しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松根油作戦

2019年06月24日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和史7太平洋戦争(後期)研秀出版 平成7年発行より転記③

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太平洋戦争が末期的症状を呈しはじめた昭和19年秋から、全国津々浦々で松の根っこ堀り風景が展開した。
代用航空機燃料として見直された松根油(しょうこんゆ)を緊急に増産するためだった。
 昭和19年に入ると日本の石油保有は底をついてきた。南方占領地にはあり余る産油が確保されていたが、制海・制空権を失い、米潜水艦で油送船はかたっぱしから沈められていた。
この年後半には海上輸送は完全に崩壊、軍需生産はマヒ状態になり、特に石油関係の燃料問題は深刻だった。
軍は代用航空機燃料さがしに躍起となった。
砂糖を原料とするエチルアルコールの生産が、全国酒造工場を動員して行われたが砂糖も南方から入手できなくなった。
 そこで純国産原料、松の古根株から乾留してとれる松根油が登場した。
昭和19年10月23日、「松根油緊急増産・・要綱」が決定され、直ちに全国へ指示された。
農業団体を主体に、必要とあれば学徒、非農家も動員して、総力をあげて松根油を増産することとなった。
昭和20年6月、目標30万キロリットルの松根油生産が達成された。しかし、折角の松根油も、精製装置も、連日の米軍の本土空襲で次々と炎上し、結局日本の飛行機に使用されるまでに終戦となった。
 全国各地にわずかに残った松根油は、漁船の焼玉エンジンの燃料として、終戦後の食糧補給に一役かうことになったのである。


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日本海軍、レーダーに完封される

2019年06月24日 | 昭和16年~19年
日本海軍、レーダーに完封される

昭和史7太平洋戦争(後期)研秀出版 平成7年発行より転記②

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日本海軍の伝統戦法は夜戦であった。
日清・日露の戦役でも、夜戦によって大きな戦果をあげた。
海上戦においては、如何にして早く敵艦影を発見するかに勝負がかかっていた。
日本海軍では、見張り,特に夜間遠距離にある敵影を発見する見張りの猛訓練を続けた。
その結果、
見張り員たちは暗夜8000から10.000m先の艦影を発見できるという抜群の能力をもつことができた。
しかし、
日本海軍18番の夜戦が完封される日がきた。
昭和17年11月、ガダルカナル沖サボ島14km付近を航行中、暗黒の海面に艦影を発見、敵か味方か判断しようとした一瞬、猛烈な一斉砲撃を受けた。
敵艦隊は探照灯による照射も行わず、正確な命中弾を集中してきた。
敵はレーダーによって我が艦隊を先に発見、さらにレーダーにより遠距離から正確な無照射射撃を行った。
以後、
日本海軍の夜戦は完封されたのである。

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VT信管

2019年06月24日 | 昭和16年~19年

昭和史7太平洋戦争(後期)研秀出版 平成7年発行より転記①

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昭和史対談 阿川弘之 秦郁彦

秦 
日本の高射砲が当たらないんですよね。陸軍も海軍も。
ところがアメリカ海軍の高角砲はよく当たる。
とくにVT信管ができてくると、命中しなくても近くを通っただけで日本機がどんどん落とされる。
阿川
館山の砲術学校が、何発に一発命中するものか、数理的に計算してみると、だいたい4.000発に1発という答えが出た。
VT信管は一種の感応信管で、ある程度の距離を通れば自然に爆破する、非常に有効な、革命的なものです。
アメリカは極秘中の極秘にしてイギリスにも渡さなかった。

敗けたのは、
原爆、暗号解読、レーダー、もうひとつVT信管ですね。
阿川
アメリカ側ではVT信管だったと言ってる人があります。

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あこがれの職業、キャッチャーボートの船乗り

2019年06月23日 | 城見小・他校
小学校で完全給食が始まった。
おかずは毎日、クジラ肉だった。

金浦から魚売りが自転車で来ていた。
母が買うのは、安い鯨肉だった。

で、季節にもよるが、朝も鯨、昼も鯨、夜も鯨という日々が続くのも珍しくなかった。

少年雑誌(漫画王とか少年など)の巻頭に捕鯨の写真記事が掲載されいた。
南洋で獲る鯨は日水や大洋漁業の大手の船団であるが、写真では大きな母船でなく小さなキャッチャーボートが大きく載っていた。
鯨を槍で射撃する人が、少年たちのあこがれの職業になっていた。

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蒸気機関車は大きく、力強く、絵画では一番人気だったが
何故か、少年たちのあこがれの職業ではなかった。

たぶん、顔から汗が噴き出る釜焚きの人の姿が目に焼きついてたからであろう。

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今日(2019.6.23)の新聞に和歌山県大地町が出ていて、捕鯨の全盛期には「2年捕鯨船に乗ると家が建っていた」とある。わかるような気がした。


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陽明丸とシベリア出兵⑪「シベリア出兵」なぜ7年も続いたのか・・・6

2019年06月22日 | 大正
この中公新書を読んでいて、その後の日中戦争とあまりに類似していると思ったが、著者もその事を最後に記している。

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑥
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ソ連と国交樹立へ—1923~1925
1923年8月、加藤首相が胃がんで死亡。9月関東大震災。
山本権兵衛内閣が発足。
1924年2月イギリスがソ連を承認、以後各国がつづく。5月には中ソが国交樹立。
1924年6月、加藤高明首相となる。
1925年1月、日ソ基本条約調印。
同時に共産主義取り締まりの為「治安維持法」を制定した。
1925年5月15日、北サハリンから撤兵した。

北サハリンの利権獲得
シベリア出兵で唯一獲得した利権である、石油石炭。
三井三菱などの財閥出資で「北樺太石油会社」ができた。
初期の数年は順調であったが、1930年代になるとソ連の圧力で経営悪化。
日中戦争開戦後はほぼ操業停止した。

日露の犠牲者数
7年間で戦死2643人、病死690人。
ロシアは8万人という推計もある。

日露の経済損失
国家財政は7億。
ソ連がロシア帝国の債務引継ぎを拒否したので2.9億が未回収。

機密扱い
これほど多くの犠牲を生みながら、第二次世界大戦前に、国民はシベリア出兵からほとんど教訓を得られなかった。
戦史の大部分は公表されなかった。

・・・・・・

なぜ7年も続いたのか

統帥権の独立
首相に国務大臣への命令権はない。陸相・海相と協力関係にあることが前提となる。
問題は参謀本部、
首相と陸相が連携して抑え込む。
元老も無視できない。

親日政権の樹立に失敗。
死者への債務、「土産」が必要になる。
シベリア出兵と日中戦争の類似、二重外交、広大な空間。


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陽明丸とシベリア出兵⑩「シベリア出兵」沿海州から撤兵1921年・・・5

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑤
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国内の不評
1921年1月時点で戦死者は1.017名。尼港事件の興奮も冷め、各紙は批判を増した。
田中陸相は、北サハリン以外からは撤兵が得と首相に話す。

極東共和国との外交交渉
この頃、(1921年4月)
欧州ではソビエト政府を迎え入れようとしていた。
極東共和国から国交樹立の覚書が届く。
交渉が成立すれば沿海州と北満州から撤兵することを閣議決定。
撤兵の代償を求める日本と、撤兵なくして利権なしの極東共和国の、双方の隔たりは大きかった。

ワシントン会議
アメリカは自国が撤兵後も、なお出兵を続ける日本に、再三抗議していた。
国務長官は「日本がシベリアの地での利権を得る事を認めない」と幣原大使に手渡している。

原首相暗殺
1921年11月4日、東京駅で暗殺された。11月25日には皇太子が摂政に就任した。
翌1922年1月元老山県が病死した。

追い込まれる日本・・1922年
ついに日本は内外の圧力により撤兵を強いられる状況になった。
その理由は、
ロシアの反革命の敗北が必至になったこと
ワシントン会議で撤兵を明言させられたこと
国内で野党と世論が撤兵を迫ったこと

無条件撤兵
原敬後の首相は高橋是清が就任した。
閣僚たちも、撤兵の条件をいう段階は過ぎつつあることを承知していた。
高橋内閣は政党の内紛で辞職し、加藤友三郎海相が組閣した。
加藤首相兼海相は撤兵を急いだ。
1922年6月24日、
「10月に撤兵断行」が内外に発表された。

ウラジオストク陥落
極東共和国軍は、日本軍との衝突を避けようと、ウラジオストク強行突破を控えた。
撤兵期日の10月25日、
最後の輸送船に乗って撤収した。
立花司令官は、共和国軍司令官に「閣下の高明公平なる措置により、両軍矛を交ゆるの惨禍を避け」たと称えている。
こうしてウラジオストクは陥落した。
上陸してから4年3ヶ月が流れていた。

ロシア難民
約7.000人が朝鮮に上陸後、世界に散っていった。

極東共和国の清算
日本との緩衝材であった極東共和国は用済みとなった。
1922年12月30日、ソ連の成立により幕を閉じた。

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陽明丸とシベリア出兵⑨「シベリア出兵」1920年北サハリン・・・4

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記④
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北サハリン派兵
1920年日本軍はアムール州とザバイカル州から撤退し、沿海州南部と北満州の中東鉄道沿線に兵力を集中させた。
その一方で、別の地域に派兵を始める矛盾した行動に出る。
尼港事件の謝罪と代償を求めることを大義名分としている。
保障占領は石油の保障で、日本海軍が以前より北サハリン油田を狙っていた。

尼港事件
1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。
7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。

北サハリン
南サハリンから移住する人が、その年1.600人。
「都下の流浪の民をサハリンに送出」する依頼者が原首相を訪れている。
炭鉱・油田の民間資本が参入し、海軍が監督下に置いた。
海軍の船舶はカムチャッカ半島まで出動するのが日常化された。

間島への越境
1920年末になると、シベリアでは出兵を続けても先が無いことは明らかだった。
反革命軍に駒もいなかった。
原首相はウラジオストクにこだわりがあった。
植民地の朝鮮と、利権を持つ満州への、共産主義の波及だった。
1920年秋、間島へ派兵した。
間島は、中国・朝鮮・ロシアの国境が接する地方で、現在中国吉林省の朝鮮自治州。
間島には朝鮮人の抗日活動家が多く、日本領事館が襲撃された。
1920年10月7日、間島派兵が決定した。
間島の主権を有する中国が反対した。


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陽明丸とシベリア出兵⑧シベリアでの攻防1919年・1920年「シベリア出兵」・・・3

2019年06月22日 | 大正

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記③

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日本人の野心
北一輝は、レーニンに「西シベリアの割譲」を要求すべしと主張
した。
田鍋安之助は、シベリアの自由経済、鉄道譲渡、モンゴル保護国、ザバイカル州以東は親日派統治させると主張。

兵士たち
10月よりの極寒で、凍傷、睡眠、静止も不可能なことがあった。
パルチザンのゲリラ戦に翻弄された。
兵士のモラルは弛み、「北のからゆかさん」は需要が急増した。
「滅法高価だが、明日をも知れぬ我が命だと、兵隊はここに遊びに行く」、将も兵も通い詰めた。
梅毒は軍隊の最大恥辱と、申告しない兵もいた。

コルチャーク政権
海軍軍人コルチャークは英国の後ろ盾を得て、シベリアのオムスクにある「全ロシア政府」の陸海軍大臣になった。
クーデターで独裁者となり、オムスクを起点にモスクワへ進軍しようとする。
1918年12月には、ウラル山脈を越え、翌年春には13万人以上に膨れ上がる、数も装備も赤軍を上まわった。
コサックも支援した。
勢いにのるコルチャークにシベリア各地の反革命派がなびく。
ホルバートは早々に恭順し、役職を得た。
セミョーノフは独自の勢力を育てようとした。
コルチャーク軍は1919年3月大攻勢を開始した。
一か月後には「モスクワを占領する」と豪語した。
小麦と工業を奪われソビエト政府は存亡の瀬戸際に立たされた。
その勢いを見て日本はコルチャーク政権承認が決まった。
鉄道の一部譲渡や漁業権も交渉を期待できた。
大使には貴族院議員の加藤恒忠が就任した。
加藤は10月に赴任して、ハバロフスクなど政権の支配地域に領事館を開館した。
コルチャークが席巻していた頃、パリで講和会議が開かれていた。
英米はソビエトとカルチャークの両国を招待しようとしたが、
仏がボルシェビキのいような「犯罪的政権」とは、いかなる協定を結ぶことができないと拒否した。
1919年5月、日米英仏伊の首脳はコルチャーク政権支援が決まった。
しかし、時を同じくして
コルチャーク軍は急速に崩壊しつつあった。
赤軍の反撃
コルチャーク政権で、財政は混乱し、物価は上昇した。
鉄道沿線は戒厳令、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺が茶飯事となった。
モスクワでは、食糧を与える条件で兵を集めた。
6月ウファを奪回した、これが内戦の天王山となり以後コルチャーク軍は、東へと後退していった。
コルチャーク軍は急速に崩壊する。
1919年11月11日、首都をオムスクからバイカル湖近くのイルクーツクへと移した。
イルクーツクへ移った加藤恒忠大使は派兵を要請した。
幣原喜重郎駐米大使はランシング国務長官にシベリア派遣軍の増強を要請したが、既に撤兵を決めていた。
1920年1月コルチャークは革命軍に引き渡され、2月銃殺された。
各国は赤軍との衝突を避けようと、撤兵を急ぐ。

撤兵
1919年2月、カナダは撤兵を決め、6月大部分が撤兵した。
1919年10月、イギリスが撤兵完了。フランスは9月から撤兵開始。

チェコ軍
1919年、チェコの独立は各国に認められ、シベリアに残る理由はなくなったが、
英国や仏国には、駒にしようという思惑があった。
日本は1920年チョコと外交関係を持ったが、チェコ軍が反革命軍という性格を失ったので現地日本軍との関係は悪化した。

日本軍の独行
1920年1月、アメリカから撤兵が通告された。
日本は、今後は単独でシベリア駐在することや、派兵や撤兵は自由にさせてもらうと伝えた。
こうして共同出兵は、最後までかみ合わなかった。
原首相は撤兵するために追加の派兵を決めた。
コルチャークの処刑後、シベリアの勢力図は瞬く間に赤軍へと塗り替わった。
1920年1月31日ウラジオストクがパルチザンに占領された。
1920年4月5日ウラジオ派遣軍がシベリア鉄道沿線を攻撃、ハバロフスクでは市街戦が繰り広げられ、結局沿海州を武力で制圧した。東京では寝耳に水だった。
その頃、ソビエトは南ロシア反革命軍やポーランドと国境線の戦があった。

極東共和国
日本が駐留をつづけるザガイカル州では日本が支援するセミョーノフが居座っていた。
現地の軍人たちは、極東に緩衝国家をモスクワに上伸した。
1920年4月6日、極東共和国の建国が宣言された。
支配区域は、
ザバイカル州、カムチャッカ州、サハリン州、アムール州、沿海州で、
それらは反革命軍や日本軍が占領する区域だった。
1920年5月24日、極東共和国と日本とで停戦交渉が始まった。
1920年6月1日、内閣はザバイカル州から撤兵することを閣議決定した。9月2日までにウラジオストクに移動した。

欧州
1920年10月、ロシア・ポーランドは休戦。
1920年秋、ヨーロッパのロシア内戦は終わった。
1920年10月19日、極東共和国軍はザバイカル州で総攻撃、支配下にした。

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陽明丸とシベリア出兵⑦「シベリア出兵」・・・2

2019年06月21日 | 大正


「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記②



ロシア革命
1917年11月ボルシェビキは政権を樹立した。
レーニンは、民衆の求める「平和」を得ようと、第一次世界大戦の全交戦国に、国土の併合や賠償金の課すことのない即時講和を提案したが、各国は無視した。
そんななか、ドイツは革命で混乱するロシアへ攻勢に出た。そこでドイツに単独講和を申し入れた。
優位に立つドイツは、領土の割譲を迫る。
ウクライナの独立、巨額の賠償金などを受諾し講和条約が調印された。
独露の講和は英仏に衝撃を与えた。
東部戦線は消滅し、敵国ドイツが西部戦線に全力で投入してくることが予想されたからだ。
英仏はソビエト政府を倒して、新しいロシア政権に東部戦線を再び構築させようと計画する。

ウラジオストク港
ウラジオストクは軍港と商港、それにシベリア鉄道の起点となっていた。
連合国が供給していた武器弾薬が山となっていた。
そのウラジオストクへの出兵に白羽の矢が立ったのがアメリカと日本だった。
アメリカは1917年にドイツへ宣戦布告していた。

派兵か、自重か
当時の日本にとって、ロシア革命は対岸の火事ではない。
南サハリンや朝鮮半島とは、陸続きで起きた革命だった。
また南満州(日本勢力圏)と北満州(ロシア勢力圏)も隣接する地域で、当時の為政者にとって、切実な安全保障問題だった。
元老筆頭、枢密院議長、陸軍元帥、の山県有朋の意見が出兵を左右する。
「およそ刀を抜くときには、まずどうして鞘におさめるか、それを考えた後でなければ決して柄に手をかけるものではない」
山県は中・英・米との共同出兵を理想としていた。

長州出身の寺内正毅首相も、出兵に消極的だった。
外務大臣の本野一郎は熱心な出兵推進論者だった。英仏に武力で貢献することが列強の地位を獲得する策だった。
公家出身の元老、西園寺公望は「出兵の理由は後世の人びとをも納得させるほどでなければならない」と書く。
大学教授など9人「出兵九博士」が出兵論を緊急出版した。

ウラジオストク出兵
ロシアへの干渉は早くから始まっていた。
1917年11月29日、ソビエトが市内全域の掌握を宣言した。その翌日ウラジオストク総領事は、日本の軍艦の出動を要請した。
海軍は、在外公館から要請があれば、日本人保護を義務付けられていた。
12月31日、連合国ウラジオストク領事館は、連合国に軍艦派遣を要請した。
1918年1月3日、英国から海軍出動を通告された。
寺内首相は英国よりも先に、ウラジオストクに入港させようとした。
軍艦が無告で入港すること自体が、主権の侵略だった。
4月、日本人貿易商人が4名殺傷事件が発生し、日英の陸戦隊が上陸した。

田中義一参謀次長
陸軍の出兵中心人物は田中参謀次長である。
田中は四つの利点をあげた。
ドイツやオーストリアが東へ勢力を伸ばすのを阻止する。
中国を日本の味方にすること。
連合国への信義を果たす
シベリアに親日政権をつくり「指導」していく
田中にすれば、欧州が世界大戦の間に、大陸でさらに勢力を伸ばす一石四鳥のよい事ずくめである。
参謀本部はバイカル湖を進出の限界として、シベリア東部を掌握しようとした。
さらに北満州を支配する。

コサック兵
ロシア帝国はコサック人を辺境の防衛に従わせていた。コサックはロシア帝国への忠誠心が篤かった。
参謀本部はコサック兵を援助し、親日政権の神輿に担ごうと接触していた。

1918年2月、セニューノフを担ぎ、日本人義勇兵をつけたが、4月撃退され満州里に退いた。
1918年7月、ホルバートが参謀本部と反革命軍により担がれ「全ロシア臨時政府」を沿海州で発足させた。

チェコ軍の救出
チェコ軍とはハプスブルグ家から逃れロシア帝国に移住した子孫と、大戦でロシア軍に捕虜となったチェコ人による部隊で、ロシアに協力してオーストリアと戦う、独立につなげようとしていた。
だがドイツ・ロシアの講和でロシアに居場所をなくした。
英仏はチェコ軍をドイツ戦に利用しようとした。
シベリア経由で欧州へ向かうチェコ軍との連絡が途絶え、「チェコ軍の危機」が噂され、英仏伊は、救援の出兵を米日に求めた。


アメリカの出兵
1918年7月、アメリカのウイルソン大統領は「日米両国とも7.000人を限定した地域に派遣する」する方針を決めた。
寺内首相は、
「この際、ウラジオストクからシベリアまで出兵したい。
そうしないと、シベリアにはドイツ勢力が広がり、アメリカはシベリア鉄道を占領するおそれがある」と原敬に語った。
日本は10.000~12.000名出兵となった。
米長官は「チェコ軍の救援よりロシアに対する干渉である」と憂慮した。
出兵によりモスクワでは連合国への締め付けが激しくなり、日本総領事はモスクワを引き揚げた。
以後7年間、東京とモスクワは国交がなくなった。
出兵宣言の前後、日本各地では米騒動が本格化した。

新聞操縦
田中義一参謀次長は世論を味方にしようと機密費を新聞界に注ぎ込んでいた。
経営難だった読売新聞を強引に社論を転換させた。
シベリア出兵の「美談」や「労苦」を記者に書かせ、露骨な世論操作を行っている。
宣伝活動の陸軍組織はここから始まった。
大阪朝日新聞や中央公論など、次々に政権に牙を抜かれたていった。

 

(田中義一大将像)



ウラジオストクへの出兵
1918年8月、ウラジオストクに上陸。
ほぼ同時に英仏米が上陸した。
日本軍の兵数は突出していた。
日・・・58.000人
米・・・9.000
英・・・7.000
仏・・・1.300
伊・・・1.400
中・・・2.000
加・・・少数
なお、ほぼ同時期にキリミア半島など南ロシアに、仏英ほかの干渉軍が75.000~85.000いた。

ザバイカル州への出兵
日本軍は沿海州のみならずアムール州、さらにザバイカル州へ進軍しようとした。
9月6日、セミョーノフやチェコ軍と連携しザバイカル州の州都チタを占領した。
出兵早々、日米間に亀裂が走った。

朝鮮人への標的
19世紀から、ロシア沿海州には朝鮮人の移住者が多かった。
朝鮮半島の植民地統治を安定させるため、参謀本部はシベリア出兵という機会を逃がさなかった。
朝鮮人の武装解除をすすめ、抗日活動を弱めた。
その後、結果的にボルシェビキに身を投じて日本軍と戦う者が増えた。

原内閣
シベリア上陸40日後、1918年9月米騒動で寺内内閣が倒れ原敬が首相になった。
12月、兵数を24.000人に削減を発表した。
アメリカは日本の指揮権を認めず、共同出兵は名ばかりであった。
シベリア鉄道の管理がもめ、連合国管理委員会のもとに置かれることになった。

第一次大戦の終結
1918年11月、ドイツ皇帝は亡命し、ドイツは休戦に署名した。
ソビエト政府はプレストリトフスク条約を破棄した。
1919年2月、赤軍はキエフに入り、ウクライナ全域を支配下に置いた。
他方、連合国は干渉を本格化させたが、ロシア中央部に進撃できなかった。


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陽明丸とシベリア出兵⑥「シベリア出兵」より・・・1

2019年06月20日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記①

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司馬遼太郎のシベリア出兵の評価は手厳しい。

前代未聞の瀆武(とくぶ)といえる。
理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか。
当時の日本にも言い分がないとはいえない。
日本は日露戦争のあと、ロシアの報復を恐れた。
このおびえが、帝政の自壊をさいわい無名の師をおこした、といえる。
ばかばかしい話だが。
------
瀆武(とくぶ)とは、道理を外れた戦争で武威を汚すことである。
「無名の師」とは、大義名分無き戦争のことで、」後世の歴史家たちがシベリア出兵を断罪する際の常套句だ。
------
司馬に言わせれば、日本のシベリア出兵は、ロシアという「恐怖心の当の相手が、やや引っ込んだように見えたから出ていった」、「実に恥ずかしい、いかがわしい」ことにはかならなかった。
------

さらに司馬は、この戦争が日本の一つの転機になったことを、こう説明する。
「日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。
とくに大正7年のシベリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬にのせたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想は潰えた。

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