しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州建国の頃(小説より)①

2017年12月31日 | 昭和11年~15年
城山三郎「落日燃ゆ」新潮社より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という独立説までささやかれた。
関東軍司令官本庄中将は、事変勃発以来、参謀たちの手で軟禁同然の目にあい、信仰三昧の生活を送らされていた。
暴走したのは関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、天皇の御裁可も届かぬ先に、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州に送った。

軍は参謀総長が外務大臣あたりに文句を言われてはおもしろくないので、閑院宮載仁親王を担ぎ出した。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。

関東軍は独走し続け、三月には満州国建国宣言が行われた。
五月、犬養首相は海軍の一団に襲われ斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爆弾三勇士

2017年12月27日 | 昭和元年~10年
小学生頃、
運動会の時期に、母は決まったように「爆弾三勇士」競技の話をしていた。
母にとって運動会を代表する、思い出か競技だった。

日本軍、特に陸軍は明治より「一太郎」「木口小平」等、作り話が好きだったようだ。

ところで「東山神宮」とは何処のことだろう?玉井宮東照宮かな?
「表忠塔」とは?・・・辞書からも消えている!


岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 岡山女性史研究会編・発行山陽新聞より転記する。
xxxxxxxxxxxxxxx

つくられた軍神「肉弾三勇士」

昭和7年2月、上海事変勃発二ヶ月後
鉄条網爆破のため三人の兵士が、点火した破壊筒を抱えて突撃し爆死した。
全員22歳の若者であった。
陸軍は「覚悟の自爆」と発表し、早速「軍神」として顕彰する意向をしめした。
しかし三人の死は、爆死発表直後から技術ミス、事故死説があった。

前年から「三勇士」映画会などを行ってきた岡山市では、市内小学生17.000人の献金活動により、東山神宮奉斎殿前に「爆弾三勇士表忠塔」が建てられ、除幕式が実施された。
翌年の東京芝青松寺の三勇士像にさきがけるもので、荒木陸相の筆であった。
小学生代表300人が参加し「爆弾三勇士の歌」が合唱された。
1周年記念日には、全市内児童は三勇士が一斉突撃した午前5時に徒歩行進して表忠塔に参拝した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山の婦人参政権獲得運動

2017年12月27日 | 大正
婦人参政権運動は世の嘲笑の中で始まった。

衆院岡山二区で17連続当選し、秘書だった六月さんに後継して引退した元衆院議長・星島二郎氏は、戦前・戦中・戦後とおしてリベラルな活動を行ってきた。もっと業績を語り継ぐ必要がある人と思う。


岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 岡山女性史研究会編・発行山陽新聞より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxx

岡山の婦人参政権獲得運動

大正15年(1926)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相夫人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来月二回の婦人問題研究会やお茶会を開き、パンフレット・ビラをつくって宣伝につとめ、各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解ある候補者の応援演説に駈け付け、議会に対して本部と共に請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。
1929年支部会員数60余名。

1929年には岡山県会に公娼廃止案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
婦人公民権案は衆議院で可決されたが、貴族院で審議未了で実現しなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満映・・・満州のルネッサンス化②

2017年12月26日 | 昭和16年~19年
「満州帝国史」太田尚樹著・新人物往来社2011年発行より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

映画評論家の佐藤忠男は『キネマと砲声」で、次のように書いている。

「長谷川一夫の役は日本を代表し、李香蘭が中国を代表する。中国がこんな風に日本を信頼すれば、日本は必ずや中国を愛するであろうというメッセージだったのである。
一方的に中国に押し付ける屈辱的な思考以外何ものでもないが、中国侵略を知らずにいる日本人にとっては、甘い自惚れを満足させる幻想であった。」
当時の日本は国防色一色で、息が詰まりそうだったから、映画のスクリーンでチャイナドレスに身を包んだ妖艶な李香蘭に幻惑されたのも無理ない。
しかも純朴無垢な支邦娘が日本人を慕うというストーリーは、日本の優位性が根底にあるので、自己満足に過ぎなかったが観客は読み取れなかった。

甘粕は極力、国策の匂いを消したかった。
満映の関連事業は飛躍的に拡大され、収益を上げていった。
日本から歌舞伎一座や劇団を招き、満州各地を興業させた。
昭和17年満州建国10周年には山田耕作や斉藤秀雄、宝塚少女歌劇団を招いた。
日本から優秀なシナリオライターや内田吐夢のような大物監督を招く一方で、満州人や中国人の若手監督や俳優を育てることに腐心した。

満映は指折り優良会社に成長した。
満州には過去のしがらみも伝統もなく、施設も無かった。
産業だけでなく、知も芸術も受け入れる、自由という得がたい資源と心的領域があった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満映・・・満州のルネッサンス化①

2017年12月25日 | 昭和16年~19年
「満州帝国史」太田尚樹著・新人物往来社2011年発行より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

「日満親善」「五族協和」「王道楽土」のキャッチフレーズに叶い、黒いイメージや胡散臭さを払拭するため映画産業を興した。

1939年満映トップに甘粕正彦がなった。
新理事長は満州人俳優の給与を上げ、機材・施設にも金を惜しまなかった。
甘粕の掛声は「東洋のハリウッドに」であった。
日満要人の集まりに、満映の女優たちがお酌をさせられているのを見て憤慨し「女優は芸者ではない、芸術家です」と禁止させ彼女たちを「満映の誇る女優たちです」と紹介したエピソードは、今も語り継がれている。

甘粕が就任した頃、東宝が製作した長谷川一夫と満映の看板スター李香蘭コンビの「白蘭の歌」が封切られ、大ヒットした。
その後、たてつづけに「支邦の夜」「熱砂の誓い」が大陸三部作と言われた。
大陸政策のプロパガンダだが「建設の息吹に燃え立つ大陸の広野」「楊柳の緑清らかな楽土うららか」「日満両国を結ぶ恋の花」というキャッチフレーズが追い打ちをかける。

大衆の心理を動かし、大陸への憧れがフィーバーとなって「満蒙開拓団」「大陸の花嫁」を後押しすることになる。
この三部作はいずれも日本人男性を長谷川一夫、彼を慕う可憐な中国娘の役を李香蘭という設定であった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時の果物

2017年12月24日 | 昭和16年~19年
しろみ地区茂平の農家は、米と果物で成り立っていたが
史書にあるような、戦時中の果物の作付け制限は両親から聞いたことは無い。
桃や梨や枇杷や葡萄,樹木は対象外だったようだ。

「岡山百年史・戦時体制下の農漁村」より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

昭和12年7月の日中戦争発生に伴い、一般農作物の他に軍需農産物の増産がはかられた。当時、軍需農産物といわれたものは、
大麦・乾燥稲わら・梅干・ウサギ毛皮・ウサギ肉・牛馬・むしろ類・真綿類・綿花・サツマ芋などであった。

昭和16年10月には、農業生産統制令が公布され、これにより
スイカ・メロン・花卉・イチゴの作付けを禁止され、藺・白ウリ・レンコン・除虫菊などは大幅に制限されることとなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州族のいない満州国

2017年12月22日 | 昭和16年~19年
満州国は「五族協和」「王道楽土」がスローガンであったが、
それは勝手に日本が掲げた旗印であり、”和族楽土”で移民を奨励したことでも証明される。

中公新書「日中十五年戦争史」大杉一雄薯、より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

日本が「満州国」という国家を独立せしめ、つづいて清朝最後の皇帝を擁立したので満州族(漢民族でなくツングース族)が大多数を占める民族国家と理解されがちであるが、まったくの誤りである。
当時満州の人口は約三千万人といわれたが、その九割、二千七百万弱は漢民族であり、満州族は二百万たらず、その他朝鮮民族百万、日本人二十万、ロシア系十万で、満州族は一割にも満たなかった。

満州族は中国本土で清朝を開きてから、民族移動を行い漢民族と同化し、彼ら固有の言語、文字は忘れ去られた。
満州の奥地で、小さな集団をつくって狩猟をしていただけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦禍に耐えて「学童の生活」

2017年12月22日 | 昭和16年~19年
「美星町史・昭和51年発行」より転記。

xxxxxxxxxxxxxxxx

小学校では、敵国首相の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスターを教室や廊下に貼付け、校門の入り口に藁人形をしつらへて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養った。

朝礼時、「海ゆかば 水づくかばね・・・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。
今思い起こしてみると、事の良否も、教育効果も論ずる余地のない戦争一色の毎日であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひさし髪

2017年12月22日 | 大正
明治の鹿鳴館時代から大正時代末まで”ひさし髪”が流行した。
写真は祖母と父、大正8年頃の写真。



この写真の2~3年後と思える家族写真も、やはり祖母は同じ髪形である。
母に確認すると、束髪の記憶(した、見た)は無かった。


「ふるさとの写真集・井原後月」より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

大正初期の風俗

若い女性に流行したひさし髪は今日からみると実に珍しい。
タボという毛束を入れて大きくふくらませた当時の最先端のモダンスタイル。
それまでは島田髷・銀杏返し・桃割れなどの髪か、後でくくる総髪型作業髪であった。
日露戦争後に流行った二〇三高地髷もみえる。
この写真は当時繁栄した生糸産業の製糸会社の女子従業員(女工)たち。
芳井村の中心産業であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦前の小学校の行事例・神内小

2017年12月16日 | 昭和11年~15年
戦前の小学校の行事例・神内小
どこの小学校も似たように思う。
昭和12年の行事は日本で忘れ去られ、中国では毎年国家元首が赴く式典として開催されている。

神島史誌より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

昭和6年8月22日・元寇650年記念式挙行
昭和7年5月8日・海軍記念日で鳥越勇一海軍中尉の講話
昭和9年6月5日・東郷元帥国葬日により挙式
   7月・国旗掲揚台建立(神島青年有志)
昭和12年12月14日・南京陥落で旗行列
昭和13年10月28日・武漢陥落で旗行列
    11月21日・一太郎の話を聞く(尋三以上)
昭和14年1月10日・二宮尊徳の銅像を建つ
昭和15年10月13日・大政翼賛・三国同盟で旗行列

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする