そして、お互いに抱き合って終わった。

 

(和解する県警部長と師団参謀長)

 

(何も知らされず握手する、戸田巡査と中村一等兵)

・・・


それ以来、
警察の軍人に対する態度は消極的となった。
軍人や軍隊に手をつけることは我が身が危ないと身をもって知ったのである。

 

・・・


陸軍大演習がらみで解決(?)は、煙突男も知られている。

煙突男

川崎市の紡績工場の煙突に男が登った。
煙突の上で5日間過ごし、群集・見物の1万人が見上げ騒いでいた。
その時期に、
昭和5年陸軍特別大演習(福山市、浅口市ほか)があり、岡山に向かう天皇に汽車の窓から騒ぎを見られたくない関係者は、
男の要求をのんで、天皇が通る前に煙突からおろした。
男は2年後、山下公園で遺体で発見された。警察は「事故死」、世間では「拷問による虐殺」と伝えられる。

・・・

 

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五・一五事件・その2

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

小田県庁門 笠岡市笠岡 2023.4.3 (犬養毅は明治6~8年、小田県に勤務した) 

・・・

 

「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行

犬養首相、海軍将校らに暗殺される

昭和7年5月15日の夕方5時半ごろ、
三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍の士官候補生5名からなる一団が、
二台の自動車に分乗して首相官邸の表玄関と裏玄関に乗りつけた。
そして警護の巡査2人を撃ち、官邸でくつろいでいた76歳の犬養首相を襲った。
頭部に二発の銃弾を受け、同夜11時26分、絶命した。

・・・

妙乗寺 笠岡市笠岡 2014.2.9 (犬養毅の所属した小田県地券局があった)

 

・・・


「歴史街道」 2023・6月号

昭和史の分岐点
五・一五事件

政党政治の頂点を示した浜口内閣

浜口内閣はロンドン海軍軍縮条約を結ぶことに成功する。
ところが、天皇の「統帥権を犯している」として、海軍などが反発した。
浜口は一歩も引かず、枢密院に対しても果敢に論争を挑み、同意を取り付けた。
昭和5年11月、浜口首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。
翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満州事変が起こる。
若槻礼次郎内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進んだ。
柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、
当時の国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。
軍部は中国を懲らしめ、満州国という理想の国家をつくろうとしている---
そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

昭和6年12月若槻内閣は総辞職、その後を立憲政友会の犬養毅が継いだ。
翌年
昭和7年3月「満州国」建国が宣言された。
五・一五事件のわずか二か月前のことである。

報道される戦果に接するうちに
「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えているのは軍人ではないか」
として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、
失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、
現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。
「首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」
と当時の国民の多くが同情を寄せ、
減刑嘆願する署名活動が始まった。
手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まった。

五・一五事件に始まる対外戦争への道
五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、
昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、
「軍部がいなければ、クーデターを防げなかった」
とプラスの評価をされるようになった。
軍部が起した事件で、より軍部が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、
盧溝橋で軍事衝突が起こる。
この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが
ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

・・・

 

「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行
クーデターの下地を作った農村の疲弊

海軍側将校らの裁判が進むにつれて、全国から減刑を求める声が高まった。
三上中尉らの
「疲弊の極にある農村を救って健全な軍隊をつくらねばならぬ」
という陳述や、
資本主義の農村搾取を怒り、国家改造をはたしたのちにアジアを白人から解放しようという言葉に、説得力を感じさせる社会状況があった。

・・・

「歴史街道」 2023・6月号

 

青年将校たちはなぜ減刑されたのか

荒木陸相と大角海相は、大臣講話を出し、
青年将校らの行為は間違っていた、としながらも、その動機を
「至純」と評して、
「涙なきを得ぬ」と同情をあらわにした。
特に陸軍側は「私心なき青年の純真」を称えた。
満州事変を境に軍へ接近しつつあった大手メディアも、
被告の公私にわたる情報を盛んに報道し、
在郷軍人団体や教育関係者などが、減刑嘆願運動を担っていた。
当時は、
軍人を裁く権限が軍部にあったことにも注意する必要がある。

 

・・・

「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


日本は深刻な人口危機に直面しており、
それを解決するには軍事的な拡張しかない、というのが大方の見方であった。
国内の指導者はいずれも弱腰で優柔不断に見え、
一方で国民の意思と公徳心は後退していた。
増大する一方の人口と産業とをまかなっていくためには、
欧米列強に匹敵するようなそれなりの大帝国を手にしなければならない、
というわけである。

こうした考えが間違っていたことはほどなく歴史が証明することになる。
この考えに起因する戦いは無残をきわめた。
そして第二次大戦後の日本は、
帝国がなくなってかえって、
従来よりもはるかに繫栄し、成功した国家となったのである。

・・・

 

 

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五・一五事件

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

犬養木堂の選挙区は岡山県二区で、
父も母も、その選挙区内に住んでいたが投票権はなかった。
男性は25歳以上で選挙権、
女性には選挙権も被選挙権もなかった。

 

木堂翁は、普選にたいへん尽力した政治家。
昭和3年2月20日の「第16回衆議院議員総選挙」が、国政では初めての普通選挙。
この時、家では
祖父と曾祖父が生まれて初めて投票所に行っている(と思うが棄権しているかもしれない)。
祖父は明治生まれで平成まで生きたが、戦前の政治や政治家の話をしているのを見たことがない。

 

この選挙に、政界を引退していた木堂翁は無理やり立候補することになり、13,680 票で5位(最下位)で当選した。
翌年政友会総裁就任。

・・・
昭和6年(1931)9月、満州事変。
昭和6年(1931)12月、首相就任。
昭和7年(1932)5月、暗殺。76才。(その後、犯人は全員恩赦で釈放された)

 

・・・

 

(岡山市吉備津 2023.4.30)

 

・・・

5.15事件


サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。

5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。

事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。

道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。


・・・・

・・・・

 


城山三郎「落日燃ゆ」新潮社


(5.15事件の4ヶ月後)

日本政府は満州国を承認。議会も満場一致で賛成した。
これにより、関東軍の本庄司令官は爵位を与えられ、板垣、石原らの参謀連は要職に栄転した。
軍はいよいよ思い上がった。
天皇の御意向に背いたかも知れぬが、結果としては、日本の利益になったではないか。
天皇の御意向に忠実なのは「小忠」、天皇にご心配をおかけしても、皇国の発展になるようなら、それこそ「大忠」である。

それに、満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清・日露に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、「生命線」と考えるようになっていた。
朝鮮人80万人を含む日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、南満州鉄道の整備をはじめ、大連港の拡張、多くの炭鉱や鉱山の開発がされた。
満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。

万里の長城以北にある満州は「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、匪賊が跳梁する土地でもあった。


・・・・


5.15事件

サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。

たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。

軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。

 

・・・・

 

 

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犬養木堂⑥5.15事件後の国政

2022年06月07日 | 昭和元年~10年

(岡山市吉備津)

 

木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方
木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、事件はその付けが回った要因も大きい。

清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。

 

”無私”

(笠岡市今井公民館)

 

・・・・


「日本の歴史20」  岩波書店 1976年発行

斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。
はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。
概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、
軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、
無謀な「自主外交」を賛美し、
侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。

荒木陸相は皇国・皇軍・皇道をふりまわす精神家であるが、政治的才幹には乏しく、
「大和民族の満蒙支配たることは之を否むること能はさるなり」と述べている。
米ソに対し、万一の時は武力戦も辞せず、ときには連盟脱退もありうる、とした。

組閣直後、関東軍司令官より強硬な働きかけがあり、政党がこれに迎合した。
満場一致で「満州国」承認決議が可決された。
東京市民は祝賀会を開き、旗行列、提灯行列がくり出された。
リットン調査団の報告書提出の半月前であったことは、明らかに連盟に対する挑戦であった。

10月2日、リットン報告書が公表された。
融和的であったが、
翌3日の新聞は、
「全編随所に日本の容認しえざる記述」と評し、この頃「アジア・モンロー主義」がさかんに唱えられ、排外主義は高揚された。
世論は急速に軍部の希望する方向に傾斜していった。

内務省に国民更生運動中央委員会ができ、
言論機関や在郷軍人会・青年団を利用し愛国心高揚にのり出した。

昭和8年(1933)3月、ついに国連を脱退した。
日本は国際的孤立に陥り、軍部は総力戦体制を急いだ。
左翼運動の弾圧、皇国イデオロギーや軍国主義を高揚する行事が広汎に開催された。
脱退後、日本の最も恐れた連盟の経済制裁がなかったことは、
断固として所信を貫徹すれば連盟恐るるに足らずという観念を生ぜしめた。

・・・・・

 

 

 

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ズロースのはじめ

2022年04月15日 | 昭和元年~10年

ズロースは白木屋百貨店の火災がきっかけである、という本や新聞記事がよくあるが、実際はどうなんだろう?

母は火災前の、昭和6年頃にお腰からズロースに変わり、
おばも火災前の、昭和5年頃には既にズロースをはいてる。
なお、父方と母方の祖母とも、一生お腰のまま過ごしている。

少なくとも白木屋の火災は、いわれているほどには関係ないように思える。
ズボンやスカートの普及とも関係がいくらかある。
たぶん、
昭和になってから女性はズロースをはき始め、
戦時中からズボンを履くようになったのであろう。

昭和は、食べる物が激変したが、着るものも一変した。

 

・・・・・

(昭和7年、白木屋の火事)


「隅っこの昭和」 出久根達郎  角川書店 平成18年発行
 
ズロース

日本女性にズロースが普及するきっかけは、昭和7(1932)年12月16日の、日本橋の白木屋デパートの火災、といわれる。
和服の女性たちが、裾があらわになるのを恥じて飛び降りるのをためらい、逃げ遅れて焼死した。
しかし、むしろ関東大震災が、下着革命をうながしたようである。
関東大震災は、東京から江戸のなごりを一掃した。
関東大震災は、女性の服装も変えた。
被災時の逃げまどう姿から、洋服の利点を覚ったのかも知れない。
白木屋火災は写真が、普及に拍車をかけたということか。

・・・・・・


母の話(2013.7.15)

お腰、腰巻は赤やピンクがあったり、
冬になればネルのにしたり。
巻いて紐で結びょうた。
小学校の5年か6年からズロースをはくようになった。
おじいさん(母の実父)が、井原に出ちゃあズロースを買うてきてくりょうた。

・・・・・

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21

着物を着た記憶はない。
小学生からズロース。

 

 

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