しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大阪のおじ・おばの話① 2016.1.19

2016年01月28日 | 父の話
おじは大正の最後の日に産まれたが戸籍上、昭和2年1月2日生まれ。
終戦過ぎ頃まで茂平で暮らした。
おばは昭和5年、神島内浦の生まれ。
社会人となってからは大阪が主で、定年後は高槻市に住んでいる。
2016年1月19日、久し振りに帰郷したので昔話を聞いた。

城見尋常小学校の時(昭和8年4月1日~昭和14年3月31日)
笠岡商業学校の時(昭和14年4月1日~昭和19年3月31日)


(昭和5年の陸軍特別演習は?)

記憶が・・ない。


(真田講堂が完成した時のこと、落成記念とか)

覚えてない。

(奉安殿ができた時)

ワシ等の時にはなかった。それははっきり言える・・・と思う。
金次郎は覚えておらん


(盧溝橋事件)

支那事変が起こった時、これは大変なことになると思った。
もう4~5年すると本当の戦争になるとワシが言うたんじゃ。
なんで覚えているかというと、その通りになったんじゃ。自分の(勝手な)自慢じゃ。
小学校の線路際で、旗を持って出征兵士を見送りながら思うようた。


(父が入隊する時)

ご馳走とか宴会した記憶はない(静かに入隊したようだ)


(皇紀2600年の祝い)

笠岡の港に大きな飾った船が来た。笠岡にも寄ってくれた。
それを歓迎するために学校(笠岡商業)から駆りだされたのを覚えとる。

(おば・神島内浦では)紀元は2600年と歌いながら学校(神内小)から港まで行進したのを覚えている。港には何もなかった。
歌と日の丸の記憶が強い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする