しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦場の衣食住③陸軍性処理問題

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記



性病の脅威

日本陸軍の構成員は、そのほとんどが若い男子にあったために、性欲の処理は大きな問題であった。

平時には各部隊に駐留している駐屯地に近接している遊興施設への登楼があり、戦地では後方に設置された「慰安所」で対応していた。

ところが性行為という快楽の代償として、性病がつきまとった。
「花柳病」と呼ばれ、軍隊内部では「三等症」という呼び名だった。
性病でも「梅毒」は不治の病として世界的に猛威を振るっていた。

梅毒の治療は1905年に病原菌「スピロヘータ・パリダ」が発見され、日本では注射薬剤の「サンバルサン」が登場した。
軍隊での一番の脅威は、性病の感染による兵力の低下である。
軍指定の慰安所では妓娼の定期診断を行っていたが、登録してない「私娼」の数も圧倒的に多かった。



軍用コンドーム

日本陸軍ではコンドームを性の防護器材としており、「衛生サック」ないし「サック」の名称で呼んでいた。
明治の陸軍での性病予防としては、軍医が兵営で「衛生講話」として、性病の恐ろしさとコンドームを用いた防護手段を口述した。
大正期に入ると、積極的な性予防の手段としてコンドームの使用が奨励され、休日の外出に際しては、外出者全員にコンドームのしない行為を厳禁した。

軍に納入されるコンドームには民間とは別に「突撃一番」という名称がつけられ、一つずつ紙製のパッケージに納められていた。
昭和以降になると、コンドーム以外にも「星秘膏」(せいひこう)という防護クリームが出た。

昭和12年の支那事変以降、兵力の拡大と共に慰安施設の規模も増大するが、それに伴って性病の感染も多発した。

軍では、
コンドームの使用を絶対義務として布告し、
定期健診の強化、
妓娼の局部洗浄機器の設置を奨励している。


なお、戦争の末期にもなると、コンドームは
輸送船沈没時に備えて貴重品の防水や、爆破器材の防水等、本来の使用法とは全く異なるものの必要不可欠な機材として日本陸軍を陰で支えた。




軍自慰器材

性欲処理の最も簡単な方法は「手淫」である。
「こんにゃく」を女陰部に見立てて使用する方法もある。
市井では、「ダッチワイフ」が販売されていた。


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戦場の衣食住②現地自活

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記

現地自活



支那事変では、部隊単位での本格的な「現地自活」が開始される。
戦闘の激化に伴う補給困難から、副食のための各種野菜の畑栽培、
養豚・養鶏、燃料の炭焼き等の本格的な「現地自活」が開始されたのであった。
多くの場合、各師団司令部の経理部の下に「自活隊」を編成して行われた。


野戦献立の一例

野戦での糧食給与は、次のコンセプトで行なわれていた。

・手数がかからず簡単に調理ができるもの。
・分配容易で携行に便利なもの。
・保存性が良いもの。
・追走品および現地で入手容易な材料を使用すること。

これに従い「野戦炊具」で簡単に作られる料理としては、主食では米麦飯以外に五目飯・福神漬飯・缶肉飯・蒸パンなど、
副食では煮豆・佃煮・味噌煮・鉄火味噌・塩昆布・甘露煮・味味噌・唐揚げなど、
漬物としては早漬けなどがある。


背嚢

背嚢に収納する物品は「入組品」と呼ばれ、着替え用の下着、携帯口糧、被服の手入れ具、私物などを入れる。
さらに背嚢の周囲には、飯盒・携帯天幕・毛布・外套(コート)・雨外套(レインコート)・携帯工具等を状況に応じて組み合わせて装着する。
作戦の長期化によって、兵員は携帯口糧を携行することが決められており、それ以外は通常「大行李」より提供を受けるものとされていたが、
実戦では補給困難や強行作戦のために、数日分の糧食を携行することが多くなってきた。

・・・・


陸軍野戦糧食史




昭和13年の「細則中改正」の糧食を品目ごとにみていく。


主食

乾パン
戦闘中の非常食の代表であり、小麦粉を主体として製造されている。
圧搾口糧
圧搾膨張玄米は、玄米と丸麦を圧搾した。

副食

牛肉缶詰
携帯口糧の副食の代名詞。牛肉の大和煮。

兎肉缶詰
兎肉の大和煮。

調味料
・味噌
・粉味噌
・携帯粉味噌
・醤油
・粉醤油
・携帯砂糖
・携帯食塩


加給品
・粉飲料・・粉飲料ラムネほか
・清酒
・関東煮缶詰

祝賀品
・きんとん缶詰
・口取缶詰
・酒

その他
・軍粮精(ぐんりょうせい)・・疲労時の栄養食品。後に「元気食」に改名。
・精力餅・・餅にビタミンやバターを混ぜたもの。


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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行

戦争栄養失調症

1938年春の徐州会戦に参加した兵士の中から、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するというケースが多発した。
軍医らが死亡原因の特定に努めた。
見解は、アメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分れた。
「戦争栄養失調症」という病名に落ち着いた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。

O軍医は「当時私たちが栄養失調と呼んだ病気のなかのあるものは重症脚気であり、又あるものは全身の機能の衰えであった。
激しい労働と、偏った食糧、その絶対量の不足によったのは言うまでもない」

中国南部ではマラリアに感染する兵士も多かった。
キニーネという特効薬が配られてはいたが十分な量ではなかった。
40度を超す発熱が数日間つづき、治ったと思えば一ヶ月で発作や発熱が起きる。
行軍中であれば、高熱を押してでもついてゆかねば、栄養失調とも重なって命を落とす兵もいた。




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戦場の衣食住①飲料水・便所

2020年09月27日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記




飲料水の工夫

水の補給が困難な戦場では、兵員各自が腰につけている水筒が命の綱になる。
軍隊の行進は、50分間の行軍ごとに10分間の小休止を取ることになっている。
この休憩時に水分を摂取する際、注意すべき重要なことがある。
激しい行軍で体内の水分が失われているため、急いで一度の水を飲むと胃痙攣(いけいれん)を起こす場合がある。このため一口ずつゆっくりと噛むように飲むことが教育されていた。
また余裕のある場合には、3%濃度の食塩水をいれることが奨励されていた。



野戦での便所の構築

野営ないし露営を行う場合の排泄への対応は、マニュアルである「築営教範」に規定されている。
短期間と長期間に大別し、

短期間の場合は
大便と小便は共通した厠で行われ、兵員30~40名に対して幅30cm、深さ50cm、長さ1mの溝を掘る。
長期間の場合は、
大便と小便は別の設備が設けられ、大便用には12名に対し幅・深さ・長さ、それぞれ1mの溝を掘り、20cm間隔で踏み板を設置する。
短長期ともできる限り既存の資材を利用して囲いを作り、屋根をつけることが理想とされた。
衛生面ではクロール石灰の散布、ないし土をかける。
行軍中や戦闘中の用便は、衛生と防諜の面から地面に穴を掘ってからの排泄が義務付けられていた。
「落とし紙」は毎月150枚配給された。


陣地の便所

野外での排泄時に臀部を蚊に刺されることが原因で、マラリアにかかる患者が急増した。
このため蚊取り線香や火縄、軟膏が開発された。
地下陣地
高温多湿なため、陣地より離れた地上に設けることが多かった。地下にこもる戦闘では一斗缶を臨時の便器にした。



野戦の日用品給与

手ぬぐい 2ケ月毎 1筋
石鹸 同上 1個
歯ブラシ 3ヶ月毎 1袋
落とし紙 毎月 150枚
鉛筆 同上 1本
私製葉書 2ヶ月毎 20枚
角封筒 毎月 10枚
褌 毎月 1筋





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闇の女たち

2020年09月27日 | 昭和21年~25年
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



RAA解体

「忘れもしないのは昭和21年3月27日のこと。
昼頃目をさますと、突然、全員集まれという。
『GHQの指令で、今日限り、ただ今から慰安所は一切オフリミットになったから、皆さんは立ち退いてもらいたい。
皆さんの犠牲で多くの一般婦女子の純潔が護られたのは歴史的事実であって、どうか国のために尽くしたということを誇りと慰めにお別れしてほしい…』
寝耳に水とはこのことをいうのであろうか」

「下着類の入った風呂敷三つを持って出た。
その夜から私たちは兵隊相手の街娼になった。」

彼女たちの多くは、すでに発生していたパンパンの一群へ身を投じていくことで生きのびようとする。

有楽町のガード下、新橋。
ラク町(有楽町)、バシン(新橋)はアメリカ兵相手の「洋パン」が多く、身なりも派手であった。
ノガミ(上野)、ジュク(新宿)は日本人相手で、どことなく汚らしく地味な服装であった。

闇の女の怖れたものは、稼ぎを横取りされたり、性病にかかることだった。
そのため自衛上、縄張りごとにきっぷのいい姉御がリーダーシップをとるようになる。
そんなところへ,RAA慰安婦たちが合流してきて、街娼は盛り場にあふれ、社会問題化する。



取締り

GHQの要請で性病を防止するため、狩り込みが行われた。
当時、有楽町、新橋など都内に600~700名の闇の女がいた。
「昭和21年3月10日警視庁はMP協力の下に一斉検挙。最年少16歳から最高38歳で街頭で進出していた300余名。
目立って多いのは戦災で家を焼かれ肉親と離れた娘たちである」
取り調べの上、上悪質者以外は保護者と共に説諭放免する。

闇の女と吉原などの集娼の女とでは、はっきりとした区別がなされた。
当然仲も悪く、病院内ではケンカがたえなかった。
あの世界で生き残るには、気を張って、男まさりにふるまわなければ、ひねりつぶされる。口のきき方も乱暴。
やめらないのは、お金が魅力であるからである。
当時のサラリーマンの給料を二日で稼いでしまう。
稼いだ金はすべて自分のものになる。
ショートで一日10人も相手をする街娼もいた。

取締り強化と、世の中が秩序を保ってくるにつれて、パンパンと呼ばれる女たちにも、やがて転機がくる。

赤線が完全に復活する。
街娼は組織に吸収され街にはヒモである客引きの群れがあふれた。


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RAA、生贄にされた七万人の娘たち

2020年09月26日 | 昭和20年(戦後)
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行




RAAの発足

RAAの発足は、迅速を極めた。

8月17日、東久邇宮内閣が生まれた。
8月18日、内務省警保局長から、各庁・府県長官あてに「進駐軍特殊慰安施設について」と題する、秘密無電の準備司令が発せられている。
戦災で半壊状態であった妓楼、淫売屋は、国家権力で息を吹き返した。
あまたの”昭和の唐人お吉”が狩り集められようとしていた。

8月28日、皇居前広場では、特殊慰安敷設協会の設立宣誓式が行われた。
「我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し、以って国体維持に挺身せむとするに他ならざることを、重ねて直言し、以って声明となす」



性を知らない娘たちが集まった

【新日本女性に告ぐ】
「国家緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!
ダンサー及び女事務員募集。年齢18歳以上二十五歳まで。
宿舎・被服・食糧全部支給。
戦災で家を焼かれ、工場を解雇され、今日食べる糧を求めて彷徨っていた若い娘たちにとって、これ以上の殺し文句はなかっただろう。

8月27日までに協会は、1360人を確保した。
化粧らしい化粧をしている者はなく、煤けたモンペ姿で、満足な着物を着たものは一人もなく、十人に九人がハダシという様子であった。
当初、警察は売春の前歴のある商売女を集めることであったが、フタを開けると素人娘がほとんどであった。
玄人女性は「米兵はサイズが巨大で、局部が裂ける」と恐れて敬遠した。
古いモンペを脱いだ娘たちは、東京都特配のメリンス長じゅばん一枚、肌着と腰巻各二枚、伊達巻一本、タオル、洗面器、石鹸、歯ブラシ、歯みがき、浅草紙といったものを支給された。商売道具としてである。

8月27日、慰安婦施設第一号が進駐軍上陸コースにあたる京浜国道に面した、大森小町園が開設され、まず50人の女たちが送り込まれた。


血みどろにされた娘

慰安婦たちが一日に相手とした客・兵隊たちは15人から最高60人にも及んだ。
「40人を相手にすると、局部がジンジンうずくようになり、足腰はしびれ、息も絶えるばかりでした。
終わりころになると、仰向けに寝たままで、次から次へと新規の兵隊を迎えるのですが、疲れ切って足腰を持ち上げる力もない・・・・」
「微熱と痛さが出る。それに食事もノドを通らず、夜も眠れない毎日でした。それに食事と言ってもオシンコとお茶漬けだけ・・・」

肉体サービスの料金はショート10円、オールナイト20円。
これをRAA四分、女性が六分の割合で分けたという。
もっとも、部屋代、食費、衣料代、日用雑貨・化粧品などを差し引かれると、残りはわずかになってしまった。
小遣いの大半は、つまみ食いに消費したともいう。あてがい扶持の食事では、一日に40人もの相手をさせられた身体の消耗には追いつかないのである。

昭和21年2月、都衛生局からGHQにレポートが提出された、
「RAAに属する日本人慰安婦の90%は保菌者で、米海兵隊の一個師団を調べたら70%が保菌者だった」
強制検診もペニシリンも衛生サックも、まったく役に立たなかったのである。

そんな折、アメリカの母親や妻たちから、厳重な抗議の手紙が総司令部に殺到した。
新聞が、写真入りで全米各誌に大々的に報道した。

昭和21年3月2日、総司令部は「日本女性との醜交を自重せよ」と特別命令を発した。
3月10日、米兵の立入を禁止した。

それに先立って、GHQは1月22日、
「日本における公娼制度廃止に関する覚書」を日本政府に手交、24日に公娼制度廃止を命令した。
制度の廃止は単純に、性病の蔓延に頭を悩ませた結果である。


昭和21年3月27日、RAA慰安所は一切封鎖された

わずか7ヶ月の間に身も心もボロボロにされた女たちには、何の補償もなかった。
ビタ一文の”慰労金”すらでなかった。

最盛期には7万人、閉鎖時にも5万5千の慰安婦をかかえていた。

所期の”大目的”「純潔の防波堤」は達成できたのか。
政府がお膳立てを整え、業者の尻をたたいて、もっともらしい声明文まで読み上げさせたのは、この”神州・日本”ただ一つである。
敗戦国日本が、汚れない娘たちを戦勝国兵士のために”性の奴隷”として差し出した、国家売春が存在した過去は消えない。



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岡山県史より

10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。

いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。


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「昭和史9占領下の日本」より

昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。

RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。





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カストリ雑誌⑥証言の宝庫

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



証言の宝庫=カストリ雑誌

パンパンと呼ばれていた街娼は焼跡闇市時代の一つの象徴であるが、カストリ雑誌もまた、そこで売られていた。存在そのものが象徴であった。
ではカストリ雑誌とはいったい、どのような雑誌だったのだろう。

密造のインスタント焼酎であるカストリは、一合ならともかく三合も飲むと悪酔いして倒れてしまう。
また、印刷用紙の不足を補うため、センカ紙という、チリ紙を転用した、みるからに悪質な再生紙を使用していた。
つぶれるところが多く、吹けば飛ぶようなもの、という意味もこめられていた。

もともとは大衆雑誌なのである。
そして大衆雑誌には、その時代の世相や風俗、人々の生きざま、意識などが、色濃く影を落とし、刻みこまれている。

敗戦直後の飢餓と廃墟と混乱と悪性インフレの闇市時代は、その日その日を生きることにひたすら死にものぐるいで、人間性、というよりも
欲望がむき出しにされて、生臭く、猥雑で、騒然としており、残酷であり、淫蕩であった。

戦後いちはやく登場した大衆雑誌「りべらる」は、創刊当時は文化総合雑誌といってよい内容であり、読物誌としての色彩を濃くしてからは現在の中間小説誌にあたる。
創刊以来、エログロ雑誌、悪書といわれ非難攻撃の矢面に立たされ、抹殺されようとした。





センカ紙は風船爆弾の落とし子

風船爆弾がつくられなくなってからは、コウゾの漉き機械は、無用の長物となっていた。
しかし、あまりにも印刷用紙が不足していたので代用印刷用紙を作ってみたところ飛ぶように売れた。
みるからに粗悪な悪質紙だったが、出版界の歓迎ぶりはすさまじかった。

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カストリ雑誌⑤「カストリ雑誌研究」

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「カストリ雑誌研究」 山本明著 出版ニュース社 昭和51年発行  




カストリ雑誌とは



闇市に、
エロ雑誌が、
ゴザの露店で売られていた・・・というのは間違っている。

カストリ雑誌が本屋で売られていたのは1946年9月以降。戦後1年2ヶ月後である。
ゴザで売られたのは1949年から53年あたりまで。

カストリ雑誌が、どのような層に、どのような意識で読まれていたかは不可能だが、
1947年で定価30円、40円というのは高い価格であった。


カストリ雑誌と呼ばれるものは、戦時中は抑圧されていた性をとりあつかっていることが特徴である。
外観は、粗悪なセンカ紙。
見るからに安っぽい表紙と、写真・さし絵ともに、女性の裸体、ぬれ場が大部分。・・・つまり、さし絵をみればわかる。

『りべらる』
カストリ雑誌というと、すぐに『りべらる』を想起する人が多いけれども、『りべらる』は文芸娯楽誌であって類を異にする。
『りべらる』は菊池寛命名で、創刊号には文部大臣はじめ、菊池寛、船橋聖一、武者小路実篤、亀井勝一郎、大仏次郎などが名をつらね、
モーパッサンの小説が掲載され、一種のモダニズムを売り物にした雑誌だ。

『猟奇』
『猟奇』は、性を正面からとりあげた雑誌がでたというだけで、大変なセンセーションを巻き起こした。
「H大佐夫人」は、いまからみると、何の問題もないが、「具体的な描写と淫らな挿絵と相まって猥褻を表現した」ということになる。









キス
カストリ雑誌の読物、エッセイ、小説からいくつかの共通テーマを抽出することができる。
その、もっとも多いのがキスである。
1947年ごろ、キスについて論争が展開されていた。
否定論は、
①日本の伝統にない。
②接吻は非衛生で忌むべき。
③淳風美俗に反する。
これに対する反論がカストリ雑誌をにぎわす。
封建制がキスを薄暗い閨房に押し込めていた。
民主主義ではキスは公然と行われる、というのである。

では、キスはどうしてするのか
『リーベ』の巻頭論文「接吻について」は、
「ただ口と口をつければいいというものではない」と大見得をきる。
カストリ雑誌は地方でも床屋に置かれ、学校にも持ち込まれた。
一冊の雑誌はボロボロになるまで回し読みされた。
キスはこういう風にする、ということがカストリ雑誌にしか掲載されなかった。









処女に性欲はあるか
「処女に性欲はあるか、女性にも性欲はある」というのがカストリ雑誌の狙いである。
当時正統派のジャーナリズムがとりあげなかった性風俗が満載された。
カストリ雑誌は日本人の貧弱なセックス・イメージを広げる役割をはたした。
接吻には舌を使うものだという、今から考えると噴飯ものの記事が、当時では青少年によって、おどろきの中で読まれたのであり、
処女にも性欲があり、オナニーもするという論文が、彼らの女性観を変えていった。
快楽としての性といえば遊郭しか連想できなかった人々が、日常性の中に性をもちこむようになった。

1949年『夫婦生活』が創刊され、性は夫婦という枠の中におしこめられることになった。
『夫婦生活』は性を管理社会にくみこむ役割を果たすことになった。
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♪花咲く乙女たち♪

2020年09月25日 | 昭和36年~40年


人気絶頂の歌手・舟木一夫が歌う「花咲く乙女たち」といえば、なぜか
後に日活の映画スターになったMくんのことを思い出す。
高校のクラスメートだったMくんは、休憩時間などに、よく「花咲く乙女たち」を口ずさんでいた。

その「花咲く乙女たち」の日活映画は、当時はやっていた普通の青春歌謡映画だと思っていたが
今でいう街起こし、地域起こしであったとは初めて知った。

・・・・・・・・・・・・・・・・


「人びとの戦後経済秘史」 東京新聞・中日新聞編  岩波書店  2016年発行


人出獲得競争

人手不足が深刻化すると、集団就職は商店街・工場・大企業に拡大した。
地域も東京から愛知県や大阪などにも広がり、「金の卵」と、もてはやされた少年少女たちが高度経済成長を支え続けた。

・・・・


高度経済成長期、繊維産業の一大集積地だった愛知県一宮市。
戦後始まった「一宮七夕まつり」にちなみ「女工ではなく織姫と呼ぼう」という声も出た。
危機感を強めた行政は「働きやすい繊維の街」をアピールしようと、日活映画とタイアップした。

旧尾西市(一宮市)を舞台に、地元萩原町出身の歌手・舟木一夫が主演した映画「花咲く乙女たち」(1965年公開)。
製作費約6.000万円のうち400万円を旧尾西市が負担した。

映画が描いたのは、昼は清潔な繊維工場で生き生きと働き、夜は学校で学ぶ女性工員たちだった。
休日になるとサークル活動や街へ外出を楽しむ。
舟木は彼女らの仕事場に給食を配る青年を演じた。
繊維から連想される「女工哀史」のイメージを塗り替える作戦だった。



(昼は、明るい工場で働く)



(夜は、定時制高校に学ぶ)



(初恋もある)



(ピクニックに行く、みんなで歌う)



(青春映画の決まりごと?ラストシーンは別れ。背後や背景はいつも、愛知県一宮市や木曽川)

・・・・

企業は素直で低賃金で使える労働力を求めていた。
人手不足が深刻になり、出身地域も沖縄まで広がった。
集団就職列車は中学卒の少年少女を60年代には毎年8万人前後も運んだ。
1955年からの15年間で地方から三大都市圏に就学も含め500万人の若者が移動したとの推計がある。

地方は今、朽ちた空き家だらけになっている。
人口集中する都会と衰退する地方。この時期に端を発していた。




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♪リンゴの唄♪

2020年09月22日 | 昭和21年~25年
リンゴは青森や長野が有名だが、
岡山県の南部の茂平でも栽培されていた。
おば(父の妹)は「リンゴで学校に行かせてもらったようなもの」と言っていた。
戦後、茂平にリンゴの木は無かったが、それは”食料増産”も、少しはからんでいたのだろうか?

・・・・・・・・・・・・

「人びとの戦後経済秘史」 東京新聞・中日新聞編  岩波書店  2016年発行


「リンゴの唄」

明治期に青森県で盛んになったリンゴ栽培は長野県などに拡大。
昭和には植民地だった台湾などへ輸出も増えた。
小粒で酸っぱい「紅玉」、持ちがよい「国光」が主流品だった。

だが、戦況悪化で軍部はコメやイモなど主食になる作物の増産を優先した。
1941年にはリンゴの木を新しく植えることを禁止。
1943年には「りんご園耕作転換令」で一部切り倒しとイモなどへの転作を命令した。
元農協職員A氏(89)は、
「リンゴ農家には農薬や肥料も配分されなくなった」と話す。

「リンゴを作るヤツは国賊だ」。
リンゴ栽培技術の研究者M氏は、軍に協力する大政翼賛会が叫んでいたのを覚えている。
清水村は全体の二割を伐採させられた。農家は自ら木を切った。

1944年の晩秋、清水村(現在・青森県弘前市)に
「食糧増産隊」を名乗る130人の青年が大挙してリンゴ畑にやってきた。
木を斧で切り倒し、縄を掛け根元から引っこ抜く。
二週間で3.600本が伐採された。
大豆やジャガイモの畑になった。

地元の警官は、火の見櫓に登り、双眼鏡を使って農家がリンゴの作業をしていないか監視し、
田植え期にリンゴの袋掛けをした農家を逮捕した。

1942年に21万トンだった青森県の生産量は終戦の年には一割にも満たない1万八千トンに激減した。
リンゴ農家は壊滅寸前だった。

※※※

『リンゴの唄』はそんなリンゴ受難の時代に誕生した。
詩人サトウハチローの祖父弥六は、弘前藩士族でリンゴ栽培を指導した人物だった。
だが、軍の検閲で楽曲化は禁じられた。
戦後ようやく日の目をみた。

松竹歌劇団の並木路子は、父と兄が戦死、東京大空襲で母が亡くなっていた。
作曲家万城目正は「並木くん、君に頼むのは忍びないが・・・」
並木は、「戦争で肉親を失ったのは私だけない」と悲しみを捨て、明るく歌った。

戦後初の大ヒット曲『リンゴの唄』は、勇ましいだけの軍歌にあきあきしていた国民は、かれんで希望に満ちた歌に共感したとされる。
だが、国民はリンゴが食べれる時代が戻ってきたことを喜んでいたとの見方もある。

※※※

大量伐採の影響は深刻だった。
農家の多くが苗から育てなければならなかった。
「苗木も生産していた父のところに農家が殺到しました」とM氏。
同県のリンゴ生産量が戦前水準を超えるまで四年かかった。

1969年に刊行された青森県りんご協会「二十年の歩み」には、
「あと2~3年戦争が続いたら全てジャガイモ畑に変わっただろう」と記す。




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カストリ雑誌④カストリ雑誌業

2020年09月22日 | 昭和21年~25年

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「昭和の消えた仕事図鑑」 宮沢優著 原書房 2016年発行 


カストリ雑誌業

---戦後まもなくの昭和21年から25年ごろにかけて出版されたエログロな内容の大衆娯楽雑誌を出版する業者。
紙不足の時代に、屑紙を再生した紙で作られた---


カストリ雑誌が誕生したのは、敗戦後間もなくであった。
それまでの表現の自由から一気に解放され、性、犯罪、怪奇、推理などを描いた出版物が堰を切ったように刊行された。
それを牽引したのが、粗悪な紙で作られたカストリ雑誌であった。
戦後、GHQによって用紙統制されていたが、カストリ雑誌は統制の対象外であった仙花紙で作られた。
主に性風俗を扱ったものが多く、「風俗研究」「りべらる」「アベック」「好色草紙」「怪奇実話」「オール夜話」「犯罪実話」などの雑誌があった。

雑誌「猟奇」の2号は6万部も売れたが、わいせつ物頒布罪の疑いで摘発された。
結局「猟奇」は5号で廃刊。
他のカストリ雑誌も本文中に性風俗の挿絵や口絵があり、21年から百数十種類の雑誌が刊行されたがすぐに消えた。
時流に敏感な学生の中には雑誌を創刊する者もおり、東京大学の学生だった室伏哲郎らは「ナンバーワン」を刊行している。

正当な雑誌を扱う出版社は「内神田」、カストリ雑誌を出す出版社は「外神田」と呼ばれ区別された。
表現の自由を謳い、一時的な人気を博したものの、興味本位な内容に走り、明確な方向性を持たなかったため、結局、カストリ雑誌は昭和25年ごろにはほとんど姿を消した。


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