しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

芭蕉 (中尊寺)

2021年06月30日 | 銅像の人
場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉


藤原三代
北方の王者


長い古代の歴史を通じて、陸奥は遠い道のそのはての土地、
朝廷の支配の及ばない未開野蛮な蝦夷の住む土地とされていた。
その辺境の地平泉に、忽然と出て、百年の栄華の後、忽然と消えていった政権--
それが藤原三代であった。


大佛次郎
平泉あたりは、もう「外国」だったわけですね。
一つの独立国みたいな勢力でしょうね。
金色堂は、はじめ野天にあったのですが、鎌倉時代になってから覆堂を造ったんです。
お天気のいい日なんか、実にきれいだったでしょうね。

「日本史探訪6」 角川書店編  角川文庫  昭和59年発行







経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、
四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。
しばらく千歳の記念とはなれり。

五月雨の 降り残してや 光堂




金色堂が年とともに興廃する様を見て、鎌倉幕府以後再三修復された。
正応元年(1288)といえば金色堂建設後180年に当たるが、
鎌倉幕府7代将軍維康親王は北条貞時、宣時らに命じて、この堂を覆う套堂 を作らせた。
その後伊達政宗も後水尾天皇の勅を奉じて、寛永初年に修理にあたり、綱村の時代にも手が加えられた。

金色堂は中尊寺という膨大な寺院のほんのささやかな一つの堂にすぎない。
中尊寺は藤原清衡の建立したもので、堂塔、禅坊など合わせて何百にも及んだと伝えられている。

「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行







平泉

石巻を経て辿り着いた平泉は、「奥の細道」の中でも秀句がそろい、句碑も多い。
「五月雨の」句碑は中尊寺金色堂脇に、
「夏草や」句碑は江戸期の2つに加え新渡戸稲造の英訳ものと、毛越寺境内に3つ建つ。
中尊寺や高館など、発句の舞台が今もそのままに残る。


実際に雨が降ったのは前日の事で、この日は晴れていた。
だが、芭蕉は詩人としての特権で、散文的な鞘堂などは詩としてのイメージの中から取り除いてしまう。
また、勝手に雨を降らせて、暗い五月闇のなかに輝く光堂の姿を、対照させる。
作者が胸中にはっきりと光堂の存在感を受け取っている重みが感じられる。

「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行








撮影日・2019年6月30日

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源義経 (高館)

2021年06月29日 | 銅像の人
場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉 「高館」


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先高館に登れば、北上川、南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。


「奥の細道」 





「義経記」  世界文化社 井口樹生 1976年発行 

衣河合戦の事

弁慶

弁慶の鎧に矢の立つことこの数を知らず。
その矢を折り曲げ折り曲げしたらから、まるで蓑をさかさまに着たようであった。
黒羽・白羽・染羽、色とりどりの矢どもが風に吹かれて見えた。
「弁慶ばかりはいかに狂っても死なないのは不思議なことだ。
我らの手にあまるから、平泉の大明神よ、弁慶を蹴殺したまえ」
と呪っていうのも笑止であった。


判官

義経幼少より愛蔵の刀をもって、左の乳の下より切先を立て、背中にまで通れとばかり突き立てて、疵の口を三方へ掻き切り、腸をえぐり出し、
刀の血のりを衣の袖で拭い浄める。脇息にもたれておいでになる。


北の方(義経の妻)

義経今は兼房を召す。
兼房は腰の刀を抜き放ち、北の方の左肩を押え、右の脇の下から左へ、つっと刀を刺し通すと、
北の方苦しい息の下で念仏を唱えられ、すぐにはかなくおなりになった。


若君(5歳、義経の子)

兼房の首に抱きつきなさって、
「死出の山とかへ、早く参ろう。兼房急いで連れて参れ」
と責めなさるからして、兼房涙にむせんで泣いていたが、敵はしきりに近づく。
これではならじと、若君めがけて二の刀をば刺し貫けば、
「わあっ」
とばかり声あげて、息が止まりなさった。


「早く邸に火をかけよ」
というひと言ばかりを最後のことばとして、ついに判官はこときれ給うた。








「芭蕉物語」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行


平泉

5月13日(陽暦6月29日)、
一関の宿を出た芭蕉と曾良は平泉へ向かった。
今日は朝から上天気である。

二人はまず義経の旧跡高館(たかだち)の丘にのぼった。
裏手は絶壁になっており下をみおろすと、北上川が川岸につきささるようにしぶきをあげていた。
奥州第一の大河である。

高館の丘は暗い樹木や雑草に埋もれて、往時の面影をとどめるものは何一つ残されていなかった。
ただ丘の頂にささやかな一宇の堂が建っていて、義経堂と呼ばれていた。

芭蕉がこういう奥地までやって来たのは、高館に義経の最後をしのび、光堂によって中尊寺文化に思いを馳せたいためであったが、
またこの平泉地方が、日頃敬愛する西行のゆかりの土地であるとうこともあった。

悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨を込めて、

夏草や 兵どもが 夢の跡  芭蕉





曾良は兼房の奮戦の有様を想像していた。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛び込み、
壮烈な最後をとげた。63歳の老齢であった。


卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良











撮影日・2019年6月30日

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松尾芭蕉(伊賀上野)

2021年06月28日 | 銅像の人
場所・三重県伊賀市上野丸之内

伊賀上野は山国である。
伊賀上野駅から南には上野盆地が開け、盆地の中ほどに小高い丘が望まれる。
上野は、この丘の上に造られた小さな城下町。

この城下町に芭蕉が生まれたのは正保元年(1644)、三代将軍家光の時代にあたる。
父は中世以来土着の柘植七党の名家の一党の末流で、
苗字は許されたが帯刀は禁じられ、平百姓並みとなった。
芭蕉は幼名宗房で、上野の町に流行する俳諧に興味を示しはじめた。
俳諧の縁で家老の台所方使用人という勤め口を持つようになった。
いつの間にか上野の俳壇の代表格になった。
大都市に出て専業の俳諧師として飛躍したいと考え、郷里を棄てて大江戸に向かった。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行



(俳聖殿)



江戸に出て3~4年は無名だった。
俳号は「桃青」と改めた。
俳諧宗匠・点者として公認されたが、生計は不如意で神田上水工事の事務職を兼ねる苦労もした。
其角、杉風、嵐蘭など、後に芭蕉門の中核をなす人々が入門していたが、独立後は急に増えた。
桃青は江戸宗匠五指に入る有名人になっていた。

点者という職業に疑問を深めていた。
俳客を奪い合う生存競争、そんな俗悪な俳壇社会に対する疑問と嫌悪がいよいよ高まり、点者稼業を放棄した。
心機一転すべく、都心地から隅田川を越えた深川村に移した。
桃青は「乞食の翁」を自称した。
草庵の庭にバショウがあり、「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、第二の俳号として「芭蕉」を用いた。
この芭蕉庵は江戸大火(八百屋お七事件)で全焼する、
このときの心境について門人其角は「無所住の心を発し」と伝えている。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行






(芭蕉像=写真の左端)


芭蕉がはじめて文学の旅に出たのは41歳の時である。
それからは小旅行、長期の旅行で旅の空となった。
芭蕉の文学は『奥の細道』の旅を境にして大きく変化した。

芭蕉は自分の志操を高く持ったが、生活的には深川の庶民街の中で名もなき人々とフランクに近所づきあいをする普通の人であったし、
彼らの生活の理解者でもあった。

しばらくの間、実家で静養をつづけた芭蕉はやがて、もっとも深く愛する門人たちの住む湖南と京都を訪れて、
再び伊賀に戻る。
強く来遊を求める便りが届きはじめ、最初に大坂にまわろうとした。
元禄7年9月9日、大坂の門人宅に着いた。
高熱、悪寒、頭痛に襲われた。
しかし、こと俳諧に関しては意欲の衰えを知らず排席に出座を繰り返した。
それも限界にきたようで10月に入ると、急を聞いた近畿各地の門人が続々と駆けつけてくる。
そんな中の10月8日深夜、芭蕉はふと眠りから覚めて、
病中吟
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
と一句を吟じ、傍らの門人に書き取らせた。
10日には郷里の兄、江戸の杉風ら主要門人や芭蕉庵の近所衆への永別の言葉を口述して支考に書き取らせた。
それからは身を清め、香を焚いて静かに臥し、12日申の刻、眠るがごとく51年の生涯を終えた。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行





(芭蕉生家)

 
「奥の細道」 世界文化社 1975年発行

芭蕉の旅

和歌の西行・連歌の宗祇・俳諧の芭蕉をわが国の三大旅行詩人と呼ぶ。
けれどもこの三人の旅行を分析すると、おのずからその旅の性格を異にしていることがわかる。

すなわち西行は漂泊の旅人である。
宗祇は、風流な大名豪族に招請され、その目的地へ往復する道中であった。
芭蕉は、必ず予めスケジュールを立ててそれによって行動した。


芭蕉は岐阜の長良川の鵜飼いを見てからだろう。
魚肉を取らぬようになったので栄養失調のきざしがあったらしく、とかく不健康で、ついに浪花の宿舎で帰泉した。
旅での死は、芭蕉にとっては満足であったろう。

芭蕉は古典を、古典では味わえない俳諧文を作り上げようとした。
日記、紀行、詩歌、絵巻のすべてがそれで、どれにも成功している。
だから旅には紀行文を書くことを目的の一つにしていたのである。



撮影日・2013年6月8日


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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノ崎まで浸水)の記事・記録その④

2021年06月28日 | 江戸~明治
山陽新聞に水島の決壊記事が載った。
記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。

・・・・・・・





      2021年6月18日  山陽新聞・文化欄 「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」
「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流



福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。
周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地んがら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。
だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。


「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。
日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。
「堤が切れた、堤が切れた」


吹きつける暴風と台風通過に伴う気圧の低下、そして大潮と、高潮災害が起きる悪条件がいくつも重なった。
押し寄せる高波に、干拓地の西、南を囲っていた堤防が次々と決壊。
内部に海水が流れ込んだ。
住民の多くは暴風雨に耐えることに懸命だったため、潮水が屋内に浸入して、初めて事の重大さに気付いた。

「戸の隙間からドウドウと水がはいりだした。避難するところは何所もない」
追い詰められた人々は屋根の上へ逃れるよりしかなかった。
暴風の中、屋根わらに必死にしがみついたという。

高潮の猛威はさらに続く。
多くの家屋が水の勢いに押し倒され、住民を屋根上や屋内に残したまま、漂流し始めたのだ。
漂流する家同士がぶつかり、崩壊するなどの悲劇が各所で起きた。


ようやく空が白み始めたころ、
流された家々は福田新田の北、福田古新田との境にあった土手に折り重なるように漂着していた。
「青田、民家は残す所なく泥海と化し去り」
子を失った親があてもなく探し歩き、濁流の中で力尽き、妻子の手を離した者が大声で泣く姿など、
惨憺たる状況を遭難記は伝える。

1年後、当時の県令が慰霊のため「千人塚」の碑を建立している。
旧5ヶ村の住民は「千人塚奉賛会」をつくり、今も輪番で供養祭や清掃活動を行っている。






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坂本龍馬 (函館)

2021年06月27日 | 銅像の人
場所・北海道函館市末広町 「北海道坂本龍馬記念館」

函館の街に龍馬の銅像が立つ。
坂本龍馬と北海道は、なにか縁があったかなあ?


この銅像がある場所は、なんと龍馬記念館。
記念館があるということは、そうとう深い関係があるのだろうな。




こうゆう↓関係だった。つまり坂本龍馬のように大きな視野の人間になってください、というような関係(?)だった。


【北海道坂本龍馬記念館】HPより

北海道坂本龍馬記念館は、
日本の将来を担う人材の育成、主に青少年の心の育成を支援するため、
近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして坂本龍馬が生きた幕末・維新の時代背景、
また坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫の人々の調査・研究などを催すと共に、
多くの人々が興味を持ち、 学べる場としての「北海道坂本龍馬記念館」を目指して活動しています。







撮影日・2017年7月30日
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坂本龍馬(桂浜)

2021年06月27日 | 銅像の人
場所・高知県高知市  桂浜
制作・本山白雲
設置・昭和3年


龍馬像の変遷--戦後によみがえる像

龍馬の場合、彼の歴史的位置というものは、ほとんど無きに等しかった。
小学校の教科書でも、明治の元勲というのは
木戸孝光、西郷隆盛、大久保利通の3人で、その後はいきなり
伊藤博文、山県有朋という明治国家のつくり手たちが登場する。

時おり、たとえば中等学校の漢文読本に、
「妻は病床に伏し、子は飢えて泣く」という梅田雲浜の詩が載る。
これが幕末の志士を象徴しているくらいでした。

明治国家が薩長のものであった。
それ以外の変な人物たちは、歴史の中の困り者にすぎない、ということだったのでしょう。
龍馬は共和思想の匂いの濃い人物だったのがマイナスだったかもしれません。


「歴史の中の日本」  司馬遼太郎 中公文庫 昭和51年発行









坂本龍馬像
世界を目指した風雲児


桂浜から太平洋を見渡す龍馬像は、高知一の観光名所といっても過言ではないだろう。
右手を胸にしまったお決まりのポーズ。
高知の青年有志が寄付金を募って建立し、1983年(昭和58年)に修復された。
毎年命日の11月前後の2ケ月間、像の脇に展望台が設置され、
竜馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行







有名な桂浜の像は、龍馬がまだそれほど有名でなかった1926年に当時の早稲田大学生で、
後に社会運動家となる入交好康の呼びかけで募金運動が始まり、28年に除幕された。
1934年に完成した京都円山公園の龍馬と慎太郎の二人の像は太平洋戦争中の金属回収で失われ、62年に再建された。
桂浜の像は除幕式に海軍が関係し、軍部が反対したためか、回収を免れた。

「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行









坂本龍馬
1835~1867
幕末の志士。
高知生まれ。
万延2年(1861)武市瑞山(半平太)の土佐勤王党に参加。
翌年脱藩して勝海舟の塾に入り、
海軍航海術を学び、長崎で薩摩藩の保護の下で亀山社中(のちの海援隊)を経営して海運業に従事。
中岡慎太郎らとともに桂小五郎と西郷隆盛の間を斡旋し、薩長連合を成立させる。
「船中八策」をまとめ、大政奉還を実現させたが、京都近江屋で中岡とともに暗殺された。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2015年2月28日



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龍馬と慎太郎

2021年06月26日 | 銅像の人
場所・京都府京都市東山区円山町 円山公園
製造・1962年(昭和37年)


この銅像は、龍馬と中岡慎太郎の雰囲気がよくでている。強い意志で新時代を見つめているようだ。



円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)


亀山社中は危機に陥っていた。
「船を一隻も持たない」海運会社になってしまっていた。
薩摩藩の仲介で、
オランダ商人から汽船を買った大洲藩が、その操船のための人員提供を社中に求めてきた。
これを機に、龍馬は「いろは丸」と名付けた。

後藤象二郎と連携した龍馬は、亀山社中を土佐藩の下部組織に組み入れることに合意し、
これを海援隊と名付けた。
土佐藩所属の軍隊となった。
盟友の中岡慎太郎は陸援隊長になった。


「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行





中岡慎太郎


龍馬より3歳年下になる。
土佐国安芸郡郡の大庄屋の子に生まれ、長じて武市半平太の弟子となり、土佐勤皇党に加盟する。
しかし、8月18日の政変で攘夷派への弾圧が始まると、さっさと土佐藩を脱藩した。
彼は長州の久坂玄瑞と親しく、その縁で長州に亡命したのである。
この長州三田尻の血で、都落ちしていた七卿の代表三条実美に抜擢され、その衛士つまり直臣になった。

翌年の禁門の変には、久坂玄瑞に同行し浪士仲間のまとめ役(これがのちに陸援隊につながる)として戦い負傷したが
無事生還した。
各藩の士と交流し、薩長を連合させ幕府と戦うべきという気運が盛り上がってきた。

「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行









33年の短い生涯

慶応3年(1867)11月15日、
龍馬は当時河原町通りの近江屋を宿舎にしていた。
近江屋は土佐藩邸のすぐそばだ。
龍馬は中岡慎太郎と話し込んでいた。
そこへ刺客がやってきた。
刺客は「こなくそ」と叫んで中岡を斬り倒した。
龍馬は床の間の刀に手を伸ばそうとして後ろを向いたところ、さらに頭から背中にかけて斬られた。
それでも刀をつかみ鞘のまま防戦したが、今度は腰を斬られて動けなくなった。
ピストルもあったのだが不意をつかれて使うひまがなかった。
龍馬はその場で絶命し、中岡は二日後に没した。

天はこの若者に「薩長同盟」「大政奉還」という大仕事を実行させるために地上へ下し、
用が済んだらすぐに召したということだろう。

それが坂本龍馬という英雄の最も大事な特徴である。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行







撮影日・2006年11月23日

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龍馬とお龍、愛の旅路 像 (伏見)

2021年06月26日 | 銅像の人
場所・京都府京都市伏見区


「歴史と人生と」 綱淵謙錠  中公文庫 昭和55年発行


伏見・寺田屋の養女お竜(おりょう)といえば、伏見奉行の手の者に襲われた坂本龍馬と三吉慎蔵の危機を、
機転をもって助けたことで有名である。

慶応2年(1866)1月23日の深夜、龍馬らが二階の座敷で寝に就こうとしていたとき、
裏階段から息せききって入ってきたお竜に、急を知らされた。
そこで龍馬はピストル、三吉は槍で、警吏との修羅場が展開されるわけだが、このときのお竜が素っ裸だったといわれている。
お竜の後日談によると、濡れた肌に袷(あわせ)を一枚ひっかけたことになっているが、
おそらく湯殿の窓から外を眺めて捕吏の存在に驚き、素肌に手拭ももたずに階段を駆け上ったものと思われる。
 

当時の女性としては想像することすらできない姿だったので、
その突拍子のなさがかえって龍馬に気に入り、九州に新婚旅行としゃれこむことになったのであろう。








龍馬の家になった寺田屋

寺田屋事件は、急進倒幕派の薩摩藩士が、同じ薩摩藩ながら守旧派の御老公(島津久光)の命令を受けた人々に斬られたという同士討ちの事件だ。
これによって薩摩の勤皇派は一時粛清された。
西郷隆盛が久光に批判的だったのはこのためで、逆に久光は西郷を憎んで何度も島流しにした。


慶応2年正月、龍馬は高杉晋作から上海みやげのピストルをもらった。
アメリカ製のアーミー銃で32口径6連発。
寺田屋は淀川につながら堀川に面していた舟宿だから、すぐ近くまで舟で行けた。
薩摩藩邸は、ここから数キロのところにある。

そうした中、薩摩藩と寺田屋の関係は良好であった。
血で汚した補償金も払った。
龍馬は一時薩摩藩の保護下にあったから、その縁で寺田屋を定宿にしていた。

1月24日、寺田屋を幕府の伏見奉行捕り方が取り囲み、龍馬を捕縛しようとした。
お涼は裸のまま風呂を飛び出し、龍馬に急を告げたという。
後年お涼は「着物を着ている暇はありませんでした」と答えている。

ピストルで捕り方を撃ち殺した龍馬は、これ以後、
「重大犯人」として幕府に追われることになる。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行






(寺田屋)


撮影日・2015年2月18日
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坂本龍馬とお龍

2021年06月26日 | 銅像の人
場所・鹿児島県鹿児島市天文館






龍馬は傷の手当てのためお竜と、霧島温泉と日当山温泉に湯治に来たが、
これが日本人初の新婚旅行と、いつからか言われるようになった。




(2013.8.11韓国岳登山道から望む高千穂峰)



「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行


新婚旅行で高千穂山へ

薩長同盟を成立させるという大仕事を成し遂げた龍馬は、
傷の療養も兼ねて、お涼と共に汽船で薩摩に向かった。

これが日本最初の新婚旅行と言われるものだ。
しばらく鹿児島に滞在した後、霧島方面の温泉に向かった。

この慶応2年3月は、龍馬のあわただしい人生の中で最ものんびり暮らせた時期だった。
(この時から1年半後に暗殺された)
お涼は、神話で有名な高千穂山に登りたいと言い出した。
ちょうどキリシマツツジが満開で見ごろだった。

人生最良の日々を過ごした龍馬夫婦は鹿児島へ戻った。
下界は風雲急を告げていた。











撮影日・2013年8月8日




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坂本龍馬観音

2021年06月25日 | 銅像の人
場所・広島県福山市鞆町

10年ほど前、福山市にも龍馬像ができた。
その時、坂本龍馬は日本人に人気があるのだなあと思った。


(後方、対潮楼)


いろは丸の沈没

慶応3年(1867)4月、長崎の地で新たに発足した海援隊ですが、同月23日に、早くも暗雲が立ち込めてきます。
海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没した、「いろは丸」事件です。
長崎を出港したいろは丸は、関門海峡から瀬戸内海に入り、紀州藩船と讃岐の箱ノ岬沖で衝突。
しばらくして船は沈没。
龍馬は事故の責任は紀州藩船側にあるとして、御三家のひとつ、紀州藩を相手に損害賠償交渉を行います。

正式な交渉は長崎の聖福寺で行われました。
交渉には、途中から土佐藩の後藤象二郎が加わるようになり、
最終的には薩摩の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩は事故の責任を認めて交渉は妥結。
龍馬は結果的に八万三千両もの巨額を賠償させることに成功します。
この金額は、いろは丸が積んでいた鉄砲類の金額を加えた額なのですが、
近年、鞆の浦沖でいろは丸と見られる船体の引き上げ調査がなされたところ、
積み荷とされていた鉄砲類は発見されなかったそうです。
おそらく、龍馬の「はったり」だったのでしょう。

「龍馬史」 磯田道史  文芸春秋 2010年発行





いろは丸で日本初の海難事故

「いろは丸」と紀州藩「明光丸」の事故は、
日本初の汽船同士の衝突という海難事故であり、その「審判」が行われたことも初の事だった。
まず最寄りの備後国鞆の港で談判が行われたが決着はつかず、長崎に舞台を移して継続して行われた。
土佐藩は当然龍馬の肩を持ち、紀州藩は徳川御三家の権威で押し切ろうとした。
結果は海援隊の大勝利となった。
龍馬はここで紀州藩の深い恨みをかったかもしれない。
龍馬はこうした中でも持論の大政奉還を、土佐藩の藩論として将軍に具申し、それを実現するため奔走していた。

「英傑の日本史」 井沢元彦  角川学芸出版 平成22年発行






(いろは丸展示館)




撮影日・2021年3月26日
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