しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

岡倉天心 (福山)

2021年06月02日 | 銅像の人
場所・広島県福山市 JR福山駅前  ~五浦釣人(ごほちょうじん)~
平櫛田中 1975年


福山市民から「つりびと」とか「つりびとぞう」と呼ばれ親しまれている、平櫛田中作の「五浦釣人」像。
最初は駅の真ん前に置かれていたが、何度か移動した。
今は駅前というより駅西の感じだが、それでも駅前での待ち合わせ、となると「つりびと」となる。









「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

岡倉天心

天心の父は越前福井の藩士でした。
16歳で東京帝国大学文科大学に入学し、
当時東大の外人講師だったフェノロサは、哲学、政治学なんか教えていました。
卒論を2週間で美術論をデッチあげた。
このことが、後年の天心の人生コースをきめる機縁になりました。

天心は英語がよくでき、フェノロサの通訳を兼ねていました。
フェノロサは日本美術が新鮮で、物珍しさもあり、もう一度日本美術を見直そうと・・。

『日本美術史』で、若き天心とフェノロサが法隆寺の夢殿の秘伝を開いたときの記述、
秘伝を開けたらにおっていて、そこからヘビや鼠がいっぱいでてきた。
ひとつひとつ巻物をはがしていった。


明治22年美術学校を開設する、数えで28歳。
日本画と木彫りでスタートした。
美術学校を追われ「日本美術院」を建てる。

今度は茨城県五浦、海岸の小さな別荘へ引っ込む。
そうすると弟子の、
横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山、こうゆう人たちが先生を慕って、海辺の小さな村に皆行って、
天心の教育に従い、絵を描いた。
日本文化史上、五浦時代という。

明治34年インド旅行。詩人タゴールと意気投合。
インドの青年向けに「東洋の理想」を出版。
民族意識に燃えてきた青年の心を引き立てた。
戦争中、日本語に訳され、それがずいぶん売れた。
「アジアは一つ」というキャッチフレーズが「大東亜共栄圏」の構想に悪用された。
一面では、軍国主義に利用される要素が,天心のナショナリズムの思想の中にあったのも事実でしょう。

ボストンに半年、日本に半年住むようになる。
天心の本で一番売れたのは「茶の本」、6~7ヶ国語に訳されています。






「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行

岡倉天心(五浦釣人)  福山駅
制作・平櫛田中
設置・昭和50年

作者平櫛田中が師と仰ぐ岡倉天心が、五浦海岸で釣にひと時を托す姿を写したもの。






撮影日・2011年5月14日


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