しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

芭蕉 (中尊寺)

2021年06月30日 | 銅像の人
場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉


藤原三代
北方の王者


長い古代の歴史を通じて、陸奥は遠い道のそのはての土地、
朝廷の支配の及ばない未開野蛮な蝦夷の住む土地とされていた。
その辺境の地平泉に、忽然と出て、百年の栄華の後、忽然と消えていった政権--
それが藤原三代であった。


大佛次郎
平泉あたりは、もう「外国」だったわけですね。
一つの独立国みたいな勢力でしょうね。
金色堂は、はじめ野天にあったのですが、鎌倉時代になってから覆堂を造ったんです。
お天気のいい日なんか、実にきれいだったでしょうね。

「日本史探訪6」 角川書店編  角川文庫  昭和59年発行







経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、
四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。
しばらく千歳の記念とはなれり。

五月雨の 降り残してや 光堂




金色堂が年とともに興廃する様を見て、鎌倉幕府以後再三修復された。
正応元年(1288)といえば金色堂建設後180年に当たるが、
鎌倉幕府7代将軍維康親王は北条貞時、宣時らに命じて、この堂を覆う套堂 を作らせた。
その後伊達政宗も後水尾天皇の勅を奉じて、寛永初年に修理にあたり、綱村の時代にも手が加えられた。

金色堂は中尊寺という膨大な寺院のほんのささやかな一つの堂にすぎない。
中尊寺は藤原清衡の建立したもので、堂塔、禅坊など合わせて何百にも及んだと伝えられている。

「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行







平泉

石巻を経て辿り着いた平泉は、「奥の細道」の中でも秀句がそろい、句碑も多い。
「五月雨の」句碑は中尊寺金色堂脇に、
「夏草や」句碑は江戸期の2つに加え新渡戸稲造の英訳ものと、毛越寺境内に3つ建つ。
中尊寺や高館など、発句の舞台が今もそのままに残る。


実際に雨が降ったのは前日の事で、この日は晴れていた。
だが、芭蕉は詩人としての特権で、散文的な鞘堂などは詩としてのイメージの中から取り除いてしまう。
また、勝手に雨を降らせて、暗い五月闇のなかに輝く光堂の姿を、対照させる。
作者が胸中にはっきりと光堂の存在感を受け取っている重みが感じられる。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行








撮影日・2019年6月30日

コメント
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