しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”肉”を食う⑤羊・鴨・鯨・雀・犬・ドンガメ・・ 猿

2023年06月22日 | 食べもの

子供の頃、日本の山々は人の手が入っていたので、動物は山奥にいて姿を見ることは珍しかった。
干支で亥年の年なんか、いったいイノシシってどんな山村の、そのまた奥にいるのだろう?
と不思議に思っていたが、今の日本は、イノシシの出ない村や町が珍しくなった。

そんな訳で、少年時代に食べた肉はあまり多くはない。

 


畑仕事の帰りに父がつかまえて食べた。家族全員で分けると一切れで、味の想い出はない。

空気銃を持っている人が撃ち落とした雀を焼いて食べた。雀自体が小さくて肉は一口でおしまい。
ニワトリ
養鶏を始めて後、特によく食べた。
ドンガメ(カブトガニ)
腹が減っているので仕方なしに海辺でドンガメを焼いて食べた。
あの悪臭、グロテスクな形。ひっくり返すと何本もある手足が動く。
クジラ
とにかくよく食べた。あの、しわい肉を。
魚屋のしょうやんが売っていた。自宅で食べるだけでは無い、
当時の学校給食でもめやたらに鯨肉は多かった。

畜産で飼っていた羊が死んで、毎日・毎日・毎日・・・・・・、食べつづけた。もうええわ、というだけ食べた。





・・・・
(父の話)

犬の肉は戦後すぐの頃、食べる物がないとき食べていた。
捨て犬をつかまえとった。
捨て犬が多ぃかったんじゃ。
猫はいけん、犬はうまかった。
2000年9月10日

・・・・・



「野火」  大岡昇平  新潮文庫


「猿の肉だ、食え」と言われて、私はその肉の干物を食う。
だが、ある時、それが人間の肉だとわかる。
人間は追いつめられると何でもしてしまう。
殺人すらもだ。
そして、殺した仲間の肉を食う。
生命を生きながらえる。


「さうか。ふむ、お前何か食糧持っているか」
私は首を振った。
「何もねえ。草や山蛭(やまひる)ばかり食ってきたんだ」
「銃もねぇんだな」
「ねえ、ああ、そうだ、手榴弾があった」
「手榴弾」と、二人が同時に叫んだ。
「それがありゃ、魚ぐれぇすぐに獲れる」
「俺は今じゃ永松の銃だけが頼りさ。それで猿が獲れるから、
つまり俺たちは生きてゐられるわけさ」

「そんなに猿がゐるのかねえ、俺はまだ一匹も見たことないが」
その時遠くバーンと音がした。
一箇の人影が駆けていた。
髪を乱した、裸足の人間であった。
緑色の軍服を着た日本兵であった。
これが「猿」であった。
私はそれを予期してゐた。

 

・・・・

 

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味噌

2023年06月19日 | 食べもの

味噌は、母が作る味噌しか知らなかった。

味噌汁はおかずも兼ねていた。

修学旅行に行って初めて、味噌や味噌汁が家のものとは違うのを知った。

 

・・・

「成羽町史民俗編」  成羽町 平成3年発行


調味料
味噌
味噌は自家製で、昔はなめ味噌であった。
味噌は、他人にやらぬものといわれ、それぞれの家庭でその家の特技により作られていた。
大豆、麦で作り「三年味噌」が一番良いとされ、樽に封じて三年経って食べていたが、
今では特別の家庭以外は一年位で食べるようになった。
赤味噌・白味噌の二通りで麦麹・米麹によって異なる。

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

味噌

米味噌と麦味噌があったが、戦後は米味噌中心になった。
味噌作りは冬の仕事であった。
庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には小米を使うことが多かった。
まず米を蒸し、
麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
炬燵にいれたり、風呂の蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。
また刈りとった青草の上に筵を敷き、蒸した米をひろげて上に筵をかけて家の中の風が当たらないところに置き、青草の発酵熱を利用して麹を作ったこともあるという。

次に大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
三年味噌と言って三年経ったものから食べていったが、
三ヶ月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。
高度経済成長以後、各家での味噌作りはだんだんと廃れていった。

 

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

日常のおかず
調味料

味噌
かつては味噌で味付けをすることが多く、
また、おかずでもあった。
重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。
台のうえに筵を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。
タネといって麹菌を加え混ぜる。
上へ筵をかけてねかせる。
大豆を釜で煮て、からうすでついてつぶす。
これに裸麦の麹をまぜる。
両手でもみほぐしながらまぜ、味噌樽に仕込む。
一年に一回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。

・・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。

・・・

 

味噌

原料は大豆、米の麹、塩である。

味噌をつく時期は節季で、麹はこたつでねかせたという。
割合は大豆一斗、米の麹五升が四斗樽一本ぶんで、毎年一本づつつく。
三樽ほど所有していて、三年味噌といって、三年経った味噌が味が良い。

 

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

・・・

 

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ダイコン(大根)

2023年06月18日 | 食べもの

中学校か高校の修学旅行の宿の朝食時、
宿の人が「たくあんは、・・・、おみおつけは、・・・」と食事の説明をしたが、
自分の膳に、たくあんも、おみおつけもなかった。
話の内容で、どうも、
「たくあん」とは「コーコ」のことで、「おみおつけ」とは「味噌汁」のことを意味しているようだった。
家では汁かけが主流だったが、そういう食べ方はしてはいけないことも感じた(知った)。

 

・・・

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
ダイコン(大根)

日本の冬野菜の代表各。
「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。
ダイコンの葉には栄養が豊富です。
もっとも多いのが「青首ダイコン」で、
生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。
全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

たくあんを作る
 
①ダイコンは洗い、そのまま並べて乾かす。
②③④葉がついたまま2本つづ束ね、風通しがよく、雨がかからない場所に干す。
10日~2週間が目安。
⑤手で曲げて「く」「つ」の字くらいがよい。
⑥柿、ミカン、リンゴの皮をよく乾燥させておく。
⑦ダイコンの葉を切り落とす。
⑧ダイコンを俎板の上でころがし、芯をやわらかくする。
⑨炒りぬか、塩、果実の皮、昆布、トウガラシを器に入れ合わせておく。
⑩容器に⑨を振り、ダイコンを入れる。
隙間なく詰め、中央にはダイコンの葉を入れる。
⑪繰り返す。
最後は残ったダイコンの葉をのせ、中ブタを入れて重石をして冷暗所へ。
重石はダイコンの2倍が目安。
⑫約1ヶ月で漬け上がる。

 

・・

・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

大根
秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。

 

・・・

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。

大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。

提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。


カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。

沢庵漬
笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。

四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。

漬菜
白菜が多くなっているが、白菜が日本に入ってきたのは新しい。
栽培が普及したのは大正初めである。
笠岡市吉田では一斗樽程度のものに漬け、なくなればまた漬けるというふうに追加していく。

・・・

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

漬物

沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。

 

・・・

 

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2023年06月17日 | 食べもの

小学校六年生になると、
♪菜の花畠に 入り日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し ・・の、
「朧月夜」を習っていた。
自分も早く六年生になって「朧月夜」を歌いたい、と思っていた。

先生の説明では、菜の花は「菜種油」にするという話だった。
茂平では一部の田んぼに菜の花を植えていた。
田んぼの裏作で麦はなく、半年寝かす田が多かった。
菜の花とレンゲが咲く田んぼは、子ども心にも田舎の田園風景を彩っていた。
今思うと、菜の花はレンゲと同じように肥料にしていたのだろう。

家の料理に油を使ったものは珍しくはなかったが、
それはキンピラゴボウのように、油を使うというよりも垂らす、
程度の使用量だった。
田舎の農家では、自給自作が基本なので、
お金を出して買う物は、少しずつ、もったいなく、使っていたのだろう。

 

・・・

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


普段はめったに使うことはなかった。
祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入していた。

 

・・・

「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

食用油

菜種は自給用に栽培し、油屋で絞ってもらった。
ゴマ油は購入したり、ゴマと交換した。

・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。

・・

 「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

菜種
明治末期ごろが最盛期で、以後漸減し昭和50年ごろ消滅した。
笠岡市尾坂道万の水車集落は、備中ソウメンの一産地であるが、水車を利用して菜種の搾油をしているものもあった。
菜種油をとった糟(かす)は肥料にしたり飼料にもなった。

 

・・・

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2023年06月17日 | 食べもの

大相撲全盛期の栃若時代、
大関朝汐(後に横綱朝潮)は、ニワトリを追いかける相撲と呼ばれていた。
農家では庭で飼うニワトリを夕方、小屋に追い込むが、それは子供の仕事(手伝い)で、その姿は朝汐が相手力士の動きをふうじ、土俵際に追い詰める相撲に、よく似ていた。


ニワトリが生んだ卵は、家族の口には入らなかった。
たった日に2個程度の卵だが、それをためては売っていた。

食べるのは、
運動会の弁当にゆで卵を半分に切ったものが入っていた。
遠足のときも半分あった。

一個まるごとほしいもんじゃ。
一個一人で食べてみたいもんじゃ、と思っていた。



その願いは小学校の3年生の頃から、叶えられた。
親が小屋を建て養鶏を始めた。
毎日、傷物の卵が一個二個はでていた。
その売り物にならない卵が家族の口に入った。

念願かなった一個まるごと食べる卵は、いつも「卵ごはん」にして食べた。
今でも「卵ごはん」は大好きな食べ物になっている。

なお両親が始めた養鶏は数年で終わった。
最大時が200羽だった、時代は高度経済成長。
当初の大規模200羽は、あっという間に小規模養鶏、零細養鶏へと化していた。

 

・・・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行


鶏を飼っている家が多かったが、
普段は食べることはなく、
売ってもうけにした。
卵はご馳走で滋養のあるものとされ、病人に使われる。
古くなった鶏は料理して肉は野菜や芋と煮物に、
骨は汁物のだしに使ったりした。

 

・・・・

矢掛町史


養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。

・・

 

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梅干し

2023年06月16日 | 食べもの

梅干しは子供のおやつだった。
「うめんぼし」と呼んでいた。

タケノコの季節には、葉の中に梅干しやシソを入れて挟み、その汁や実を吸っていた。
酸っぱいので、梅干し一個で腹いっぱいになった気がしていた。

 

今ラーメン店などに、醤油の隣に小梅の瓶が置いてあるが、 
ああいうミニサイズの梅は昭和30年代、40年代にはなかった。

 

・・・

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

梅干し
五月六月になると収穫したり、購入して毎年漬けた。
三升程度漬けておくと一年中あった。
まず塩漬けにした。
シソを半夏(はんげ)前に取って、梅といっしょに漬ける。
梅雨があけると「土用の三日干し」、
すぐにでも食べられたが、一年ほどおくと色がきれいに染まった。
殺菌作用があるなどといわれ、用途は広いものであった。

 

・・・

 

ウメ

ウメが果樹としてつくられるようになったのは、江戸時代の中ごろといわれ、

それまでは観賞用に作られていたようです。

商品としてつくられるようになったのは意外と新しく、大正時代の初め頃からです。

ウメはほとんどが梅干しや梅酒などに加工されます。

「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

 ・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

梅漬

奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。

 

・・・

愛国弁当

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行

代用食と日の丸弁当
戦時の象徴的な食物は代用食と日の丸弁当である。
日の丸弁当はごはんの真ん中に梅干を一つ入れただけの弁当で、
国旗のイメージと重なり、愛国弁当としても意味づけられた。
昭和14年制定の「興亜奉公日」には、質素倹約の象徴として、日の丸弁当を持参することが流行したが、
精神主義だけが前面に出て、栄養面の配慮のないものであった。

・・・

 

鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行


米粥の白粥は病人食で、
病人に海干しをそえて食べさせた。

 

・・・

 

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かんぴょうの煮しめ

2023年06月16日 | 食べもの

学校の遠足、運動会、学芸会の日には巻きずしとキツネ寿司が定番だった。
弁当箱に巻きずし半分、キツネ寿司半分が、ほぼどこ子も似たようなものだった。
巻きずしの具は、家々で違っていた。が、かんぴょうだけはどの子の巻きずしにも入っていた。
かんぴょうは、ハレの日の弁当の想い出が強いが、
母にとっては煮しめのようだ。




(母の話)

昔のボニゆうたら「かんぴょう」や「さつま」や「じゃがいも」や、ボニのごちそうゆうたら決まっとった。
昔は炊いて食びょうたんじゃ。
ボニのにしめをするするゆうたら、かんぴょうがなければできんゆうてようた。
くくってなぁ、家でこしらえたのはおいしかりょうた。こりこりして。


食べるもんが無いけぃ、作ることにして作りょうた。
雨が降りゃあわやくそになりょうた。


談・2001年10月7日

 

・・

 

カンピョウ・カボチャ・タマネギ・トマト

カンピョウは古くからある。
自家用に栽培し、紐状に削って干して、保存する。
カボチャは味噌煮または醤油煮にする。

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

 

・・・

(広重の「東海道五十三次・水口」干瓢)

 

・・・

 

 

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シイタケ

2023年06月16日 | 食べもの

中学生か高校生の時、
笠岡に、シイタケを売っている店があった
町ではシイタケを買って食べる人がいる、ということにおどろいた。

 

・・・

 

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

シイタケ

かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、
子どもの私もかり出された。
ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。
手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。
かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、
江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。
昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。

 

・・・

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

シイタケ
丸ごとか、スライスして、
セミドライは数時間、完全に干すには2~3日が目安。
失敗が少ない。

シイタケ(椎茸)
香り高く風味もよい。
日本特産のキノコ。
シイタケはシイ、ナラ、クリ、カシなどの木に春と秋に自生する。
冬のものは肉厚で最高級として出荷される。
室町時代から食べられており、
江戸時代には栽培もおこなわれていました。

・・・

 

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醤油

2023年06月16日 | 食べもの

自分の家でも、近所の子の家でも、
醤油は家で作っていた。

昭和33年頃だろうか?
作るのを止めて、店から一升瓶で購入するようになった。


・・・


(母の話)2002年5月26日

小麦を植え、大豆を植え
麹を作り
彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
空臼で搗きょうた。

 

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。
どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。

醤油を搾る
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。

(父の話)2002年5月26日

麹は作る人によって上手なウチがあった。

一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。

・・・

・・・

「成羽町史民俗編」  成羽町 平成3年発行

調味料

醤油
古くは自家製であった。
昔は味噌の製造過程において,底に溜まった醤からしぼったものをいったが、
現在は店から買うようになった。

 

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

醤油
昔は家で作ったと言われるが、
明治生まれの人でも作った経験はなく、
醤油屋から購入した。
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

醤油
自家製醤油を手醤油といった。
原料は、大豆と小麦・塩である。
麹のもとは買ってきて麹作りをし、四斗樽に仕込む。
醤油袋に諸味を入れ、フネに石の重しで絞った。
絞った醤油は釜に入れて炊く。
一番醤油である。
絞りかすの諸味は、樽にかえして水を入れ、塩を加える。
しばらくの間発酵させ、フネで絞る。
二番醤油である。
比較的早くから、醤油屋といって醸造屋ができたので、たいていは醤油屋で買った。

・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。

・・


「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行
味噌、醤油は自家製で、漬物は季節の物を作った。

 

・・・

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

醤油

原料は大豆と小麦、塩であるが、一度に作る量は、大豆1斗に小麦1斗である。
仕込みをして、しばらくすると、桶に籠をいれ、もろみをすくっておかずにした。
また籠にたまった醤油は調味料として使った。

・・・

 

 

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若狭「鯖街道」と備中「とと道」

2023年06月03日 | 食べもの

江戸や明治の時代、京都の人たちが食べる鮮魚は、大阪湾や瀬戸内海でとれたものを、伏見まで海上輸送し、伏見から1里ほど陸送したと思われる。
若狭・鯖街道の陸送は18里の距離。
鯖は瀬戸内でも太平洋でもとれる。”鯖街道”の名称ではあるが、魚の総称だったのだろう。鯖大使という高僧伝説も、魚という意味のようだ。

 

 

(鯖街道・熊川宿 2013.8.2)

 

「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行

鯖街道と鯖の食文化

 

(小浜城跡)

(小浜城跡)

 

鯖街道
江戸時代若狭湾でとれた鯖を一塩して、徹夜で京都まで若狭街道を運んだことからその名がついた。
しかしその荷の中には鯖のみではなく、イカ、鯛、カレイ、ブリなどの魚、
北前船で運ばれてきた昆布や十州塩なども含まれていた。
その中で最も量が多く、京都の人たちに喜ばれる魚が鯖であったことから鯖街道という名が付けられたのである。

(小浜市)

 

 

鯖街道の起点、小浜
若狭湾でとれた鯖やブリは、美浜・小浜・高浜ばかりでなく、丹後の舞鶴や宮津にも水揚げされるから、京都に向かう鯖街道にはいくつかのルートがあった。
最も知名度が高いのが、小浜を起点とする若桜街道であった。

時間を節約するために最短のコースをとった。
急がない荷物は今津から大津へ琵琶湖の水運を用いた。
急を要する鮮魚などは渓谷を走っていた。
海に接することのない京都では生の魚は手に入らなかったので、
鯖を酢でしめた「生ずし」と呼ばれるしめ鯖を食べていたのである。
小浜から京都の玄関である大原まで18里の距離があった。
朝小浜を発つと翌朝の市に間に合ったと言う。

 

・・・・・・・・

 

「備中とと道」の魚を食った人

若狭の「鯖街道」と、備中の「とと道」は様子が似ている。
鮮魚を人が運ぶ。
距離は、鯖街道が約70kmでとと道が約60km。
相違点は、「鯖街道」は単独で、まる一日。「とと道」はリレー方式で6時間くらい。

「とと道」は一人40Kg程度の魚量で、
毎日でていたのか、それとも鰆がとれる季節だけだったのか。
運搬人は年間通しだったのか、それは何組が出ていたのか。鮮魚はどのように料理され、誰が食べ、何の目的だったのか。
残念ながら、わからない事が多い。

昭和の中頃までは、漁村や港町に住む人たちでさえ、鮮魚を食べるのは年に1~2度あるかないか。
高額な運搬料が掛かり、ダイヤモンドのような鮮魚を食べていた人は、普段の桁外れの豪華で優雅な生活ぶりまでが気になる。

 

 

(高梁市成羽町吹屋・広兼邸)

 

「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行


鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。
口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。
明治、県南沿岸地方では最も多くの取引高を持っていた。

取引範囲は地元の水揚げの他、東部は淡路島・下津井・塩飽諸島、西部は香川県伊吹島・広島県鞆・田島・横島・走島であり、
市は「せり買い」で行われ、毎日朝市と夜市が開かれ、仲買人の手によって市場で値がつけられた。
せり落された鮮魚は、仲買人から小売人(行商人)により近接の地域に販売された。

商圏は二種類に分けられ、
直接消費者に売る場合は「肩荷」として運ばれ、これは現在の商圏とほとんど変わらない。
一方魚小売商に卸される商圏は、遠く備北地方の新見・高梁・総社などに及び、「奥荷」と称され仲買運搬によって輸送された。
さらに鉄道の開通により樽に氷詰めされて京阪神地方にも送られるようになった。このルートは昭和に縮小されていく。
そして輸送量は増大するが販売市場は狭少となり、高い密度の個別販売が行われていくのである。

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