しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

蛇捕り師・蛙捕り師・その他

2023年10月31日 | 失われた仕事

祖父は近所ではちょっと知られた、ハミの生の血を吸い込む名人だった。
畑でハミ(まむし)を見つけると、殺して皮をむいて、血を吸っていたそうだ。
その事を、母はよく話していたが、自分の同級生にも現場を見た人がいて話のタネになっていたみたいだ。
祖父が血を吸った後は、家に持って帰り、
父が串刺しにして干して、骨を粉にして飲んでいた。

貴重な栄養源か健康源ではあったが、
よその村からハミを捕りにきていた人はいなかった。(と思う)

 

・・
「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行
蛇捕り師
昭和初期、まだ結核が不治の病であった時は、
蛇の生薬は貴重な薬剤で、薬屋に行けば、
漢方薬としてマムシの干したものをガラス箱に入れて売っていた。
マムシは焼酎につけて、鱗、皮を剥いで、天日に干して乾かす。
それを粉砕して薬にする。
強壮剤以外にも、
肋膜炎や傷の治療薬としても効力を発揮した。

やがて結核も治るようになると、現在では強壮剤として売られている。

・・・

蛙捕り師

これは来ていた
茂平のため池で釣っていた。
我われ子どものライバルだった。
我われは大人に負けないように必死で釣っていた。
なかなか釣れないが、
食用蛙を釣る遊びはおもしろかった。

・・・

鰻(うなぎ)捕り師
来ていない。
来るほど、鰻はいなかったというより
梅雨の一時期や、大雨の後しか鰻は釣れなかった。

・・・

鉄砲打ち
冬になると学校に行っていると、用之江側から、犬を連れて鉄砲打ちが来ていた。
キジや野兎を撃っていた。
獲物はお金にはならないので、趣味の鉄砲打ちだったのだろうか?
それとも売れていたのだろうか?

・・・

 

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Fly Over KASAOKA 2023「空のガーデン」を見に行く 2023.10.29

2023年10月30日 | 令和元年~

場所・岡山県笠岡市カブト南町「笠岡ふれあい空港」

 

 

今年も世界トップクラスのエアロバティックスパイロット室屋義秀選手が笠岡に来てくださった。

 

 

室屋選手は天気快晴の、笠岡ふれあい空港の上空を何度も曲芸飛行をして、見せてくださった。


ありがとう室屋義秀選手。

 

 

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「セルフレジ記念日」

2023年10月29日 | 令和元年~

初めてのセルフレジ

 

ペンと封筒を買いに100円ショップに行った。
ついでにメモ用紙も買物篭に入れて清算口に行くと、
そこにレジ嬢はいなかった。

 

 

よく見ると、どの客もバーコードを読み取っていた。
それで自分もバーコード処理をゆっくりとした。
もっとも買物は100円*3点なので、すぐに終わった。
330円支払って店を出た。
無事に初めてのセルフレジは終わった。

2023年10月28日は、
俵万智さん風に言えば「セルフレジ記念日」となった。

 

(ダイソー笠岡店)

 

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オール白石島ロケ映画『リゾートバイト』を見に行く

2023年10月28日 | 令和元年~

重松清原作の 『とんび』という映画は、岡山県内でのロケが多く
テレビや新聞でロケ風景が紹介された。
映画ロケの状況やロケ地が、映画の撮影中や、映画公開前、公開後も報道された。
それは1年前のこと。

ところが今年の『リゾートバイト』という映画は、オール岡山県内ロケだったが、
いっさい報道されることはなかった。
映画公開間近になって、はじめて笠岡市でロケしたことを知った。
しかもオール笠岡市で、それもオール白石島。

テレビの夕方の地方ニュースや、山陽新聞、中国新聞でも報道がなかった。
では、いっさい岡山県や笠岡市の行政がかかわっていないのか・・・
と言うと、そうではない。
映画の冒頭シーンで、しっかりというか、抜け目なくというか、
ちゃんと伊原木隆太岡山県知事が、白石島の信心深い農夫に扮して出演している。
どうせなら、出演依頼は知事でなく笠岡市長にしてほしかった気がした。

・・・

 

映画を観た日・2023.10.25
映画を観た場所・福山市神辺町・フジグラン「エーガル8シネマズ」

 

 

・・・

 

映画は東京の大学生3人が、三洋汽船のフェリーに乗って白石島に着くところから始まる。

 

 

 

大学生3人(男子1・女子2)は、島のホテルでアルバイト目的でやってきた。

港から番頭さんの引率でホテルに向かう。

 

 

 

ここが主人公3人がアルバイトをする”リゾート”ホテル。

 

 

三人は白石島の

海や、山や、石切りや、海水浴場や、港や、古刹を紹介するように動き回る。

 

弁天島。

 

岡山県三大海水浴場「白石島」。

 

開隆寺。

 

 

白石島ハイキングコース。

 

・・・

 

とまあ、
白石島をご紹介していただいてる。

・・・

しかし、なんか、意味はよくわからん映画だった。
怖い映画らしいが、スクリーンよりも、効果音の方が突然の大音で怖かった。

・・・

白石島に縁やゆかりの人は是非観ていただきたいと思うが、
笠岡市の人は閑なら(無理に観なくても)。
岡山県内の人や、全国の人にとっては、原作や出演者のファンの方々の専用映画だろうな、きっと。

・・・

結論・作品の内容はイマイチ。白石島の島や観光の紹介は良かった。

 

白石島撮影日・2023年7月2日

 

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正寿場町の商家

2023年10月28日 | 令和元年~

岡山県笠岡市笠岡・正寿場町

撮影日・2023年10月26日

 

正寿場町は古い家並みが残り、町歩きが味わい深い。

 

 

お堂や祠が路地の傍に建っている。↑↓

 

 

 

 

その正寿場の、県道沿いに残る古い商家が解体される。

 

正面は健在だが、↑裏にまわると半分解体済↓。

 

笠岡の古い建物がまたひとつ消えていく。

 

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古城昌治先生像

2023年10月28日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市井原町向町

 

(母方の)祖父は農作業中にハミ(まむし)に噛まれ、
「すぐに中央病院に行ったので助かった」
と母がよく話していた。
母にとって実父の命の恩人であり、
管理人にとっても祖父の命の恩人でもある。
それが井原の井原中央病院。
2014年に井原中央病院は廃業になった。

 

・・・

 

 

・・・

Web「井原歴史館」


こじょうしょうじ
古城昌治


 年代     1884 - 1943 ( 近代 ) 
 活躍分野   医師 

 古城昌治は、小田郡小林村(現在の小田郡矢掛町小林)で生まれた。
医師を志し東京に行き、日本医学(現在の日本医科大学)で開業医の資格を得て帰郷し井原で開業した。
また、医師をしながら郡会議員、井原町長を務め、
井原高等女学校(現在の井原高校)の運営や井原実業学校(現在の精研高校)の設立に尽力した。

・・・

 

撮影日・2015.9.2

 

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鍛冶屋

2023年10月27日 | 失われた仕事

学校の音楽時間に習う『村の鍛冶屋』



暫時(しばし)も休まず 槌打つ響
飛び散る火花よ はしる湯玉
ふゐごの風さへ 息をもつがず
仕事に精出す 村のかじ屋

 

城見では大冝に「村の鍛冶屋」があった。
同級生のTくんのお父さんが鍛冶屋をしていた。
だからTくんのことを「鍛冶屋のTくん」と呼んでいた。
自宅の作業場は小道からも丸見えで、
Tくんのお父さんは「飛び散る火花」で「湯玉」の顔、
歌とまったく同じ、いつも「仕事に精出す村のかじ屋」だった。

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

鍛冶屋
昭和20年までは、どの村でも鍛冶屋が見られた。
野鍛冶の場合、
農業で使う馬の足にはめる蹄鉄を作ったり、農具の修理もした。
刃先が欠けると、鍛冶屋はふいごの火で真っ赤に焼いて小槌で打ってもとに戻した。
農業の衰退とともに野鍛冶の仕事は減り、鍛冶屋は少なくなった。

・・・

 

「金光町 民俗編」 金光町  平成10年発行

 

 

鍛冶屋

鍛冶屋の仕事場は、広さ四、五坪ほどの土間である。
壁寄りには、ふいごが置かれ、
手前には仕事場・横座が掘られている。
誇座のまわりには、ふいごの火口や伸鋼させる鉄床、水を入れてあるフネがある。
火床の反対には、伸鋼させる向槌(むこうづち)がある。
ふいごは第二次大戦前後から人力からモーターに変わった。

農具の製作、
鍬先の歯継ぎなどの修理もしていた。
夏は四時、五時から仕事を始め、
冬は一日中仕事した。

・・

 

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富山の薬売り

2023年10月27日 | 失われた仕事

遊んでいると、
行李を風呂敷で包み、背負って歩く薬売りが通りすぎる。
薬売りは家々を一軒づつ訪ねては、薬の補充や相談、金銭の授受を行っていた。
薬売りを見ると、無性に「紙風船」が欲しくなる。
家に帰ると、母が薬売りと話していて、それを見ていると・・・
見ているのでなく、風船を催促している・・・風船をくれる。
それが嬉しい。
紙風船を持って飛ばして遊ぶ。
しかし、男の子が風船を飛ばすのは二日と持たない。
いわば、一日限りの紙風船の楽しみだった。

・・・

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

富山の薬売り


明治34年には富山市では8.000人近くが製薬と行商を行った。
富山市の人口が約6万人の時代である。
行商人は手甲脚絆の姿で年に1回か2回、薬品を行李に入れて、
紺色の大風呂敷に包み、背負って売って歩いた。

服用された薬があれば、新たに補充する。
薬以外の商売をせず、信用を大事にした。

戦後間もなくは、病院の数は少なく、なた夜中に急に具合が悪くなったとき、
病院の対応も十分でなかったので、富山の薬は頓服として効力を発揮した。
サービスで紙風船がもらえた。

・・・


「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行


薬売り

富山、総社から来ていた。
四段重ねの籠を薬袋に入れ、
大風呂敷に包んで背負って来ていた。
年に一~二回得意先を回り、
薬袋の交換、補充と集金をしていた。
薬行商人は、子どもへの土産として紙風船をくれており、
置き薬屋さん、オイッチニの薬屋さんと呼ばれ、親しまれていた。

・・・


「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

富山の薬売り

頭痛薬、腹薬、傷薬などの薬を各家庭に預けておき、
一年に一度、在庫状況を見に来ていた
薬箱の薬の差替えをして、
毛筆で通い帳と薬箱の蓋に記帳し、使用した薬代を決裁した。
紙風船を土産に持ってきていた。

 

・・・

 

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「少年」「少女」

2023年10月22日 | 失われた仕事

少年少女雑誌は多かった。
その頃、日本中に子どもが多かった。
町も村も、どこに行っても、どこを向いても、子どもがいた。

 

 

お金をだしてお遊ぶことは限られ、
漫画雑誌の場合、年に何冊か買ってもらうのが大方だった。
買った本は、何度も何度も繰り返して読む。1年間でも2年間でも。
近所の子の家に行けば、そこに漫画雑誌がころがっている。それを読む、何回も読む。

・・・

漫画の本は大門駅前の小さな雑貨店まで買いに行っていた。
その時というか、買いに行く道中は、嬉しかったし楽しかった。
買って帰ると近所の子達が待っていて、皆で読んだ。
「皆で読む」というのは、
本誌が一冊あり、
付録が5~6冊あった。
だから同時に数人が買って帰ったばかりの新しい本を順番に回し読みをすることができた。
たぶん、どこの村でも同じようにしたと思う。

・・・・

 

小学生当時は↓の漫画雑誌があった。資料(Wikipedia)
(太字はよく読んだ本、細字はあまり縁がないまたは記憶にない本)

「少年クラブ」 昭和21年 講談社 月光仮面、
「少女クラブ」 昭和21年 講談社
「ぼくら」 昭和29年 講談社 少年ジェット
「少年」 昭和21年 光文社  少年探偵団、矢車剣之助、鉄腕アトム、鉄人28号、
「少女」 昭和24年 光文社 表紙が松島トモ子
「野球少年」 昭和22年 芳文社  川上や青田の写真が多かった
「痛快ブック」 昭和28年 芳文社  植木金也の絵が多かった
「漫画少年」 昭和23年 学堂社 
「東光少年」 昭和24年
「冒険王」 昭和24年 秋田書店  沙漠の魔王、イガグリくん
「漫画王」 昭和24年 秋田書店  ぼくの孫悟空
「譚海」 昭和24
「日の丸」 昭和33年 集英社 
「少年ブック」 昭和24年 集英社 のちに「おもしろブック」 猿飛佐助
「少年画報」 昭和25年 少年画報社 赤胴鈴之助、イナズマ君、ビリーパック、まぼろし探偵
「なかよし」
「こども家の光」

・・・

 

漫画雑誌の全盛期は、映画産業の全盛期とも重なり、少年たちは時代劇や冒険劇を好んだ。
管理人の場合も、チャンバラ漫画を好んだ。
そのうちでも、『赤胴鈴之助』は別格だった。
漫画史上唯一の、
「漫画」「ラジオ」「テレビ」「映画」「レコード」と、当時の全主要娯楽産業に登場した。
今になっても、少年時代の想い出といえば『赤胴鈴之助』を抜きに語れない。

・・・

子どもの時、漫画雑誌を読み過ぎるぐらい読んだので、
中学校になると、ほとんど読まないようになった。
高校以後も、漫画を読むのは(別にきらいではないが)年間数時間程度を保った状態でつづいている。

・・・

 

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「小学〇年生」

2023年10月20日 | 失われた仕事

家から城見小学校まで1.5kmくらい距離があった。
朝の通学には、およそ1時間くらいかかり、
午後の下校には1時間20~30分かかっていた。
つまり、学校には行きも帰りも、遊び遊びだった。

下校は時間に制約がないので、途中の同級生の家の庭や縁側(えんだ)で遊んで帰っていた。
そのうち優等生Aくんの家には「小学〇年生」の本があった。
茂平の子どもの家、上級生や下級生、男の子や女の子の家でも、
小学館の学習雑誌「小学●年生」はみたことがない。
茂平では唯一の学習雑誌がAくんの家にあった。

Aくんの家で読む「小学〇年生」は新鮮な感じがした。
その訳は、まわりの家には少年・少女の漫画雑誌があふれていて、
表紙と最初のグラビアページ以外は漫画一色だった。
ところが「小学〇年生」には漫画のページが少なかった。
その漫画も、真面目なストーリーで異色な感じがしていた。

Aくんは、その学習雑誌を毎月定期購読していた。
Aくんのお父さんが笠岡に通勤していたので、買って帰ると言っていた。

・・・

上記は小学校の時の話で、
中学生になると、俄然、学習雑誌が身近になった。

高度経済成長の余裕や、進学、それに進学率の向上もあり、
同級生の
「時代が・・・」
「コースが・・・」
「友が・・・」
が教室で聞く普通の会話となった。
時代とは、学習雑誌「中学〇年生」。
コースとは、学習雑誌「中学〇年コース」。
友とは、学習雑誌「中学生の友〇年生」。
管理人も中学3年生になって、何冊が購入したことがある。

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

小学〇年生

 

1922年に「小学五年生」と「小学六年生」が創刊した。

2022年現在で「小学1年生」のみ刊行。

・・・

 

 

 

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