しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

丘さとみ(東映城のお姫さま)さんが亡くなる

2024年08月05日 | 昭和31年~35年

娯楽といえば=映画、
映画といえば=チャンバラ、の少年時代だった。

昭和30年代前半は映画産業は隆盛をきわめた。
なかでも東映は人気で、「第二東映」を作り作品を倍増し、映画館にフィルムを供給しまくった。
そのころ、京都に「東映城」が出来た。
その東映城にはお姫さまが大勢いて、なかでも三人のお姫様が人気だった。
それが「丘さとみ」「大川恵子」「桜町弘子」。
東映城には他にもいっぱい人気女優がいた。
中原ひとみ、長谷川裕美子、星美智子、千原しのぶ、高千穂ひずる、田代百合子、多喜川千鶴、花園ひろみ、・・・別枠で美空ひばり。
名前は、すらすらと今でも言える。豪華な女優陣だ。

 

・・・

(Wikipedia)

・・・

丘さとみは時代劇に出ていたので、お姫様女優と呼ばれたが、
映画では庶民的な役がよく似合っていた。
相手役は錦ちゃんや千恵蔵・右太衛門両御大や大友柳太郎がよかった。
特に錦ちゃんとは名コンビだった。
「一心太助」が楽しかった。
明るくて、きれいで、東映時代劇をささえた女優さんだった。


88才、アメリカで亡くなった。

 

・・・


園まり

歌謡界全盛期に、
テレビの歌番組で強大な力を見せつけていたのが「渡辺プロダクション」。
その会社には、ナベプロの三人娘がいた。
中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり。
あれから60年経った。

園まりは「逢いたくて逢いたくて 」「何も云わないで」「●は夜ひらく」などが代表曲。
フォークソング「花はどこへいった」を歌っていた時もある。

80才で亡くなった。


・・・

 

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笠岡市生江浜から、バスに2回乗り、船に2回乗って、笠岡市片島の祖父母宅に行く

2023年02月18日 | 昭和31年~35年

笠岡市民会館で「笠岡市美術展」が2/17~2/19で開催中。
会場で旧知のJさんに会った。
Jさんは古写真を見ながら次のような話をした。

 

赤い矢印が神島⇔片島渡船)

 

「母親は片島から生江浜に嫁に来ていた。
それで夏休みなど片島に何度も遊びに行っている。

生江浜の家から歩いて吉浜土手に行く、
吉浜土手からバスに乗って笠岡駅に行く、
笠岡駅からバスに乗って横島フェリー乗場に行く、
横島フェリー乗場からフェリーに乗って神島フェリー乗場に行く、
神島フェリー乗場から歩いて神島渡船場へ行く、
神島渡船場から渡し船に乗って片島渡船場に行く。
片島渡船場でお祖母ちゃんが出迎えしてくれた。

楽しみは、お祖父さんが魚の美味いのを食べさせてくれた。
夏休みでは、必ず(島の北側の)海水浴場に行っていた。」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

徒歩以外に、船便2回、バス便2回で

ずいぶん遠回りに感じられるが、時代背景の想いの方が強い。

なにより当時は山や峠を一つ二つは越えないと目的地に行けないケースが多かった。

片島へは、それがない。

(現在生江浜から片島まで、車で5分で行ける)

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

赤い矢印が生江浜⇔金崎渡船)

渡船のこと

神島⇔片島
船は片島で待っていれば、手を振って、声をあげれば、漕いてきていた。
船は神島・片島のどちらかで待っていた。
一人でも乗る人がいれば対応していた。
(廃止する前くらい)手漕ぎからエンジンが付いた船になっていた。


生江浜⇔金崎
廃止になるまでぎっちらぎっちら手漕ぎだった。
生江浜から金崎に行く客でバスに乗る人がいれば、船頭さんに知らせる。
船からバスが見えるので、船頭さんは旗を振ると、バスは船が着くまで待ってくれていた。

・・・・・

その他
大相撲のこと
(大相撲金浦小学校場所のこと)
あったゆうのは聞いとるが、ワシが小学校の1.2年生のときじゃって、見に行ってない。
笠岡の西ノ浜ではしょうたなあ。
今のホリディのふきん。
半分海か葦かゴミ捨てか、という場所じゃった。
そこへはサーカスもきょうたなあ。

・・・・

 

 

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「進水式」のこと

2022年06月10日 | 昭和31年~35年

小学校の2年生の時だったと思うが、親戚に海運業の人がいて、進水式に招待された。
茂平の漁船(1~2トン)しか知らないので、とてつもない巨大船に驚いた。
茂平の船には飛び乗るが、この新造船にはハシゴを登って船に乗った。
その時は、船から餅投げをした。気持ちがよかった。
後にも先にも、船からの餅投げは、この時以来見たことすらない。

造船所は「引野」にあり、その当時福山市引野町だったのか、深安郡引野村だったかわからない。
「引野」は昔も今も、みんな「ひきの」としか呼ばない(町を付けないで呼ぶ)。
造船所やアサリで有名だったが、今では、その場所を推測するのが不可能なほど変貌している。

 

・・・・・

 

撮影日・2017年12月18日

場所・広島県尾道市瀬戸田町沢   内海造船(株)瀬戸田工場    
名称・  8.600総トン型旅客船兼自動車航送船「シルバーティアラ」進水式  

 

進水式のイロハ

「行って、見て、聞く」 江上剛  ウェッジ  2010年発行

船台で組み立てられた船体がほぼ完成し、「水に浮かべても大丈夫」というときに、
船体を水に浮かべる作業が進水で、その儀式が進水式と言う。
新しい船の誕生を祝う進水式は、最重要儀式として位置付けられている。

 

 

進水式のハイライトは、命名と支綱切断。
支綱切断ではハンマーや小刀や斧を使う。
切断と共にお酒も割られる。シャンパンや日本酒。

 

 

支綱が切断されると同時に、船は海に向かって滑り出すが、船は必ず後ろ向きで進む。
船の重心は船尾側に片寄っているので、進水する速度を回避する。

 

 

 

 

 

 

 

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あれはサーカスだ

2022年06月05日 | 昭和31年~35年

子供の頃、サーカスを二度目たことある。
4月の「福山とんど祭り」で二度見た、
木下サーカスと三好サーカスだった。

その頃、芝居の劇団よりは規模が大きな見世物小屋といった感じでみていた。
木下サーカスはオートバイが地球儀の中で爆音を鳴らすので鼓膜が破れそうだった。
三好サーカスは分福茶釜と同じ綱渡りの曲芸をよく覚えている。
その芸は、自分と同じくらいの年齢の少女がしていた。


あの子は学校に行っているのだろうか?
人さらいに遭って、サーカスに連れてこさされたのだろうか?

 

 

そのころ、茂平には時刻を知らせる放送塔ができて、その時々の流行歌を流していた。
3ヶ月が半年ほど、マヒナスターズが歌う「番頭はんと丁稚どん」で、大村崑ちゃんの台詞がはいっていた。
~おっ母ぁ、わてはお店をしくじって、サーカスにはいりました~
社会の底辺を感じさせる悲しい歌だった。

子供ごころにサーカスには哀しいイメージがつきまとった。
昭和31年に日本のサーカス団は20以上あったようだ。

 

・・・・

 

「夢つないで 木下サーカス120年」②
山陽新聞 2022年5月31日 


明治から昭和にかけて激動の時代にサーカスを率いた唯介は、さまざまな苦難に遭遇した。
日中戦争が始まった37(昭和12)年、サーカスの看板でもあった4頭の象を手放すことになった。
国内が戦時色に染まっていくなか、大型動物の貨物輸送が難しくなる上、空襲などで逃げ出したらパニックになるとの理由からだった。
日本が太平洋戦争に突入し、戦局が厳しさを増すと、男性団員たちは次々に召集された。
1943(昭和18)年には、興行先の鳥取市で鳥取大地震が起き、当時、興行を仕切っていた弟の幸治をはじめ団員7人が犠牲となる不幸が重なった。
それでもサーカスの灯は絶やさなかった。
女性を中心とした団員たちが劇場を回って舞踊などの芸を披露。
人々にいっときの安らぎを提供した。

 

・・・

「木下サーカス四代記」 山岡淳一郎 東洋経済新報社 2019年発行

丸テントの「革命」

何が、サーカスの成長を阻んでいるのか光三は考え抜いた。
江戸期よりの「丸太掛け小屋」を脱却し、「洋式の丸テント」に変えようと決断した。
体育館やホールでは大きさがまちまち、団員の空間感覚が狂い、演技がしずらい。
危険度が高まる。
サイズが一定の丸テントがあれば、どれほど便利だろう。

丸太をそろえ、鳶職をそろえて掛け小屋を組む。だから収益の4割は歩方がとる。
場所の選定も、歩方よりも新聞社と組んだ方が世間的なとおりがよい。
光三は太陽工業に丸テントの製作を伝えた。
2.000人も収容する巨大テントの製作は社運を太陽工業の社運を懸けたチャレンジだった。風速40mに耐え、軽くて持ち運べるテントを完成させた。

 

節目を重んじた初代唯助
岡山の表町、天瀬に幾つもの映画館、旅館、大衆浴場、料理屋などを建てて「千日前」と称される歓楽街に変えた。
済生会岡山病院の建設の為に広い土地も寄付している。
晩年は書に親しんだ。
木下サーカスの礎は唯助によって築かれた。

・・・

 

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五平太(ごへいだ)の煙

2022年04月29日 | 昭和31年~35年
小学生の時、日本の石炭産業は全盛期だったが、
茂平で石炭を見たことは一度もない。ゴヘイダという言葉も知らない。
城見小学校に行けば真冬の時に教員室に達磨ストーブがあり、石炭をくべていた。
ストーブの隣にはバケツに入った石炭があった。
手に取れば汚れるだけなので、木山捷平のように珍重するとか欲しいとか思ったことはない。


茂平の子は踏切をわたらないと学校まで行けないので、
機関車の真っ赤に燃え上がる釜、
スコップで石炭をすくう、釜に投げ込む、飛び散る汗、
を踏切の真下から見ていた。


ゴヘイダの煙を身をもって体験することは何度もあった。
大門~笠岡間には金崎トンネルがあり、真っ黒い煙が顔に、煤となって襲い込んできていた。


・・・・・

五平太(ごへいだ)の煙

「小説を、映画を、鉄道が走る」 川本三郎  集英社 2011年発行


太宰治と親交のあった私小説作家、木山捷平に「斜里の白雪」という北海道旅行記がある。
昭和42年に道東を旅した時の作。
作者は「木井」として登場する。
釧路と網走を結ぶ「釧網(せんもう)本線」の屈斜路湖に近い川湯駅で「木井」は汽車を待つ。
「木井」はホームの花壇の木がどれも黒くなっているのに気づく。
土地の者らしい中年の女性がいう。
「五平太(ごへいだ)の煙だんべ。
汽車が一日に何べんもこの前を通るもの」。


私は何十年ぶりかでこの言葉を思い出した。
子どもの時、私も石炭のことをゴヘイダと呼んでいた。
木山捷平の故郷は現在の岡山県の笠岡。
「ゴヘイダ」は故郷の方言だとばかり思っていた。
司馬遼太郎によれば、
むかし筑前地方で五平太という人物がはじめて石炭を発見したので、石炭のことを五平太というのだ。

(井笠鉄道新山駅)

木山捷平はそのあと、
子供時代の汽車と石炭の楽しい思い出を語っている。
「私が小学生の時、村にはじめて汽車がついた。
私ども小学生は汽車も珍しかったが、それと同程度にゴヘイダがめずらしかった。
線路にはいって拾ってきては珍重した。
カバンの中に入れて学校に持って行き、授業時間中でも見せくらべをした。
黒くてよく光るのが上物だった。
話し合いがまとまれば、鉛筆何本、ラムネ玉何個との交換もできた」



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赤線の火消ゆ  昭和33年3月15日

2022年02月24日 | 昭和31年~35年

笠岡市笠岡


笠岡の同級生の思い出話・「赤い着物の洗濯物があり、前を早足で通り過ぎていた」
忠海の同級生の思い出話・「最後の日、赤い着物を海に流して(女は町から)去った」
義兄の思い出話(当時大阪の大学生)・「その日は寮生全員で飛田(とびた)に繰り出して、寮はからっぽになった」
おじの想い出話(小学校の同級生の出世頭、六月さんのこと)・「独身の時、小学校の同窓会か笠岡であった。その時、いっしょに伏越の遊郭へ行った」

・・・・・

赤線の火消ゆ  昭和33年3月15日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


”赤線”の日は、きょう十五日で全国的に消える。
売春防止法の完全実施は四月一日からだが、実質的には今日が日本の社会風俗史の上で画期的な日になる。
業者も転廃業には生活上いろいろな苦心もあったろうが、その反面、
恥ずかしい商売をサラリとやめて子供たちの顔をまともに見られ、気持ちもせいせいすることだろう。

ところがグレン隊などの暴力団が、赤線で足を洗った女たちをかき集めて、秘密組織のもぐりの売春をやらせる傾向も目立っているという。
そんなことになっては”抱え主”が業者から暴力団にとって代わっただけということになりかねない。
女たちも”解放”とは名のみで、かえって不幸なことになる。

赤線地帯が消滅すると、性病の検診も人権上できないわけだが、これが野放しになって社会にまんえんしたら大変なことになる。
この予防対策に万全の措置を講じなければ、売春防止法もかえって”悪法”のそしりを免れない。

とにかく赤線は掃除されたが、待合や芸者置屋はどうなのかとの声も出てきている。
安直なのだけがいけなくて、高い金のかかる方は”自由恋愛の宿”でよいのかと、
そちらに風向きが変わってくるかもしれない。

・・・・・


売春汚職  昭和32年10月18日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


耳を洗いたくなるような汚い話だが、
売春汚職というのが登場してきた。
売春婦が体を売った金、それをピンハネした売春業者の金までもらうとは、
国会議員の操も落ちぶれたものである。

”全国性病予防自治会”というと聞こえはよいが、赤線業者の組合である。
全国一万数千軒の業者から”非常対策費”として集められた金が数千万円といわれる。
それが自民党の真鍋代議士はじめ多数の国会議員に贈賄されたとの疑いである。
かなり露骨な議員抱き込み工作が行われたことが察せられる。

売春防止法の成立後は、
実施の延期や転廃業の国家補償、転業資金の特別融資などの運動に金がばらまかれたものらしい。
この期に及んでも赤線業界がジタバタ狂奔するのは、政府与党にも罪がある。
来春の完全実施を遅らすような思わせぶりをする政治家がいるからだ。
売春の金で政治の操を売るような面汚しの議員を出した政党は除名処分にでもせずばなるまい。


・・・・・・


”売春する権利”  昭和31年1月14日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


生きるために、”売春する権利”という旗じるしをたてて、
東京の赤線地域の従業婦組合が結成されたそうだ。
売春防止法が成立したら、「わたしたちはどうして生きていけるのですか」とのさけびをあげたというのだ。

この組合結成大会では、「売春は職業である」と強調されたそうだ。
今までは事実そうだった。
これからは国家の名において、公序良俗のために、
売春を職業でなくしようというのである。
赤線の女性たちよ。
”売春する権利”などと、お芝居の台詞なら面白いが、
おだてにのって、
人間としての大切なものを見失わないよう、気をつけなさい。

・・・・・


売春史の革命  昭和30年10月9日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


「人身売買にからむ前借金は無効」という新判例が最高裁によって下された。
近来の名判決である。
売春奴隷売買の汚れた身代金よりも、人間の方が尊貴であることが、やっと認められた。

今までは前借の手かせ足かせで泥沼を抜け出ることはできなかった。
置屋の借金をふみ倒して逃げた芸者酌婦は詐欺で訴えられて、警察に捕まるのがオチだった。
公序良俗に反する人身売買の前借金は無効帳消しと認められた。
女性解放の鎖が一つ断ち切られた。

・・・・・

否決された売春防止法案  昭和30年7月21日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


またも売春業者に凱歌をあげさせることになった。
売春等処罰法案が衆院法務員会で否決となったからだ。
これからも、全国の赤線、青線区域は繁盛することだろう。

これで五度目の敗退である。
いかし今までと違うことが一つある。
過去四回は審議未了などでいつもうやむやのうちに葬られた。
採決にまでもっていったのはこんどが初めてだ。
世論がやかましかっただけに、引き延ばしや握りつぶしでは、すまされなくなったのである。



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ひな祭り

2022年02月24日 | 昭和31年~35年
北木島の「流し雛」

笠岡市北木島町 2019.3.31


城見保育所の「ひな祭り」はよく覚えている。
教室の壁に、先生(今は保育士さん)が千代紙のひな人形を作って貼った。
たった二つの千代紙の人形だったが、それを見ているだけで楽しかった。

近年はどこの街でも「雛人形展」を催しているが、
たまに見る折り紙の雛人形にいちばん目が行く。


・・・・・


ひな祭りの源流  昭和33年3月3日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


いつのまにかもう三月になった。
そしてきょうはひな祭り、桃の節句。

ひな祭りは女節句だけに優美でやさしい。
静的で、みやびやかで、やはり女性のものだ。
桃の節句というが、野にはまだ桃の花は咲かず、雪国では家も雪の中にある。

ひな祭りは元は流しびなという戸外の行事だった。
人間には罪の自覚や穢れの意識がある。
その罪の罪や穢れを去って、清らかになりたいとの願いやあこがれがある。
昔の人はそれを素朴な形で表現した。
人間の姿に似せて人形をつくる。
それを形代として、わが身の身代わりに罪や穢れを背負ってもらい、川や海に流す。

ひなを流したあと、身も心もきれいになったと、せいせいした気持ちで、また精出して働く。
いかにも原始的な宗教心のようだが、一年のうちにはそうした折り目を正しては、
また明日から心も新たに出直そうとする。
われらの古き祖先には、人間の生き方としてこのような謙虚な知恵があった。

おひな様も立派なものは何万円、何十万円もする。
形代にして流すわけにもいかぬ。
それはもっぱら見て楽しむだけのものになった。
女の子のある家庭では、わが子の健やかな成長を祝うだけの祭りである。
それはそれでよい。
が、現代人は祝うことのみ好きで、謙虚な反省では古人に劣りはせぬか。
流しびなの古典の風習も、どこかに生きかえらしたい気がする。

・・・・・

北木島の「流し雛」

笠岡市北木島町 2019.3.31

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メートル法  昭和33年3月22日 

2022年02月22日 | 昭和31年~35年
体重27貫500の若乃花


その頃、茂平の家には農作物の計量用にハカリがあった。
大人が計ってくれると「6貫じゃ」、
学校で先生が計ると「22キロです」。

大相撲のラジオ放送は〇〇貫、△△尺、と力士を紹介していた。
今思うと、この頃からアナウンサーもメートル法で紹介に変わったのだろう。

天声人語氏が気にしている土地・建物はまだ半分使われているし、
アメリカが関するものではヤード・ポンドがそのまま使用しているように思う。

メートル法に関係ないが、ちょうどこのころ年齢の数え方が変わった。
「年齢(トシ)は何ぼうなら?」
「数えでココノツで、満でヤッツです」というような会話をしていた。


・・・・・・



メートル法  昭和33年3月22日 天声人語・荒垣秀雄

メートル法でいくと、”佐渡は四十九里波の上”の佐渡おけさも
”佐渡は百九十二コンマ四キロメートル・ナーミーの上”という迷調子になる。
”千里眼””斗酒なお辞せず””五万石の殿様””一寸の虫にも五分の魂”
などはどんなふううになるか、ひまな御仁はひとつ換算してみてもらいたい。

これはまあ冗談だが、長年おなじみの尺貫法もことし一ぱいでさよなら。
来年一月から計量単位はメートル法に統一される。
大工さんや建具屋さん、畳屋さんは目を白黒させることであろうが、
実施のやさしい面もある。

若乃花の体重は二十七貫五百匁だというが、若い世代の人たちには身長も体重もメートル法が身について、何尺とか何貫目というとかえって首をかしげる。
国民の六三パーセントはメートル法で育ってきている。
一般の国民も、鉄道のキロ数やタクシーのメーターでメートル法に慣れているし、
米の配給でも電気、ガス、水道の使用量でも主婦はメートル法になじんでいる。

問題なのは土地、建物の計量である。
これはお役所仕事からいっても、登記簿や土地建物台帳の書きかえが大仕事なので、
この面でのメートル法実施は四十一年三月末まで延期されている。
それまでは”坪”も”間”も使う。
六尺に三尺のタタミが一・八メートルに〇・九メートルの畳になり、
六間の間口が一〇・九メートルの間口になり、
二十四坪の家が七九・三平方メートルというふうに、いちいち換算するのか。
ややこしくて家がひん曲がったり戸障子が合わなくなろう
それは材木の造り方から違ってくるし、家の規格も根本的に変わってくる。
かといって、今住む家をとり壊しもならず、元の寸法で修理や取り替えもせねばなるまい。
さてどういうことなるか、
笑いごとではない。




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「女教師の150センチ・ライン」 昭和31年12月9日 ~天声人語~

2022年02月20日 | 昭和31年~35年
管理人の高校時代に、身長150cm以下の女子同級生は結構多くいた。
大人になっても、就職時にそういう差別があるのは聞いたこともない。
あると言えば、人事課とか秘書課のような部署には容姿のいい人がいた程度だ。
これが自治体でも、地方でなく首都の自治体というのが、ズレをさらに際立たせている。
まさか他府県は右へ倣えをしていなかったのだろうな。

この天声人語には当時流行った、ミス・ユニバースの伊東絹子”八頭身”や、
洋画の話題作”暴力教室”が出ていて、その言葉もなつかしい。



・・・・・・


女教師の150センチ・ライン  1956・12・9 天声人語・荒垣秀雄

身長150センチ以下の女性は教師に採用しない-----
これは東京都教育庁の設けた”李ライン”である。
背の低い女性はこの150センチラインで撃退され、教壇から締め出しを食う。
近来これほど馬鹿げた”憂うべき非教育”はない。

150センチとは5尺未満のことだが、
今の日本ではその程度の身長の女性はいくらでもいる。
普通並みより少し低いだけで、何か欠陥人間あつかいするような態度は非人間である。
客商売の採用条件ならまだしも、
人格と頭脳の尊ばれる教師に、こんな肉体的条件で通せんぼうをするのは、
教育というものをはき違えている証拠ではないか。
背が低いと黒板の上まで字が書けないから、学習活動に支障をきたす、
と都の職員課長は言う。
遠足や校外指導の時に、背が低くてどこに先生がいるか分からないのは不便だともいう。
いくらノッポの先生でも、ぼんやりして児童・生徒たちを掌握できないでは、せっかくの長身も役に立たない。

どうやら”八頭身”ブームにかぶれているのではないか。
それとも”暴力教室”では小さな先生は生徒になぐられるとでも言いたいのか。
教師の価値は背丈で計るものではない。
物指しを取り違えてはいけない。



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「二島で妥結するな」 1955年歯舞・色丹

2021年01月20日 | 昭和31年~35年
高名な外交官・松本俊一とソ連マリクとの交渉は、欲張った日本外務省の失態で歯舞色丹が戻らなかった。
その後は時計が止まったように65年が過た。


・・・・・・・

「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行

「二島で妥結するな」

昭和29年末に首相に就任した鳩山一郎は、日ソの国交回復に乗り出した。
昭和30年(1955)、全権に松本俊一を任命し交渉を開始した。

抑留者や北洋漁業など、ソ連側には切り札が多かった。
焦点の領土問題は難航した。

だがソ連側全権のマリク大使は驚くべき発言をした。
「ほかの問題が片付けば、歯舞・色丹を引き渡してもいい」
フルシチョフが決め、マリクに指示した「譲歩」案だった。

これに対し外務省は8月27日、松本に新たな訓令を発した。
国後・択捉についてもできる限り返還に努めよ。
つまり「二島で妥結してはならない」との内容だった。

松本は30日の交渉で四島返還を提案した。
マリクは態度を硬化させ、この日を境に交渉は暗転した。


松本は10月6日の読売新聞紙上で、
「国後・択捉は突如としてでてきた問題。
最初からなら考え方もあるが、最後に出てきから非常にやりにくい」と語っていた。

翌56年2月、日本政府は
「放棄した千島列島に国後、択捉は含まれない」との解釈を打ち出した。
折り合いがつかなくなった交渉は3月20日、自然休会となった。






鳩山は事態の打開に自らのソ連訪問を決意する。
自民党は9月20日、「歯舞・色丹の即時返還」「国後、択捉の継続交渉」を党議決定した。





鳩山、河野らは56年(昭和31)10月7日羽田を出発。12日モスクワに着いた。
病身の鳩山に代わり、実質的な交渉には河野があたった。
領土問題では意見の一致をみず、
歯舞、色丹については平和条約締結後に日本に引き渡されることが盛り込まれた。
自民党内では歯舞・色丹の即時返還さらなかったことに、厳しい批判が出た。だが自民党総務会では「やむなし」と結論づけた。

日ソ共同宣言は、衆院で全会一致、参院で採択、12月12日批准書交換が行われた。
政界引退を決めていた鳩山は12月20日、内閣総辞職した。


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