しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国民優生法

2017年06月28日 | 昭和16年~19年
「産めよ増やせよ」と同時期に、疾患防止の法律ができた。
形を少し変えて現在につづいている。
なお、終戦まで断種手術の実施者数はゼロのようだ。

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以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
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遺伝性疾患を防止し優れた日本人を作るために優生手術を行うもので、昭和16年7月から施行された。
優生手術とはいわゆる断種で男女とも行われる。全国で約30万人といわれ、本年度の手術見込み数は約3.000人。費用は男子45円、女子95円、原則として国庫負担。


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「水子」青木書店より転記する。
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1948年、五大政党がすべて支持するなかで優生保護法が通った。
中絶の判断は認定医の自由裁量に任せられた。次の数十年間、中絶は日本における産児調整の手段となった。
日本は「中絶天国」であるだけでなく今や「水子ブーム」に湧いていると評された。

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カバヤ文庫

2017年06月28日 | 昭和26年~30年
戦後70数年、岡山県内から生まれたもので最も有名なのが「カバヤ文庫」。
全国を席巻したが、ちょっと期間が短かったのが残念。

「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する

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画期的な宣伝方式のカバヤ文庫

キャラメルを買うと絵本がもらえる。
昭和27年から29年にかけて、ちょうど子供向けの本が払底していた敗戦後の社会にカバヤ食品のこの商法は歓迎された。
キャラメルの箱に1点から10点までの文庫カードが入っていて50点ためると1冊の本がもらえる。
このためカバヤ児童文化研究所をつくり、池田隆政を所長に迎え、世界名作物を選んで各冊に京大・岡大はじめ大学教授の推薦文を載せた。
カバヤ文庫は2500万冊発行されたといわれる。
昭和28年には売上で明治製菓を追い越し森永製菓に迫った。






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立ち上がる遊女たち

2017年06月28日 | 大正
前借金、花柳病、外出規制、
国家が認めた遊廓も、女性にとっては奴隷と呼んでもおかしくない境遇だった。

「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する
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リンカーンに学び立ち上がる遊女たち

大正12年(1923)7月23日の昼前、着飾った女性5名が県庁を訪ね、知事への陳情書を差し出した。
西中島遊廓の娼妓たちで、高松稲荷に参詣するといって外出許可をもらってきたという。
次の要望事項は西中島の遊女全員の支持を得たものなのでご配慮願いたい。

1・外出散歩に警察の取締りを撤廃してほしい。(東警察署は本年6月以降、外出は月一回興行見物、二回神詣りの他は許さずの通達を出している)
2・婦人病を花柳病同様県費で治療してほしい。男子に与えられた婦人病の治療費を、公娼制を容認する貴官に要求する。
3・婦人病による休業は年期延長の理由とせぬよう、楼主を規制してほしい。

警察部長は、今回の陳情は当然のことで大いに同情すると談話を発表する。
報道されるや全国から彼女たちを激励する電報や手紙が殺到し、世論は彼女たちを支持し始め、楼主も無視できなくなった。
しかしどれほど受け入れられたかは、残念ながらわかっていない。

岡山県では明治10年、「貸座敷並娼妓規制」が施行され、県下24カ所で遊廓の営業が認められ、のち14カ所に整理された。これは昭和33年の売春防止法施行までつづいた。



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追記・
昭和8年に外出は自由になった。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
sssssssssssssssssssssssssssss

昭和8年(1933)年5月20日
内務省は娼妓の外出制限の項の全削除を決定した。
これにより、いちいち警察に届けて外出許可をもらわなければ外出できなかった娼妓たちの外出が一応自由になった。
内務省は娼妓の服装行動への監督矯正を強め、外出態度や取締りを注意した。
彼女たちの現実は、いままで同様に警察と楼主の監視の目にされた外出自由でしかなかった。
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木口小平の話

2017年06月28日 | 江戸~明治
白神源次郎も木口小平も実在の人物で、同じ連隊に属し、安城渡しの戦で、同時期に戦死している。
白神は船穂、木口は成羽の出身だが、父の話によると矢掛や神辺にも”木口小平”はいたそうだ。


「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する

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つくられた英雄--ふたりのラッパ手の死

明治27年(1894)7月29日、宣戦布告の三日前安城の渡しで清国軍と激しい銃撃戦があり数名が戦死した。
近衛師団の一楽手が一つの挿話を耳にした。
ただちに同僚と軍歌をつくりあげた。
弾丸咽喉を貫けど 熱血気管に溢るれど 喇叭は放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
「安城の渡し」または「喇叭の響」と題されたこの軍歌は一世を風靡した。

9月4日、白神の盛大な葬儀が行われた。地元紙「中国民報」は一人息子を失った白髪の両親への義援金募集のキャンペーンを始めた。
ところが一年たった明治28年8月30日、読売新聞は「喇叭手は白神源次郎に非ずして木口小平なり」と報じた。勇敢なる喇叭手は白神から木口にかわった。やがて木口は「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と、小学校の修身の教科書に、国民的英雄として登場したのである。

二人とも貧しい農家の跡取り息子で白神は25才独身。木口は22才、入営する前に新妻と離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全うしているが、
木口の伝記には、「小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」とある。


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農家と養蚕

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
養蚕業は相場に振り回されるが、貴重な農家の現金収入。これは昭和5~10年ごろの岡山県下の養蚕業。
この時期が日本の養蚕数の最盛期でもあった。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社

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県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。
こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。
しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。
新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された。

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北川小で国防婦人会が発足式

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
「非常時」とは、盧溝橋事件後または日米戦争時で使われた言葉と思っていたが
以外に早く昭和8年(1933)に使用されていた。
この年に「非常時女子訓練運動」が始まった。

「爆弾三勇士」も「国連脱退」もこの年。
そして「国防婦人会」が結成された。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
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国防婦人会結成

服装はカッポウ着、活動は兵士の送迎と千人針、献金と戦争協力の奉仕活動。
荒木陸相夫人を本部長に「大日本国防婦人会」と決まった。
陸軍省の管轄下で、分会方式をとり学区、町内単位とともに工場分会、芸妓などの分会と下部大衆を組織していった。
4月9日、県下初の国防婦人会設立総会が北川村の北川小学校で行われた。
5月6日、第一回大日本国防婦人会関西本部大会があり出席。
6月25日、福島紡績笠岡工場分会が発足。




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労研マントウ

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
父や母が食べていたローマン(労研マントウ)は名の通り、労働研究から生まれた。

以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社
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ローマンと倉敷労働科学研究所

1931年(昭和6年)、労研マントウ、略してローマンの名で売り出された蒸しパンが人気を呼んだ。
これは倉敷労働研究所が中国人が常食するマントウを改良考案した代用主食だった。
1930年製法と栄養価を「労働科学研究」に発表した。その一方で、全国40の業者を指定、指導して製造販売を許可した。
1935年ローマンの指定業者は80人となった。

倉敷労研は1921年(大正10)倉敷紡績社長大原孫三郎が万寿工場内に創設した。
深夜の紡績工場の騒音と塵埃の中で働く12~15才の少女らを見せて、彼女らの労働条件改善の基礎研究を依頼した。
労働生理、心理、体質、衛生、栄養の労働現場での多様な調査研究を行った。
ローマンは研究の産物だった。
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廃娼運動

2017年06月26日 | 昭和元年~10年
昭和3年頃廃娼運動が盛り上がっている。
業者が反対して、婦人運動家が賛成するのはわかるが、肝心の娼妓の意思や意見がわからない。廃止後の処置や時代柄、無理であったような気がする。


以下転記する。
岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社


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1928年(昭和3年)廃娼運動の進展

農村の疲弊のため遊廓に売られてい行く女性は後を絶たず、不況の進行と共に深刻さを増した。
公娼制度廃止が法律案として初めて帝国議会に提出されたのは、1927年2月で、賛成署名代議士は100余人に達した。
全国貸し座敷業界の代表が続々上京し反対運動を展開、一方廓清会や矯風会も激しい示威運動を開始した。
1928年全国廃娼同志大会が東京で開催され、全国から300余人が参加した。代議士星島二朗が議会内推移を説明した。
県下では禁酒会館において廃娼連盟岡山県支部をはじめ仏教方面、禁酒会方面など各界から有力者を集め、廃娼大運動の準備会が開かれた。宗教党派を超えて全国一斉に廃娼の請願書を提出、一挙に目的達成を目指した。
この年12月県議会を前に廃娼運動は活発となり、埼玉県・福井県では議案が通過した。
岡山県会では出席者32人中反対22人で否決された。
当日は県下の貸し座敷業者100余人、女将20余人が傍聴席に座り、廃娼反対論に喜び過ぎて議長に注意された。
同じ日、福島県は満場一致で通過、秋田県も通過した。

昭和3年年末調査
東西・中島 座敷数123 娼妓465
下津井       11   36
日比        17   85
九蟠        2    3
牛窓        3    13
玉島        15    35
笠岡        16    68
倉敷        16    89
津山        19    71


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日中国交化

2017年06月22日 | 昭和41年~50年
今中国は飛行機で1~2時間、広島空港や岡山空港からもひとっ飛び。
しかし国交がない約30年間はヨーロッパやアメリカよりも遠かった。

昭和47年の田中角栄首相の訪中、共同声明によって国交正常化へ向かった。
山陽新聞より転記する。

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2017年6月14日・山陽新聞
「人生を語る」・日中国交正常化 元通産事務次官 小長啓一


田中角栄さんは「一番難しい問題に挑戦し、決断しなければならない。あとは歴史の審判を待つ」と話されていた。
「毛沢東主席、周恩来首相の革命一代目のうちに解決しないと、2代目、3代目になると利害関係が複雑になり話がまとまらなくなる」

9月、大平外相や二階堂官房長官らと北京にむかった。国交のない国では何が起こるかわからない。食事に毒が盛られているかもしれないと本気で心配した人、遺書を用意した人もいた。みんな決死の覚悟だった。

北京空港では周恩来首相の出迎えを受けた。人民会堂では一人一人と握手して回り私の前に来ると「あなたが日本列島改造論のゴーストライターですか」と言った。
驚いた。中国の事前調査は大したもんだと思った。田中さんには好物のあんパンまで用意してあった。

翌日の首脳会談では過去の日中戦争が、当然最大論争点になった。
周氏は中国の十数カ所の地名を挙げ、どの場所では当時の日本軍が中国人民を何千人殺した、婦女暴行があった、家を破壊した、食糧を略奪した・・・と事実関係を詳述した。

私は別室で待機していたが、交渉が終わった直後の興奮冷めやらぬ田中さんからやり取りの一部始終を聞いた。
その後、日中共同声明の調印にこぎ着けることになる。

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捨てられた開拓移民

2017年06月12日 | 昭和20年(戦後)
満州に居た邦人は、日本政府が守ろうにも無力であったゆえ犠牲者が多かった、と思っていた。

朝日新聞によれば、本土に帰っても、
住む家も食べるものも無いので、帰らずに土着を指示したようだ。どうしょうもない悲惨な指示だ。


朝日新聞(2015年11月22日)より転記する。


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捨てられた開拓移民

1945年の終戦時、植民地を含め海外には軍民660万人の日本人がいた。当時の人口の約9%にあたる人たちの引き上げが始まった。
旧満州や朝鮮半島北部では、女性や子どもたちが「難民化」。病気や飢えのほか、ソ連軍の攻撃や集団自決で約24万人が亡くなったといわれる。

日本政府が受諾したポツダム宣言には、日本軍の武装解除と本国送還の方針は盛り込まれたが、民間人については触れられなかった。

「居留民は出来る限り定着の方針を執る」。日本政府は8月14日付の在外公館あての暗号通信でこう指示した。
国内で食糧や住宅不足が深刻化し、300万人以上を受け入れる余地がないと考えたのだ。
ポツダム宣言受諾を議論し、終戦に向かう過程で、日本政府の焦点は唯一『国体護持』だった。
海外の邦人をどう保護するのかという意識は欠如し、民間人は結果的に、棄民となってしまった。

旧満州の民間人の犠牲者数は詳しい調査がなされないまま、24万人余りと推計されている。その数は原爆(広島・長崎で45年末まで21万人)や沖縄戦(県民約12万人)を上回る。





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