しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「砂漠の魔王」

2017年02月12日 | 城見小・他校




管理人は子供の頃、漫画を読み過ぎた。
そのため、子供の前半で漫画に飽きた。
小学校を卒業するころ漫画も卒業した。

いちばん好きだったのは「赤胴鈴之助」。
漫画は、少年画報と単行本。
ラジオは、毎日夕方聴いた。
テレビは、家に無かったので見てない。
映画は、貧しかったので見ることはできなかった。

チャンバラ漫画の植木金矢も好きだった。
漫画の主役の顔が、いつも市川歌右衛門に似ていた。

その頃、ある漫画雑誌に「砂漠の魔王」という人気作品があった。
雑誌とパッチンで見ていた。
漫画の舞台は異国。
題名に砂漠はつくが全く関係なし。日本以外の国が完全にミックスされた場所での物語。
漫画でなく絵物語。
なぜか雑誌の表紙の次のページから始まる、看板の作品だった。
それにカラー漫画だった。
これが珍しかった。
その頃、映画も新聞もカラーは無かった。

あの絵を見ると子供の頃にタイムスリップする。たぶん、そうゆう人(オトコンコ)は割合いるように思う。


「毎日新聞 第三次世界大戦」という本の表紙に載っている。

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赤線の女⑩ その終焉

2017年02月12日 | 昭和31年~35年
昭和33年に廃止された赤線は、形を変えて復活したといわれるが
日本経済は大躍進時代が始まり、戦前や戦後とは違った形の売春が始まったと思う。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する

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日本に軍政を布いたアメリカは、形式的には管理売春はないことになっていた。
男女の間に、その時だけ恋愛関係が生まれ、行為ののち男は女にプレゼントする。

昭和21年12月赤線区域を指定した。
一定の家に下宿して売春と、街路で客を引くパンパンガールと区別された。

しかし、裏面では
前借でしばられた女を抱え主が監督する管理売春だった。
また、コールガール・パンパンは
ヤクザのヒモに管理され、自由な売春婦はほとんどいなかった。

戦後の玉の井は、
陰鬱さや不潔さが一掃されたといえる。
そして営業は夕刻からになり、いわばアメリカ軍によって整理整頓された買春街になったのである。
女たちも比較的自由になった。

昭和33年4月に売春防止法が施行された。
全国39.000軒の店と、売春婦120.000人がなくなった。

各地では、すぐに旅館・ヌードスタジオ・トルコ風呂等の名目で売春組織も復活した。
玉の井は、若干の私娼は残ったものの、売春街として復活しなかった。

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赤線の女⑨ 売春婦の経歴

2017年02月12日 | 昭和31年~35年
娼婦になった理由は“貧困“と切り離せられない。
しかし、
需要の(男の)調査や分析は全くなされていない。
軍との関連性等、ほんとうは女性よりも男性側調査が必要・重要であった、と思う。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より


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売春婦の経歴
多い貧困家庭の出身

昭和4年、玉の井の売春婦の経歴を調査した。

理由
205人中
貧しい家庭を救うため・・105人
家族の病気を治すため・・45人
売春しないと食べてゆけない・・47人
家族の借金を返すため・・20人
その他

前職
650人中
飲食店の女中・・250人
農家の娘・・110人
女工・・103人
その他

前借
100円未満・・1割強
200円~400円・・いちばん多い
借金はない・・650人中78人
芸者の場合960円くらい、吉原公娼は1.220円くらいだから
私娼の前借は軽かったのである。

日中戦争がはじまってからの玉の井は、若い出征兵士が、命ある日をここですごして死地へ向かうことがしばしばあった。



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茂平の除虫菊・薄荷・養蚕の話

2017年02月11日 | 父の話
父は生前、茂平に養蚕農家はなかったと言っていた。
果物が盛んなこと、田んぼや畑に塩分があること、などが理由で
「養蚕」「葉たばこ」がみられないのが特徴と思える。

おばの話・談・2017.2.9

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畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。

除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)
菊の花を落とす。
植えるのは新涯の畑が多かった。
カド(家の庭)へひろぎょうた。
雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。
どこの家にも除虫菊はつくりょうた。


薄荷は、

新涯に薄荷を植えて、吊るして乾かしょうた
ヒヤ(の軒下に四方を)干しとった。
仲買人が買いにきょうた。


八朔

はたびらではミカン、八朔を植えとった。
うんしゅうじゃあなかった。


(さつま)芋

おじいさんが俵にして、農協へ出しょうた。


養蚕

茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。

小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた

茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。


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水落(みぞおち)の段々畑

2017年02月11日 | 父の話
この話は、どこにでもある瀬戸内地方の昔話。
管理人の実家も、海から山へ向かった段々畑でミカンや麦や芋を作っていた。

ここで農船がでていくるが、おばの時代は個人所有で「こまい船」
管理人の時代は「おおけえ船」で、三軒共同所有だった。


おばの話・談・2017.2.9

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(水落の畑に)行きしなにゃあ山をとおて、
帰りは海をとおて戻りょうた。

(水落の畑には)麦を植えて
麦を刈った後にゃあ芋を植ようた。

(水落の畑は、山の)上から下まであった。
波があるところまで畑じゃった。

麦を刈った後、株のあいだに(芋の)苗をうようた。株はうがさんで、そのままにしょうた。

ゲシにはお茶を植えとった。
お茶は買わずに、そのお茶を飲みょうた。(買えば)お金がいるけぇ。

麦を刈った後は、畑にひろげていて
実だけを唐人袋にいれて、船で持って帰りょうた。


船は、こめい(手漕ぎの)船じゃった。
こもうて一軒でいっこ(ひと船)じゃった。


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(以下は姉の話)

お父さんが福山か尾道まで買いに行った。

(管理人が乗っていたのは、この船の事のようだ。
茂平波止に繋がれた船では、いちばん巨船だった。
漁船のようにエンジンは無いし、形はだるまに似た、格好はよくない船だった)


談・2017.2.9
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昭和初期の茂平の女の子

2017年02月11日 | 父の話
女の子も元気がえかったようだ。

おばの話 談・2017.2.9

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小学校の時は毎日泳ぎにいきょうた。
浮き輪が無いけい、
利三郎おじいさんが、桐の木を切ってきて
皮を剥いで、
鑢ですって。

みんな桐ノ棒(きりんぼう)じゃった。

戻りは、トウガキ畑の池にドボンと飛び込んで
(身体に付いた)潮をおとしてから帰りょうた。

(管理人の時代は共同井戸があり、そこで釣瓶で水を汲み潮をおとして帰っていた
、危険で怖くなかったか?の問いに)
(女の子)みんないっしょだった。

オトコンコは、
「今日は神島迄行くか」
「競争していくか」
ゆうほど元気がよかった。


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大門~茂平

2017年02月09日 | 父の話
おば(父の妹)は小平井に住んでいる。
久しぶりにおばの昔話を聞いた。談・2017.2.9

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女学校時代の帰り道(昭和12~13年頃の事)

(おばは福山の増川に通学していた。大門~福山は汽車通学。
自宅から大門駅までは徒歩。
茂平~大門は、
山越え(林越え)、
河口池、
坂里峠、の3ルートがあった。)

運動会の時など、遅ぉなることがあった。
何処をいのうか?

山は真っ暗なるし、
どこを通てもきょうてぃ。

坂里を通れば、なんやらが出て山の中え連れてい行かれる、言ぅし。

結局、河口池の方になる。
たまに車が通ることがある。
車が来たら(ライトで)明るうなる、通ったらその後を駈けってついていくんじゃが、(車は去って)じきに暗ぅなる。

用之江まで帰れば、今は(茂平まで)ええ道なんじゃが、その頃は曲がりくねった道で
田んぼや、池があり、
独りでいぬるのはこわかった。

親は知らん顔をしとったが、それが当たり前の時代じゃった。
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赤線の女⑧ 管理売春の仕組み(玉の井)

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
遊郭には「籠の鳥」の歌が重なる。


あいたさ見たさにこわさを忘れ暗い夜道をただ一人
あいに来たのになぜ出てあわぬ僕の呼ぶ声わすれたか
あなたの呼ぶ声わすれはせぬが出るに出られぬ籠の鳥


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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玉の井の私娼の年齢は12歳から50歳くらいまでで、17歳~20歳が一番多かった。
ほとんどが貧しい家の娘で、前借金によって売られてきたのである。
東北地方で冷害・凶作があると新顔の若い娘が増えた。

前借金の値段は5年契約で400円以下だった。大卒月給の8か月分である。

管理売春は、抱え主が管理をしていたというだけではない。
私兵として土地のヤクザが管理を手伝っていた。
女が逃亡すればヤクザが手分けしてさがしだす。そして拷問にかけて恐怖心を植えつけた。

警察に逃げ込むと、「借金を踏み倒して逃げるのはよくない」といって連れ戻す役目をした。
警察とヤクザは仲間同士だったといってよい。

400円くらいの借金は、すぐに返済できそうに思えるが、そうはいかない仕組みがあった。
よほど利口で、売れっ子で、健康な女でないかぎり、借金は減らないのである。

衣服代は女の負担、市価より高く抱え主を通して売りつけられる。
入院代も自己負担。
食費も取られるが比較的高い。
その他、
チリ紙に至るまで高く売りつけられる。
それで、かせいでも借金の増える子が多かった。
そうなると住み替えということになった。

新しい店に買われていって、そこからの前借金で今までの借金を払う訳である。
きのうまで吉原にいた女が玉の井にきて、玉の井の女が新宿にいく。
そして、丈夫なあいだはしぼりとられて、使い捨てにされるのが大方の売春婦の運命だった。


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赤線の女⑦ 玉の井の銘酒屋

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
永井荷風の「墨東奇譚」の舞台、玉の井は遊郭ではない。
戦後は赤線に指定されたが、銘酒屋街(めいしゅやがい)といわれ、曖昧屋(あいまいや)とも呼ばれた。
その意味は酒を売るのか、料理を売るのか、女を売るのか、はっきりしないからだそうだ。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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銘酒屋は酒の酌をする女として、2名までの売春婦を置くことを許可されていた。
他に1名子守・女中の名義で女を置けた。
そういう小人数の売春組織だから何々楼という建物とはまるっきり違う小部屋で営業していた。
通常の建て方は二階に2~3部屋、四畳半と三畳二間があった。そこが売春婦たちの寝る所だった。
遊郭にいる売春婦は公娼で、政府の許可を得て売春していた。
これに対し、銘酒屋の売春婦は私娼である。しかし、銘酒屋の売春婦はお目こぼしだった。
抱え主がいての管理売春は、処罰されないのが原則だった。

昭和5年頃の玉の井は、
娼家500軒、1.000人くらいの売春婦がいた。
朝の10時から深夜まで客を呼んでいた。
ひやかしが一日8.000人位。
そのうち、客が3.000~4.000人。
ショートタイムは30分~1時間、50銭~2円。
泊まりは2~5円。

全体的に言って値段は吉原の半額くらいだった。
女たちは1日平均3人の客をこなしていた。
2円は大工等職人の日当だった。

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「公職追放」(広島県)

2017年02月06日 | 昭和21年~25年
終戦後、県知事や市町村長は首長として公職追放された訳でなく「大政翼賛会」の役員として追放されている。
教員追放は、追放者数すら不明とは、何を意味するのだろう。ゼロ数だろうか?
第三弾の人は、所属する団体が消滅したので、その時点で事実上の公職追放に当たる。衆院議員への立候補ができない現職議員に影響があった。

笠岡市史に「公職追放」はまったく触れられていない。


広島県史・現代より転記する。

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20年(1945)9月11日、元首相東条英機や戦犯容疑者の逮捕を指令した総司令部は、その後、戦時中の各界指導者の追放に乗りだした。いわゆる公職追放である。

公職追放の第一弾は、同年10月4日付けの「政治的、公民的及び宗教的自由制限の除去に関する覚書」による治安機関ないしその代行機関の責任者追放である。
地方では特高追放としてうけとられた。

第二弾は、10月31日付けの「教員および教育機関官吏の調査、・・」による、いわゆる教員追放である。
福山地方事務所管内では、師範卒業校長の辞職願い提出方を指令して、事実上の教員追放を実施したが、県下の追放者の数がどれくらいに達したのか明らかでない。
昭和21年8月までに2.311名を審査し55名を不適格者とし引き続き審査する。

第三弾は、昭和21年1月4日付けの「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」。
好ましくない人物の範囲は、A・戦争犯罪人、B・職業陸海軍職員、C・極端なる国家主義、暴力、秘密団体の分子、D・大政翼賛会、翼賛政治会の分子、E・日本膨張に関する金融機関役員、F・占領地の行政長官等。G・そいの他軍国主義者。
該当者は公職から追放されるだけなく、衆議院議員に立候補する資格も失うことになったため、地方政界に大きな衝撃をあたえることになった。

佐伯郡沖村(現能美町)では、沖村自由連盟が
同村刷新のため、村長以下全村議、農業会、漁業会の指導者の総退陣を要求した。
安芸郡府中町、瀬野村、呉市でも同様の動きがあった。

政府は総司令部の指示でAEGに該当するものの細目基準を示し、適用範囲が明確化された。
21年4月の衆院総選挙で民主議員と銘打って当選した代議士の多くが、ボス政治家のあやつり人形と指摘された。



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