しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天皇の八重山行幸②

2017年01月31日 | 昭和元年~10年
天皇の金光町滞在は1時間40分、
大元帥として戦を統監したのは1時間弱と推測される。

11月という季節ではあるが、当時の県南の果物は梨が盛んであったことが伺える。


「金光町史本編」より転記する。

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この時天皇は、金光町の特産品の一つである麦稈真田の組合事務所に侍従を差遣わされ、
また、
町内の高齢者(60才以上)、傷痍軍人、孝子、軍人遺族に紋章付きの御菓子が下賜された。
いっぽう、
町内からは金光町果物組合が「梨晩三吉」を、佐方産業組合が鶏卵を献上した。

また、八重山の御野立所跡の処理については、永久に「御盛徳ヲ偲」ぶ目的で記念碑建立の計画を立て、すでに二畝余りの土地を買い入れ準備を始めた。

このようにして、昭和6年4月29日、八重山山頂の記念碑の除幕式が行われた。
当日は、県知事代理、県会議員、玉島警察署長、郡内町村長、小中学校長、軍人会長、教育会長、婦人会長、金光教幹部、町内名誉職等200余名が出席した。
この建碑費は郡内小中学校生徒職員、町村民の寄付によった。(山陽新報昭和7年5月1日)

なお、昭和16年12月この土地は、八重山の渡辺〇〇氏から町に寄付された。

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天皇の八重山行幸①

2017年01月30日 | 昭和元年~10年
現人神(あらひとがみ)を迎えるに、時の行政はどのように対応したのだろうか?


「金光町史本編」より転記する。

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昭和5年10月6日付けの山陽新報は次のように伝えている。
「今秋の特別大演習を迎える日の近づくにつれ、演習関係地として浅口郡に就いては、既に香坂県知事を始め県警察部では再三に亘って来郡し、就中金光町は町内の交通安全並びに町の美観から駅より金光教本部に至る間電灯を点じ、また金光教本部では万一の防火、其の他を未然に防ぎ、万一の雑騒を防ぐために自警消防組を組織し、ガソリポンプの購入を樹て、更に兵員通過の各町村に至っては道路の改修に努め交通支障の立木等も伐採する為め当路の了解を求めて居る等千載一遇の光栄に浴する郡内は上下を挙げて誠意之等の準備に忙殺されている。

当時の金光町にとっては、天皇の「八重山御野立所」への「行幸」は「無上ノ光栄ニ欲スルヲ持ッテ極ニ達シ」たのであり、全町を挙げて奉迎するところとなった。

昭和天皇は11月15日午前10時15分、金光駅に着かれて直ちに八重山へ行幸された。
当日町は御影橋付近に奉排所を設けて諸団体の代表が多数出迎え奉排した。そうして午前11時55分に金光駅を発たれ岡山市の大本営に向かわれた。


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浜街道・七隠

2017年01月26日 | 大正
今の国道2号線で、岡山~倉敷~福山間はかつて「浜街道」とか「鴨方往来」と呼ばれ、矢掛や神辺を通る山陽道の格下だった。
しかも、荷車さえ通ることができない道幅で、(大門~用之江間)大正4年にやっと車馬が通れる道となった。

大正9年河口池南側を通る新道ができて一等道からの役目を終えた。

街道沿いの婦人から聞いた。2017.1.25

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萱の陰に隠れて、おいはぎや、どろぼうが出ていたそうです。
六部の人のが行き倒れて、その大きな墓もあります。

この上の方に明智山城の跡があります。今は荒れてますが、ひらべったくなり
壺や屋根の欠片が出てきたそうです。

主人のお父さんは、陸軍の野砲が通りょうたのを何度もようりました。
主人が言うのは、その頃の道は、道から左右にはみ出しても問題ないから通りょお。

藁を積んだ荷車が通ったり、人がにぎやかに通っていたようです。

わたしんちは、屋号を「おうかん屋」といいます。
そういう意味がじゃあないんかなあと思います。


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参考①福山市引野町史

大正4年には、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
車馬の通れる幅に拡張されてた。

大正8年「道路法」が制定された。
これに伴い福山より引野、大門を経て笠岡に通じる道が県道に認定された。

昭和4年、第二国道に昇格した。これによって従来の県道尾道・井原線となった。


参考②「大津野のあゆみ」

大正9年、旧国道2号線が大門を貫通する。
以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。

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赤線の女③ 

2017年01月25日 | 昭和31年~35年
本の表紙になったこともある,笠岡市の伏越地区。


(撮影2009年1月26日)




「倉敷市史」より転記する。

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大正から昭和にかけて徴兵検査を済ませたら「姫買」をする風習があった。
「赤紙」が来たら、まずは遊郭へという風習もあった。これは全国的なものといえよう。

第二次世界大戦で、客が減るばかりの娼妓たちは、例えば川西町の場合、三菱航空機水島工場に一括動員され、慣れぬ手でハンマーを握るに至った。

警視庁の「帝都に於ける売淫の研究・昭和3年」によると、遊客の支出する金額の25%が娼妓の所得であり、そのうち60%が前借金の償却に充てられ、残りが自由になる金額という。
つまり売り上げの一割が小遣である。

彼女たちが最も恐れたのは、
客が来ないことと罹病の二点であった。

順調に前借金が返済でき、年季明けに自由になる事例は極めてまれであったという。
倉敷の場合は岡山中島病院の出張所が郭内にあった。
下津井や玉島では定期的に診断し、その結果により中島病院に入院させられた。
入院中は「旅行」と称して休業した。
天満町の検診を、子供たちは松の木に登って眺めていた。

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赤線の女② 現在の倉敷市域

2017年01月25日 | 昭和31年~35年
「倉敷市史」の遊郭より転記する。

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明治10年「貸座敷並娼妓規則」が公布され、営業免許地が定められ近代に継承された。
昭和21年公娼制の廃止に伴い「特殊飲食街」となり、警察が赤線で囲ったので「赤線区域」とも呼ばれる。
昭和31年売春防止法が公布され、昭和33年4月1日から施行され、遊郭や遊里・娼妓等はすべて過去のものになった。

市内の業態

大正期に入り市域の遊郭を、倉敷・下津井・玉島に集約した。
下津井と玉島は港の歴史を誇り、倉敷の川西町は陸上交通の接点であった。
児島下津井は、
昭和5年に貸座敷10軒、娼妓72~73人。
出身地は高知、熊本、宮崎が多い。ほとんどが芸・娼妓の、いわゆる二枚鑑札をもっていた。
当時、丸亀・多度津行の汽船が出ていた。
倉敷川西町は、
最盛期は貸座敷17軒、芸妓は113人で九州人が多い。川西町は花街のみならず、職人町でもあった。傘屋や紺屋・洗濯屋・提灯屋・表具師などが混在して仕事をしていた。
玉島天満町は、
昭和5年には13軒、約50人で、熊本・鹿児島・香川の女性が多かった。


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行商人のこと③行商と露天商 【倉敷市史】

2017年01月24日 | 暮らし
倉敷市史より転記する。

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ヒルカワ

店舗を構えない商業の形態に行商と露天商がある。
一般には小資本が特色である。
広島県の尾道や竹原では「カベリ」と呼ぶが、もとは女性が魚を入れた笊(ざる)を頭上に頂いて訪れたからであろう。
市域では一般に「ヒルカワ」という。
早朝仕入れたものを昼までに売り、容器が乾くから、ともいう。

アセチレンのにおい

露天商は「香具師」の字を当て「ヤシ」とも「コウグシ」とも読ませる。
野武士から「野士」が語源とする。
「テキヤ」とは的屋で、当たればもうかる。
昭和26.27年頃から都道府県単位で「神農商業協同組合」を組織し「一家」は支部となった。岡山県には平成7年現在16の支部がある。16人の親分さんがいることになる。
一家はオヤッサン・オヤジと呼ばれる家長のもとに組織される。
一家の仕事は、庭場内の「タカマチ」(祭礼)の際、出店希望者の割り振りが主なものである。露店は「ネタ」(品物)で分類される。
ミズモン・・アイスクリーム・バクダン・クミスイなど水系統。
ホヤキモン・・焼きイカ・たこ焼きなど食品全般。
モチャ・・玩具。
ワリゴト・・クジモンとも。賭博性のあるもの。
ハボク・・植木など。
モノカネ・・包丁など金物。
あまり見られなくなったものに、
ズマ(手品師)、
ロクマ(易者)、
オガミ(白装束でリングを売る)
などがある。
ヤブはお化け屋敷、ジメは蛇つかいをいうが仕掛けの経費に比して利益が上がらない。
営業の形態としては、
大声で人を集めるバナナの叩き売りのような「タンカバイ」と啖呵のつかない「ミナカシ」に分けられる。
「ナキオトシ」というのは、特殊な商品を売る。

タカマチ
警察への道路許可申請は10日前に、図面を添えて行う。出店を希望する者は親方(帳元・ちょうもと)に申し出る。これを「ネタヅケ」という。
タカマチ(祭礼)の前日、地面に印をつけ位置を確認する。
露天商は場所代(ショバダイ)を帳元に支払う。

近年は祭りも縁日も土曜・日曜日に集中し、露天業者の出店回数は激減した。
またスーパーストアなど、客寄せのために金魚すくい、ヨーヨー釣り、などもとは露店でしか扱わなかった商品を安売りする。
従来の露天商が露店だけで生活するのは難しい世相となった。


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行商人のこと② 【金光町史】

2017年01月24日 | 暮らし
子供の頃は、茂平にも行商人が来ていた。
大風呂敷を背にしたおばさん、天秤棒を担ぐおじさん、という思い出がする。

「金光町史」より転記する。
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明治・大正から昭和の初めごろまでの、農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うのにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。
この不便さを補ってくれたのが行商である。

昆布、わかめ、あらめなどを籠に入れて、頭上に載せ女性が売りにきていた。
「かべり」と呼び、北木島方面から来ていた。

薬売りは、富山、総社から来ていた。四段重ねの籠に薬袋を入れ、大風呂敷に包んで背負って来ていた。
子供への土産として紙風船をくれており、置き薬屋さん、オイッチニの薬屋さんと呼ばれ親しまれていた。

塩売りは、秋の漬物をするころ、黒崎の人が魚籠(びく)に塩を入れ、天秤棒で担いで売りに来ていた。

海苔売りは、毎年4月と10月、島根県や鳥取県から来ていた。
若い女性が絣の着物に手甲、脚絆姿で大風呂敷に海苔を包み背負ってやってきた。

行商のほか、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。


仲買い

仲買とは生産者から物品を買い集めて問屋などへ出荷することを仕事としており、仲買人とか仲買商と呼んでいた。
金光町内では、麦稈真田をはじめ、米、繭、牛、卵、庭木、豚、桃、葡萄、柿、木材など町内で生産するものの仲買をしていた。
昭和22年ごろからカナリヤの飼育がはじまり、最盛期の35年頃には70軒の人が飼育していた。カナリヤ出荷組合もでき、50羽ずつ出荷箱に入れ、金光駅から横浜の集荷所まで送り、アメリカへ輸出していた。


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男女共学①興譲館の場合

2017年01月23日 | 昭和21年~25年
「男女七歳にして席を同じうせず」制は終戦まで生き延びた。
管理人が高校生の頃でも、男女の交際は控えるような雰囲気だった。
当時見た青春映画には、必ずのように男女交際反対の先生がいた。

「興譲館百二十年史」より転記する

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学制改革により男女共学

昭和24年、学制に大変革が行われ本校もそれに従い六三制を実施し高等学校と中学の一貫教育を行うことにしたが、特に世間から危惧の目を持って見られたのが、男女共学であった。
本校は元来、女生徒は在学しなかったので、男性ばかりの学校に、女生徒が応募する筈がないという通念であった。
処が、中学に女生徒がかなり入学してきたのである。しかも成績が良いのが入ってきた。
2.3年後には公立中学の方から陳情が来た。
願わくば、中学の募集を中止してくれないかという訳である。
若し、之を強行すれば、高等学校の方へ、公立中学からの応募者が減少するかも知れない。以後今日迄、廃止して来ている。



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赤線の女

2017年01月23日 | 昭和31年~35年
昭和49年、初めて日比の旧遊郭街を見た時の驚きは忘れられない。
日比の元遊郭街は、ほぼ完璧に現存していた。
その古い町並みの哀愁は、とても倉敷美観地区に比較にならなかった。

その元遊郭の一室に1年半ほど暮らした。
隣家は日比遊郭でも一番の規模で、当時は旅館業だった。
その女将さんとも、ご主人とも酒を酌み交わしたが・・・郭のこと、
男と女、遊び、お金、暮らし、・・・お女郎さんのこと、
その事を一度も話題にしなかったことが、今になっては残念だ。


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「岡山・玉野の100年」より転記する。

日比港は中世以来、海上交通と物資輸送の拠点として繁栄してきた。
しかし、宇野港が完成すると港としての地位は次第に衰えた。
遊郭は明治10年に設置が認められ、新地という。


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「福山市史Ⅳ」より転記する。

赤線よサヨウナラ、3月1日福山では解散式

赤線業者の転廃業(昭和33年・備南合同新聞)

転廃業の準備なった福山新地組合(業主38名、従業員108名)では、盛大に解散式を行う。
この日は徳永福山市長を始め、警察署長、防犯係長が出席し、組合から108名の業婦一人一人に対して千円乃至二千円の厚生資金が贈られ、また業者からも餞別が渡されることになっている。
3月中旬にはそれぞれの業者が次のような新しい職業に入ることになっている。

▽旅館20
▽バー5
▽スタンド3
▽料理1
▽小料理2
▽廃業5
他に間借り、商業、喫茶、飲食店。

業婦の方は、108名のうち
▽家に帰る54
▽落ちつく26
▽他の職を求める28
▽帰るところがない9
▽結婚17
▽内縁妻11
▽就職決定14
▽結婚できる5
となっている。

なお、鞆町の5業種12業婦では一軒が転業する以外は全部廃業し、業婦の方は1名が芸者、1名が就職し他は帰郷することになっている。


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大正時代の城見村②工業・漁業

2017年01月22日 | 大正
大正時代の城見村のようすを転記する。

今と違い、ずばずばとストレートに記述している。
漁業では、明治17年に堤防決壊がいかに大事故であったのかを彷彿させる。
行商業は、誰が何処に何を売りに行っていたのだろう?


小田郡史(大正13年版)の城見村史より


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工業

農村なるが故、甚だ振るわす。
独り農業の副業として麦稈製造、陶器、瓦、曹達等の製造あり。



麦稈及び真田紐製造
麦稈原料 2100貫 真田紐20.000反

陶器
大字茂平字阿浜海辺にあり、明治40年4月15日吉備郡岡田村水川豊太郎ほか2名が合資組織を成立し、吉備製陶合資会社を設立。
大正4年の産額は家具2.800円、其他300円。

瓦製造
大正4年本村の瓦製造戸数は三戸にして職工7人なり。数量38.000個、570円に及べり。

曹達製造
一戸にして職工一人なり。

商業
本村の商業極めて振わず。左記の小商を算するのみ。
物品販売者3人、問屋業9人、行商業20人、外国税営業者1人

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水産業

往昔より副業的に営み来たり。明治初年頃より17年頃までは打瀬網漁業を農業の副業として経営し来たりしも明治17年海嘯(津波)により漁船の破壊と共に漸次衰退に趣く。
明治36年茂平漁業組合を設立し今日に至れるも水産物の減少し、浜村と目すべき価値なし。
組合員16人、専業5戸、兼業6戸。壺網従業者9人、打瀬網従業者4人、投網従業者1人なり。


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