しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

提灯行列・旗行列(日の丸行列)

2018年12月30日 | 暮らし
管理人の、ひいひい祖母さんは第一子を元治元年(1864)に生んだので、結婚したのは1863年または1864年と推測する。
ひいひい祖母さんは備中・吉浜村から茂平村へ嫁いだが、その日は夕暮れ時に提灯行列で嫁入りしたそうだ。
(ひいひい祖母さんは弘化3年~昭和18年の長命だった)
提灯行列で夕方に嫁入りするのは、明治から大正頃までは風習として残っていたようだ。

その後は戦勝記念やご大典記念で、町村単位で実施している写真が本に載っている。
笠岡市域では、日露戦争・大正の大典・昭和の大典・皇太子誕生・上海南京陥落・武漢三鎮陥落・皇紀2600年等での写真を見る。

小学校の記録では、旗行列を実施している。
横江小・・・昭和12年南京陥落、昭和13年武漢三鎮陥落、昭和15年三国同盟
大井小・・・昭和15年皇紀2600
大島東小・・・昭和3年ご大典

以上から、
提灯行列は、
江戸時代から明治末期ごろまで、嫁入り行列だった。
その後、明治中期ごろから戦勝記念や大典や祝賀行事で実施された。大戦中に消滅した。
旗行列は、
戦勝や記念祝賀で日中(昼)に行う。小学生や女性や老人も参加できる。大戦中に消滅した。

なお昭和27年に笠岡市が発足の際の記念行事を調べたが、提灯行列も旗行列も無かった。



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笠岡から玉島への港替願

2018年12月29日 | 江戸~明治
江戸時代の玉島港と笠岡港の争い、競争。
備中町史には「悪辣な収奪」とまで記されているが?実際はどうだったんだろう。

「備中町史・本編」より転記。
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笠岡から玉島への港替願
天保9年(1838)備中北部幕府領24ヶ村の指導者・平川村の庄屋・弥七郎が年貢米の入用節減のため、港問屋の仲間稼による収奪の甚だしかった笠岡港から比較的軽かった玉島港へと、年貢米の港替えを変えようとした。
年貢米を川下げののち海船に積み込む港を、笠岡から玉島へ変更することであった。
もともとは玉島港であったが、寛保3年(1743)に倉敷の代官が笠岡に変わったので幕府に願い出て変更していたのである。
一石当たり玉島の1.6倍の入用を要すのが理由である。

笠岡港の問屋は亀川屋又左衛門が村々を買収した。
幕府は笠岡玉島両港を積み立てと決した。
弥七郎はこの争いを通じて、笠岡港問屋の年貢米輸送を対象とする収奪ぶりを白日のもとにさらし、代官所を通じて幕府にその株仲間の具体的内容を訴えもしたので、もはや彼らの以前のごとき悪辣な収奪は憚らざるをえなかった。
さらに天保12年、幕府が実施した株仲間解散令が、弥七郎の企図したところを徹底させるものであり、弥七郎の目的は達せられたとも評価しうるのである。

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阿部山(鴨方・矢掛・笠岡)の開墾

2018年12月29日 | 昭和16年~19年
鴨方町・矢掛町・笠岡市の阿部山開墾は、それぞれどのように記されているだろうか?


「鴨方町史 本編」平成2年発行
「矢掛町史」
「笠岡市史」第三巻・四巻 平成8年・15年より転記する。

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「鴨方町史 本編」平成2年発行

「阿部山の開墾」
日中戦争以後、わが国の食糧不足は深刻となり、政府は供出、配給の制をとり、全国的統制管理に乗り出した。
昭和17年阿部山で大規模な開墾が始まり移住者が続々と入植した。
地元観生高女を始め、岡山一中、高梁中、矢掛中なども動員されて山頂の荒地に開墾を挑んだ。
 開拓事務所よりの戦線慰問分
既にご承知のとおり移住戸数50、150余名の鍬の選士は、第一線に於ける諸士のご労苦を偲び、かつ振り絞る汗に唯一の感激と誇りを満喫しているものでございます。
さて開発第二年度の現況を略記いたしますれば既墾地域50余町歩。作付中の雄として葉煙草5町を筆頭に、小麦、馬鈴薯、甘藷、除虫菊、蕎麦、果樹等100数十に及ぶ盛況でございます。
去る3月末着工の配電工事が完成、この僻地に電力と電燈の恩恵を受け文化都市にも劣らぬ動力の響きと光が前途を祝福するかの如き輝いています。
益々皇国農民に徹すべく念願して止まぬものでございます。
    阿部山開拓事務所(昭和18年8月 暑中慰問分)

「太平洋戦争とその前後」より抜粋
昭和16年5月9日、阿部山開墾地域鍬入れ式が横溝岡山県知事により行われる。
昭和17年、阿部山の開墾始まる。


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「矢掛町史」近代の矢掛
学校では阿部山・高妻山・弥高山など300m級の山の終日開墾が増加した。
中学以上では5年生・3年生は三菱水島、4年生は相生の造船所、1.2年生は開墾・田植・稲刈りなどで食糧増産に励んだ。


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「笠岡市史」第三巻・四巻 平成8年・15年
(記載なし)



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大島村の船舶

2018年12月29日 | 昭和11年~15年
「大島村略誌」黒住清著・昭和12年1月発行より転記

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本村の水産は近海漁業で兼業でするものが殆どである。
船舶は動力のあるもの77、動力設備のないもの54で、近時発動を用いる者が著しく増加した。

船舶
瀬溝海峡は笠岡、多度津間の定期航路に当り島嶼からの○○・・(解読不明)するものものも多い、
夏目はその乗船地で、又神島の天神への渡船場でもある。

笠岡・玉島間の航路は夏目、正頭、奥ノ浜等に寄港していたが近年〇航した。
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野生植物の回収

2018年12月29日 | 昭和16年~19年
「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。
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昭和19年から野生植物を繊維資源として採集した。
採集したのはクワやフジやアベマキの樹皮・野生チョマ(カラムシ)や竹の皮・ススキの穂・い草の屑などだが、翌20年春までには、クワやカラムシなどは目標以下しか集まっていない反面、フジの樹皮は120%、ススキの穂は6倍に達した。
ススキの穂は航空用胴衣に入れるため特に学童が採取に励んだという。

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戦前の遊女屋

2018年12月29日 | 昭和31年~35年

「グラフィックカラー昭和史・第10巻」研秀出版 1987発行より転記。

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昭和史対談「遊女屋通いの青春」

五味康祐 この遊女屋というのは、どんな階級の者でも一度はくぐらねばならない関門だったのです。五木寛之流にいうと青春の門とうわけです。
戦争というものが目の前に待っている。国民の男子としてなさねばならないことがある。そんなとき安逸な女性関係におぼれる罪の意識みたいなもは、当時の青春時代を迎えた人たちに共通にあったことだと思います。
一方、遊女屋の方には、貧しい農家に育った娘たちが親兄弟のために売られてきている。心ならずも身を苦界の底に沈めているわけです。
この両者が一夜を共にし、何か共通の心情的なものを温め合うというものがあったと思うのです。
僕らの頃は、21才になると入隊する。出征するとなると町中をあげての見送りになるわけですが、その前の入隊祝賀会の席で、その青年がまだ童貞であった場合には、おおむね女郎屋に引っ張っていかれるんですね。
戦前には庶民感情の中に相当深く浸透していたのではないでしょうか。

サトウサンペイ 一種の通過儀式のようなものですね。人間が成長してゆく過程での。
僕らの頃は、素人に手を出すのはいけないことだ、というようなモラルがありました。変なモラルでーー(笑)。
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割木

2018年12月20日 | 農業(農作物・家畜)
三原市史(民俗編)より転記
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松・杉・檜以外の山の木を、1尺2寸の長さに切って束ねる。

ガスのなかった時代には、割木は町屋の重要な燃料であった。
割木問屋に持っていくことが多いが、家にも回った。
かつて朸(おうご=天秤棒)一本あれば食えたという話をよく聞くが、これは主に割木稼ぎのことを指している。
「年間150日売りに行く人がよく行くほうで、30人も50人もつれだったたきぎをかついでゆく」。


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作州絣

2018年12月19日 | 暮らし
鏡野町史より転記
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作州絣の伝統継続者談

「江戸時代以前より津山では日常的に家庭で木綿を織っていました。
女子衆が織った木綿で家族みんなの着物をこしらえるのが、戦前まで当たり前の時代でした。
木綿は、まず着物で着て、次に野良着、その後赤ちゃんのおむつ、雑巾になって、最後は壁に塗り込んで終わり、と最後まで使い切る。
こうした日常のなかで文化が生まれ育ちます。この地では絣は横絣である倉吉絣の影響を受けながら、盛んに織られるようになりました」

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バケツリレーと竹槍訓練

2018年12月19日 | 昭和16年~19年

「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。


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昭和12年「防空法」が公布されたが、多くの市民が真剣に防空と取り組むようになったのは、戦況が悪化してからだった。

昭和18年春、県内7町では屋外点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどして光が外へ漏れないようにしなければなくなり、その灯火管制を少年団・警棒団・隣組などが監視した。

日本各地が空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された。

市民は白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくし、バケツリレーの訓練に度々参加させられた。
これは米軍のB29爆撃機による焼夷弾爆撃で起こる火災をバケツの水で消す訓練。
元気な男性は大半が戦場に駆り出され、残る女性や老人がその訓練の中心だった。

女子青年団員は空襲に備えて炊き出し訓練も行われた。

米軍が本土に近づいてくると、身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。その標的に藁人形を置き、ルーズベルトらの絵を貼って、敵愾心をあおられることもあった。
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「国家総動員法」

2018年12月18日 | 昭和16年~19年
「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。

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昭和13年5月、「国家総動員法」を施行した政府は、国民を戦争へ動員する”総動員体制”を整えていった。
中小商店を閉めて、浮いた労働力を軍需産業へ振り向ける政策を押し進めた。
中小企業者は転廃業を駆り立てられた。
企業整備を進める傍ら、昭和18年9月、14~40歳の男子が事務補助・車掌・販売店員・出改札係り・理美容師など17の職種で働くのを禁止する一方、
新規学卒の女子や未婚女性を対象にして、女子勤労動員促進要項を設けた。そのうえで翌年「女子挺身勤労令」を公布した。
若い女性は否応なく挺身隊員となって働かされることになったのである。


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