しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団  分村移民

2024年07月30日 | 昭和16年~19年

大正時代に農家の長男に生まれたので、人生は決められたように農業いっぽんだった父には、
たまに口癖的に話す言葉があった。
「国が作れいゆうて作ったもんで、儲かったもんは何んもねえ」
両親が手掛けたが、僅かの期間で止めた
豚・ひつじ・養鶏・ミカンなどが代表と思える。
だが、それは儲からないだけで済んだ。


いちばん悲惨なのは、
「国が行ってくれい」と言われて、
行った先が満州だった農家の人。
行って長くて数年、短くて数ヶ月で、
昭和20年8月9日の未明、
国から”棄民”となってしまった。

 

棄民の状態になってからの、本土帰還までの絶望的な、生と死の日々は多くの人々によって語られ、伝えられているが、
結果的に棄民の基になった勧誘者の言葉が聞こえない。
県知事、村長、先生、議員等・・・仕事に忠実だったといえばいえるが、
現地の情報を知らさず語らず、甘い勧誘した責任は大きい。


また、生死をさまよった日々からは解放されたが、
生きて本土帰還した人たちの、それからの日々は、
棄民時代に負けないほどの、生きる・食べる苦労があったはずだか、それもほとんど語られてはいない。
あれから79年、多くの史書がある割には、
決まったような内容の開拓民の本が多く(団長や勧誘責任者の語りや執筆)、知りたいことが書いてある本が少ない。

 

・・・・

 

「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行

 

浩良大島開拓団


満州事変が終結しても、満州の治安は匪賊などの跋扈によって、厳しいものがあり、
「満州への移民は不可能である。」の世論の中で、政府は昭和9年末「農業移民は困難ではあるが不可能ではない」との結論に達し、
広田内閣(昭和11年3月組閣)により、満州開拓を重要国策として採択され、
20ヶ年100万戸 500万人の移住計画が立てられた。
遂行の機関として満州移住協会が日本側に、現地満州に満州拓殖公社が設立され、以来大量にかつ急速に推進されることになった。
更に満州開拓こそ日本生命線の維持であると教えられ、土の戦士として鍛えられ養成された青少年「満開拓青少年義勇軍」の大量派遣となる。
さらに昭和14年末には「満州開拓基本要綱」も制定され、開拓事業は 「五族協和、王道楽土」建設の中核として着実かつ本格的なものとなった。

昭和12年(1937)は日中戦争が始まり、厳しい世の中となっていたが、
海外発展の使命と光栄を持ち、特に満州は国づくり要員として、開拓団という性格を持っていたのである。
大島村は農村の余剰労働力の解消と、国策にそう両面から真剣に大島村分村の計画を考えることとなった。
大島村は当時浅口郡に属し、平凡ながら進取的な農村であった。
村勢昭和12年現在の人口は、7142人 戸数1321戸 農家一戸当たり4反2畝(42アール)の零細な規模であった。
しかも農地の生産力については「米麦作中心のしかも用水が掛かりで、水利の不便なるをもって早損の恵ある条件の下で、ほとんどの農家が1町以下の零細規模であるため、
農間男子は出稼ぎ、
女子は白布を制しあるいは酒造りに出稼ぎしなくては生計を維持できないという自給的零細農村ということができるのである。
一方出稼ぎの酒造りは「正頭出身の浅野弥治兵衛 (通称忠吉)が元禄年間に酒造り場の臼踏みとして雇われ、
次いで杜氏となり、広島県忠海の酒場を振り出しに各地を転々とし、その間に郷里の人々を杜氏に育成したといわれている」。
その杜氏の2/3が、大島村零細な農家から出ている。
杜氏は格別に優遇されて賃金も高かったので、それを知った若者が杜氏を志して、酒屋へ出稼ぎに行ったもので、大正12年には156名であった。

村議会で村長坪田旭一は次のように述べてい
「国家が我々に何を要求し、我らも又何を為すべきかを考えるならば、
大島村が現在のような過小農地によって、生活の安定をはかるよりも、
もっと多くの農業生産によって国家に御奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行なうの要あることを覚るべきである。」
皆を力説し、村民も一刻も早い分村を望んで昭和15年11月分村決議をしたのである。


村長に対する絶対的な信頼は全村民を動かし、日本一の理想農村建設のための、先遣部隊20名の派遣は、
満州東北部ソ連の国境近い佳木斯(チャムス)の北西に位置する所に決定した。

時は昭和16年(1941)4月1日
団名を「第10次浩良大島開拓団」とした。
北満の大原野にトラクターの響き、耕された黒土はやがて二頭立て、三頭立ての馬・牛が、往復し、更に土を小さく砕き大豆、馬鈴 麦、麦、とうもろこしの穀物や、野菜が作られ、水田も造成されていく。 
備中杜氏の本場から来た隊員にとって良質の水、米のとれることから酒造りの夢も広がる。

気候風土に恵まれた大島村出身の開拓団員も、広い未開の大地に放り出された寂しさから脱落者が続出して、
先遣隊20名はわずか8名に減じた。
後続の隊員を迎え、国民学校の開設を見たのが昭和17年(1942) 5月5日、 生徒は小学1年の女子1名、
あとは4年から高等2年まで9名であった。

しかし赤痢の大流行があり、団も滅亡の危機に瀕した。母村に分村を見殺しにするのかと訴え、
後続の団員募集を続けたが、皮肉なことに、軍需経済の発展につれて、農村の労働力は吸収され、戦況が激しくなるにつれ、村の青壮年労働力は兵役に動員されることになったから、鐘や太鼓で誘っても派遣が困難とったので、
寄島、里庄、鴨方、六条院、黒崎の隣接町村にまで募集をした。

昭和20年(1945) 8月ソ連の宣戦布告によって、17歳以上45歳までの開拓男子は、根こそぎ動員され8月14日避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ大流行、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いた途端発疹チフスが流行し全員その洗礼を受ける。 
長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸、大島村に帰着したのである。 

・・・

・・・

「福山市史」


満州分村計画

内地の人口過剰・食糧不足の解決策として満州入植が奨励された。
誰でもすぐに自作農になれるという「甘い勧誘」で、小作農の応募が期待されたのである。
なかでも芦品郡は、拓務省から満州開拓指導郡とされ、1.400戸移住の計画を立てるなど、各地で移住の計画が立てられた。
この地方では福山市を中心に300戸渡満させ、 備南村を建設することが計画された。
満州は
「設備もゆきとどき水田牛馬も豊富」と宣伝され、
昭和18年3月には第一陣が北安省太平荘に送り込まれた。

しかしあとが続かず、19年11月までに移住したのはわずか56戸で、そのため、
20年3月までに1市2郡で少なくとも150戸、1町村4戸以上の移住を募集したが、わず3名の申し込みがあっただけであった。
この間、入植者向けに「花嫁候補」を送ったり、写真結婚を行なったり、
また備南村は「生活に不自由はなく内地に比べると天国である」などと宣伝したが、まったく効果はあがらなかった。 
市大津野など5ヶ村の村長が、
「本事業(分村計画)、所期ノ目的到達セザル様考ヘラレ候」と県拓務課長に報告しているのをみても、
その効果のほどは知られるであろう。 


入植者の生活が伝えられるほど「天国」ではなく、
移住場所が軍事目的も兼ねて北満の荒地であり、そのうえ、農地は現地人の土地を奪ったものが多く、
採草地は原野に近いものであったから、それは当然の結果であったともいえよう。
なお、これら移住者のうち、敗戦後無事故郷に辿りつくことができたのは約半数といわれる。

・・・・

 

「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行


対満蒙移民政策は、4ヶ年の試験移民期をへて、
昭和11年、広田弘毅内閣が20ヵ年100万戸移民計画を策定し、本格的に移民政策は実施され、終戦まで継続していった。

昭和14年3月、大阪朝日新聞岡山通信局が、本紙に連載するため各通信員に帰還軍人の体験談の記事を募集した。
特色ある面白い題材の一つとして、
「日露の老勇士である父親ともに一家を挙げており、報道機関は国策としての満蒙開拓団募集の一翼を担っていたと言える。
同15年の青野村方面委員会・同村報国連盟本部は方面事業の具体策として、
「健康ナル貧困家庭」はなるべく満州農業移民に送出する計画とした。 
30戸余りを予定し、すでに2家族を送出した。


・・・


「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行

 

昭和11年に成立した広田弘毅内閣は満州開拓移民推進計画をたて、
国策として今後20年間に100万戸を送り出すという計画を策定した。
目的は耕地の乏しい農村の分割で分村移民の形をとったものが多く、府県・都・町村を単位として構成されていた。
昭和20年の敗戦まで日本全国の農村部から送り出された満州民は約27万人に達している。
その中には16歳から19歳の青少年達からなる満豪開拓青少年義勇軍があり、
戦後移民とともに帰国に当たって辛酸を舐めることになる。

岡山県の場合敗戦までに開拓移民と青少年義勇軍は合せて約3.500人といわれている。
この移民について芳井町をみる前に、大政翼賛会文化部が編集している啓蒙書があるので紹介しておきたい。

昭和17年 高陽村(現赤磐市)、農民文学を得意とする小説家丸山義二が書き上げた著書
「高陽村」(翼賛図書刊行会) から抜き出してみると、

校長は高陽村の将来をして、「この村は、今、非常によくなりつつあります。
しかし、このまま進んでいって、30年後には、かならず、ゆきつまるでせう。
それは耕地不足といふ問題から、ゆきつまるのです。 
夫婦2人に子供1人ぐらゐの労力で、すくなくとも1町8段歩の自作ができるといふのでなければ、
この村の農家経営が理想的にいかないといふ計算が立つからです。
それが現在では1戸あたり平均が、田畑あはせて1町4敵なのですから、どうしても、農家数がおほすぎるのです。
この解決を国塩村長は、どう考へておいでか? 
私は、分村計画をたてて、第二高陽村を満州大陸にうち樹てよ! 
さうして、あとの元村では、耕地整理をし、土地の交換分合を断行し、労力の合理化をはかるのでなければ、
眞の、理想農村は完成しないと、考えてゐます。」

満州に日本人を移住するに当たって、いかなる土地取得が現地民との間に行われているのか、
その辺りの充分な思慮はなく、 国策に沿った政策を地方に実施させようとしている。
では後月郡下ではどうであろうか。
昭和14年9月27日に明治村の明治青年学校女教室で満開拓女子青年募集懇談が行われ、
大陸開拓民結婚相談所の係員を囲んで座談会があった。
その年12月にも明治村では同村小学校で満蒙移民開拓懇談が開かれ、 
第8次満蒙開拓民の募集と分村計画などについて話し合いが持たれている。

開拓民の送り出しが本格化するのは、日中戦争と同時であったが、
昭和16年に太平洋戦争が始まっても 依然衰えることはなかった。
昭和18年1月18日に開かれた後月郡町村長会の協議では、満州開拓移住の件は
後月郡130戸、小田郡70戸に決定した。
また同年12月28日の合同新聞によると、同19年度の送り出し予定の青少年を対象とした満蒙開拓義勇軍の選考が行われ、
志願者706名中合格者658名に達し、然に2ヶ中隊編成が可能になったとある。
特に岡山、小田、後月、川上、真庭の各郡市は小隊編成ができると報じている。 
ちなみにこのときの小田・後月両郡の合格者は49名であった。

明治村からの入植は昭和15年より始まり、満州国三江省柳の開拓に向かった。
ここは佳木斯の東南45kmの地点で地勢は良く、大変肥沃の地質・水質も良いであったので、
同年春早々に先遣隊4名が渡満して、受け入れ準備をした。
参加者は県道場である上道郡角山村(岡山市)の三徳塾で訓練を受け、開拓士の資格を得た。
出発に当たって 明治村の忠魂碑の前で村長 村会議員、学校児童など多くの見送りを受けて出発し、
10月15日鼻が刺すように 感じる寒さの中に到着した。
翌年春には岡山の本隊の入植があり、結局125戸、450名となった。
子教育の学校も作られ、岡山病院もできた。
農地は昭和18年には1戸当たり10町歩を得て自作農として完成した。
しかし、戦の悪化によって男たちは現地招集を受け12~13人の老人を残すだけになった。

昭和20年8月9日のソ連参戦によって避難が始まり、
死亡者は出征軍人を併せて140名を数え終戦後の翌21年8月、帰国したのは300名余であった。

 


芳井町からの入植は、
柳樹河開拓団の団員家族70名と阜新芳井開拓団の団員家族約300名の2回に分け送り出しと
県単位で送られる満蒙開拓青少年義勇軍の約15名で、
満州各地で推定385名であったという。
阜新への渡満の契機は太平洋戦争が熾烈になり、多くの青年は戦場に出て、
銃後を守る者のほとんどは老人と婦人になり、勉学中の高学年は学徒動員で軍需工場で働き、
食糧事情は年々低下していく事情にあった。
耕地面積は狭隘で、農業経営には苦労も多かった。
こうした一般的状況の中で昭和16年の終りごろから17年にかけて、当時芳井町長であった藤井円太郎が中心となって計画を立案、
町会の議決を経て戦時下の農村振興計画を樹立した。
これが満州分村の計画で、同町1030戸(農家771戸) 中200戸の農家を、満州国錦州省阜新にある約二千町歩の分郷に入植させることとなっていた。
国は芳井町を「興国農村」に指定し満州開拓は具体化にむかって歩みはじめたものの、
芳井町のみで団員の確保がむずかしく、芳井町を中心に後月郡で希望者を募ることになった。

『合同新聞』によると昭和19年2月6日、第一次先遣隊45名は午後零時20分から同町氏神で祈願祭を執行し、
1時から町国民学校で壮行式をあげて直ちに井笠鉄道で笠岡町へ向かい、1泊の上7日に出発勇躍渡満した。
2月11日の紀元節の良き日に役所、現地人代表を招いて形ばかりの入所式を挙行している。
阜新市は人口13万人、内日系人は1万5千人もおり、炭鉱の町で阜新炭鉱は撫順炭鉱を凌ぐともいわれ、
日本軍の部隊もおり地方産業の中心地で気候も満州国内では一番住みよい所といわれていた。
そして入植地はすべて既耕地ばかりであったという。
こここでの農業は炭都阜新に対する新鮮野菜、その他食料品の供給を主たる目標としており安定感はあった。
しかし、昭和20年になると毎日の如く召集令状が届き、兵役対象者は根こそぎ動員となった。
そして8月15日終戦を迎えた。
終戦時には136戸320人の団員・家族が居た。
5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、6月2日送出母体の芳井町に帰った。
帰還できた者は247人であった。

・・・・・

 

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不要作物の作付制限

2024年07月28日 | 昭和16年~19年

古来より日本人は五穀を食べてきたが、
明治維新後洋風化が進み、
肉や野菜や果物も食べるようになった。

ところが日中戦争の勃発後より食糧が不足してきた。国家総動員法等により、農家に作物制限が行われた。
農家は”食糧生産物”のみ耕作して、
それ以外は作付けしてはいけないことになった。

作っていいものは、稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆。
果物も、養蚕も、野菜も、家の自給以外は作れないようになった。


不思議に思うことがある。

果物農家が、国から「果物」作りを禁止されると死活問題となるが
父母も、祖父母も、隣近所のおじさん・おばさんも、
その事についての話すのを耳にしたことがない。
何故だろう?




昭和14年~20年頃、管理人の家で耕作していたと予想されるうち、
主要なものは、(太字は作付け統制や禁止

米・麦・黍
除虫菊・薄荷
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜

このうち
米・麦・黍はほぼ自給用、多少売り。
除虫菊・薄荷は100%商品。
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜も、ほぼ100%商品。



下記の対応と思える。

除虫菊と薄荷は食糧ではないが、軍の需要があった。
梨・桃・枇杷・イチジクは老木の植え替えをしない。
西瓜は作付け中止。
つまり事実上、西瓜やメロン程度が制限・禁止されただけ。
野菜・芋・豆・茶等は自給用で、元から、買わないし売るほど作らない。

国家の統制に対して、甘藷の作付面瀬を少し増やした程度と思われる。
家では作ってなかったが、タバコ栽培も軍の需要で影響はなかった。

「岡山県史」では養蚕が打撃と記されているが、昭和恐慌で生産は減り、
戦時中は人手不足で農家に魅力的な商品ではなかっただろう。


・・・


「新修倉敷市史6 近代・下」 倉敷市史研究会 2004年発行

農業も厳しい統制下に


農家は昭和14年11月公布の米穀配給統制応急措置令、続いて翌15年11月から施行の米穀管理規則で、
作った米を政府へ供出しなければならなくなり、米の自由な取引ができなくなった。
さらに岡山県は昭和16年4月、農作物作付制限規則を公布して、果樹・桑・ 茶・庭木などの新植を抑え、
翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付け制限は昭和18年秋にいっそう強められ、
農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
都窪郡農会は昭和17年1月、農作物統制規程を定めて大麦・裸麦・小麦の作付け反別などを統制し、
共同作業統制規程で田畑の管理・播種・苗代・田植え・除草・収穫・脱穀。籾摺り・病害虫防除を共同で行うように決め、
人を雇ったり雇われたりして農業することも制限した。
石油発動機から噴霧器まで、農機具の使用方法も統制した。
その一方で農家は、米麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求められた。
食糧不足が激しくなると、自家米の節米・食い延ばしをして、余剰米を供出するよう要求される事態にもなった。
農家は次第に供出割当てが増える食糧の増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならな かった。
玉島町(現、倉敷市)では学童を動員して家庭の灰を集め、
市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底 の泥まで肥料に利用している。
同町に限らず、化学肥料が入手できない農家は同じような方法で肥料を自給 していたのである。

 

・・・

「岡山県農地改革誌」  船橋治  不二出版 1991年発行

【第一次統制】

 

【第二次統制】

かく県令をもつて戦時下不急、不要作物の作付を抑制して戦争遂行上の重要農産物の確保を企画して来たが
日華事変の進展は食糧増産の重要性を更に加えるにいたり、
ついに昭和16年10月16日臨時農地等管理令第十条 第十三条の規定に基き農林省令第八十六号をもつて農地作付統制規則の公布実施を見るにいたった、
本令は農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
なお食糧農産物の生産拡充のため制限作物を必要に応じ食糧農作物に作付転換せしむることが規定された。
食糧農作物
農林大臣の指定する農作物並期日は次の通りである。

食糧農作物
稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆

 

一、第二種制限作物の第三次統制告示の改正

大平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の戦場或は軍需工場への吸収は
農業労力の極端なる不足を見るに到り更に 農具、肥料等の生産資材の欠乏しいものがあつて、
農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を受けるにいたった。
ここに於て第二種制限作物の作付統制を更に強化する方針をもつて昭和18年11月左記の通り告示の改正を行った。

・・・

 

 

・・・


「愛媛県史 近代・下」 愛媛県 昭和63年発行
  
農業の戦時統制と食糧増産運動
第二次産業組合拡充三か年計画

昭和13年(1938)より第二次産業組合拡充三か年計画が実施に移された。
その計画立案最中の昭和12年7月、日中戦争が勃発し、政府及び軍部の意図に反して、戦争は長期戦の様相を呈していった。
非常時下における国家統制が強化されていく中で、農業の面では、産業組合が、統制のための組織として利用されることになった。
一方、産業組合運動自体からも、「戦時体制の運行を円滑にし広義国防の完璧を期し、以て奉公報国の至誠を効する確固たる覚悟を堅持する事を要す」として、積極的・意識的に国家統制に協力してゆく姿勢が打ち出された。

県内では、昭和12年11月22日、県公会堂において開かれた第七回県下産業組合長会議において、
「日支事変対策に関する件」とともに、「第二次産業組合拡充三か年計画に関する件」が決議され、
昭和13年1月より計画が実践に移されることとなった。
尽忠報国、人格陶冶、斉家治産、共存同策、八紘一宇の組合員精神綱領が採択され、
産業組合の全組織をあげて戦争協力体制が進められていくこととなった。

農業会の成立
農業会の役割は、国の農業政策に即応して食糧その他重要農産物の生産を維持すること及び農業全般に対する指導統制であった。

食糧増産運動の開始
戦時下の農政にとって、最大の眼目は戦争遂行のための食糧確保である。
米・麦・酒精原料甘藷などの重要農産物増産の、その概略を示すこととする。


米穀の増産

県では各年度ごとに米・麦・藷類・豆・雑穀などについて具体的な生産目標を立てて増産を目指したが、
米穀は、多収穫品種の植え付けによって増産を図るため、昭和17年度より、県及び農会が一体となって種籾管理計画が実行に移されることになった。


麦類の増産

麦は、米と並ぶ重要食糧であり、混食によって米の消費を節約する観点からも、その増産が奨励された。
増産のための具体策として特に力が入れられたのは、
休閑地の開墾、桑園・果樹園の転作、暗渠・客土などの土地改良による湿田の二毛作田化であった。
麦踏み、追肥、土入れの時期が指示され、増産のための具体的で細かい配慮がなされている。


甘藷の増産

甘藷は、当初酒精原料としての役割が重要視されていたが、戦争の長期化に伴う食糧事情悪化の中で、
米麦の不足を補う重要食糧として期待されるようになり、その増産に力が入れられた。
昭和13年1月、県が策定した最初の増産計画の中に、甘藷は、玉蜀黍・茶・苧麻と共に対象作物として取り上げられ、
県農会も同年より増産指導を始めた。
その後、米麦需給の逼迫とともに、戦時下食糧としての甘藷の重要性が認識されるようになり、
果樹園・桑園の転換、空閑地の開墾などによって栽培面積は急増した。
昭和19年度には、県の主導のもとに戦力増強甘藷倍加運動が展開されることとなり、
開墾地・休閑地・既栽培地利用、果樹園の転換・間作・周囲作により作付け面積増加が計画された。

その進展を図るため、中等学校・青年学校・国民学校長宛に出され、増産のための具体的方策として、
(1)校地・校下の空地などを利用し、各学校一反歩以上の甘藷を栽培する、
(2)学童生徒を通じ、学校育苗園にて育成した甘藷苗を各家庭に配布し、
一戸当たり六株以上を宅地、垣根を利用して植え付ける、
(3)学童生徒を通じ、甘藷皆作空地撲滅の県民運動を推進する、
(4)勤労奉仕などを通じ、甘藷増産意欲の高揚、栽培技術改善に努めることが指示された。
利用可能な土地は、寸土も余さず食糧増産のために活用した当時の状況がよく示されているが、
食糧事情の窮迫を如実に表している現象でもあった。
昭和18年7月には、着任直後の相川知事の発案により、県庁の庭もすべて開墾して大豆・そばを栽培し、
県自らが県民に対して範を示す措置もとられた。


食糧生産の減退

戦時下における食糧確保を目指して進められた増産政策、農業統制にもかかわらず、
労働力不足及び肥料を中心とする生産資材欠乏によりこれらの政策は所期の目的を十分達成することはできなかった。
全国的にみて、米は昭和15年、麦は16年、茶・木炭は17年から生産が漸減し始めた。
県内における耕地面積は、昭和10年ころから増加に転じ、15年に頂点をむかえたが、以後は漸減していった。
一方、作付け面積は15年以後も増加し、17年に至って耕地利用度は185%を示した。
これは、国、県などによる増産政策の成果と考えられるが、
これを頂点として、以後は耕地面積と同じく漸減をみせることとなった。
藷類を除く主要食糧作物は、減退の傾向がみられた。
全作物を通して特に19年以降の減退が激しく、物不足・人不足の中で進められた国・県の細部にわたる増産策、農民の増産努力の限界を示すものであろう。

 


・・・


「岡山県史 現代Ⅰ」 岡山県 1990年発行


蚕の衰退と畜産の復活

戦中・戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積一万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年 (昭和21)には桑園面積1427町歩 養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。
同年養蚕復興五ヵ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、
1950年には、桑園面積、戸数、産繭量とも一段と減少している。

養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
和牛の飼養頭数は増加に転じ1950年には11万頭に達した。また水田の裏作に牧草を栽培する水田酪農が普及し、乳牛の頭数も増加の勢を見せ始めた。


・・・

 

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三八式歩兵銃

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。
そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。

 

・・・
三八式歩兵銃

「日本軍事史」吉川弘文館 2006年発行

三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、
米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」
「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」


・・・

「三八式歩兵銃」(センデンビラ)

諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。
その後、各国は競って科学の研究に没頭し科学兵器に一大進歩を見たことは世界各国の知るところであります。
然るに諸君が自動小銃に対し●●式の小銃で闘はねばならないのは何故でせうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰ってかかることが出来ませうか。

・・・

・・・


(Wikipedia)
三八式歩兵銃
日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、
有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において
、帝国陸軍の主力小銃として使用された。
三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、
同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。
このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。
あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、
また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。
この改良は順調に進み、
本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)5月に制式制定された。
部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。
以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。

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12月8日、米英へ宣戦布告

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日清戦争以来、日本は満州の利権に強く拘り、拡大していった。
その結果、満州事変を自ら起こし、
その数年後には支那事変をも自ら起こし、日中全面戦争となった。
米英より、
せめて「満州事変」前を求められたが拒絶、昭和16年12月8日の対米英開戦となった。

 

・・・

「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公新書 1995年発行

東条英機内閣は、ハル・ノートを最後通牒だと受けとめた。
「満州事変前の状態へ、日本を逆戻りさせることはできない。
撤兵しては、英霊にあいすまない」
として、開戦を決意した。
当時の日米の国力には、気が遠くなるほどの格差があった。
「日米蘭の経済封鎖が持続する場合、日本は”ジリ貧”におちいることになる。
特に石油は昭和17年7月ころには貯蔵ゼロ皆無となり、海軍は全くその機能を喪失するに至るであろう。」
ジリ貧を避けるために開戦するというのである。

・・・

(「歴史街道」 2021・9号)

 

・・・

「アジア・太平洋戦争」  吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行

 

戦争目的

昭和16年12月8日、
開戦の日に天皇の名で発表された宣戦の詔書では、
英米などによる対日経済制裁の不当性を強調し、自衛のためにやむを得ないという位置づけである。
しかし、同夜に情報局次長はラジオ放送で、
「アジアを白人の手から、アジア人自らの手に奪ひかへすのであります」、
とむしろアジアの解放にあった。

危機感の高めるときは自存自衛の面が強く叫ばれ、
情勢の好転する場合には大東亜新秩序の建設こそがが、この戦争の目的といわれた。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行


反米キャンペーンの立遅れ

米英による支配からアジアを開放するという戦争プロパガンダは行われたが、
白色人種対黄色人種、
西洋対東洋、というキャンペーンは政府により抑制された。
日本はドイツ、イタリアと同盟関係にあったからである。
また、反米的な戦時プロパガンダが本格化するのも昭和18年に入ってからのことである。
米英音楽の演奏が禁止され、横文字の看板撤去、英語の雑誌名や会社名の改名などが行われる。
有名な「鬼畜米英」という刺激的な表現が新聞に登場するようになるのも、翌昭和19年に入ってからのことである。

 

「大東亜共栄圏」の建設

これまでは中国に進出して「東亜新秩序」を建設することが日本の目標とされていきたが、
「大東亜共栄圏」へと舵が切られた。
この「大東亜共栄圏」は、イギリス・フランス・オランダの植民地になっているマレー・インドシナ・東インドを「独立」させることによって建設される建前になっていた。
だが、
その頂点に日本があって共栄圏全体を指導するものと考えられていたことはいうまでもない。
「民族解放」の題目は、しょせん日本による支配を糊塗するためのものにすぎないようにみえる。
だが、日本が東南アジア支配を正当化する理屈として、なぜ「民族解放」を選んだのかという点はやはり重大である。
ヒトラーは、ドイツ民族生存のために不可欠な「生存権」を確保するとう名分のもとに中・東欧に侵攻した。
日本は第一次大戦後の脱植民地と民族自決の流れに便乗した。
すなわち欧米宗主国から「独立」させたアジア諸民族の支持を集め
日本の指導を受けれさせることが可能であると計算されたのである。
ようするに、「民族解放」のスローガンは単にアジア支配のうわべを飾る美辞麗句だったのではなく、
「独立」の意味をゆがめて解釈することによって、日本の建設する新たな帝国を支える基本原則となることを期待されていたのである。


大東亜省


「大東亜共栄圏」内の諸民族は日本の戦争遂行に協力し、
国防資源の開発を中心とした総力決戦体制の構築という目的に奉仕すべきものとされたのである。
東郷外相はこの厚顔な政策に猛反対した。
東郷自身、「大東亜共栄圏」における「独立」が主権国家間の対等平等の関係を意味するものではなく、
日本の指導を前提とすることを認めていた。
「独立は名のみにして実は属国視せらるるものと信ぜしめ、其の結果帝国に対して不信、疑惑と共に不満の念を抱かしめ。。。」
結局、9月1日、東郷外相は辞任に追い込まれた。
 


「大東亜戦略指導大綱」


昭和18年5月30日の御前会議で決定された「大綱」では、
ビルマ・フィリピンを独立させる方針が定められている一方、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し
重要資源の供給源として開発ならび民心の把握に努む」
という条項が盛り込まれた。
石油をはじめとする資源豊富な英領マレー・ボルネオと、オランダ領東インドは日本の領土とするという意思が臆面もなく表明されたのである。
ビルマは対英戦争を遂行するうえで好都合な場所であり、
フィリピンは以前から宗主国アメリカに独立を約束されていた。

ところで「民族解放」を突きつめて行けば、朝鮮や台湾の地位の問題に突き当たる。
これに対処して、特に朝鮮の独立を防ぐためにも、
朝鮮の日本への同化が急がれねばならなかった。
悪名高い「皇民化政策」は、
日本の植民地支配時代に一貫しておこなわれたものではなく、
戦時下に本格化したものである。
さらに44年4月からは、「内鮮一体の具現」という名目の下で徴兵制が施行されている。

 

大東亜会議と「大東亜共同宣言」


1943年11月に開かれた大東亜会議は、重光にとっては、
「大東亜共栄圏」の意義と正当性を内外に闡明にし、アジア諸民族の協力をとりつける重要な場であった。
参加国が平等に一票を持つような機構は日本の指導を妨げるという反対が出て退けられた。
独立を求めるアジア諸民族と、日本の指導を当然とする国内的要求のバランスをとった宣言を採択した。

 

・・・

「ライシャワーの日本史」 エドウィン・ライシャワー  文芸春秋社 1986年発行

第二次世界大戦の発端

第二次世界大戦の発端は一九三七年の日中の衝突にあるので、
一九三九年のヨーロッパでの開戦や一九四一年にアメリカがその両方に参戦したことではなかった。

日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思いこみがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

しかしナショナリズムの波は急速に広がっていた。
とくに中国ではその勢いは激しく、朝鮮半島や満州での植民地支配の現実はもはや日本人をヨーロッパ人やアメリカ人よりも魅力ある主人とは思わせなくなっていた。
日本帝国が大きくなっていくにしたがって、中国人の抵抗も激しいものとなっていった。
東アジアに侵略し、一大帝国を築きあげようと野心にかられた日本は、世界史的にはいささか遅きに失していた。
十九世紀における列強の帝国主義的進出のようにことは容易には運ばなかったのである。

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兵隊

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

兵隊は戦争の要員なので、戦争が無い時は兵は一定数以上は必要なかった。
父はよく、「まんが悪い」とこぼしていた。
日中戦争が勃発した年が徴兵検査の年齢だった。
それは父と同じ生まれの人は、ほぼ全員そう思ったに違いない。
この年から検査合格者は、全員兵隊に召集された。

・・・


「美星町史」


徴兵検査

小田郡の各村々は笠岡の貫閲講堂を検査場としていたので
当地の受検者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。
その検査場には、村長は勿論、
在郷軍人分会長・小学校校長・青年学校長も列席して行われ、
それは厳格そのものであった。
大体一日に三~四ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。
検査官は岡山聯隊区司令部の職員で、下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。
検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、
受検者は初めから終わりまで、ふんどし一つの裸で臨み、
軍隊式の厳格な号令と返答、態度で実施されたのである。
すべての検査終了後、徴兵官の面前に立って、
甲種、第一乙種、・・・の宣告を受けて終了となる。


召集


戦争がおきると召集令状によって、入隊していた。
その内容は日時と場所の指定をして、至上命令であった。
召集者は一定の日数(三日ないし七日)の間に見廻りの整理を行い、
婦人会からの千人針なり、「祝出征」の幟などを作ってもらい、
組や親族の宴会にも出席し、あわただしい日を送る。
出征当日は氏神様に参拝し、見送りの人達の「万歳」の声に送られて出かけたのである。
村人は涙一つ流されず、「おめでとうございます」と挨拶する他になかった。

 

千人針

出征軍人への最高の贈り物は千人針で、布不足の時でもこれだけは手にいれることができた。
最初は、長さ1mくらいのサラシ木綿に赤で千個の点を打ったものであったが、
後には、それに虎を大書した布や「必勝」と書いた布が用いられた。
また、5銭銅貨を縫い付けて、「死線を越える」の意味をこめたものであった。
女一人一針で、寅年の人は年齢の數だけ小さな結び目をつけた。
これを作り上げる活動を、婦人会が引き受けて「武運長久」を祈りながら、
村中廻り隣村へも出かけて行った。
子どもを背負って、薄い重湯を入れた瓶をさげて、モンペに地下足袋の粗末な出立ちで足を棒にし、
山坂越えて歩き、でき上りは氏神様へお供えして祈り、あらためて、当人に差し上げた。


出征

出征の当日には、氏神様の前に子供から老人まで、大勢集まって、日の丸の小旗を振りながら出征兵士を送る歌を唄って門出を祝った。
若い母親の背中で父を見送っている乳児を見ても、村人は涙一つ流されず、
「お目出とうございます」と挨拶する他になく、慰めの言葉は言えなかった。
一方では、八幡巡りの老若男女が、弁当を腰に杖をついて行く姿が目に入り、
また、どこからともなく小学生の歌声がきこえて

必勝祈願の朝参り 天皇陛下のおん為に
死ねと教えた父母の 赤き血潮を受けついで
心に必死の白タスキ かけて勇んで突撃だ

何ともいえない息のつまりそうな一ときであった。

・・・

(昭和13年・父の出征記念写真)

 

・・・

「ビジュアル日本の歴史 116」

「戦陣訓」

捕虜になるくらいなら死を選べ!
日本を自決に追いやる「戦陣訓」

日中戦争が長引くくにつれ、兵士の士気が低下して軍紀は退廃。
戦場での掠奪、暴行などの非行が続出した。
そこで陸軍省は、1941年(昭和16年)1月8日、「戦陣訓」を全軍に示達、
軍人として守るべき道徳と戦場で特に戒めなければならない心がけを説いて軍紀の粛正を図った。
しかし、中には次のような一節もあった。
~名を惜しむ~
「常に郷党家門の面目を思ひ・・・その期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。
この戦陣訓が示した精神論と捕虜の絶対否定は、敗れた兵士に「自決」と「玉砕」の選択肢しか与えず、失わなくてもよかったはずの多くの命を散らすことになった。

 

・・・

「あの日、あの味」 月刊望星編集部 東海大学出版部 2007年発行

兵隊と食べもの  伊藤桂一

軍事用語で兵食というのは、兵隊の食べもの、兵員のための食糧ということです。
古来、軍事に関する限り、兵食はもっとも重要な意味を持ちました。

軍事用語で兵站(へいたん)というのは、兵用の宿泊施設のことで、同時に食糧の心配もします。
軍事行動する時は、まず食糧をどう補うかを考え、できれば宿泊のことも考えます。
今次大戦では、日本軍は戦力、戦闘、行動力に重点を置き、兵食の問題を重要視しませんでした。

私は日中戦争に7年間、一兵士としてつきあいましたが、
補給は現地でとれ、という命令をよく受けました。
つまり軍そのものは補給を行わないということです。
私が中国山西省で戦ったころ、この土地は黄土の山岳地帯、山の砂漠です。
出発時に3日分の食糧は持ちますが、5日、6日となりますと行く先々の集落から食糧を入手するしかありません。
砂漠だから水の補給(集落の井戸)にも苦労しました。
でも、中国だからまだよかったのですが、ニューギニア、ビルマ、フィリピンなど南方で戦った人たちは、戦死よりも飢餓死で多く死にました。
食糧がないので空腹から病気にとなり、そのまま死んでいきます。
軍の指導部は兵力の行動を図上戦術で考え、その行動ができるかどうかを考えませんでした。
最後は皇軍の戦闘精神で戦えと考えていました。

兵力が作戦で動くときは、弾薬、食糧を同時に考えます。
これを補給線といいますが、
この補給線を絶たれると、部隊はほっておいても自滅せねばなりません。

ビルマでのインパール作戦では、食糧の全く絶えたままの戦いの中で、多くの将兵が死傷しました。
軍司令部はこの困難を、ただ図上で計画し、一人として現地を具体的に歩いた人はいませんでした。
信じられないことですが、南方戦はほとんどこのような図式で戦われています。

 

・・・

「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行
 
女性兵
 
戦局が悪化すると、大規模な兵力動員がおこなわれ、「老兵」や、体力の劣る兵士の占める割合が急速に増大しただけでなく、
幹部そのものの質も低下した。
昭和14年で中核である「大尉」「少佐」は約60%の欠員をみた。
 
1945年6月に公布された「義勇兵役法」は、17歳から40歳までの女性を義勇兵に服させることを決めた点で画期的で、
軍の指揮下に入り女性にはじめて戦闘員としての役割が与えられた。
しかし編成される前に、日本は敗戦の日を迎えた。
 
実際に、新潟県五十沢村の事例で見てみると、女性隊員は14歳から40歳までの「未亡人又は独身者」に限定されていた。
イギリスやアメリカでは、補助部隊であるとはいえ女性の部隊が創設された。
ソ連では第一線の戦闘部隊でも女性兵士が活躍した。
 
日本では女性兵士は実現しなかった。
米英と比べ「男は前線、女は銃後」というジェンダーの力学が強く作用しているといえるだろう。
 
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まえからわかっていたこと

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行


まえからわかっていたこと

日本は勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。
なるほどアメリカは大国である、軍備もまさっている、しかしそれがどうしたというのだ、
そんなことは皆はじめから予想されていたことであり、われわれははじめから問題にしていないのだ、と彼らは言っていた。
そのころ日本人は、日本の大新聞『毎日新聞』で、次のような記事を読んだ。
日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する
戦いだ、と言っていた。
真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。
軍国主義者であり、かつて陸軍大臣であった荒木大将は、『全日本民族に訴う』というバンフレットの中で、
日本の「真の使命は皇道を四海に遍く弘布し宣揚することである。
力の不足は れわれの意に介するところではない。何故に物質的な事柄に気を使う必要があろうか」

彼らはたえず、安心や士気は要するに覚悟の問題にすぎないと言っていた。
どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、サイパンの敗北であろうと、フィリッピン防衛の失敗であろうと、日本人の国民に対するおきまりのせりふは、
これは前からわかっていたことなんだから、少しも心配することはない、というのであった。 

明らかに、お前たちは依然として何もかもすっかりわかっている世界の中に住んでいるのだと告げることによって、日本国民に安心を与えることができると信じたからであろう。
しかしこうなることは前から百も承知していたことであって、必要な手筈は日本はアメリカ爆撃機の行動半径内すっかりととのっている」。
「敵は必ずわれわれに対して陸・海・空三軍の連合作戦をもって攻勢に出てくるであろうが、これはすでにわれわれの計画中に予定されていたことである」。
爆撃によって国内戦線の日本人の士気を沮喪させることは不可能である、
「なぜなら彼らはすでに覚悟しているから」と確信していた。
アメリカ軍が日本の都市の爆撃を開始したころ、航空機製造業者協会の副会長は次のような放送を行なった。
「ついに敵機はわれわれの頭上に飛来して参りました。
しかしながらわれわれ航空機生産の事に当たっております者は、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了致しております。
したがって何ら憂慮すべき点はないのであります」。

すべてが予知され、計画され、十分計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押しつけられたのではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができたのである。
「われわれは受動的に攻撃されたと考えてはいけない、積極的に敵をわれわれの手もとへ引き寄せたのだと考えなければならない」。
「敵よ、来るなら来い。
われわれは「ついに来たるべきものが来た』と言う代りに、むしろ「待ちに待った好機が到来した。
われわれはこの好機 の到来したことを喜ぶ』と言うであろう」。

またラジオの報道によれば、アメリカ軍がマニラ市中に突入した時、
山下将軍は「ニッコリ笑って、敵は今や我が腹中にあり、と言った・・・・・・」
「敵がリンガエンに上陸した後まもなく、たちまちのうちにマニラをおとすことができたのは、
これひとえに山下将軍の戦術の結果であり、将軍の計画通りに事が運ばれたのである。
山下将軍の作戦は目下引き続き進行中である」。

言い換えれば、負ければ負けるほど事はうまく運んでゆく、というのである。

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昭和20年、食べる物がない③子ども

2023年08月08日 | 昭和16年~19年

映画「二十四の瞳」では、大石先生の幼子が空腹で何か生ものを食べ、食あたりで死んでしまう。
小学生くらいになると、自分で周辺の自然から、いくらか調達できるけど
いちばんの弱者は赤ちゃん。
母は近所の子、二人に乳を与えていたが、その二人とも結局亡くなってしまった。

 

・・・

 

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館  2009年発行


食料確保と工夫

南瓜やさつまいもの栽培がさかんに奨励されると同時に、
ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。

 


このポスターには
「とち、かし、なら、くぬぎは皆さんのおなかを一杯にさせる乾パンやあめやパンになります。
ウント拾って沢山食べましょう。
また、あるアルコールや牛の皮のなめすタンニンになります。
学校の先生の指導の下に、大いに拾って下さい。
農林省・日本林業会」
という文言がみえる。

子どもたちの力も徹底的に借りようという作戦であった。

 

・・・


津之郷国民学校・小国民のつくるもの

「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

昭和19・20年当時、
農村に残っている者といえば、婦人や老人、それに子どもばかりで、
食料生産にも労働力不足で、子どもといえども必要な労働力であって、
学校から帰るとすぐに家事の手伝いはもちろん学校でも、
毎日のように食糧増産のための農作業があった。
昭和19年から校庭も畑に利用されて、春・夏はカボチャや大豆・甘藷が植えられ、
カボチャの収穫後、秋は大根や葉物野菜が植えられた。

 

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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が示された。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて退避壕がほられた。

訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫い付けたスフの洋服を着て学校に通った。
岡山県内へ縁故疎開してくる児童生徒は日を追って増加した。
あいた校舎は工場や軍の施設として使用されることになった。
昭和20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、
まるで、学校が校舎を借用しているかのようであった。


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農業も統制下へ(軍需農産物の増産)

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

家は果物農家だった。
残念ながら父母に、戦時中の果物の作付制限のことを聞いていない。
父母は、その事を自らも話をしなかった。

たぶん、
父は断続的に兵役に就き、
母は農婦・主婦・母・家政婦および雑役婦で身体も気力も余力が無く、
毎日のことで精いっぱいだったので、
果物の作付・・・この場合、老木の植え替え・・・まで、事実上手が回らなかったと思える。
おそらく、桃や梨を植えるのは茂平でも、どこでも日本全国制限があった。






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「新修倉敷市史6」

農業も厳しい統制下へ

昭和16年4月、農産物作付制限規則を公布
果物・桑・茶・庭木など新植を抑え、翌年からは
スイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
昭和18年秋、いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。
農作業の仕方も統制された。
共同で田畑の管理・田植え・除草・収穫など決め、人を雇ったり雇われたりして農業することを制限した。
一方で農家は米麦や芋類の食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで供出の増加を求められた。
農科は深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。
玉島町では学童を動員して家庭の灰を集め、市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底の泥まで肥料にしている。


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「真備町史」  真備町史編纂委員会  昭和54年発行

農地作付統制規則

昭和12年7月より支那事変、このため県下の農業も戦時体制への転換となる。
この時の農業で最も重視されたのは食糧の増産と管理であった。
供出と配給は米に始まり、次第に麦、いも、雑穀類まで適用され、
次第にすべての副食物、調味料も配給、本県では昭和14年の旱害により節米を奨励し、15年から統制。

食糧統制は昭和17年食糧管理法で供出の事前割当制、部落責任供出制などにより一層強化、
決戦態勢となり昭和16年には農地作付統制規則が制定され、不要の作物の作付は制限または禁止となった。

続いて17年からは桑園、ぶどうを除く果樹園などの整理をし、主要食糧作物に転換せしめ、これがため換金作物を制限された面では農家に不利となる。

肥料の配給は昭和12年より始められ、
肥料を施すのも制限が加えられ、主要食糧の増産の方に肥料をまわすよう指示。
農機具も昭和13年より統制され、18年には農機具生産者の整理統合。
また、昭和13年には農地委員会が設けられ、小作料の軽減を企てた。
更に小作人から高く米を買い上げ、地主米の価は安くし小作料の金納も認めた。
これにより地主は農地改革を待たずして大きな打撃を受けるに至る。

主要食糧作物のうち麦類,いも類は作付面積が多くなり、特に昭和15年には小麦の作付け面積は史上最高となった。
水稲は14年、15年と不作、昭和20年には特に不作。
しかし農家の経済面は良くなって戦後に続いた。


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「岡山市百年史」

戦時体制下の農漁村

一般農産物のほかに軍需農産物の増産がはかられた。
当時、軍需農産物といわれたものは、
大麦・乾燥稲わら・梅干・ウサギ毛皮・ウサギ肉・牛馬・むしろ類・真綿類・綿花・サツマ芋などであった。
昭和15年10月に、中央で大政翼賛会が発足し、いわゆる新体制運動がはじまった。
昭和16年10月には、農民は
スイカ・メロン・花卉・イチゴの作付けを禁止され、
蘭・白ウリ・レンコン・除虫菊などは大幅に制限されることとなった。


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復刻版「岡山県農地改革誌」  船橋治 不二出版  199年発行


臨時農地等管理令の制定

大陸の彼方に限りなく拡大された支那事変は軍需生産増強の要請を絶対なならしめ、
そのため農地が軍需関係用地に転用されるものが増加した。
更に農村においては、労働力が不足し農地の完全利用がなされず休空閑地さえ散在する状況を示し、
しかも極端な労働減は遂に安易な作物へ作付け転換をなすものすら漸増せしめる結果となった。
このような情勢から農地の保全と食糧増産の目的を完遂するために農地の潰廃を統制し、農作物の作付けを制限すると共にその調整を図ることにした。

1・農地潰廃の制限
農地を耕作している者は、農地以外に供すときは、50坪を超えるときは原則として知事の許可を要する。

2・耕作の強制
知事は休空閑地に対し、耕作するよう勧告することができる。
しかし本県においてはこの規制によって知事が作付けの強制命令を発したことはない。
3・耕作の調整
不急不要な作物も作付けされているので、国家の要請に合致した重点的な作物の作付けがなされるよう作付けの調整を行うこととされたのである。
(イ)
作付けの制限又は禁止
農林大臣又は知事は必要と認めたときは、その農地の所有者、耕作者に対して一般的に農作物の種類、作付け期間等を指定して作付けの制限又は禁止することができる。
(ロ)
作付けの命令
知事が必要と認めたときは特定の農地の管理者に対し農作物の種類、その他の事項を指定してその作付けを命ずることができる。
かくして不急不要の農産物を制限、又は禁止して緊急な農作物の増産を図ると共に農地の利用を完璧を期したのである。

・・・・・・・・・・・


農地作付制限の実施


第一次統制
昭和16年4月17日公布実施して統制すべき作物を第一種、第二種に区分しその作付に制限を加えた。

第一種制限作物
農地全般
果樹、桑樹、茶樹、庭木、柳、桐、マオラン、竹。

第二種制限作物


西瓜、甜瓜(メロンまたはマクワウリ)、越瓜、蓮根、薄荷、除虫菊、花卉、藺草、苺、綿、苗木、(・・・ほかにもあり、漢字が読めず未記・管理人)

西瓜、甜瓜、花卉、苺。

統制方針
(イ)
第一種制限作物
昭和16年4月17日以後、新に栽植することを禁止した。
(ロ)
第二種制限作物
作付せんとするときは知事の許可を受けねばならぬ、
但し自家用は除く。
(ハ)
昭和17年、第二種は許可に加え田の制限率を定めた。
(ニ)
藺草
ほかのものと切離して別途これを統制した。
農家経済の急激なる変動打撃を緩和する意図も含み、許可面積を定めた。

・・・

第二次統制

昭和16年10月16日、農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
必要に応じ食糧農産物に作付転換せしむことが規定された。

食糧農産物
稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆。
制限農産物
桑、茶、薄荷、果樹、花卉。


・・・・

第三次統制

第二種制限作物の第三次統制告示

太平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の極端なる不足を見るに至り、
更に農具、肥料等の生産資材の欠乏甚だしいものがあって、農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を告げるにいたった。

この改正に於いては田に対する作付は全面的にこれを禁止する方針をとったが、藺については軍需も相当あったので昭和18年作付面積を確保する方針で統制し、
除虫菊は南方戦場に於ける特殊作物であったので作付を認めた。

・・・・

第四次統制
不要不急作物の作付制限を一層強化し、必需農産物の作付面積を確保する趣旨により、昭和19年8月1日省令を改正。



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朝鮮産の米

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

朝鮮半島から、日本の都合だけで、米を移入したり、止めたりした。
計画性のなさに、半島の農民は一層疲労していった。

 



「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

朝鮮産の米

米騒動後、米を増産
日本は米騒動後の1920年代に朝鮮で産米増殖計画により米の増産を強行し、
朝鮮産米の相当な部分を日本に移入して内地の食糧を補っていた。

その朝鮮産の米が昭和恐慌の際、本土農家を圧迫した
昭和恐慌の際には、この移入米が逆に内地農業を圧迫して農業恐慌を深刻化させたために、産米増殖計画を中止する措置がとられていたが
戦時にはいり、昭和14年(1939)の大旱害以降ふたたび食糧不足が激化すると、

雑穀をあてがう
朝鮮住民には麦や高粱など雑穀をあてがい、米の消費を禁止同然にして強制供出させ、内地に米を移入しようとした。
しかし、米の対日移出量はかつての900万石から激減し、その後もうち続く不作のため平年度でも500万石に低下していた。
さらに昭和17年の大旱害により18年度の対日移出はほとんど皆無になった。
また、綿花や麻の作付けや養蚕奨励により、日本本国で不足する繊維原料の朝鮮からの取得が試みられた。

・・・

 

・・・

 

「食の歴史と日本人」  川島博之  東洋経済新報社  2010年発行

朝鮮を不幸にした日本のコメ輸入

徳富蘇峰は、台湾からの砂糖また朝鮮からのコメが日本の生存に欠かせない記述がある。
1935年(昭和10年)頃には朝鮮・台湾で作られたコメの約半分が日本へ運ばれていた。
朝鮮国内への供給量が減少している。
一方、台湾国内への供給量は日本への輸出にもかかわらず、それほど減少していない。これは、台湾南部の水田開発に力をいれたので、1920年頃から生産量が増加したからである。
増加分を日本に運ぶことができた。

それに対して、朝鮮の稲作の歴史は長く、既に全土にわたって開墾が行われていたために新たな水田を作ることができなかった。
それ故、日本への輸出が増えると、朝鮮国内への供給量が減ってしまった。
東畑精一氏は、戦後、この時期の朝鮮では「飢餓輸出」(国内に飢餓が生じるような状況になっても、無理に輸出が行われること)が行われていたと述べている。

朝鮮では1918年から1933年にかけて、コメだけでなく全供給熱量も減少している。
これは、現在のアフリカの最貧国水準を下回るから、
1933年頃の朝鮮の人々は難民キャンプ並みの生活を強いられたことになる。
食料供給をみても、日本の統治は朝鮮の人々を不幸にしたとしてよい。

日本は朝鮮を植民地にした際、関税を撤廃した。
その結果、高く売ることができる日本に運ばれた。
高い値段で買い取ってくれる日本の仲買業者にコメを売り、
その代金で中国や満州から粟などの雑穀を買ったとされる。
警察力や軍事力を背景に強制的に朝鮮からコメを収奪したわけではない。
ただ、朝鮮に関税自主権があれば、このような事態は発生しなかったと考えられる。

一方、朝鮮のコメが大量に輸入されたことは、日本国内にも複雑な影響を及ぼした。
品質は劣るが安価な朝鮮のコメはよく売れたそうである。
その結果、
国内産のコメの価格も下落することになり、戦前における農村の窮乏化に一層の拍車をかけた。
当時、国民の約半数は農業に従事していたが、コメの下落は農村の窮乏化に直結し、社会不安につながった。
大規模なものが2.26事件である。
朝鮮半島からのコメ輸入は日本農村の疲弊を通じ、戦前の日本政治をも狂わすことになった。

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”産めよ殖やせよ国のため・外伝” 「4年間一睡もできなかった」、女(ひと) 

2023年05月31日 | 昭和16年~19年

広島県甲奴郡上下町に3ヶ月ほど住んだことがある。
おばあさんが一人暮らしで、昔はご主人と二人で商売をしていたそうで、その家は街道沿いの大きな元商家だった。

おばあさんには男ばかし、4人の子がいるそうで、子育て時代の話が記憶に強く残っている。

「(昭和15年前後ごろ)
結婚して最初の子が生まれた、
翌年次男が生まれた、
その翌年三男が生まれた、
そのまた翌年四男が生まれた。
4年連続して子を産んだ。
出産と子育てで、一睡も満足にできなかった。

それを見たある人が、『世の中には、こうゆうもんがある』と衛生サックがあることを教えてくれた。
それからは、それを使い、子供も産むのを止めた」






・・・・

この話をのち母にしたら「サックのことは知っていた」。

・・・・

おばあさんの話を聞いてから、30年ほど経った。
今でも自分の周りの人や話で4年連続して出産した人は聞いたことがない。
3年連続の人もいない。
おばあさんが言っていたように子育て時代は、毎日がてんてこまいの4年間だっただろうな。
それにしてもご主人までもコンドームのことを知らなかったのも、ちょっと珍しい。


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