しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

新制大学発足

2024年02月06日 | 学制150年

大日本帝国の崩壊で、用なしとなった師団や聯隊の広大な跡地の多くは
新制大学の校地となった。

 

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(岡山大学・2018.11.11)

 

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

岡山総合大
中国総合大学誘致運動

昭和22年12月中旬、第1回中央陳情の際、文部省はCIEの示唆のもとに新学制による国立総合大学を全国に十一校設立する意向をもっていることが明らかにされた。
それによれば、11校のうち、7校は従来の帝国大学をそのまま移行し、
ほかに金沢、熊本と中国、四国に各一枚程度認める模様で、中国では広島、岡山、松江が有力視されているということであった。
この結果、従来の岡山総合大学設立運動は、中国総合大学誘致運動へと発展し、六高誘致のときと同様、広島県としのぎをけずることとなった。

23年1月、岡山総合大学設立期成会は、中国総合大学設立期成会と改称し、
本格的な誘致運動が展開された。
これには六高、岡山医大も積極的に参加した。
中国総合大学誘致運動は、岡山と広島との争奪戦となったが、
3月に文部省は各方面から猛反対をうけていた大学地方委譲案と十一国立大学案を否定した。


岡山大学の設立と認可 

岡山大学が正式に認められたのは、昭和24年5月31日である。
岡山大学の開学24年5月に学生募集が行われ、同年7月28日第一回入学宣誓式が挙行された。 
入学者は858人で、授業は9月15日に開始され、10月22日に設立期成会による開学式が行われた。
初代の学長には林道倫岡山医大学長が就任した。

 

岡山県立短期大学
岡山栄養科学園

岡山県立短期大学の前身である岡山栄養科学園は、昭和21年上道郡高島村(現岡山市)に結核予防会の施設をかりて、
国民栄養協会岡山県支部の経営で発足した。
戦後間もないころで、国民の栄養状態もきわめて悪く、国民の体位向上をめざして栄養知識の普及をはかるには、栄養士の養成が必要であるとの立場から、
衛生部が岡山医科大学の指導のもとに設立開校をすすめたものである。
初代学園長は岡山医大の清水多栄教授であった。
修業年限1年で男子11人、女子11人、計22人が第一回卒業生である。
しかし、2年目は休校となった。
3年目に県営となり再開、24年には第一岡山高女の校舎に移った。
25年に修業年限が二年となり、26年には津島に移った。
岡山県栄養短期大学
30年短期大学に昇格、食物科が開設された。
36年岡山県立短期大学と名称を変更、同年3月、体育科増設が認可された。
40年県立高等看護学校を吸収し看護科、42年県立保育専門学園を吸収し保育科を増設した。

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新制高校発足

2024年01月28日 | 学制150年

中等学校の大半が「高等学校」に転換(昇格?)した。
(県立学校)
男子校だった中学校・商業学校・工業学校・農学校は”男女共学”になった。
女子校だった高等女学校も”男女共学”となった。

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「笠商70年史」  笠岡商業高校  昭和46年発行

新制高等学校への歩み

吉岡「私は笠商女子第一期生です。昭和25年の入学で総合制高等学校時代でした。吸江・千鳥校舎をもつ大規模な学校でした。」
森山「今まで男子ばかりの学校に女性がはじめてはいったわけですから男子生徒が喜んだ。」
吉岡「それはもう物珍しい存在でした。
  あの桜並木のなだらかな坂道を登りながら、校門にはいるまで恥しい思いで顔があげられなかったのを壊しく思い出します。 
  共学になったと言っても女子は少数で50名くらいでしたから先生や上級生にずいぶんたいせつにされたり、モテたりしたものでした。
  戦後の苦しい時代でしたが学校での思い出は楽しいことばかりで自由な学園であったと思います。」

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70周年に寄せて
元校長


私が御校に赴任したのは昭和24年8月31日付でした。
この年アメリカ進駐軍の本部から全国各地の高校は地区ごとに数校の高校を合併して一校となし一人の新しい校長で経営するようにと強い勧告があり、
笠岡では商工業と普通家庭課四コース二校を統合県立笠岡高等学校とし、
吸江校舎に千鳥校舎の二校舎とし、
校長、 補佐役として部長を一人づつおくということになりました。
私は母校の矢掛第一高校からこちらの初代校長として就任を命ぜられました。 
これを高校統合再編成と申していたと思います。
職員もその直後全県的の大異動がありました。
たしか両校舎で生徒数は付属定時制を合わせて2.000名位、職員数も100名に達していたかと存じます。
職員異動・就退任式は大変でした。
一度に20人位の新任者の生徒への紹介、顔と名前が覚えられず予め番号札を渡して抑えてもらい私はメモを便りに一人一人の先生を紹介したのも思い出の一つです。
当時一校四コースと定時制、生徒2.000人というのは県下随一でした。

両校舎連絡のため畑の中に連絡道路を作り、その道が掘れる位私や職員生徒が往復して一つの壮観でした。
ほんとに席の暖まる暇がなかった訳でした。
私は開校の式辞に、本校は県下随一の大校である。 
昔話にあるバベルの塔の大混乱に陥らぬよう諸君と力を合わせて大校の成果を上げるよう努力したいと申しました。 

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ニュー東映 「故郷は緑なりき」佐久間良子と水木襄

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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行

男女共学に再編成
昭和24年8月31日、岡山県立高等学校設置条例に基づき、 
男女共学の岡山県立井原高等学校として再編成され、再発足することとなった。
さらに、同年11月22日、岡山県立高等学校通学区に関する規則により、井原学区が制定されたのを受けて生徒募集を行い、翌25年3月22日、 女子学生179名とあわせて、初めて男子学生121名に対して入学が許可された。
ここに、明治・大正・昭和前期まで女子教育の場として続いた井原高等女学校時代が終わりを告げ、
昭和25年度からは男女共学の高等学校として、地域の期待をにないながら新たな第一歩を踏み出すこととなったのである。 

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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行

井高新聞第1号発刊

女学生として入学した私達はいつの間にか岡山県立井原高等学校併設中学校の中学生になっていた。
そして高校1年。 
教科書らしき本も手にし、クラブ活動、グループ活動、選択教科など、新しい教科内容も組まれ、貧しいながらも楽しい学園生活を過ごす日がやってきた。 
高校2年の時、井高新聞も私達の手で編集委員を組織し、初めて第1号を発行した。 
市民病院の西側の運動場もこの頃拡張された。 
毎日モッコをかつぎ土をおこし石を運んだ。
もちろん鍬などの道具は各自持参、
高3のとき 現在の井高の制服・校章・校歌が生徒に問われた。 
校章は決まったが、制服・校歌はどうであっただろうか。
この年男子学生が入学。
女学校の生徒として入学した私達に男子学生は下級生ながらめずらしく、毎日が生き生きとして楽しい日々であった。 

(昭和26年卒)

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私達は井原高等女学校に入学した後の学年で、
終戦後の教育改革により併設中学と名を改め、
その後高校へと進み、6年間在学しました。
入学して一番驚いた事は農業の授業があった事です。
食糧難の時代でしたから仕方がなかったのでしょう、山の上へ鍬を担いで芋を植えたり、
収穫期の芋掘り等、いくら若くても重労働のように思えました。
(昭和27年卒)

 

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(笠岡高校・昭和27年卒業アルバム)

女生徒に制服はなし、男子生徒の頭が長髪だ。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

高校への移行 
岡山県は、戦前から中等学校の普及度が高く、終戦直後の県立学校は
中学校11、
高等女学校23、 
農業学校5、 
工業学校4、
商業学校6の計49校があり、
中学校と高等女学校が65%を占めていた。

しかし、国民学校からの進学率は20~30%程度であったといわれ、
中等学校において必ずしも教育の機会均等を実現してはいなかった。

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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

高等学校への進学率等
中学校から高等学校への進学率は昭和二十年代の後半から急激に上昇した。
昭和25年の進学率は42.5%であったが、
昭和29年には50.9%と高校進学者は過半数に達し、
昭和36年62.3%、
昭和47年70.7%、
昭和45年82.1%、
昭和49年90.8%と、ついに九割台に及んだ

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新制中学校発足

2024年01月27日 | 学制150年

明治26年生まれの祖父は、平成4年に98才で亡くなったが、中学校のことを
死ぬまで「中学」とは言わなかった。
死ぬまで「新中」(しんちゅう)と呼んでいた。
祖父にとって中学校とは、分限者とか支配層の子弟に限定された学校であったのだろう。


昭和22年に誕生した「新制中学校」は、
”初等学校”か”中等学校”かで議論があり
衣・食・住、そのすべてが不足した時代に設立された。

 

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新制中学校の発足とその悩み
中学校発足までの経過

昭和22年4月1日施行の学校教育法により、新制中学校が設置された。
文部省では、これに先立って同年2月、地方長官あてに「新制度実施準備の案内」を送り、
ただちに、新制中学校の設立 にとりかかるよう指示した。 
新制度を円滑に実施するため、市町村部および県単位に、民主的に選ばれた人々によって「新学制実施準 備協議会」を組織すること。
昭和22年度には、第1学年(第7学年) だけ実施
第2学年(第8学年)は23年度から、
第3学年(第9学年)は24年度からそれぞれ義務を実施する。

22年度の編成は、次のとおりとする。 
新制中学校第1学年(第7学年) は、現在の国民学校第6学年を修了する児童を収容する。
第2学年(第8学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第1学年および青年学校普通科1年の希望者
第3学年(第9学年) (非義務制)は、現在の国民学校高等科第2学年、青年学校普通科2年および本科1年の希望者を収容する。

中学校、女学校、実業学校の第8学年、第9学年に相当する者は、併設中学校の相当学年に収容する。
男女共学を実施し、全日制のみとして、授業料無徴収であること。
新制中学校は、独立校舎をもち、専任の校長および教職員を任命すること。

これをうけて、岡山県では、次のような新制中学校設立の指導方針を定めた。
新制中学校設置の指導方針
学校の規模は、地域社会の実情に即して6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は、片道6キロメートル程度をもって限度とする。
できるだけ組合立中学校を設置するよう指導する。 
校舎は、独立建築を原則とする。


中学校の設立
22年4月1日付で教員の任命があり、各校それぞれ開校に着手した。
何もない白紙の状態で、食糧事情もきわめて悪かった時点で、各市町村一斉のスタートという作業であるから、
筆舌に尽くしがたい苦心の中を、4月28日までには一応準備を完了して新しく開校のはこびとなった。
旧制中等学校の2,3年は併設中学校という名で存続した。
校舎は、さしあたって小学校の高等科の教室があき、それを新二、三年に充当した。
不足するので、青年学校、旧制中等学校、公会堂、工場、兵舎、寺院等利用できる施設をフルに使用し、
独立の校舎をもったものは極めて少なかった。

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

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(福山市東中・昭和28年3月卒業アルバム)

 

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「岡山県史第13巻現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行

新制中学校の発足
新制中学 校の理念
1947年3月、
戦後の新しい学校教育の在り方を明示した学校教育法の制定によって、六・三・三四の単線型の学校制度が確立された。
新学制の第一の特色は、
初等教育としての小学校六ヵ年、
中等教育はこれを上下に分かって、中学校三カ年、高等学校三ヵ年、
その上に高等教育としての大学四ヵ年をもって、
学校の基本となる体系を決定した。 

これは、在来のように入学した学校によっては、より上級の学校へは進学できなくなるという、
いわゆる袋小路の多い複線型の学校体系から、誰でもその努力と能力に応じて大学まで進学することができるという、
民主的な単線型の学校制度である。


新制中学校は、戦後の財政難、生活難の中であるにもかかわらず、
アメリカ合衆国教育使節団の勧告により、
言わば強制的に合衆国から押し付けられた学校制度であったと言える。
そのため校長は、新制中学校をより良く運営し、それを充実して行くためには多くの苦労があった。

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「教育の歴史」 横須賀薫 河出書房新社 2008年発行


学制改革

昭和22年「教育基本法」「学校教育法」が制定された。 
学校の名称も国民学校初等科は小学校に改められ、高等科は廃止された。
さらに三年制の中学校が新しく設けられ、22年4月1日小・中学校9ヶ年を義務教育とする六三制が発足した。
このことにより、従来の国定教科書制度が廃止された。
小学校では教育改革の一環として教科書に多様性をもたせ、各学校のカリキュラム計画に適合したものを選び創意工夫し教育を行っていくことが目的だっ た。
原則として検定教科書か、または文部省著作の教科書を使用することになった。

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「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

序章 後戦の教育改革と
「学校教育法」により、新制の中学校および高等学校が成立し、
旧制の諸学校を解体して中等教育段階は中学校・高等学校として再編された。
新学制は教育の機会均等の原則により、
学校体系の民主的単線化を行い、
また中学校の義務制を実施して、
前期中等教育を義務教育とした。
そして中学校は昭和22年度から、高等学校は昭和23年度から発足した。


占領政策と中等諸学校

青年学校は勤労青年のための定時制の学校であり、中等学校とはみなされていなかった。
しかし生徒の年齢は中等学校段階に相当しており、
新学制の成立に際して中学校および高等学校の生徒として受け入れられる措置がとられた。
また青年学校の教員の多くは新制中学校の教員となった。
これらの点から青年学校は新制中等学校の一つの母体とみることができる。
青年学校には普通科と本科をおき、普通科は国民学校初等科卒業者が入学し、修業年限は二年、
本科は普通科修了者または国民学校高等科卒業者が入学し、男子は五年、女子は三年であった。
昭和14年に男子の義務制が実施され、その後戦時体制の強化にともなって青年学校は軍事教育を主体とする

新制の中学校の主要な母体となったものは国民学校の高等国民学校高等科であった。
新制の中学校は生徒の面からみると、国民学校高等科・青年学校普通科・中等学校低学年等を統合して編成されたが、
中でも国民学校高等科は同年齢層の国民の最も多くの者を収容していた。
また 新制の中学校は国民学校と同様に市町村に設置義務が課せられていたので、 新制の中学校の多くは実質的に国民学校高等科を中心母体として設置された のである。
国民学校は初等科(六年)と高等科(二年)から編制され、国民学校高等科は初等科と違って全国民に共通な課程ではなく、中等学校に進学しない大衆の ための学校であった。
したがって新制の中学校とは本来異なる性格の学校であった。
そこで国民学校高等科を主要な母体として新制の中学校を設置するためには、学校の性格を大きく転換する必要があり、そこに多くの困難な問題が横たわっていたのである。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行「岡山県教育史続編」 

中学校創設当時の苦心
(当時岡山一中校長)
中学校は当時の町村長にとっては米のキョウシツ・供出と中学校のキョウシツ (校舎建築)はまさに命取りといわれ、
このために自殺した村長があったほどです。
新制中学校は、これまでの国民学校高等科と青年学校を合わせて作ったものですから
校舎はなく、市町村の財源もきわめて少なく、机もなければ教科書もない。
校長としてもっとも苦しんだのは、
よい教員を集めることで、
小学校・青年学校・中等学校からゆずってもらった寄せ集めの陣容でずいぶん困ったが、
先生がたはよく努力してくれたと思います。

・・・

毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学夜に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追いこま れたこともあった。

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(新教育制度の)小学校発足

2024年01月27日 | 学制150年

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

占領下の小学校
制度・設置・管理

小学校の制度
昭和22年3月、「学校教育法」が制定され、これに基づいて新学制が発足した。
新学制と小学校新学制は民主主義の理念に基づく教育の機会均等の実現を目指すものであり、
小学校は中学校とともに昭和22年4月から発足した。
その名称も「国民学校」から明治以来国民から親しまれて来た「小学校」に改称された。
小学校の修業年限については、学校教育法で、「小学校の修業年限は6年とする」と規定された。
民衆的性格をもって存在した国民学校高等科(二年)を初等教育から切り離して、中等教育段階に編成したことにより、
新制の小学校はすべての国民のための共通の基礎課程として性格づけられたのである。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行


新しい小学校教育

小学校の発足
22年3月、「教育基本法」、「学校教育法」が制定、公布されて、教育の基本原理と学校体系が決定された。
22年4月、新学制発足に伴い、国民学校はふたたび小学校という名称にかえって、
六・三制の最初の六か年の課程をになう学校として構成され、
従来の高等科は廃止されて新しく三年の課程の新制中学校の制度が発足した。
九か年の義務教育制度が確立されたのである。
このため、国民学校高等科の在学生は中学2、3年へ移行した。
中等学校は1年生なしで、2,3三年生は在学している中等学校の併設中学校の生徒となった。


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小学校の教員
新制小学校の実施にあたって教員の質および量の確保は深刻な問題であった。
戦後教育における教育理念の転換、待遇の低さなどにより教職を去るものも多く、
また新制中学校が新しく設置されたため、
国民学校教員のなかから約9万人(中学校教員の50.9%)に及ぶ比較的優秀な教員が中学校へ異動した。
このように小学校発足当時は教員組織は弱体化し量的のみならず質的な低下をきたす状況にあった。

昭和25年度における小学校教員の学歴別構成を示すと
師範学校出身者が50%に満たない状況であり、
旧制中等学校及び新制高等学校の出身者が合わせて45.1%を占める状況であった。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


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 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 脱脂粉乳とみそしる

敗戦後、占領軍の援助のもとで、 1946(昭和21)年12月から東京、神奈川、千葉の3都県の学校で試験給食が始まりました。 
1949(昭和24)年10月からはユニセフ (国際連合児童基金)から寄付を受けて、ユニセフ給食も開始されました。
初めはミルク (脱脂粉乳) とみそ汁などの副食だけでしたが、 
1950(昭和25) 年7月からガリオア (アメリカ政府が支出した占領地救済資金)によるアメリカ小麦粉で
8大都市 (6大都市に広島、福岡)の児童にパン、ミルク、 おかずの完全給食が行なわれ、
翌年2月からはこの完全給食が、全国の市制地にもひろげられました。

 

A.鉛筆の全盛期

1950年代から復活し、 全盛期を迎えます。 1本10円という時代が1950 (昭
和25)年から1969(昭和44)年までの19年間も続いたのは、それだけ消費する量が多かったことを示しています。
 しかし、長く続いた鉛筆時代も、1955(昭和30)年ころから急速に使われ始めたボールペンやシャープペン シルにとって代わられつつあります。 (岩本)

 

A. クレパスの誕生

クレヨンの材料は植物のロウ分ですから 温度が高いと溶けて手などが汚れたり、 画面の色が手についたりします。
こうした欠点を補うためパステルが作られました。
さらにクレヨンとパステルから日本製のクレパスが誕生しました。
 

 

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「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行

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小学校再開

2024年01月27日 | 学制150年

「戦争の中の子どもたち」  福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行

 
小学校の授業は、戦争が終わると再開されることになった。
しかし、校舎も机も椅子も焼けてしまった。
そのため、学年ごとに分かれた分散授業が、各集落のクラブ (会館) や神社を利用して始められた。
教員室は学校に最も近かった不動里のクラブが当てられた。 
教員は毎朝ここに集まり、打ち合わせの後、各地区の教室に向かった。
授業後、再び不動里のクラブに帰り、反省会をやるという日課であった。
村にとっても当面する最も重要な課題は、小学校校舎の再建問題であった。 
村内の有志が農業会の二階に集まり、総会を開き、その課題を話し合った。
その結果、村民から起債を募り、それをもって再建しようという意見が大勢であった。 
たちまち三十万円の起債が集まった。 
(深安) 郡や県からの補助は 微々たるものであった。
航空機乗員養成所の廃止に伴い、その建物の廃材が利用できるこ とになった。 
残暑未だ厳しい九月初め村民あげて、建築資材の運搬にあたった。

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

戦時体制の解除も急いで行わなければならなかった。 
8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係等の訓令が廃止された。
8月25日、「対新時局緊急措置ニ関スル件」が、岡山県から通達されている。
     一御真影、詔書類奉安殿、奉安所=奉還スルコト
     二 興亜室ハ之ヲ撤去、他ノ有効ナル教育施設=転換スルコト
     三玄関・廊下・教室等校内一円ニ亘り、米・英・ソ・支ヲ敵視シ、一切ノ資料之ヲ撤去ス。

 

学校につぎつぎと来るものは、占領軍の指令と、物資不足を補うため学童の大量動員による未利用資源の採集の依頼、要望で、
これは戦争末期よりもさらにきびしかった。

県は経済部長、教育民生部長の連名で
県下各学校を集荷単位に生徒、学童による未利用資源90万メ (乾燥品)蒐集運動を展開し以って政府の政策に協力すると共に
勤労作業を通じて学童の勤労的団結精神の涵養、学童自らの手による学校給食の実現を期せんとす。 
実施方策
一・ 荷原料と品を概ね左の通りとす。
春季・ワラビ、ゼンマイ、フキ、コメ菜、クローバー等の野草、嫩葉、褐藻類、茶、マコモノ葉
夏季・南瓜種子、南瓜の褐藻類、茶殻、ヨメ菜、アカザ等の野草、里芋
秋季・ 団栗、蕨地下 果実皮、南瓜種子、南瓜葉、褐藻類、里芋茎、大根葉、桑残葉、茶殻
冬季・ 果実皮、葛根 茶穀、甘藷茎葉、大根葉、人参葉、 団栗
二・集荷機関 農業会

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「百年誌」 笠岡小学校  昭和48年発行


昭和20年8月15日
正午、戦争終結に関する玉音放送を聞く

昭和20年8月16日
児童を臨時召集し、戦争終結についての校長訓話

昭和20年10月31日 
高等科2年、初等科4年参列 六甲国民学校の疎開児童の送別会を挙行男女両校

昭和21年1月4日 
連合軍司令部の指令により、次のことを禁止される
①学校(私立、神道学を除く)で神道の教義を弘布すること
②学校で神社参拝、神道に関する祭式儀式および慣例の挙行

昭和21年1月21日  
連合軍司令部の指令により「修身・歴史・地理教授に関する件」として修身・歴史・地理の3科目の現行教科書と教授が禁
止される

笠岡男子国民学校の玄関
戦後東中学校に移転。
老朽化のため取り壊されて現存しない。

・・・

「岡山県史第13巻現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行

戦後の学校は、軍国主義から民主主義へと180度の方向転換の努力を続けながら、教育を再開して行った。


昭和20年9月20日に文部省は、
国防軍備などを強調した教材、戦意高揚に関する教材などの全部、またはその一部を削除することの通牒を発した。
教室で使用中の教科書の該当部分に墨を塗って使ったのはこのときのことである。

連合軍最高司令官は、同年10月22日に「日本教育制度に対する管理政策」を覚書として日本政府に指令した。 
軍国主義を一掃すべきことが要望されたのである。
その中の一つとして、同年12月31日には「修身日本歴史および地理停止に関する件」の指令が出され、
これらの教科を学校で教えることが禁止された。 
修身・歴史・地理の教科書は焼き捨てられた。
軍国的な色彩を持つと思われる書物も、同時に焼却されたのである。
この辺の事情を当時の関係者は次のように回想している。
管理で思い出すのは、秦の始皇帝の故事をそのままに、いわゆる「焚書」ということを経験したのも、 
「朝令暮改」的な指示、指令に幾度か迷わされたのも、この頃のことである。
特に、児童にその持つ教科書に墨を黒々と塗らせながら、これがもたらす意味をいろいろに考えさせられたのも此の頃であった。

・・・


「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

秩序運動行進

戦時中の団体行動は号令一下、軍隊式に行われたのであるが、
軍国主義を学校から一掃するとなると、号令をどのようにかけたらよいか、とまどう結果となった。

21年8月27日付で教育民生部長名の「秩序、行進、徒手体操等実施について」という通達に当時の様子をうかがうことができる。
秩序、行進、徒手体操等実施について
終戦後の学校体育については、夫々万全を期せられていることと存じますが、なお細部については種々疑問等も生じ、これを参考として、その取扱に遺憾のないようにしてください。

秩序運動として必要な命令、号令、指示、
例えば「気を付け」「休め」「右、左向け」「廻れ右」「整頓」「番号」等は最小限 度に止め、
かつ軍事的色彩がなく愉快な気持を与えるように行なうならばさしつかえない。
しかし、それ自体反覆訓練することは避けねばならない。

隊列を組んでの行進は場所を移動する目的で行なうならば、
従来行なっていたような正常歩行進や音楽に合わして調子よく歩くことはさしつかえない。

・・・

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学徒動員解除

2024年01月23日 | 学制150年

戦争が終わったので、戦闘や空襲で命を落とす恐れは兵も市民もなくなったが、
食糧難は、敗戦後さらに悪化していった。

・・・

笠岡高等女学校

〇8月15日終戦全員早退してラジオ玉音をきく。
〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友とも一緒に なり、授業始まる
〇吉田山、西大戸の山と開墾と授業とが半々位。 
 教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。 
 英語の授業も再び始まる

 

「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

・・

「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

平時教育体制への復帰

戦時下の中等学校では戦時学徒動員が行われ、戦争の末期には学校の授業は停止されていた。

学徒動員の解除
戦後の教育は戦時下の体制から平時の体制に切り換えることから始められた。
文部省および 厚生省は昭和20年8月16日に、学徒の「動員解除」について通達を出している。
男子学徒はなるべくすみやかに動員を解除し、帰校のうえ晴耕雨読等の適当な措置をとること、
ただし農業および運輸通信関係等に出動中の学徒は原則として当分の間動員を継続すること。 
女子学徒は原則としてただちに動員を解除すること、
しかし学校の授業は適当と認める場合のほかは指示があるまで休止することとしている。

 

文部省は8月28日の通達によって、はじめて正式に学校の授業の再開について指示した。
学校の授業の再開
これによれば、各学校は原則として遅くとも九月中旬から平常の授業を開始すべきものとしている。
そのほか、戦災学校ではさしあたって食糧増産等の作業にあたらせること、
教科書・教材等の取り扱いについては十分な注意をはらい、一部省略等の措置をとるよう指示している。
なおこれ以前に、
学校教練および戦時訓練等の廃止についての通達が出されており、軍事教育的要素が学校教育から排除された。
授業再開当初の状況について、
一例として大阪の旧制中学校の沿革史の中から一節を次にあげよう。

9月に入ってようやく授業が再開された。
学校の周辺は、6月の空襲で灰燼と化して焼野原のままである。 
全校生徒の作業でやっと授業再開となったが、
校内ではなお焼け落ちた建物の残骸が無残に姿をとどめ、運動場はいも畑でおおわれている。
食糧増産・戦災復旧等が当面の急務であり、中等学校の生徒は積極的にこれに協力することが求められた。
戦後は戦時中とは別の事情から勤労作業が引き続き実施されたのであった。

陸海軍諸学校は廃止され、そのためその在学者および出身者の諸学校への編入学等の問題もあった。
中等学校でも出身者の母校への復帰や編入学等が行われた。
また外地から引き揚げた中等学校生徒の転入学の問題もあった。
したがって終戦直後の中等学校は生徒の面からみても複雑な状況にあった。

・・

中等学校の修業年限は、戦前は五年を標準としていたが、戦時中(昭和18年)に定められた「中等学校令」によって四年に短縮されていた。
戦後は昭和21年2月に 「中等学校令」を改正し、五年制が復活された。
ただし一部の学校および入学資格等について特例が設けられた 。


・・・

「笠商70年史」  笠岡商業高校  昭和46年発行

思い出はみななつかしい 元教諭 


就任二週間後に終戦になり、極度に緊張した息づまる焦燥感から解放されたあの時の異様な感情、
それに続く虚脱放心の状態、
物資欠乏の窮状など当時の余りにも厳しかった思い出は忘れようとしても忘れることはできません。
校庭は耕されて畠に変わりました。
紙や印刷のそまつな教科書、試験問題を印刷する原紙もなく問題を板書したので出題にも一苦労でした。
答案用紙もなく古い答案の裏を使ったものです。 
寒くなっても職員室にはストーブがなく、
職員が交代で木をひいて燃料を作ってたいたので天井はすっかりすすぼけてしまいました。
弁当の盗難、
職員のオーバー盗難等々、
ないないづくしの連続で明け暮れたひどい時代でした。 
しかしそういう中にも徐々に新教育の精神が確立し、
新制高校への移行統合など新時代に生きるための激しい陣痛によって現代の笠商は誕生したのです

・・

動員解除記念写真(井原高女)

「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行


私の高女時代
昭和20年の8月15日終戦。 
心身共に打ち砕かれた様などん底の悲しみに泣いた。 
やがて母校に復帰出来、複雑な気持の中にも喜びの湧き上がるのを覚えた。 
全校生徒に漢字のテストが行なわれたが、学力低下で満点を取った人は居なかった様である。 
アメリカ進駐軍兵士が学校へ訪問することもあり、丁度同級生にアメリカ帰りの蔦川さんが居り、 
通訳をし、オーマイサンシャインという歌を教わった。
(昭和21年卒)
・・・

女学校時代の思い出
昭和20年8月15日終戦となり、私達は学校に帰り、学徒動員は解かれ、いつの間にか4年生になっていました。 
なつかしい学校に帰りましたが、学校は学童疎開の児童のために校舎の三分の一は使用できず、 
私達は教室に入れるだけ詰め込まれて、何の授業ということもなく、憲法の解釈を聞かされたり、
新聞を読んでもらったり、漢字のテストをしたりして何日かが過ぎました。 
着る物も食べる物もなく、教科書さえない学生生活でしたが、誰も不足を言う人もなくみんな仲良く勉強しました。 
英語と洋裁が選択教科になるなど教科の内容も大きく変化しました。 
そして4年生が終わりそのまま卒業する人と5年生に進み卒業する人と二つにわかれました。 
(昭和22年卒 )

・・・

戦前・戦後にわたって
8月15日の終戦。 
残務整理の後、やっとみんな学校に戻り学業に専念することに なりました。 
廃止になっていた英語の授業も復活しました。 
又放課後のクラブ活動も盛んになりました。 
今迄読めなかったいろいろな本とか、小説とかみんな一生懸命に読みました。 
昭和22年学制改革により、6・3・3制になり、
私達は5年生で卒業か、後1年高校3年に残るか、希望で進学と就職組に分かれました。
1年生の時、中止になっていた修学旅行が出来るようになり、お米持参で、四国琴平宮と栗林公園に行った想い出、終戦直後で、みんな感激し、新婚旅行は、絶対琴平にすると言って帰りましたが ・・・
私達は昭和23年3月に井原高等女学校最後の卒業をしました。
戦前・戦後両方の教育を受け、一番波乱に富んだ時代であったと思います。
(昭和23年卒 )

・・・

 

「小学校誌 ―創立百年を記念して― 笠岡市大井小学校」 (昭和52年発行)

大井国民学校

終戦前後の思い出  K男(旧職員)

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。

・・・

 

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学徒動員【学徒出陣】

2024年01月19日 | 学制150年

はるかなる山河に

昭和18年秋、戦局の悪化にともなって文科系大学生への徴兵猶予が停止され、全国で臨時徴兵検査が実施された。
10月21日、冷雨の明治神宮競技場で出陣学徒の壮行会が行なわれ、数万の角帽・学生服姿の隊列が分列行進した。
トラックの上にはねかえる泥のしぶきをうけながら、自分たちの運命をひとりひとり噛みしめるように、誰も黙々と行進するだけであった。 
東大経済学部の一学生は、その真情を書き遺した。
「いよいよ自分も出陣、徴兵猶予の恩典がなくなり、まさに学徒出陣の時は来た。
自分は命が惜しい、しかしそれがすべてではないことはもちろんだ。 
自分の先輩も、またこれから自分も、また自分の後輩も戦いに臨んで死んでいく。
いったい死とは何だろうか。
大義のための 大義なんて何だ。
痴者の寝言にすぎない。」

かれらはペンを銃にかえ、教師や親と別れ、陸軍に海軍に入隊し、大陸や太平洋の戦場へ急遽送り出され、
その多くはふたたび還って来なかった。

死んだ人びとは、還ってこない以上、生き残った人びとは、何が判ればいい?
死んだ人びとは、もはや黙ってはいられぬ以上、生き残った人びとは沈黙を守るべきなのか?

「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫  昭和42年発行 

・・・

「殉皇至誠」の文字を見つめる特攻隊員は何を思うか

(雑誌「丸」  昭和44年11月号  潮書房)

・・・

(Wikipedia)

太平洋戦争中の学生の徴兵猶予停止による兵役

昭和18年12月時点入隊者数推計が
旧制大学で28,877名、
専門学校で13,516名、
旧制高校で1,593名、
大学予科で3,895名。

総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、
大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約10万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関しても正確な数は分かっていない。

 

・・・

(雑誌「丸」  昭和44年11月号  潮書房)


特別寄稿 田英夫 TBSニュース制作部長
(元震洋第37突撃隊 海軍少尉(兵科4期)  東京大学経済学部出身)


一夜明ければ“八階級特進"

昭和18年の9月だった。
高校がくりあげ卒業となり、真夏の大学入試で、東大への合格がきまった喜びの直後の私に「学徒出陣」のニュースが伝えられた。
しかし、そのころには、私たちの間ではそれはもう時間の問題のように思われていた。したがって、さして大きな精神的 動揺はなかった。

雨の神宮競技場で、東条首相みずからが、出陣学徒の分列行進を閲兵したとき私は、それには参加せず、静かに家にいた。
別に「出陣」を拒みたい気持がそうさせたのでもない。ただ、家にいたかっ だけだった。
そして12月、私は学生服の上に日の丸のタスキをかけ、家族や友人に送られ 東京駅をたった。
父が神戸まで送ってくれた。
私は広島県の大竹海兵団へはいったのである。

3ヶ月間の大竹での「二等水兵」の生活は、苦しいものだった。
しかし、わずか2ヶ月足らずの大学生活で、ここではじめておなじ経済学部の「学友」と「戦友」になった。 
冬の冷い海でのカッター訓練、武装行軍も苦しかった、春になって、神奈川県の武山海兵団へうつり、すぐに海軍予備学生となった。
二等水兵から予備学生は〝兵隊の位”にして、ざっと八階級の特進であった。 
それを一夜で飛び上がったのだから、飛びこされる側の教員の下士官はその夜ひと晩中荒れくるい、手当たりしだいにわれわれをなぐったのも無理はない。 

 

「諸君のなかから、特別攻撃隊員を志願するものを募る」

昭和19年の秋のある日の夕方のことである。
突然、「予備学生、総員剣道場に集合」命令がでた。
白い作業服の学生は、すぐに剣道場に集まった。
ところが、そこの空気は異様であった。
紺の第一種軍装に身をつつんだ大尉、中尉クラスの教官が、入口から周囲の窓までを警備するかのようにかためていた。
その表情もかたかった。
やがて、校長が壇上に立った。
校長は静かな、低い声で話した。
「諸君のなかから、特別攻撃隊員を志願するものを募る」
物音ひとつしなかった。
隣で不動の姿勢をとっている者の息の音が 聞こえるような気がした。
校長はさらに言葉をつづけた。
「特別攻撃隊の種類は、潜水艦によるもの特殊潜航艇によるもの、魚雷による〝震洋"などで
志願するものは明朝、〇八〇〇までに 学校区隊長に申しでるように。
なお、当然”軍機” に属することである から、絶対に口にしてはならぬ」その夜は、だれも眠れなかった。

この第一次の特攻隊員の募集のとき、
志願したのは四百人の学生中、およそ一割の四十人前後だったが、そのほとんど全員が死んだ。
そのなかには、人間魚雷「回天」で死んだ者もおおい。
それから一ヵ月後、卒業の直前にふたたび特攻隊員が募集された。

私は、今度はすぐに志願した。そのときの気持のなかには、
「どうせ志願しないでいれば、軍艦に乗ることになる。そしていつかは死ぬ。」
こうして私は昭和19年の12月、長崎県の川棚にあった魚雷艇訓練所へ、少尉として赴任した。 
震洋特別攻撃隊」の隊長としての訓練をうけるためであった。

 

 

「殉皇至誠」

終戦まぎわの八月はじめには、私たち所属していた特攻隊の「第三十三突撃隊」の隊長から、
「全艇爆装せよ」
という命令がだされ、私たちは徹夜で 全部の艇に三百キロの爆薬を積みこむ作 業をおわっていた。
終戦があと数カ月、いや数週間おそかったなら、私は、死んでいたかもしれない。
当時の「学徒兵」の心境を、いまの若い人たちにわかってもらうことは、たいへんに困難であると思う。
同時に、それをいまの六十歳を越えて いる人たちにわからせることも、よりいっそう難しい。

あの当時は〝国のために死ぬことは美しいことである"ということを、現在では想像もつかないことなのだが、おおくの国民が心の底からそう思っていた。
「特攻隊」の場合は、若く尊い生命と、そして純真な心を、あのような方向へ追いやった指導層の責任こそ、
もっとも責められねばならないのは明らかである。

・・・

「教養人の日本史・5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行

特攻隊

それは、極限状況において「死」を超越しえた時点でのみ考えられるものにすぎない。
ゼロ戦(海軍零式戦闘機) に250キロ爆弾をいだいて乗員もろとも敵艦隊に体当たりを敢行させた。
アメリカ軍は一 時、恐慌状態におちいった。
大本営はこの戦法を日本武士道の「玉砕」の精神とむすびつけ、「神風特別攻撃隊」と称揚し、
以後、兵力の不足を補う基本戦術として採用した。
アメリカ側は、「自殺飛行機」とよび、
対空砲火の弾薬と洋上遠く戦闘機を派遣して早期に撃墜するという方法で、被害を最少限にくいとめるよう になった。


・・・

 

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学徒動員(中学校)

2024年01月17日 | 学制150年

勇しくなければ日本人でなかった、その時代の旧制中学の話。

・・・

「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行

軍事教練の想い出

当時中学生の服装は、カーキ色の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。
帽子は今と同じ黒に白線二本、
昭和15年入学生は、カーキ色に白線二本のもの
昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。

教練の授業は二時間続きで週三回、合計六時間。
教練に係る教官の職員室は、運動場に最も近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監(せいとかん)」と言い、
入室時には「〇年〇組〇〇〇〇、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から「入ってヨーシー」と教官の許可がなければ入室できなかった。
教練の時、一・二先生はも木銃を、三年生は二二式銃を、四五年生が三八銃・騎兵銃を使用していた。
実弾射撃も時にあり、運動場の南端、遥照山麓で実施していた。

教練そのものも厳しかったが、服装・銃の管理・規律も大変だった。
また軍人勅語の暗記も絶対的なものだった。

訓練内容は、集合、歩行、匍匐前進、塹壕突破、手榴弾投擲、突撃等で、
サーベルで突かれ、長靴で蹴られながらの真剣勝負であった。




・・・


「学徒動員壮行式答辞」

愈々学徒動員が下り、我等五年生は戦力増強生産の任務を以て出発致すこととなりました。
本日茲に我等のために壮行式を挙行致され、校長先生より御懇篤なる御訓示を賜り、
在校生総代より親切なる激励の辞を寄せられ感謝感激の至りであります。
日々夜々前線に繰り返されて激烈極まる戦闘の状況を聞くたびに我等の血潮は高鳴ります。
敵米英がこしゃくにも物量をたのんで我皇軍を圧倒せんとし、無数の爆弾無数の弾丸を以って我将兵を悩ましてゐるのであります。
今や一機でも多くの飛行機を、一発でも多くの弾丸を、一日でも早く前線へ送らねばなりません。
我等学徒が工場へ入り、軍需の生産に従事することは実に重大なる任務であります。
我等は今や直接国家のために役立つ日を迎えました。
我等が一本の鋲釘を打つその動作も、そのまま前線へひびくのであります。
このことを思ふ時、どうして自重せずにおられませうか。
祈りをこめ、誠心をこめて働かずにおられませうか。
力の限り御奉公を致します。
諸君もしっかり勉強してください。

昭和19年6月11日
第五学年生総代



・・・

 

「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行


日常の生活訓練

昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した。
体練科が重視され、時間数も倍増し、その傾向はいっそう強化された。
毎日の通学も「通学新体制」の名の下に、きびしい指導が行われた。
一定時刻に集合、二列で登校、校門を入る時は歩調をとって歩いた。
奉安殿に対する感謝のことばと誓いのことばを述べ、最敬礼をして教室に入るという状況であった。
高等科を設置している学校では、校門を軍隊の営門に模して衛兵所を設け、
衛兵と同じような勤務をさせていた学校もかなりあった。

・・・

 

中学生の志願兵。まだ15才。

おじ(母の弟)は予科練に合格した。

昭和19年、興譲館中学3年修了時入隊。

この写真に、父と母と姉がいる。

おじはこの記念写真のあと、日芳橋の上に立ち

全西江原町民による”歓呼の声に送られて”入隊した。父もまた、まもなくして三度目の入営をした。

 

・・・


「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

陸海軍関係進学者・入隊者の増加

太平洋戦争開戦とともに中学生の応募急上昇していった。
官費で陸海軍将校になれる学校は、
学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力で12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、
中等学校四年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、
学校にその出願者の割当てまでする状況となった。
海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、幹部を養成した。
国民学校高等科修了生には、幼年学校のほかに陸軍少年兵制度が設けられ、下級幹部となった。

・・・

 

 

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学徒動員(実業学校)

2024年01月16日 | 学制150年

工業学校が異状とも思えるほどに加熱した時代が昭和時代に二度あった。

一度目は昭和17.18年頃。
戦時で軍事関連の”工業”生産優先、その逆に”商い”は不要扱いされた。
笠岡商業学校は、笠岡商業工業学校へ転換。
福山工業は科を新設。
(おじの話)
「その時、城見小学校から成績が比較的良い子が4人、福山工業に受けに行ったが、4人ともすべった」
そうだ。
4人の内の1人は、大きくなって国会議員になり、大臣に数回任命された。

二度目は昭和38、39年頃。
新産業都市が全国に誕生し、学制が6・3・3・4制度の中に6・3・5の「国立高専」が誕生した。
初期高専は、金浦中学校の成績一番でも合格は?状態。
その工業ブームの中で笠岡工業高校が誕生し、福山には福山電波高校ができた。

・・・

「笠商百周年記念誌」 笠岡商業高等学校  平成14年発行

・・・

「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

日中戦争の勃発により、文部省は実業教育振興委員会に、再度実業教育の方策を諮問した。
委員会の答申は前回の社会教育的な低度実業教育の振興策を改め、軍需産業の拡充のための実業学校の全面的増設という積極策を示し た。
戦争が進展するにつれて、軍需産業の必要に応じて、実業学校なかんずく工業学校の増設が行われ、学校は産業に従属して人材を確保する機関としての性格をあらわにしていく。
この時期の実業教育問題の中心は、工業教育の拡大であったので、これまでの農工商の順序を改めて工業から取りあげてみよう。

この時期の工業学校は、増大する需要に応じきれず、増設につぐ増設を行い、教育内容・程度についてはやや背伸びをして、農商の実業学校を見おろした時期であった。
また、この時期に増設されたのは、機械・電気・工化といった重工業向けの学科であり、伝統工芸との結びつきの濃い木材工芸・金属工芸や、平和産業的な染色紡織など の学科は増設されることがなかった。つまり工業学校教育が地域産業との結びつきを稀薄にしていったのである。 

商業学校は、この時期に工とは逆の意味で大きな影響を受けた。
わが国が戦争への傾斜を強めるにつれて、公益 優先、私利の否定が強調された。
経済活動に対する国家統制が強められると、商取引における個人の才覚というものは無意味となり、配給を受けたものを分配するだけの業務となり、商品や顧客の研究、宣伝の技術も不要となり、
ついには商業教育不要論を生むに至るのである。

昭和18年「国民教育ニ関スル戦時非常措置」において、商業学校の工業学校への転換が決められ、大部分の商業学校は工業学校・農業学校・女子商業学校へ転換し、450校の商業学校は101校に圧縮されたのである(昭和19年文部省調査)。

・・・


戦時の実業

戦局の激化と学徒動員
昭和18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、
「有事即応」の態勢を確立するため、中等学校三年以上に戦技訓練・特技訓練・防空訓練等の徹底強化を図り、また食糧増産、国防施設の建設、緊要物資の生産、輸送力増強等に学生生徒を動員するものとした。
さらに同年10月には、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」として、
商業学校を工業学校・農業学校・女子商業学校へ転換させること、
生徒の戦時勤労動員を高度に強化して、年間三分の一の期間は勤労動員を実施すること等を決定した。

翌昭和19年に入ると戦局は極度に悪化し、政府は中等学校以上の諸学校の学徒を、今後一年間常時勤労その他の非常勤務に出動させられる態勢下におくこととした。
同年3月の「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」によれば、中等学校生徒の動員の方針はおよそ次のとおりであった。
1・工業学校生徒は軍関係その他の重要工場事業場に動員する。
2・商業学校から転換した工業学校の生徒が特定の工場で現場作業を行う場合、または学校を軍需工場化した場合には、当該工場または関係工場に動員する。
3・農業学校生徒は食糧増産・国防建設事業等に重点的に動員する。
4・中学校商業学校および高等女学校の生徒については、地域の情況、労動力需給の情況を考慮して、食糧増産・国防建設事業または工場・事業場(輸送を含む)等の作業に動員する。
なお女子については、できるだけ学校設備の工場化を図り、そこで勤労に従事させるように考慮する。


「学校の歴史第3巻中学校・高等学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

・・・

 

「笠商百周年記念史」 笠岡商業高等学校  平成14年発行


生徒時代(昭和15年4月~20年3月)
(うち19年4月~10月学徒動員で水島三菱飛行機工場
昭和19年11月~海軍予科練) 

私たちが入学したのは、日中戦争も4年目に入った軍事色の非常に強い、そして国威発揚のための行事が多く催される時代でした。 制服も前年までは、夏は霜降り、冬には黒の上下で制帽も黒色でしたが、私たちから制服、制帽ともカーキー色 (国防色といっておりました)に変わりました。

沢山の先輩の慰霊祭が何回か本校講堂でしめやかに行われました。 
戦争が長引くにつれ、沢山の働き手が召集され、農村でも人手不足が深刻となり、農繁期には勤労奉仕ということで、出征兵士や戦死者の家の稲刈りなどに何日か出掛けました。

また、当時は教練という教科があって、 陸軍から派遣された現役将校の指導のもと軍事教育が行われ、 
行進などの団体訓練や三八式歩兵銃の操作など教えられました。
この軍事教育の一環として行軍という徒歩旅行が年に 何回か実施されました。 
時には三八歩兵銃を肩に担いでの行軍で、かなりきついものでし た。 
その総仕上げとして100キロ行軍が昭和18年の秋に実施されました。参加したのは 4,5年生全員でした。
朝、上の運動場を出発し、途中矢掛箭田を通り吉備津神社に参拝し、庭瀬小学校講堂で大休止、あと不眠で倉敷、玉島を経由し翌朝に帰着しました。

昭和18年12月には40期が繰り上げ卒業し、私たち4年生が最高学年となりました。 
しかし、昭和19年になると戦況はますます厳しく、4月学徒動員令が発動され、4月20日三菱の水島飛行機工場の寮に入りました。 実習工場を終えて1組は第一 部品工場、2組は組立工場に配属されて海軍の一式陸上攻撃機の製造に従事しました。
この時、150余名の同級生は18年秋の海軍甲種予科練習生志願と4年生からの上級学校進学で100名ほどになっておりました。

以上の外、 阿部山開墾、グライダー、軍隊での恩師との出会いなど、 苦しくもなつかしい思い出が多々あります。

・・・


「創立80周年記念誌」 笠岡商業高等学校 昭和56年発行


第43回卒

私達は、笠商2年生になると間もなく学徒動員で水島の航空機製作所に住込みで働くことになり、慣れぬヤスリやハンマーを使った り、事務を執ったりすることになりました。 
戦況も段々厳しくなってくると、B29やグラマンの敵機来襲で何度も恐ろしい思いをしながら、結局4年生の夏終戦を迎えました。
その秋深まった頃からやっと授業が再開され、翌昭和21年春私は上級学校に合格したため、戦時特例とかで旧制5年を4年で卒業しました。
従って私達の同期生は43期と44期卒にわかれます。

・・・

 

「精研六十年の歩み」 岡山県立精研高等学校 平成7年発行

・・・

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学徒動員(高等女学校)

2024年01月16日 | 学制150年

大戦末期、女学校の高学年(4・5年生)は家を離れて工場へ、
2・3年生は家から近郊の工場や学校工場へ、
1年生は食糧増産、が多いようだ。

小学生(小国民)は集団や縁故で、町を離れて疎開した生徒がいるが、
中等学校の年齢では、その行為は”非国民”となるのであろう。誰一人いない。

 

(報国隊分列)「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

 

・・・
「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行


戦局の激化と学徒動員

昭和18年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、「有事即応」の態勢を確立するため、
中等学校3年以上に戦技訓練・特技訓練・防空訓練等の徹底強化を図り、また食糧増産、国防施設の建設、緊要物資の生産、輸送力増強等に学生生徒を動員するものとし。

翌昭和19年に入ると戦局は極度に悪化し、政府は中等学校以上の諸学校の学徒を、今後一年間常時勤労その他の非常勤務に出動させられる態勢下におくこととした。
4 ・中学校商業学校および高等女学校の生徒については、地域の情況、労動力需給の情況を考慮して、食糧増
産・国防建設事業または工場・事業場(輸送を含む)等の作業に動員する。
なお女子については、できるだけ学校設備の工場化を図り、そこで勤労に従事させるように考慮する。

・・・

「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

・・・

学校報国団

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

作業は軍人遺家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。

軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。 
岡山市津島の陸軍兵器補給廠、上伊福海軍衣料廠、倉敷絹織岡山工場、三菱重工業水島航空機製作所、倉敷絹織倉敷工場、三井造船、出動した。


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「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

昭和16年4月戦時体制の強化にともなって千鳥会は改組され、千鳥報国団が結成された。 
同年9月には報国団に報国隊が編成され、この組織のもとに勤労作業が行われるようになった。 
このような情勢のうちに太平洋戦争はいよいよさを加え、
昭和19年には学徒動員がはじまり、同年6月から翌年4月にかけて5・4・3・2年の順で水島航空機工場等に出動した。
戦争はいよいよ深刻化し、ついに20年8月終戦を迎えることとなった。

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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行


防空ずきんの中の青春

大東亜戦争勃発のニュースを聞いたのは私が女学校4年の時でした。 
その後戦局の悪化と共に日常生活はもとより、敵国語である英語の教科は廃止され、
学生生活も日に日に戦時色を増し、先生方の服装も背広から国民服へ、
そして私達はモンペ姿と防空頭巾で通学の毎日となりました。 
当時としてはめずらしかった学校給食も廃止され、
防火訓練、避難訓練、分列行進等授業の合間に繰り込まれ、張り詰めた緊張感が今懐かしく甦ります。
非難訓練の時は大きなおむすびを各クラスバケツー杯に詰めこんで横手山に避難、手づかみで食べた時のおいしかった事。 
出征兵士の留守宅の勤労奉仕に友と汗を流し、鎌を手にふっと見上げた秋空に吸い込まれ充実感に浸った時もありました。 
2月8日の針供養は荒んだ時代のまことにほのぼのとした私共の行事でした。 
出征兵士への慰問袋にそれぞれの乙女心の便りを託しセンチになった時もありました。 
授業中に千人縫いが廻って来たり、又下校時の校門脇にテーブルが出され、その上に沢山の千人縫いが待ち受けていました。 
一番抵抗のあったのはトイレの汲み取り当番が廻って来る事でした。 
友達と呼吸を合わせ天秤棒で担いで校庭の向こうの学校農園まで運ぶのです。

(昭和18年卒 )

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私の高女時代
(昭和20年3月、5年生で卒業生)

私は昭和20年井原高等女学校5年制最後の卒業生です。 
したがって、4年生と2学年同時卒業という珍しい現象となりました。 

最後の5年生の6月、倉敷紡績工場へ学徒動員として入社、戦闘機の部品作りに各部に配置されました。
岡山一中、一女、倉敷の旧中学校、女学校の生徒、一般の工員、沖縄からの挺身隊など、
入り混じっての職場でした。 
エアーハンマーで鋲を打つ金属音の大音響の中でも、栄養失調と単調な仕事の繰り返しで眠いばかり。 
ベークライトの茶色の食器に、皮つきのままの芋や豆、こうりゃん入りのごはんが、 
窓口から投げるように滑り出てくるのをもらい、水のような汁と漬物の貧しい食事でした。
私達学徒は、中隊、小隊と呼ばれ、寮の廊下で点呼を受け、
先生は、カーキ色の国民服、戦闘帽ゲートル巻き、国中が戦争一色にぬりつぶされているあけくれでした。
教科書もないのだから、ここでは授業もない。 
休日には外出する人もありましたが、ろくに売っている品物もなく、金もなく、
1年弱この生活が続き、3月に卒業しても、 大半の人はそのまま動員されました。

岡山あたりも空襲で危なくなり、工場も里庄へ疎開しましたが、資材が届かず、仕事がなかったそうです。 
今、観光地のアイビースクエアは、倉敷紡績第二工場でした。 
ここで、訓練期間を過ごし、駅裏の万寿工場まで、鉢巻をして隊列を組み、 「赤い血潮の予科練の...」と歌いながら通ったこともありました。

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「広島県史近代2」

 学校の工場化
たとえば福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど軍服仕上げ作業を行なうことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行なったが、だんだんと下級生を含めていった。

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