しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

醤油を作る

2022年02月28日 | 農業(農作物・家畜)

家の土間の隅に醤油を絞る木製の道具があった。
その木製の機械から、ぽったんぽったん醤油が落ちて(絞りだされて)いた。
その醤油で母は料理をしていたが、
お客がある時は、買った一升瓶の醤油を使っていたような気もする。
遠い昔の想い出になったが、醤油が落ちる音はよく覚えている。

・・・・・

ひしお 

(母の話)

何処の家にもおおきな瓶にいっぱいつくっとった。
昼からは
ひやのエンダにおきょうた。日に当たるとこ、日のあたるとこへおきょうた。

九月になれば麹ができょうた。
昔は自然の温度だけでしょうた。

談・2000・12.24


・・・・・

(母の話)

小麦を植え、大豆を植え
麹を作り。
彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
空臼で搗きょうた。

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。

どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。

醤油を搾る。
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。


(父の話)

麹は作る人によって上手なウチがあった。
一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。

2002年5月26日



・・・・・

・・・・・



「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。


・・・・・・

「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
 
小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。


・・・・・

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養蚕業その④笠岡の製糸業

2022年02月28日 | 農業(農作物・家畜)
養蚕も、そして製糸業も、昭和恐慌で大打撃を受けて後は
縮小をつづけ昭和30年ごろに消滅してしまった。

・・・・・

(笠岡市分庁舎 2022.2.25)

・・・・・


「笠岡市史・3巻」

笠岡の製糸

現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。
その製糸場は士族授産事業として作られたものである。

小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。
明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。
県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。
島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することになった。

翌明治7年4月、開業式を盛大に行い60名を収容し事業を開始した。
華々しく新築開業した笠岡製糸場の、その後の経営は不振であり、明治7年12月島田組倒産により事業は停止されてしまった。
明治9年9月、笠岡村や深津村の人ら11名が笠岡製糸場の土地、建物、器械を1500円で払い下げを受け蚕糸製造を再開した。
事業再開後は、繭が安く・輸出価格が高い年は利益が出た。
明治13年「山陽製糸社」を創設し、山陽地方の製糸業を連合して生糸を改良し、輸出することを図った。
これによって笠岡製糸場の名声が高まり、広島・愛媛ほかから製糸工女の伝習を受けるため、入社するものが数十名に及び、製糸業の改良に実績を上げている。

大正時代、
賃金は年9回払い、平均10円80銭で地方としては一流であった。
就業時間はだいたい12時間、朝6時半から夕方6時半。8時頃までの夜業は普通。
休業日は年間40日、祭り・盆・正月にまとめてとる。男子職員にはほとんど休みはなかった。
大正7年、工女による5日間のストライキあり。
大正9年、糸況が悪化。大正11年に井原の「中備製糸株式会社」と合併、その笠岡工場となった。

昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。

中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。
人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「井原市史Ⅱ」

製糸場

後月郡・小田郡の製糸場は、最初原料繭を遠くから調達する割合が高かったが、養蚕業が次第に発達すると、自郡および周辺地域からの原料繭調達になっていった。
そして昭和初期には、小田郡は養蚕産業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

昭和2年の岡山県内の春蚕繭取引方法としては、乾繭取引(9.8%)、正量取引(28%)、特約取引(35.5%)、市場取引(3.7%)があげられる。
小田郡は、時価取引が60%、正量取引30%とつづいた。
後月郡も、時価取引45%、正量取引20%他であった。
特約正量取引とは、郡是製糸がはじめた、蚕種を養蚕農家に配付し、繭を買い上げて支払う。


中備製糸

明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。
大正2年、創業20周年記念祝賀会が開催された。
女子従業員のための裁縫などの夜学校を開始した。
職工数は大正7年には237人まで増加した。
大正11年には350釜となった。

原料繭は県外から次第に県内、やがて井原の周辺地域中心になった。

損益状況は、かなりの変動がみられる。
繭の不出来、糸価の低落、経済一般。
第一次大戦で乱調子。
大正15年から生産調整。昭和4年以降は赤字続き。
昭和7年に解散した。
昭和初期、多くの製糸場が倒産し、郡是・片倉を頂点とする大手製糸会社への集中がすすんだ。

購繭時期には、井原の中備製糸の前には、繭を売りに来たり、運んできた農民たちで大変賑わった。
製糸女工たちは給料で井原の商店で買物をし、商店の経営を潤した。
昭和7年の解散時には、
「農村並びに商店街も不況にあえぐ折柄、いっそう不況が深刻化するであろう」と報じられた(山陽新報)。


・・・・・
製糸業
昭和初期には
小田郡は養蚕業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

「矢掛町史」


・・・・・
「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行
昭和9年 大暴落した繭価
レーヨンの進出と生産過剰に原因


養蚕は、すぐに換金できることから、農家の重要な副業だった。
しかし生産過剰とレーヨンの進出により、アメリカ生糸市場の不況が加わり、繭価は大暴落した。
養蚕農家の多くは借金を抱えることになった。
長く輸出品の第一位であった生糸は、9年に綿織物にとって替わられた。

・・・・・



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西条のコメ

2022年02月27日 | 食べもの

西条柿で有名な、広島県西条町(現・東広島市)出身のO君が同じ下宿にいた。




ある秋の日に、帰省した西条からお米を持って帰ってきた。
「焚いて食べよう」と言ったが3畳の部屋にあるのはニクロム線の電熱器だけだった。
彼は、たまにお湯を沸かしたり、即席ラーメンを作っていた。

下宿の同級生3人で食べることになったが、おかずもない。
それで、30円の漬物を一袋買った。
ご飯は、電熱器で炊くので時間がかかった。
やっとご飯は焚けた、電熱器で炊いたご飯は初めてだった。

茶碗についでご飯を食べた。
それは、かつて経験したことのない、おいしいおコメだった。
おかずは漬物だけだったが、それで十分で、
いいおかずがあると、おコメのおいしさが隠れると思った。
とにかく、おいしいおコメだった。





あまりの美味さに感激したわれわれに、彼は気をよくしたのか、翌週にまた西条の実家に行って、帰ってきた。
こんどは、マツタケを籠いっぱいに持って帰った。
当時でさえ、カンナで削ったような薄いマツタケしか食べることはなかったが、
こういう豪快な量といい、大きさといい、形といい、匂い・香り、すべが揃った、
イヤ、揃い過ぎたマツタケは驚きしかなかった。

そのマツタケも同じ下宿の3人で焼いて、ふーふー、いいながら何日間か食べた。
一切れの大きさは、言うまでもなかった。

西条のおコメがおいしことを、食べて、とことん知った私は、
以後、晩酌のお酒は「西条の酒」と決めた
それから数十年間、日本酒はずっと「広島の酒」を飲んでいる。




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酒を飲む

2022年02月27日 | 食べもの

父の世代(大正)は酒と言えば、日本酒。
祖父の世代(明治)は酒と言えば、日本酒と焼酎。

祖父は無類の酒好きだったが、100年の生涯は焼酎いっぽん。毎晩晩酌をしていたので、(安酒の)焼酎以外ムリ。
ついでながら祖父はタバコも大好きだった、93才まで刻みタバコの”ききょう”を吸っていた。老齢で家族から無理やり禁煙となった。

・・・・

母は”女の一生”の時代背景があり、酒を飲むことはなかった。
しかし私が帰省した時は、まっさきに熱燗をして迎えてくれた。
その時、母は熱さ加減を確認するかのように一口お酒を口に入れた。
それを横目で見ながら、母は本当はお酒が好きに違いないと思っていた。

・・・・





(父の話)



ビールは飲みょうらんかった。

”酒”と言えば焼酎と酒じゃ。
青年団がビールを飲み始めた。
若い人が飲みょうただけで、年よりは酒じゃ。

談・2000・12.24



昭和37年実家で、新築祝いを一晩つづけた際も、ビールを見た記憶は無い。

・・・・・

初めて「酒」を飲んだ記憶というのは何時頃だったか?

兵隊へ行く前じゃったのう。

検査が済んで当選して、その時(祝いの)酒をぼっこうのんだ。
それから飲むようになった。それまでは(あまり)飲むようなことはなかった。

談・2002年9月15日


・・・

(戦後は酒が無いので)
配給じゃあ、足らなんだ。
それじゃけいのう、弟方へ行ってアルコールをもらようた。
ウチにゃぁ、薬局があったけいのう。(福山の実弟が薬局)

死んだおじいさんは好きじゃったけいのう。
それじゃけい、アルコールをもろおて、それを薄めて飲みょうた。

(終戦後ものが無い時は)メチールゆんは飲みょうたけど、工業用のエチールゆんがあったんじゃ。
そりょお飲んで死んだもんもおる。


(海軍飛行場跡地=現・JFE西日本福山製鉄所 2019.5.12)

ココは野々浜の飛行場があるところに、朝鮮人がおって、せいらが焼酎をつくりょうた。そりょを買いに行ったことがある。
朝鮮焼酎ようた。
ちょっと臭ぃけど。

好きなものはそいつを買おてもどりょうた。臭え。
芋焼酎ようた。

談・2000・10・8

・・・

酒を飲む

酒を飲むのは。
田植えの済んだ後とか。
収穫の秋とか。

春と、秋と・・・年3ぺんくらいかのぅ。

金を出して飲むんじゃけいのう。(お金をだすほど余裕はないという意味か?)

談・2002・9・23
・・・

焼酎は一斗樽で

為乗からウチの爺ちゃん(作者の祖父・酒が好きだった)は一斗樽でもってきょうた。
一斗じゃ多いかろう。それじゃけい、
夜燈の亀さん、定一っつぁん方、・・三人で、三つに分きょうた。
入れ物を持って来て、それでウチのお爺さんがキレイに分きょうた。

談・2001年7月23日


・・・・・

清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


・・・・・


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ハミ(まむし)を食う

2022年02月26日 | 食べもの

昭和30年代、茂平の実家には庭先に畑で獲ったハミを竹の串にさし日干ししていた。
「焼いて食べりゃぁ精が出る」ゆうて。
殺すか、生でとるか。

堂面とうつろに多かった。

・・・・・・・・・

父もだが、祖父は特に好物だった。
が、当時の生活では、捕ったものを食べるより、売ってお金にした方がいいと、
一升瓶に入れてハミがたまったら売りに出すようになった。


・・・・・・・・・



(母の話)

二人おりゃあえんじゃ。
一升瓶を畑に用意しとく。今でも堂面にゃもっとる。ほれで頭の先からビンにいれるんじゃ。
そうすりゃぁ生で獲れる。


誰か人間が見ょうたら逃げん。ジーとしとる。
見なんだら、その隙にすぐ逃げる。

あんげいとっさじゃったら、棒きれで殺すしかねぇ。逃がしたらきょうてぃ。
堂面は何回獲ったかもしれん。

(ハウス)いちごを作りょうた時にゃぁ、鼠が多いんでネズミ捕りを置いとった。鼠は隅、隅を歩くんでそこへ置いとったら、今日は重てぃのう思うたらハミが入っとった。
堂面は畑にもゲシにもおる。うっかりゲシも刈られん。

うつろにゃ石垣を整地したとき、そんなかに5匹も6匹もおった。冬眠しょうた。

稲の中にもおる。稲の中におったらわからん。

麦を刈りょうたら、その中にもおった。まんまるうなっとった。あの時lは殺したかのう。

昔、賀山のおしいさんは稲のごんどうばぁじゃいけんけい株取りゆうてそりょぉしょうた時かまれた。すぐ病院に行った。まんが悪けりゃ死なにゃあいけん。
今でこそ軍手をはめとるが、昔ぁみな素手じゃったろう。油断なりゃあへん。

吉本の下の道も舗装しとるが、その前は「真ん中を歩けい」ようた。長靴をはいて歩けいゆたようたろう。夜道の真ん中でも噛まれることがある。道の真ん中へ水を飲みに出る。うん。

ハミはおそろしい。荒れたところへおる。そわぁなんで。

談・2001年10月7日

・・・・・


祖父ははみを生食いしていた。私自身は現場の記憶は無いが。
近所では、何人か見ていてちょっとだけ知られていたようだ。


はみの生食い (母の話)


祖父のこと。

(頭を叩いて殺したばかりの)ハミの頭を押えてから皮をむいで、腹を(畑にある、鎌などで)真ん中から切ってドフを飲み込みょうた。
そりゃぁ精になろう。まだ生きとったばぁじゃけい。そりょぉ呑みょうたんじゃけぃ。

堂面の畑で2001年12月1日 母の話。


そしてそのハミは家に持ち帰られ串刺しして天日で干していた。その光景は僕が子供の頃からずっと見ていた。
そういう行為を、畑の真ん中で祖父は何度もしていたようだ。そのおかげか100才まで生きた。


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タバコを吸う

2022年02月26日 | 食べもの

ユーチューブで昔の映画スターを見ると、
裕ちゃんやトニー(赤木圭一郎)はスタジオでタバコを吸いながら歌っている。
ああいう時代があったなあ。

日本人は30年くらい前からタバコを吸わないようになった。
アメリカが早く禁煙国家になり、日本も真似してそうなった。

これは、戦後まもない時の田舎のタバコを吸う苦労話。
当時、町では「モク拾い」を糧にする人がいた。


・・・・・

たばこを吸う

(父の話)

たばこ
昔はみんなキセルじゃ。
手でもんでのう。

上品なもんがマキを吸ようた。
ほとんどがキセルじゃ。
としよりは全部キセルじゃ。

談・2000・12.24

戦後すぐの頃は

(兵隊の時は「あった。」、けど戦後すぐは)
ありゃあせん。
(たばこ農家から)金をだして、苗をうえておおきゅうなったら葉っぱをちぎり、陰に干して、せいで、もんで吸ようた。
くせえだけじゃ。くすぼるだけじゃ。

せぃとぽんぽんの葉を、あの葉をとって陰干しにして吸ようた。あの葉は身体に悪ぅねぃけぃのう。畑のほとりにはえとる。・・・ホントどぅ。
せいでもちぃと喉をとおれば、タバコを吸うたようにあった。

談・2000・10・8


・・・・・

昭和30年代、40年代、
祖父はずっときざみタバコを吸っていた。
祖父は畑に行く時は、腰にタバコ入れをぶら下げていた。

父は両切りの「しんせい」を吸っていた。

・・・・・

お祖父さんはキセルをポンポン




(姉の話)

詰めるのが楽しみじゃったんじゃろうね。(きざみを手にとる。適量。おもむろにキセルに詰める。火をつける。・・・、そういう間合い。)
そう思っておじいちゃんを見ょうた。

煙管の先が詰まった時は、ほじくる物をだして。そして(嬉しそうなそぶりで)詰まったもの(タバコのヤニ)を出していた。
キレイにしたら、それからまた。タバコを詰めていた。火をつけて「は~~~」っと、満足そうに。

それで二三べん吸ったら、ポンポンと叩いていた。

おじいさんの吸うタバコは(今のマイルドセブン等の匂いと違い)いい匂いがして、きらいじゃなかった。

最後のへん(亡くなる前の頃)は危ないから止めた。


談・2002年1月25日


・・・・・


羅宇屋(らうや)
煙管(きせる)は、「火皿」「羅宇」「吸い口」という部品でできています。
羅宇は使っているうちに、ヤニがつまったり折れたりするので、羅宇を修理したり、新品と取り換えたりします。
羅宇屋は熱い水蒸気でつまりを取り除いたほか、新品の煙管も売っていました。
「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行


・・・・・・


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天長節

2022年02月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
明治維新後5人の天皇がいる。
明治天皇、
大正天皇、
昭和天皇、
平成天皇、
令和天皇。
5人の天皇誕生日のうち、
明治天皇と昭和天皇は、日本の四季のなかで、いちばんいい季節に生まれたから、
今も祝日として残っている。←これは個人見解。

特に平成天皇の祝日には少し困った。
12月23日はXマス、月末、年末、年度末で忙しかった。はっきり言って業務に支障・負担があった。
大正天皇のように、祝日を移動してほしい気持ちがあった。

なお、次期の天皇誕生日は5月1日、
その次の天皇誕生日は9月6日。
そのまた次の天皇誕生日は現時点では空白。(男性や、男系とか言っていると)永遠に埋まらないかもしれない。



(アラカン)

・・・・・



「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。


天長節

小学校に入学して初めての式は、4月29日の天長節であった。
この日、校門には、大きな日の丸国旗が交叉して立てられた。
その下をくぐる時、幼い私はいつもと違って晴れがましい気分になった。
友達の顔も、いつもと違って見えた。


「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり



式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。
その周囲は柵で囲み、玉砂利を敷き詰め、神聖な区域とされていた。
私が通学していた小学校の場合、奉安殿の位置が校門からかなり離れたところにあったので、登校下校時に最敬礼をするには無理があって、
普通は省略されていた。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。

やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


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もしかしたらロシア領土になっていたかも? 北関東・東北・北海道

2022年02月25日 | 令和元年~
ロシアがウクライナに侵攻した(2022.2.24)ニュースを見ていると、
もしかしたら日本でも、東日本まで、ほんとうにその可能性があったように思えてくる。



(読売新聞WEB)




昭和20年8月のスターリンの北海道分割案は、トルーマンに即決の拒否されたが、
本心は北海道は当然として、なるべく本土の奥深く、帝都東京付近まで侵攻したかったはずだ。

日本の指導者にとっては「天皇」を守ること以外眼中になかった。
国民は衣食住に事欠き、厭戦気分が充満していた。
”ご聖断”がなかったら、
いったい日本は、民も領土もどうなっていたのだろう?
(まさか、無理やりの一億総特攻・総玉砕して人口ゼロ?)


・・・・

本土決戦・生活の崩壊と戦意の低下

一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、
支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。
本土の軍隊と工場要員の需要増は、食糧事情を窮迫させた。

支配者が憂慮したのは、飢餓状態が現出し、治安上楽観を許さない事態が生まれることであった。
士気の低下、戦意の喪失は一般国民の間の現象だけではなかった。
兵器も行きわたらなく、毎日が陣地構築のための壕堀りか、食糧あさりに明け暮れて、教育訓練の余裕もなかった。

「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行



・・・・

保阪正康は「本土決戦幻想--オリンピック作戦」で、
8月15日に降伏しなかったら、
ソ連軍は北海道と東北に侵入する。

火炎瓶、手投爆雷による特攻作戦をおこなふ。
このあとが民間人による戦闘で、
刀、槍、竹槍、鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口を用ゐて腹部を突き刺せと教える。

「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行

・・・


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エビフライの上にかけてある、白くてどろどろしたものは何ですか?

2022年02月25日 | 食べもの

昭和48、49年頃のこと、
今は「オランダ通り」と呼ばれている、岡山の表町商店街の裏通りに、
エビフライ定食の美味しい店があった。

その当時、玉野市に住んでいて、日曜日にはバスに乗って岡山に遊びに出ることがよくあった。
昼食は、決まったようにその店に入り「エビフライ定食」を食べた。
それが岡山に出る楽しみの一つにもなっていた。

エビフライが、3本ほどついていた。
そのエビフライの上には、白くてどろどろしたものがかけてあった。
醤油でもないし、
ソースでもない、
マヨネーズに少し似ているような、
いったいなんだろう?あれは。





実家で兄嫁に聞いてみた。
「あれは、なんですか?」
兄嫁は、
「それはドレッシングでしょう」と。

それで覚えたドレッシングだったが、スーパーに行くと確かにドレッシングと呼ばれる商品が2~3種類ビンで置いてあった。

それから数年後、ドレッシングはビンの他にプラスチック容器に入りだした。
それからまた数年後、ドレッシングは個体・液体・その中間。
色も、透明から白、赤、ピンク、その他。
用途は、野菜用、魚用、韓国料理用、中華、ごまだれ、もうなにがなんだかわからないまでに増えた。

醤油とソースの2種類で育った世代には、
学校給食でケチャップを知り、
姉が嫁入り準備でマヨネーズを作るのを見て、それを知り、
最後に知ったドレッシングが、こんなに普及するとは知らなかった。


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赤線の火消ゆ  昭和33年3月15日

2022年02月24日 | 昭和31年~35年

笠岡市笠岡


笠岡の同級生の思い出話・「赤い着物の洗濯物があり、前を早足で通り過ぎていた」
忠海の同級生の思い出話・「最後の日、赤い着物を海に流して(女は町から)去った」
義兄の思い出話(当時大阪の大学生)・「その日は寮生全員で飛田(とびた)に繰り出して、寮はからっぽになった」
おじの想い出話(小学校の同級生の出世頭、六月さんのこと)・「独身の時、小学校の同窓会か笠岡であった。その時、いっしょに伏越の遊郭へ行った」

・・・・・

赤線の火消ゆ  昭和33年3月15日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


”赤線”の日は、きょう十五日で全国的に消える。
売春防止法の完全実施は四月一日からだが、実質的には今日が日本の社会風俗史の上で画期的な日になる。
業者も転廃業には生活上いろいろな苦心もあったろうが、その反面、
恥ずかしい商売をサラリとやめて子供たちの顔をまともに見られ、気持ちもせいせいすることだろう。

ところがグレン隊などの暴力団が、赤線で足を洗った女たちをかき集めて、秘密組織のもぐりの売春をやらせる傾向も目立っているという。
そんなことになっては”抱え主”が業者から暴力団にとって代わっただけということになりかねない。
女たちも”解放”とは名のみで、かえって不幸なことになる。

赤線地帯が消滅すると、性病の検診も人権上できないわけだが、これが野放しになって社会にまんえんしたら大変なことになる。
この予防対策に万全の措置を講じなければ、売春防止法もかえって”悪法”のそしりを免れない。

とにかく赤線は掃除されたが、待合や芸者置屋はどうなのかとの声も出てきている。
安直なのだけがいけなくて、高い金のかかる方は”自由恋愛の宿”でよいのかと、
そちらに風向きが変わってくるかもしれない。

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売春汚職  昭和32年10月18日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


耳を洗いたくなるような汚い話だが、
売春汚職というのが登場してきた。
売春婦が体を売った金、それをピンハネした売春業者の金までもらうとは、
国会議員の操も落ちぶれたものである。

”全国性病予防自治会”というと聞こえはよいが、赤線業者の組合である。
全国一万数千軒の業者から”非常対策費”として集められた金が数千万円といわれる。
それが自民党の真鍋代議士はじめ多数の国会議員に贈賄されたとの疑いである。
かなり露骨な議員抱き込み工作が行われたことが察せられる。

売春防止法の成立後は、
実施の延期や転廃業の国家補償、転業資金の特別融資などの運動に金がばらまかれたものらしい。
この期に及んでも赤線業界がジタバタ狂奔するのは、政府与党にも罪がある。
来春の完全実施を遅らすような思わせぶりをする政治家がいるからだ。
売春の金で政治の操を売るような面汚しの議員を出した政党は除名処分にでもせずばなるまい。


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”売春する権利”  昭和31年1月14日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


生きるために、”売春する権利”という旗じるしをたてて、
東京の赤線地域の従業婦組合が結成されたそうだ。
売春防止法が成立したら、「わたしたちはどうして生きていけるのですか」とのさけびをあげたというのだ。

この組合結成大会では、「売春は職業である」と強調されたそうだ。
今までは事実そうだった。
これからは国家の名において、公序良俗のために、
売春を職業でなくしようというのである。
赤線の女性たちよ。
”売春する権利”などと、お芝居の台詞なら面白いが、
おだてにのって、
人間としての大切なものを見失わないよう、気をつけなさい。

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売春史の革命  昭和30年10月9日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


「人身売買にからむ前借金は無効」という新判例が最高裁によって下された。
近来の名判決である。
売春奴隷売買の汚れた身代金よりも、人間の方が尊貴であることが、やっと認められた。

今までは前借の手かせ足かせで泥沼を抜け出ることはできなかった。
置屋の借金をふみ倒して逃げた芸者酌婦は詐欺で訴えられて、警察に捕まるのがオチだった。
公序良俗に反する人身売買の前借金は無効帳消しと認められた。
女性解放の鎖が一つ断ち切られた。

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否決された売春防止法案  昭和30年7月21日  ~天声人語~ 荒垣秀雄


またも売春業者に凱歌をあげさせることになった。
売春等処罰法案が衆院法務員会で否決となったからだ。
これからも、全国の赤線、青線区域は繁盛することだろう。

これで五度目の敗退である。
いかし今までと違うことが一つある。
過去四回は審議未了などでいつもうやむやのうちに葬られた。
採決にまでもっていったのはこんどが初めてだ。
世論がやかましかっただけに、引き延ばしや握りつぶしでは、すまされなくなったのである。



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