工業学校が異状とも思えるほどに加熱した時代が昭和時代に二度あった。
一度目は昭和17.18年頃。
戦時で軍事関連の”工業”生産優先、その逆に”商い”は不要扱いされた。
笠岡商業学校は、笠岡商業工業学校へ転換。
福山工業は科を新設。
(おじの話)
「その時、城見小学校から成績が比較的良い子が4人、福山工業に受けに行ったが、4人ともすべった」
そうだ。
4人の内の1人は、大きくなって国会議員になり、大臣に数回任命された。
二度目は昭和38、39年頃。
新産業都市が全国に誕生し、学制が6・3・3・4制度の中に6・3・5の「国立高専」が誕生した。
初期高専は、金浦中学校の成績一番でも合格は?状態。
その工業ブームの中で笠岡工業高校が誕生し、福山には福山電波高校ができた。
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「笠商百周年記念誌」 笠岡商業高等学校 平成14年発行
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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
日中戦争の勃発により、文部省は実業教育振興委員会に、再度実業教育の方策を諮問した。
委員会の答申は前回の社会教育的な低度実業教育の振興策を改め、軍需産業の拡充のための実業学校の全面的増設という積極策を示し た。
戦争が進展するにつれて、軍需産業の必要に応じて、実業学校なかんずく工業学校の増設が行われ、学校は産業に従属して人材を確保する機関としての性格をあらわにしていく。
この時期の実業教育問題の中心は、工業教育の拡大であったので、これまでの農工商の順序を改めて工業から取りあげてみよう。
この時期の工業学校は、増大する需要に応じきれず、増設につぐ増設を行い、教育内容・程度についてはやや背伸びをして、農商の実業学校を見おろした時期であった。
また、この時期に増設されたのは、機械・電気・工化といった重工業向けの学科であり、伝統工芸との結びつきの濃い木材工芸・金属工芸や、平和産業的な染色紡織など の学科は増設されることがなかった。つまり工業学校教育が地域産業との結びつきを稀薄にしていったのである。
商業学校は、この時期に工とは逆の意味で大きな影響を受けた。
わが国が戦争への傾斜を強めるにつれて、公益 優先、私利の否定が強調された。
経済活動に対する国家統制が強められると、商取引における個人の才覚というものは無意味となり、配給を受けたものを分配するだけの業務となり、商品や顧客の研究、宣伝の技術も不要となり、
ついには商業教育不要論を生むに至るのである。
昭和18年「国民教育ニ関スル戦時非常措置」において、商業学校の工業学校への転換が決められ、大部分の商業学校は工業学校・農業学校・女子商業学校へ転換し、450校の商業学校は101校に圧縮されたのである(昭和19年文部省調査)。
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戦時の実業
戦局の激化と学徒動員
昭和18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、
「有事即応」の態勢を確立するため、中等学校三年以上に戦技訓練・特技訓練・防空訓練等の徹底強化を図り、また食糧増産、国防施設の建設、緊要物資の生産、輸送力増強等に学生生徒を動員するものとした。
さらに同年10月には、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」として、
商業学校を工業学校・農業学校・女子商業学校へ転換させること、
生徒の戦時勤労動員を高度に強化して、年間三分の一の期間は勤労動員を実施すること等を決定した。
翌昭和19年に入ると戦局は極度に悪化し、政府は中等学校以上の諸学校の学徒を、今後一年間常時勤労その他の非常勤務に出動させられる態勢下におくこととした。
同年3月の「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」によれば、中等学校生徒の動員の方針はおよそ次のとおりであった。
1・工業学校生徒は軍関係その他の重要工場事業場に動員する。
2・商業学校から転換した工業学校の生徒が特定の工場で現場作業を行う場合、または学校を軍需工場化した場合には、当該工場または関係工場に動員する。
3・農業学校生徒は食糧増産・国防建設事業等に重点的に動員する。
4・中学校商業学校および高等女学校の生徒については、地域の情況、労動力需給の情況を考慮して、食糧増産・国防建設事業または工場・事業場(輸送を含む)等の作業に動員する。
なお女子については、できるだけ学校設備の工場化を図り、そこで勤労に従事させるように考慮する。
「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行
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「笠商百周年記念史」 笠岡商業高等学校 平成14年発行
生徒時代(昭和15年4月~20年3月)
(うち19年4月~10月学徒動員で水島三菱飛行機工場
昭和19年11月~海軍予科練)
私たちが入学したのは、日中戦争も4年目に入った軍事色の非常に強い、そして国威発揚のための行事が多く催される時代でした。 制服も前年までは、夏は霜降り、冬には黒の上下で制帽も黒色でしたが、私たちから制服、制帽ともカーキー色 (国防色といっておりました)に変わりました。
沢山の先輩の慰霊祭が何回か本校講堂でしめやかに行われました。
戦争が長引くにつれ、沢山の働き手が召集され、農村でも人手不足が深刻となり、農繁期には勤労奉仕ということで、出征兵士や戦死者の家の稲刈りなどに何日か出掛けました。
また、当時は教練という教科があって、 陸軍から派遣された現役将校の指導のもと軍事教育が行われ、
行進などの団体訓練や三八式歩兵銃の操作など教えられました。
この軍事教育の一環として行軍という徒歩旅行が年に 何回か実施されました。
時には三八歩兵銃を肩に担いでの行軍で、かなりきついものでし た。
その総仕上げとして100キロ行軍が昭和18年の秋に実施されました。参加したのは 4,5年生全員でした。
朝、上の運動場を出発し、途中矢掛箭田を通り吉備津神社に参拝し、庭瀬小学校講堂で大休止、あと不眠で倉敷、玉島を経由し翌朝に帰着しました。
昭和18年12月には40期が繰り上げ卒業し、私たち4年生が最高学年となりました。
しかし、昭和19年になると戦況はますます厳しく、4月学徒動員令が発動され、4月20日三菱の水島飛行機工場の寮に入りました。 実習工場を終えて1組は第一 部品工場、2組は組立工場に配属されて海軍の一式陸上攻撃機の製造に従事しました。
この時、150余名の同級生は18年秋の海軍甲種予科練習生志願と4年生からの上級学校進学で100名ほどになっておりました。
以上の外、 阿部山開墾、グライダー、軍隊での恩師との出会いなど、 苦しくもなつかしい思い出が多々あります。
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「創立80周年記念誌」 笠岡商業高等学校 昭和56年発行
第43回卒
私達は、笠商2年生になると間もなく学徒動員で水島の航空機製作所に住込みで働くことになり、慣れぬヤスリやハンマーを使った り、事務を執ったりすることになりました。
戦況も段々厳しくなってくると、B29やグラマンの敵機来襲で何度も恐ろしい思いをしながら、結局4年生の夏終戦を迎えました。
その秋深まった頃からやっと授業が再開され、翌昭和21年春私は上級学校に合格したため、戦時特例とかで旧制5年を4年で卒業しました。
従って私達の同期生は43期と44期卒にわかれます。
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「精研六十年の歩み」 岡山県立精研高等学校 平成7年発行
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