しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

餅を搗く・団子を作る

2022年03月31日 | 食べもの


・・・・・

2001年10月7日

黍モチ

ちょびっともち米を混ようた。
2001年10月7日

(母の話)来だての頃、もち米がないんで黍で団子をつくりょうた。もち米を混ぜたほうが、ねぼうておいしいんじゃが(もち米が)ないんで。
ええ団子になるんじゃが、もち米をちょびっと混ぜるだけでおいしゅうなりょうた。

粟モチ
ここじゃあ粟を植えたことが無い。
(母の話)粟のほうが大味じゃ。その代わりようできる。
2001年10月7日

よもぎモチ
とうきび団子

唐臼で搗かにゃあいけんので、搗き搗き作りょうた。白うせにゃあいけんので。

搗くのが手間じゃった。黍もいっしょじゃが。
できたらおいしかった。

(母の話)茶色の団子。こりゃあ作りょうた。
砂糖きびのようなのに穂が出て。

こなして団子をつくりゃぁ、おいしい団子ができょうた。
2001年10月7日


蕎麦団子

みな、してたびょうた。買やぁせなんだ。

(母の話)
粉を水でこねて、ほうろくで焼きゃあ団子になりょうた。

蕎麦じゃけいサッパリしとった。
あられ
(母の話)
モチに色粉をつけて、それを小もう切って保存していて袋掛けにゃぁ畑に持っていって、配りょうた。
毎年のことじゃった。
モチを搗いて平らに伸ばしてから切りょうた。
どこにもだしょうた。あいだ食いじゃ。おやつじゃ。
水もち

(母の話)今頃はえっと搗かんが、どこともしょうる。水へ浸けとくと長持ちをする。いつまでも搗きだちのようじゃ。
搗いてひてぃか、二日おいて浸けとく。

カラシを入れときゃあええゆうが、カザがするけぃいけん。
2001年10月7日


・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチゴを作る(茂平の苺)  

2022年03月26日 | 農業(農作物・家畜)




茂平のイチゴ

(父の話)

茂平のいちごは甘くて評価が高かった、茂平のイチゴは昭和50年代が全盛期ではなかっただろうか ?

昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。

ハウスで栽培してから金になりだした。
今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。

作るのに手間がかかりすぎる。
よそでも栽培が増えた。
茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。
のが原因だろう。

2000年05月28日
・・・・・

それにしても茂平のイチゴは茂平でしか作れない味があった。
消費者の購入スタイルの変化に押されたように感じる。


いちごは、農協がすすめた。
パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。

こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。
今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)
手間がかかる。骨が折れる。

昔ほどじゃあねぃが(良い農薬が出来たので)、ダニがくる、うどん粉がくる。病気がくる。
いちじくのほうがらくじゃ、ダニだけじゃけい。

ハウスでも、イチジクのハウスのほうがよい。。ボニにだす。

2000・12・17


・・・・・・


12月
からだして4月くれいまでだしょうた。


春がすんで、こんどは苗をつくるようになる。
根から芽がつるがでたのを、切って植える。

ええめから、ええめから苺をだしたほうがえかった。
古いのはうがしょうた。残ぇても実はなるけど。

秋に植えて、せいから正月に出すようにする。
ハウスにストーブや電気をつけえて。

温度調節
花をええようにして、花をまびぃてやる。

ハウスによって季節を分けょうた。みないっしょに手入れができんけぃのう。
早ぅ花をさかせるんと、遅うさかせるんとに分けて。思うように(実がなる時期を)しょうた。


2001・2・11
・・・・・・


いちご
「組合」、いちじく「組合」はなぜあるのか?

茂平の果物の種類は多いが。何故いちご・いちじくには組合があるのか?

それはのう。
結局、干しイチジクをウチとかたやまに神戸のほうへ送りょうたんじゃ。
そういう状態で、他の果物はまとめて福山やこへ出しょうた。

イチジクはかたやまとウチに分かれて出しょうた。
普通の果物とは集荷の方法が違うとった。
イチジクは茂平がおいい、他所のほうはおまりない。

「組合」ではない、「部会」じゃ。
農協もいろいろなんもかんも出来んので「部会」をこしらえとるんじゃ。

「組合」は作者の勘違いだった。


談・2002・9・23


・・・・


イチゴ江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

・・・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進駐軍のパイナップル 

2022年03月25日 | 食べもの




進駐軍のパイナップル

これは敗戦当時、福山市入船町で国民学校の生徒であった義兄(姉の夫)の話。

福山に進駐軍が来た時、そこからカンズメのパイナップルをもらった。それを食べた。食べたら、こんなに世の中においしいものがあるとは知らなんだ。

ものすごく美味しかった。

それからパイナップルが好きになった。

チョコレートも貰って食べた事がある。アメリカ産のを。甘いのを。

マッカーサー様のおかげでその後も今の日本を築いてくれた。


ナマのパイナップルも好きだが今でもカンズメのパイナップルの方が好きでよく買う。


2002・1・3

 

・・・・・・

第二次大戦の敗戦国のドイツやイタリアでは、国民も兵も飢餓になることはなかった。

日本だけが飢餓になった。

・・・・・・


ララ物資  

敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第一にジープであり、
第二にコーラであり、そして第三にララ物資であった。
ララ物資、つまり公認のアジア救済団体の名で毎年海を渡ってきた食糧や衣類は、約千五百万人の日本人の生活をうるおした。
栄養失調に直面する人びとにとって、ララ物資は力強い支えだった。
衣料八百万着分、靴二十六万足、鉛筆十四万本、という資料もある。

この一大救援運動の発案者は誰だったのか。
上坂冬子さんが『中央公論』十二月号に「焼け跡の日本を救ったララ物資の生みの親」と題する一文を寄せている。
生みの親はサンフランシスコに住む日系人たちだった。
米国内の強制収容所を出たばかりの日系人たちが豊かなはずはなかった。
「飢餓線上をさまよう者の数が知れない」という情報をえて、物資を集め、その熱意が米人側を動かしたらしい。

いま、飽食の時代にあって、人は焼け跡のころに助けられたことを忘れがちだ。
当時、とぼしい日当のなかからカネを寄せた多くの在米日系人がいたこと、たくさんのアメリカの団体や中南米の人びとが力を合わせてくれたこと、
そういうことの数々を、ララ物資の名と共に忘れてはならぬ。

「天声人語」 辰濃和男  1986(昭和61)年 11・24

 

・・・・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチジクを作る 

2022年03月25日 | 農業(農作物・家畜)

茂平に平成の頃より、「イチジクの里・茂平」の絵看板が国道沿いに掲げられた。
土壌が適しているのと、明治以来の研究熱心な伝統栽培で、味覚への近隣地域の人気・評価は高い。

 

 


・・・

(父の話)
イチジク


これの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。
茂平のイチジクは色も違う、味も違う。

新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。
・・・
2000・5・14

栽培方法?何も今と変わっていない。
予防の薬が良うなった。
薬がかわっただけじゃ。
2000・9・10

・・・

いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。
冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。
楽でゼニになる。
2001・2・11

・・・・・

イチジクの栽培

冬に剪定をして。
肥をして。
肥は昔神戸から人糞をもってきょうた。あれはえかったのう。
冬はよう「くそ船」がきょうた。
新涯の畑の肥壺へはねうつしょうた。その中へ潮水をちょぼっと入りょうた。潮水を入れるとカリがあってええ。
エエ肥になるんじゃ。

春は畑の草取り。
夏に予防して。
芽を間引いて。「めこぎ」。
(実が)成るようになったら水をやる。

秋に出荷。
金になる、相場がええ。

談・2002年6月23日

・・・・・




・・・・
(トウガキにはナイフで木を切っていたのを覚えているが ?)

ありゃあ、しょうたが薬をしだしたら来んようになった。
昔は虫のうんこやこで木が枯りょうた。
虫が来んようになればやめる。

談・2000・6・17


・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

・・・・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂平名産「干しイチジク」を作る

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。
おいしい程でもない、が不味くもない。
お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。

・・・・

 

(実家にて)


(父の話)

始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。

干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。
「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。
「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、
取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。

農協はとおさず直接取引きであった。
おいしければよう売れとった。

相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。


無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩蒸す。
硫黄炉にはいるだけのイチジクを取ってきていた。

それからは天火で干して一週間ほどしてから、手でもみ始める。

夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。
(毎年山陽新聞にはこの季節になると、コラム欄のような小さな記事で・・・今年も茂平ではホシイチジクが・・・と載っていた)


砂糖がういてくるまでそうしとった。
雨がふってきたら、重ねて積んでほろをかぶせとった。


(茂平ではイチジクの事をトウガキと呼んで、食用は「赤トウガキ」。干し無花果になるのを「白トウガキ」と呼んでいた。
白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。)

白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。
新涯のがいいのが出来ていた、ほかの(他の畑で作ったのは)は熟れるんがおそいんと、甘味がすくない。実がおおききなるばかりで、みょうたらわかる。

・・・・

お菓子が世に出回りした昭和40年過ぎ、茂平名産「干しイチジク」はひっそりと消えていった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麦を作る③小麦粉

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。

小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。

「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行


・・・・・

(父の話)

はったい粉(煎粉・いりこ)
どこにも精米所があった。大宣にも、伏越にも。大門にもあった。
麦は香りがええ。

(母の話)

昔は粉引き屋があった。
大宣にあった。

今大工をしょうる近くに。松浦。カシワにするにゃあぜっぴもっていきょうた。
そこへ持っていけば精米する機械があった。そこで挽いてくりょうた。
麦は漁師に頼みょうた。船で伏越に毎日行くので、それにたのみょうた。
よう、ことずきょうた。毎年ことずきょうた。
結構に挽いてくりょうた。

はったい粉は香りもええし、麦じゃけい身体に為もええ。

談・2001年10月7日
・・・・

(母の話)

金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。
談・2002年10月14日

・・・・



・・・・・

「日本の食文化史」 石毛直道  岩波書店 

ウドンとソバ

ウドンやソバといった「切り麺」は、麺生地を麺棒で平にのばし、
何重にも折りたたんで、包丁で切ってつくる。
切り麺づくりには、たいした熟練を必要としないので
一般の台所でもつくることが可能である。
普及には、おおきな平面の板がたやすく得られる15世紀になってからである。
ウドンづくりの技術をソバ粉に応用して、16世紀から「ソバ切り」がつくられるようになった。
日本の二大麺類となったが、畑作地帯が比較的多い東日本ではソバ切りが好まれ、
気候が温暖で、水田にイネを収穫したあとの裏作としてコムギを作るのが可能な西日本の人々はウドンを好むようになった。


・・・・・

 

「日本の食はどう変わってきたか」  原田信夫  角川選書  平成25年発行

ソバとウドン

日本の食文化のなかで、もっとも粉食が発達したのは、近世という時代であった。
その背景としては、粉食に必要な臼と水車の普及があった。
粉食の展開
粒食が主流とされていたが、実は餅や菓子に多用されていた。
豆腐を含めれば、粉食そのものは日本の食文化に不可欠なものであった。

粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。

基本的に穀類のうち、粟・稗・黍は混ぜ飯あるいは餅などとして、双方に利用された。

製粉に必要な道具は臼であり、これを水車という装置で利用することによって、
その効率を著しく高めることが可能となった。

臼は、
搗臼・挽臼・磨臼といった機能による分類。
堅臼・唐臼・てんがいと形態に分かれ、
木製・土製・石製の材料の酒類がある。

索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状としこれに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬の副業として広く生産されてきた。

・・・・・

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ママカリはもう食べたくない

2022年03月24日 | 食べもの

「ママカリ」は、おいしいので隣家から飯を借りる、という話が年に1~2度新聞に載ることがある。今朝もそうだった。
かつては、おいしいと思う人も、いたのだろう。好き好きだから。
魚が減った今では、おいしいと思う人も多いだろう。身近な魚でなくなったから。

ママカリは雑魚で、子供の時、朝昼晩、それも毎日のように季節によっては食べた。あれだけ食べると、もうほしくはない。





・・・・・

ままかり

(母の話)


焼く、酢ズケ、・・・すぐ食べるときにゃぁ。

どうにもぎょうさんある時にゃぁ・・・・ぬかずけ。
ぬかずけ、米のヌカに塩をいれて。ヌカの甘味がぢょうた。
長しゅうもちょうた。一月も二月も。

ままかりも、つなしもそうしょうた。
おからに漬ければそっちのほうがよかったが、おからは金を出さにゃあ買えんけぇ。

2000・12・17

・・・・・

ままかりといかなご

ままかりもつなしも、糠漬にしてながしゅうたびょうた。
ままかりは群れがきた時にゃただのようになりょうた。ほれで分けてもらようた。

2001年10月7日



・・・・・
(姉の話)
ママカリ
(近所の漁師から)売り物にならんものを持ってきてくりょうた。
その代表がママカリ。
焼く
唐揚げ
焼いたのを酢漬け
骨ごと食べれておいしかった。
談・2017.1.30

・・・・・

(母の話)

ほうろく

ツナシやママカリを焼く。青い松葉の上にツナシやママカリを置いて焼く。おいしゆう焼ける。
(七輪より大きく)ようけい焼けるけぇ勝手がよかった。
談・2004.5.30

・・・・・

(父の話)
雑魚
笠岡へもっていかれん、傷んだりした雑魚をくりょうた。
じゃこ、ツナシ、ママカリ、フグ。
ママカリやこゼニになりゃあへん。
(母の話)
カスを浜に買いに行って糠ずけや塩ずけにしょうた。

談・2004.5.30

・・・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陽新幹線岡山開通50周年 

2022年03月23日 | 昭和41年~50年

2022年3月15日は、山陽新幹線が開通して50周年だった。
テレビニュースを見ながら、それを思い出していた。
が、何も思い出せなかった。
その程度のニュースでは、たぶん関心がなかったのだろう。


当時の日本経済は日の出の勢いだった。
5年間くらいで日本経済は、規模が倍増し、年々目に見える生活の変化があった。

 

 


ネットで1972年を検索すると、
沖縄が米領から日本へ復帰した。
田中内閣が誕生し、ベストセラーは「日本列島改造論」。
岡山駅が開業の頃、鉄道工事は西へ西へと延びていた。
人々の関心は岡山でなく福岡開業の方だった。


街も山も海も開発一辺倒の時代だった。


・・・・・・・

 

岡山開業のセレモニーに写る岡山県知事は武徳さん。
この半年後に知事を退いた。
小学校の大先輩・武徳さんが県知事をしていた8年は、県境の村に生まれ育った管理人が、
”岡山県民”を意識した8年間だった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かぼちゃ(南瓜)を作る

2022年03月20日 | 農業(農作物・家畜)
戦後、砂糖がなかった。
甘い物に飢えていた。
ナンキンを食べると、ちょぼっとだけ甘く感じた。

・・・・

・・・・・

(父の話)

昔から作りょうた。
植えて、肥をすりゃあ出来きょうた。
ようけぃ出来りゃぁ出しょうた。
ぼっこう相場はようならん、じゃけいみんな、そう植えりゃえせん。
談・2002年8月5日

・・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。


・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夢の万能薬」ペニシリン

2022年03月20日 | 昭和21年~25年
注射=ペニシリン、とも感じるほど、ペニシリンは名を馳せていた。
昭和20年代、30年代、「病気で注射した」と言えばペニシリンしかイメージできなかった。

・・・・・




「昭和二万日の全記録6」 講談社  1990年発行

人命を救ったペニシリン

昭和20年9月、アメリカから大量のペニシリンが空輸されてきた。
同年暮れ、幣原喜重郎首相が肺炎にかかった。
GHQの軍医長が駆けつけてペニシリンを射った。
その効果は強力だった。
それまで、ペニシリンは庶民の手に届かない高価で貴重な薬であり、闇で一本一万円したこともある。
GHQの指導で森永薬品や東洋レーヨンで製造。
ペニシリンは、肺炎、中耳炎、破傷風、結膜炎、性病など
細菌性の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。
昭和21年に3.930円していたものが昭和23年には513円まで下がった。
昭和25年の朝鮮戦争時には、既に米軍に買い上られるほどの生産国になっていた。

「昭和二万日の全記録6」 講談社  1990年発行





・・・・・
「今は昔のこんなこと」  佐藤愛子 文春文庫  2007年発行

時は流れて昭和20年。
日本は戦争に敗れ、欧米の文化がどっと流れ込んできた。
その中にペニシリンという抗生物質の新薬があり、
それはイギリスの首相だったチャーチルの肺炎も治療したというので一躍名が轟いた薬である。
当時は肺炎は死につながる重病だったのだ。
今まで心配しいしい買春していた男たちは気も晴々と遊里へ赴くようになった。
もう淋病なども怖くはない。
ペニシリン注射一本で忽ち快癒するのである。



・・・・

「天声人語」  
昭和21(1946)年 2・15

アメリカではドイツの技師たちを招聘して、必要な研究と生産とに協力せしめ、
大戦前からナチスの異分子の多くを大西洋を渡らせしめた結果、
アメリカの国力を引き上げることにどれだけ役立ったか計り知れない。
アインシュタインもトマス・マンもその例であり、
ペニシリンもアトム爆弾もかくしてアメリカで完成せられるに至ったのである。

米英華ソを知る人々、知らんとする人々を恒に白眼視し、スパイ扱いして来た日本は、もっと真剣に世界を知る努力を急がねばなるまい。



・・・・



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする