しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂

2021年06月04日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区吉備津  吉備津神社前
ブロンズ
作者 朝倉文夫
像高 300cm 台高 700cm
昭和9年 犬養木堂顕彰会建立
(戦時中の昭和18年に「銅像の出陣」で供出されたが、戦後再建)



犬養木堂先生は、岡山県が生んだもっとも高名な政治家。
典型的な井戸塀政治家で、長い政治人生の最後に首相になり、首相のまま人生を終えた。

木堂先生の中国政策が成功すれば、15年戦争の終息の可能性があった。
(軍とテロの狂気の時代で、その可能性は極めて少なかっただろうが)






犬養毅

犬養には常に毀誉褒貶がつきまとった。

第一次憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに「憲政の神様」とあがめられた。
犬養の演説は、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。

その犬養が藩閥政権である寺内正毅内閣の外交調査会に入ったものだから、
たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。
「神様」から「変節漢」へとその落差は大きい。

その後も山本権兵衛内閣や護憲三派の加藤高明内閣に加わった。
ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷のような気がする。

犬養は普通選挙の実現をはじめ、
経済的軍事論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。
その実現のため、よりましと見る政権に加わったとみるべきだ。

山県有朋が「政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養毅と頭山満だけだ」という話があるが、
犬養はほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。


そうした犬養が首相の座に着いたのはいくつかの偶然が重なっている。
政界を引退した。(大正14年)
選挙民が本人了解なしに当選させた。
政友会総裁田中義一が急死した。跡目でもめたので、犬養が総裁になった。
浜口首相が狙撃され退陣。
満州事変で混乱、野党第一党に政権が来た。

犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求は拒否し、
中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。

犬養の解決案は、
満州国の形式的所有国は中国にあることを認めつつ、
実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。

・・・・・・

5・15事件以降、
総選挙で第一党となった政党党首を首相に推すという慣行に終止符が打たれた。
これ以後、元老や重臣会議の推す「挙国一致内閣」が敗戦までつづいた。
また、満州事変を外交交渉で解決する道が閉ざされた。

戦前の日本にわずかに育っていたひ弱い民主政治が打ち砕かれ、
協調外交の芽がつみとられた象徴的な事件だった。


「実録首相列伝」 学習研究社  2003年発行



5・15事件のテロリストは”国を憂う”動機が純粋である、という報道により全国から減刑嘆願書が新聞社等に寄せられた。
結果、刑は軽く後の2.26事件の呼び水となった。
山本七平(イザヤベンタサン)氏によれば、このテロリストの中には戦後国政選挙に立候補した人もいるそうだ。💢



撮影日・2008年10月23日


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ライオン宰相浜口雄幸

2021年06月04日 | 銅像の人
場所・高知県高知市五台山  「五台山公園」

浜口首相は歴代総理でも指折りの高貴な人と思えるが、不運な首相でもある。
首相在任時期が世界不況と重なったこと。
岡山へ発つとき、東京駅で銃撃され退陣(その後死亡)したこと。






「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

浜口雄幸

官僚出身ながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、
謹厳実直さもあいまって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が、浜口雄幸である。

浜口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、激動の時代だった。
この激動を乗り切って首相の座に登りつめたのは、浜口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して
彼を押し上げたいった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。
浜口は大蔵省入省、
その後有能さを後藤新平が財界入を口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。
やがて蔵相を歴任した。
憲政会の幹部として影響力を増していった。


国際協調といわれる軍縮に賛同するする姿勢が終始一貫していたのは注目される。
海軍は88艦隊確立のため、国防費増額を主張していた。
特にアメリカが国際社会の中で早晩一番の大国となるのは明らかであり、
「我が国の貧しさを以って米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、
「我が国は英米二国の海軍力に追従することを能わず」とまで述べている。


日本の国力を知る浜口は、米英との対決は不可能であることを理解していた。
大戦後、
戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から軍縮財政へ取り組んだ。
幣原喜重郎外相を重用して国際協調路線を貫いた。










「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行


ロンドン会議


加藤寛治軍令部長と水次信正次長の反対意見は、必死の努力によって東郷元帥や伏見宮ならびに軍事参議官たちを動かした。
しかし浜口首相は会議決裂の危険をおかすことはできないと言明した。
「これは自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また自分の身命を失うとも奪うべからざる堅き決意なり」
という浜口の言葉には、悲壮な覚悟が示されている。

この浜口の決断を、
元老西園寺公望、内相牧野伸顕、宮内大臣一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎ら昭和天皇のまわりの人々はこぞって支持した。
海軍の長老山本権兵衛と斎藤実(朝鮮総督)の両大将も浜口首相に賛意を表している。

しかし、後に艦隊派とよばれることになる反対派は
いったんは同意しながら、帷幄上奏を決意した。

浜口内閣の軍縮政策に対しては、世論は一般に好意的であった。
しかし右翼団体と政友会は猛然と反対した。


統帥権問題

昭和5年4月21日、第5回特別議会が召集されると、いわゆる統帥権問題がにわかに重大化した。

統帥権とは、
大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあるのをいう。
加藤軍令部長が不満を持っていることに乗じて、右翼ばかりでなく、
野党の政友会までが、浜口内閣の統帥権干犯を弾劾しはじめた。

「用兵の責任にあたっておる軍令部長は、この兵力量では国防はできないと断言している」と、
犬養政友会総裁は声を励まして質問した。
政友会の大幹部鳩山一郎は、
「国防問題は統帥府の責任であり、政府が変更するのは、一大政治的冒険だ」と迫った。
もともと日和見主義的な鳩山一郎は論外として、

日本の立憲政治を確立するため生涯を捧げてきた犬養毅が、
常備兵器の決定まで国務大臣の輔弼事項から閉め出そうとしたことは、
惜しんでも余りある。



張作霖の爆殺事件に露呈された陸軍の軍国主義化は、海軍軍令部の不満と連動して。不穏な空気を醸成した。







なお、浜口首相銃撃犯人・佐郷屋留雄は、「陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述した。
判決は死刑→(恩赦)無期→出所→戦後右翼団体で活動。天寿を全うした💢


撮影日・2018年3月24日

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原敬

2021年06月04日 | 銅像の人
場所・岩手県盛岡市内丸  県公会堂前








「岩手県の歴史」 森嘉兵衛  山川出版社 昭和47年発行   

原敬

安政3年(1853)、岩手郡本宮村に生まれる。
井上馨に知られ外務省にはいる、中国・フランスに駐在、
その才能は広く内外に知られたが、大隈外相とあわず農商務省に移り、
ここで陸奥宗光に知られ局長となり、日清講和会議の当時は次官に登用された。
しかし大隈が外相となるや辞任し、野にくだり大坂毎日新聞編集長となり、
特異の論陣をはって毎日新聞の紙価を高めた。

明治33年、伊藤博文政友会を創立するやまぬかれて幹事長となり、伊藤内閣の逓信大臣に任ぜられた。
36年盛岡より衆議院議員に当選し、この地区は模範選挙区と称せられるにいたった。
以来、内務大臣となること3回、大正6年政友会総裁、大正7年原内閣を組織し、
大正10年11月4日、東京駅頭で中岡良一のために刺殺されるまで、首相として第一次大戦の戦後処理に大いに業績をあげ、
再三授爵の沙汰があったが、政治信条として華族を浴せず、
わが国最初の平民宰相として、長く政界の範となった。







「首相列伝」  学習研究社  2003年発行
原敬

大正7年(1918)に成立した原敬内閣は、わが国初の本格的政党内閣とされる。
それは
原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、
また閣僚も陸・海・外の三相以外はすべて政友会会員があてられたためである。

原内閣の政策は、
外交は対米英協調主義、
対華二十一か条要求などで悪化しいた中国との関係改善を通じ、英米との協調を図ろうというもの。
援段政策(段祺瑞を援護する政策)を早々に打ち切った。

第一次世界大戦のあとのパリ講和条約で、国際連盟が決められ、日本は理事国となった。
しかし、シベリア出兵の撤兵が進まなかった。

選挙権制度を改正し直接税10円以上から3円以上に引き下げた。

山県との正面衝突を避けながら、切り崩した。

大正10年11月4日、東京駅で刺殺された。
原亡き後、政党政治はバランスを失ってしまう。








「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行

平民宰相の暗殺

大正10年11月4日、原敬首相は京都での立憲政友会大会に出席するため、東京駅におもむき、駅長の先導で改札口の方へ進んでいった。
そのときとつぜん、青年が飛び出し、短刀で原の左胸を突いた。
原は駅長室にかつぎこまれ、まもなく死亡した。
犯人はその場で逮捕された。
中岡艮一といい、18歳の山手線大塚駅の見習い手だった。
一国の首相が公衆の面前で暗殺され、国民に大きな衝撃を与えた。


(犯人中岡艮一は無期懲役になったが、3度の恩赦で生きのび、昭和55年、77歳で死亡)
←(首相を暗殺した犯人でありながら、天寿を全うする)これも衝撃だ💢






撮影日・2018年8月6日


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