場所・岡山県岡山市北区吉備津 吉備津神社前
ブロンズ
作者 朝倉文夫
像高 300cm 台高 700cm
昭和9年 犬養木堂顕彰会建立
(戦時中の昭和18年に「銅像の出陣」で供出されたが、戦後再建)
犬養木堂先生は、岡山県が生んだもっとも高名な政治家。
典型的な井戸塀政治家で、長い政治人生の最後に首相になり、首相のまま人生を終えた。
木堂先生の中国政策が成功すれば、15年戦争の終息の可能性があった。
(軍とテロの狂気の時代で、その可能性は極めて少なかっただろうが)
犬養毅
犬養には常に毀誉褒貶がつきまとった。
第一次憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに「憲政の神様」とあがめられた。
犬養の演説は、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。
その犬養が藩閥政権である寺内正毅内閣の外交調査会に入ったものだから、
たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。
「神様」から「変節漢」へとその落差は大きい。
その後も山本権兵衛内閣や護憲三派の加藤高明内閣に加わった。
ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷のような気がする。
犬養は普通選挙の実現をはじめ、
経済的軍事論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。
その実現のため、よりましと見る政権に加わったとみるべきだ。
山県有朋が「政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養毅と頭山満だけだ」という話があるが、
犬養はほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。
そうした犬養が首相の座に着いたのはいくつかの偶然が重なっている。
政界を引退した。(大正14年)
選挙民が本人了解なしに当選させた。
政友会総裁田中義一が急死した。跡目でもめたので、犬養が総裁になった。
浜口首相が狙撃され退陣。
満州事変で混乱、野党第一党に政権が来た。
犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求は拒否し、
中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。
犬養の解決案は、
満州国の形式的所有国は中国にあることを認めつつ、
実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。
・・・・・・
5・15事件以降、
総選挙で第一党となった政党党首を首相に推すという慣行に終止符が打たれた。
これ以後、元老や重臣会議の推す「挙国一致内閣」が敗戦までつづいた。
また、満州事変を外交交渉で解決する道が閉ざされた。
戦前の日本にわずかに育っていたひ弱い民主政治が打ち砕かれ、
協調外交の芽がつみとられた象徴的な事件だった。
「実録首相列伝」 学習研究社 2003年発行
5・15事件のテロリストは”国を憂う”動機が純粋である、という報道により全国から減刑嘆願書が新聞社等に寄せられた。
結果、刑は軽く後の2.26事件の呼び水となった。
山本七平(イザヤベンタサン)氏によれば、このテロリストの中には戦後国政選挙に立候補した人もいるそうだ。💢
撮影日・2008年10月23日
ブロンズ
作者 朝倉文夫
像高 300cm 台高 700cm
昭和9年 犬養木堂顕彰会建立
(戦時中の昭和18年に「銅像の出陣」で供出されたが、戦後再建)
犬養木堂先生は、岡山県が生んだもっとも高名な政治家。
典型的な井戸塀政治家で、長い政治人生の最後に首相になり、首相のまま人生を終えた。
木堂先生の中国政策が成功すれば、15年戦争の終息の可能性があった。
(軍とテロの狂気の時代で、その可能性は極めて少なかっただろうが)
犬養毅
犬養には常に毀誉褒貶がつきまとった。
第一次憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに「憲政の神様」とあがめられた。
犬養の演説は、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。
その犬養が藩閥政権である寺内正毅内閣の外交調査会に入ったものだから、
たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。
「神様」から「変節漢」へとその落差は大きい。
その後も山本権兵衛内閣や護憲三派の加藤高明内閣に加わった。
ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷のような気がする。
犬養は普通選挙の実現をはじめ、
経済的軍事論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。
その実現のため、よりましと見る政権に加わったとみるべきだ。
山県有朋が「政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養毅と頭山満だけだ」という話があるが、
犬養はほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。
そうした犬養が首相の座に着いたのはいくつかの偶然が重なっている。
政界を引退した。(大正14年)
選挙民が本人了解なしに当選させた。
政友会総裁田中義一が急死した。跡目でもめたので、犬養が総裁になった。
浜口首相が狙撃され退陣。
満州事変で混乱、野党第一党に政権が来た。
犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求は拒否し、
中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。
犬養の解決案は、
満州国の形式的所有国は中国にあることを認めつつ、
実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。
・・・・・・
5・15事件以降、
総選挙で第一党となった政党党首を首相に推すという慣行に終止符が打たれた。
これ以後、元老や重臣会議の推す「挙国一致内閣」が敗戦までつづいた。
また、満州事変を外交交渉で解決する道が閉ざされた。
戦前の日本にわずかに育っていたひ弱い民主政治が打ち砕かれ、
協調外交の芽がつみとられた象徴的な事件だった。
「実録首相列伝」 学習研究社 2003年発行
5・15事件のテロリストは”国を憂う”動機が純粋である、という報道により全国から減刑嘆願書が新聞社等に寄せられた。
結果、刑は軽く後の2.26事件の呼び水となった。
山本七平(イザヤベンタサン)氏によれば、このテロリストの中には戦後国政選挙に立候補した人もいるそうだ。💢
撮影日・2008年10月23日