しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

三八式歩兵銃

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。
そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。

 

・・・
三八式歩兵銃

「日本軍事史」吉川弘文館 2006年発行

三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、
米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。
「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」
「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」


・・・

「三八式歩兵銃」(センデンビラ)

諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りであります。
然しこれは四十年前の事であります。
その後、各国は競って科学の研究に没頭し科学兵器に一大進歩を見たことは世界各国の知るところであります。
然るに諸君が自動小銃に対し●●式の小銃で闘はねばならないのは何故でせうか。
若し諸君の敢闘精神に米軍と同様な新鋭兵器を以って闘ったらレイテ島の様な悲惨を見ずにすんだかも知れません。
いくら精神力でも三八式歩兵銃ではどうしてコンソリの五〇〇キロ爆弾に喰ってかかることが出来ませうか。

・・・

・・・


(Wikipedia)
三八式歩兵銃
日清戦争で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、
有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年(明治37年)から翌1905年にかけて行われた日露戦争において
、帝国陸軍の主力小銃として使用された。
三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、
同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。
このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。
あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、
また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行っている。
この改良は順調に進み、
本銃は1905年(明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、翌1906年(明治39年)5月に制式制定された。
部隊配備は日露戦争終戦後の1908年(明治41年)3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)であった。
以降、三八式歩兵銃は日本軍(海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵、満洲事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事変等で使用されている。

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12月8日、米英へ宣戦布告

2023年12月08日 | 昭和16年~19年

日清戦争以来、日本は満州の利権に強く拘り、拡大していった。
その結果、満州事変を自ら起こし、
その数年後には支那事変をも自ら起こし、日中全面戦争となった。
米英より、
せめて「満州事変」前を求められたが拒絶、昭和16年12月8日の対米英開戦となった。

 

・・・

「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公新書 1995年発行

東条英機内閣は、ハル・ノートを最後通牒だと受けとめた。
「満州事変前の状態へ、日本を逆戻りさせることはできない。
撤兵しては、英霊にあいすまない」
として、開戦を決意した。
当時の日米の国力には、気が遠くなるほどの格差があった。
「日米蘭の経済封鎖が持続する場合、日本は”ジリ貧”におちいることになる。
特に石油は昭和17年7月ころには貯蔵ゼロ皆無となり、海軍は全くその機能を喪失するに至るであろう。」
ジリ貧を避けるために開戦するというのである。

・・・

(「歴史街道」 2021・9号)

 

・・・

「アジア・太平洋戦争」  吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行

 

戦争目的

昭和16年12月8日、
開戦の日に天皇の名で発表された宣戦の詔書では、
英米などによる対日経済制裁の不当性を強調し、自衛のためにやむを得ないという位置づけである。
しかし、同夜に情報局次長はラジオ放送で、
「アジアを白人の手から、アジア人自らの手に奪ひかへすのであります」、
とむしろアジアの解放にあった。

危機感の高めるときは自存自衛の面が強く叫ばれ、
情勢の好転する場合には大東亜新秩序の建設こそがが、この戦争の目的といわれた。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行


反米キャンペーンの立遅れ

米英による支配からアジアを開放するという戦争プロパガンダは行われたが、
白色人種対黄色人種、
西洋対東洋、というキャンペーンは政府により抑制された。
日本はドイツ、イタリアと同盟関係にあったからである。
また、反米的な戦時プロパガンダが本格化するのも昭和18年に入ってからのことである。
米英音楽の演奏が禁止され、横文字の看板撤去、英語の雑誌名や会社名の改名などが行われる。
有名な「鬼畜米英」という刺激的な表現が新聞に登場するようになるのも、翌昭和19年に入ってからのことである。

 

「大東亜共栄圏」の建設

これまでは中国に進出して「東亜新秩序」を建設することが日本の目標とされていきたが、
「大東亜共栄圏」へと舵が切られた。
この「大東亜共栄圏」は、イギリス・フランス・オランダの植民地になっているマレー・インドシナ・東インドを「独立」させることによって建設される建前になっていた。
だが、
その頂点に日本があって共栄圏全体を指導するものと考えられていたことはいうまでもない。
「民族解放」の題目は、しょせん日本による支配を糊塗するためのものにすぎないようにみえる。
だが、日本が東南アジア支配を正当化する理屈として、なぜ「民族解放」を選んだのかという点はやはり重大である。
ヒトラーは、ドイツ民族生存のために不可欠な「生存権」を確保するとう名分のもとに中・東欧に侵攻した。
日本は第一次大戦後の脱植民地と民族自決の流れに便乗した。
すなわち欧米宗主国から「独立」させたアジア諸民族の支持を集め
日本の指導を受けれさせることが可能であると計算されたのである。
ようするに、「民族解放」のスローガンは単にアジア支配のうわべを飾る美辞麗句だったのではなく、
「独立」の意味をゆがめて解釈することによって、日本の建設する新たな帝国を支える基本原則となることを期待されていたのである。


大東亜省


「大東亜共栄圏」内の諸民族は日本の戦争遂行に協力し、
国防資源の開発を中心とした総力決戦体制の構築という目的に奉仕すべきものとされたのである。
東郷外相はこの厚顔な政策に猛反対した。
東郷自身、「大東亜共栄圏」における「独立」が主権国家間の対等平等の関係を意味するものではなく、
日本の指導を前提とすることを認めていた。
「独立は名のみにして実は属国視せらるるものと信ぜしめ、其の結果帝国に対して不信、疑惑と共に不満の念を抱かしめ。。。」
結局、9月1日、東郷外相は辞任に追い込まれた。
 


「大東亜戦略指導大綱」


昭和18年5月30日の御前会議で決定された「大綱」では、
ビルマ・フィリピンを独立させる方針が定められている一方、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し
重要資源の供給源として開発ならび民心の把握に努む」
という条項が盛り込まれた。
石油をはじめとする資源豊富な英領マレー・ボルネオと、オランダ領東インドは日本の領土とするという意思が臆面もなく表明されたのである。
ビルマは対英戦争を遂行するうえで好都合な場所であり、
フィリピンは以前から宗主国アメリカに独立を約束されていた。

ところで「民族解放」を突きつめて行けば、朝鮮や台湾の地位の問題に突き当たる。
これに対処して、特に朝鮮の独立を防ぐためにも、
朝鮮の日本への同化が急がれねばならなかった。
悪名高い「皇民化政策」は、
日本の植民地支配時代に一貫しておこなわれたものではなく、
戦時下に本格化したものである。
さらに44年4月からは、「内鮮一体の具現」という名目の下で徴兵制が施行されている。

 

大東亜会議と「大東亜共同宣言」


1943年11月に開かれた大東亜会議は、重光にとっては、
「大東亜共栄圏」の意義と正当性を内外に闡明にし、アジア諸民族の協力をとりつける重要な場であった。
参加国が平等に一票を持つような機構は日本の指導を妨げるという反対が出て退けられた。
独立を求めるアジア諸民族と、日本の指導を当然とする国内的要求のバランスをとった宣言を採択した。

 

・・・

「ライシャワーの日本史」 エドウィン・ライシャワー  文芸春秋社 1986年発行

第二次世界大戦の発端

第二次世界大戦の発端は一九三七年の日中の衝突にあるので、
一九三九年のヨーロッパでの開戦や一九四一年にアメリカがその両方に参戦したことではなかった。

日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思いこみがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

しかしナショナリズムの波は急速に広がっていた。
とくに中国ではその勢いは激しく、朝鮮半島や満州での植民地支配の現実はもはや日本人をヨーロッパ人やアメリカ人よりも魅力ある主人とは思わせなくなっていた。
日本帝国が大きくなっていくにしたがって、中国人の抵抗も激しいものとなっていった。
東アジアに侵略し、一大帝国を築きあげようと野心にかられた日本は、世界史的にはいささか遅きに失していた。
十九世紀における列強の帝国主義的進出のようにことは容易には運ばなかったのである。

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兵隊

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

兵隊は戦争の要員なので、戦争が無い時は兵は一定数以上は必要なかった。
父はよく、「まんが悪い」とこぼしていた。
日中戦争が勃発した年が徴兵検査の年齢だった。
それは父と同じ生まれの人は、ほぼ全員そう思ったに違いない。
この年から検査合格者は、全員兵隊に召集された。

・・・


「美星町史」


徴兵検査

小田郡の各村々は笠岡の貫閲講堂を検査場としていたので
当地の受検者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。
その検査場には、村長は勿論、
在郷軍人分会長・小学校校長・青年学校長も列席して行われ、
それは厳格そのものであった。
大体一日に三~四ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。
検査官は岡山聯隊区司令部の職員で、下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。
検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、
受検者は初めから終わりまで、ふんどし一つの裸で臨み、
軍隊式の厳格な号令と返答、態度で実施されたのである。
すべての検査終了後、徴兵官の面前に立って、
甲種、第一乙種、・・・の宣告を受けて終了となる。


召集


戦争がおきると召集令状によって、入隊していた。
その内容は日時と場所の指定をして、至上命令であった。
召集者は一定の日数(三日ないし七日)の間に見廻りの整理を行い、
婦人会からの千人針なり、「祝出征」の幟などを作ってもらい、
組や親族の宴会にも出席し、あわただしい日を送る。
出征当日は氏神様に参拝し、見送りの人達の「万歳」の声に送られて出かけたのである。
村人は涙一つ流されず、「おめでとうございます」と挨拶する他になかった。

 

千人針

出征軍人への最高の贈り物は千人針で、布不足の時でもこれだけは手にいれることができた。
最初は、長さ1mくらいのサラシ木綿に赤で千個の点を打ったものであったが、
後には、それに虎を大書した布や「必勝」と書いた布が用いられた。
また、5銭銅貨を縫い付けて、「死線を越える」の意味をこめたものであった。
女一人一針で、寅年の人は年齢の數だけ小さな結び目をつけた。
これを作り上げる活動を、婦人会が引き受けて「武運長久」を祈りながら、
村中廻り隣村へも出かけて行った。
子どもを背負って、薄い重湯を入れた瓶をさげて、モンペに地下足袋の粗末な出立ちで足を棒にし、
山坂越えて歩き、でき上りは氏神様へお供えして祈り、あらためて、当人に差し上げた。


出征

出征の当日には、氏神様の前に子供から老人まで、大勢集まって、日の丸の小旗を振りながら出征兵士を送る歌を唄って門出を祝った。
若い母親の背中で父を見送っている乳児を見ても、村人は涙一つ流されず、
「お目出とうございます」と挨拶する他になく、慰めの言葉は言えなかった。
一方では、八幡巡りの老若男女が、弁当を腰に杖をついて行く姿が目に入り、
また、どこからともなく小学生の歌声がきこえて

必勝祈願の朝参り 天皇陛下のおん為に
死ねと教えた父母の 赤き血潮を受けついで
心に必死の白タスキ かけて勇んで突撃だ

何ともいえない息のつまりそうな一ときであった。

・・・

(昭和13年・父の出征記念写真)

 

・・・

「ビジュアル日本の歴史 116」

「戦陣訓」

捕虜になるくらいなら死を選べ!
日本を自決に追いやる「戦陣訓」

日中戦争が長引くくにつれ、兵士の士気が低下して軍紀は退廃。
戦場での掠奪、暴行などの非行が続出した。
そこで陸軍省は、1941年(昭和16年)1月8日、「戦陣訓」を全軍に示達、
軍人として守るべき道徳と戦場で特に戒めなければならない心がけを説いて軍紀の粛正を図った。
しかし、中には次のような一節もあった。
~名を惜しむ~
「常に郷党家門の面目を思ひ・・・その期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。
この戦陣訓が示した精神論と捕虜の絶対否定は、敗れた兵士に「自決」と「玉砕」の選択肢しか与えず、失わなくてもよかったはずの多くの命を散らすことになった。

 

・・・

「あの日、あの味」 月刊望星編集部 東海大学出版部 2007年発行

兵隊と食べもの  伊藤桂一

軍事用語で兵食というのは、兵隊の食べもの、兵員のための食糧ということです。
古来、軍事に関する限り、兵食はもっとも重要な意味を持ちました。

軍事用語で兵站(へいたん)というのは、兵用の宿泊施設のことで、同時に食糧の心配もします。
軍事行動する時は、まず食糧をどう補うかを考え、できれば宿泊のことも考えます。
今次大戦では、日本軍は戦力、戦闘、行動力に重点を置き、兵食の問題を重要視しませんでした。

私は日中戦争に7年間、一兵士としてつきあいましたが、
補給は現地でとれ、という命令をよく受けました。
つまり軍そのものは補給を行わないということです。
私が中国山西省で戦ったころ、この土地は黄土の山岳地帯、山の砂漠です。
出発時に3日分の食糧は持ちますが、5日、6日となりますと行く先々の集落から食糧を入手するしかありません。
砂漠だから水の補給(集落の井戸)にも苦労しました。
でも、中国だからまだよかったのですが、ニューギニア、ビルマ、フィリピンなど南方で戦った人たちは、戦死よりも飢餓死で多く死にました。
食糧がないので空腹から病気にとなり、そのまま死んでいきます。
軍の指導部は兵力の行動を図上戦術で考え、その行動ができるかどうかを考えませんでした。
最後は皇軍の戦闘精神で戦えと考えていました。

兵力が作戦で動くときは、弾薬、食糧を同時に考えます。
これを補給線といいますが、
この補給線を絶たれると、部隊はほっておいても自滅せねばなりません。

ビルマでのインパール作戦では、食糧の全く絶えたままの戦いの中で、多くの将兵が死傷しました。
軍司令部はこの困難を、ただ図上で計画し、一人として現地を具体的に歩いた人はいませんでした。
信じられないことですが、南方戦はほとんどこのような図式で戦われています。

 

・・・

「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館  2007年発行
 
女性兵
 
戦局が悪化すると、大規模な兵力動員がおこなわれ、「老兵」や、体力の劣る兵士の占める割合が急速に増大しただけでなく、
幹部そのものの質も低下した。
昭和14年で中核である「大尉」「少佐」は約60%の欠員をみた。
 
1945年6月に公布された「義勇兵役法」は、17歳から40歳までの女性を義勇兵に服させることを決めた点で画期的で、
軍の指揮下に入り女性にはじめて戦闘員としての役割が与えられた。
しかし編成される前に、日本は敗戦の日を迎えた。
 
実際に、新潟県五十沢村の事例で見てみると、女性隊員は14歳から40歳までの「未亡人又は独身者」に限定されていた。
イギリスやアメリカでは、補助部隊であるとはいえ女性の部隊が創設された。
ソ連では第一線の戦闘部隊でも女性兵士が活躍した。
 
日本では女性兵士は実現しなかった。
米英と比べ「男は前線、女は銃後」というジェンダーの力学が強く作用しているといえるだろう。
 
・・・
 

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まえからわかっていたこと

2023年12月07日 | 昭和16年~19年

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行


まえからわかっていたこと

日本は勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。
なるほどアメリカは大国である、軍備もまさっている、しかしそれがどうしたというのだ、
そんなことは皆はじめから予想されていたことであり、われわれははじめから問題にしていないのだ、と彼らは言っていた。
そのころ日本人は、日本の大新聞『毎日新聞』で、次のような記事を読んだ。
日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する
戦いだ、と言っていた。
真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。
軍国主義者であり、かつて陸軍大臣であった荒木大将は、『全日本民族に訴う』というバンフレットの中で、
日本の「真の使命は皇道を四海に遍く弘布し宣揚することである。
力の不足は れわれの意に介するところではない。何故に物質的な事柄に気を使う必要があろうか」

彼らはたえず、安心や士気は要するに覚悟の問題にすぎないと言っていた。
どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、サイパンの敗北であろうと、フィリッピン防衛の失敗であろうと、日本人の国民に対するおきまりのせりふは、
これは前からわかっていたことなんだから、少しも心配することはない、というのであった。 

明らかに、お前たちは依然として何もかもすっかりわかっている世界の中に住んでいるのだと告げることによって、日本国民に安心を与えることができると信じたからであろう。
しかしこうなることは前から百も承知していたことであって、必要な手筈は日本はアメリカ爆撃機の行動半径内すっかりととのっている」。
「敵は必ずわれわれに対して陸・海・空三軍の連合作戦をもって攻勢に出てくるであろうが、これはすでにわれわれの計画中に予定されていたことである」。
爆撃によって国内戦線の日本人の士気を沮喪させることは不可能である、
「なぜなら彼らはすでに覚悟しているから」と確信していた。
アメリカ軍が日本の都市の爆撃を開始したころ、航空機製造業者協会の副会長は次のような放送を行なった。
「ついに敵機はわれわれの頭上に飛来して参りました。
しかしながらわれわれ航空機生産の事に当たっております者は、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまして、これに対処する万全の準備をすでに完了致しております。
したがって何ら憂慮すべき点はないのであります」。

すべてが予知され、計画され、十分計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、決して受動的に他から押しつけられたのではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができたのである。
「われわれは受動的に攻撃されたと考えてはいけない、積極的に敵をわれわれの手もとへ引き寄せたのだと考えなければならない」。
「敵よ、来るなら来い。
われわれは「ついに来たるべきものが来た』と言う代りに、むしろ「待ちに待った好機が到来した。
われわれはこの好機 の到来したことを喜ぶ』と言うであろう」。

またラジオの報道によれば、アメリカ軍がマニラ市中に突入した時、
山下将軍は「ニッコリ笑って、敵は今や我が腹中にあり、と言った・・・・・・」
「敵がリンガエンに上陸した後まもなく、たちまちのうちにマニラをおとすことができたのは、
これひとえに山下将軍の戦術の結果であり、将軍の計画通りに事が運ばれたのである。
山下将軍の作戦は目下引き続き進行中である」。

言い換えれば、負ければ負けるほど事はうまく運んでゆく、というのである。

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昭和20年、食べる物がない③子ども

2023年08月08日 | 昭和16年~19年

映画「二十四の瞳」では、大石先生の幼子が空腹で何か生ものを食べ、食あたりで死んでしまう。
小学生くらいになると、自分で周辺の自然から、いくらか調達できるけど
いちばんの弱者は赤ちゃん。
母は近所の子、二人に乳を与えていたが、その二人とも結局亡くなってしまった。

 

・・・

 

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館  2009年発行


食料確保と工夫

南瓜やさつまいもの栽培がさかんに奨励されると同時に、
ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。

 


このポスターには
「とち、かし、なら、くぬぎは皆さんのおなかを一杯にさせる乾パンやあめやパンになります。
ウント拾って沢山食べましょう。
また、あるアルコールや牛の皮のなめすタンニンになります。
学校の先生の指導の下に、大いに拾って下さい。
農林省・日本林業会」
という文言がみえる。

子どもたちの力も徹底的に借りようという作戦であった。

 

・・・


津之郷国民学校・小国民のつくるもの

「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

昭和19・20年当時、
農村に残っている者といえば、婦人や老人、それに子どもばかりで、
食料生産にも労働力不足で、子どもといえども必要な労働力であって、
学校から帰るとすぐに家事の手伝いはもちろん学校でも、
毎日のように食糧増産のための農作業があった。
昭和19年から校庭も畑に利用されて、春・夏はカボチャや大豆・甘藷が植えられ、
カボチャの収穫後、秋は大根や葉物野菜が植えられた。

 

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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

昭和18年11月「岡山県学校防空指針」が制定され、
各学校の防空計画の基準が示された。
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲にそなえて退避壕がほられた。

訓練警戒警報や訓練空襲警報のサイレンを合図に、毎日のように訓練が行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童生徒の保護が最重点であった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫い付けたスフの洋服を着て学校に通った。
岡山県内へ縁故疎開してくる児童生徒は日を追って増加した。
あいた校舎は工場や軍の施設として使用されることになった。
昭和20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、
まるで、学校が校舎を借用しているかのようであった。


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農業も統制下へ(軍需農産物の増産)

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

家は果物農家だった。
残念ながら父母に、戦時中の果物の作付制限のことを聞いていない。
父母は、その事を自らも話をしなかった。

たぶん、
父は断続的に兵役に就き、
母は農婦・主婦・母・家政婦および雑役婦で身体も気力も余力が無く、
毎日のことで精いっぱいだったので、
果物の作付・・・この場合、老木の植え替え・・・まで、事実上手が回らなかったと思える。
おそらく、桃や梨を植えるのは茂平でも、どこでも日本全国制限があった。






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「新修倉敷市史6」

農業も厳しい統制下へ

昭和16年4月、農産物作付制限規則を公布
果物・桑・茶・庭木など新植を抑え、翌年からは
スイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
昭和18年秋、いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。
農作業の仕方も統制された。
共同で田畑の管理・田植え・除草・収穫など決め、人を雇ったり雇われたりして農業することを制限した。
一方で農家は米麦や芋類の食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで供出の増加を求められた。
農科は深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。
玉島町では学童を動員して家庭の灰を集め、市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底の泥まで肥料にしている。


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「真備町史」  真備町史編纂委員会  昭和54年発行

農地作付統制規則

昭和12年7月より支那事変、このため県下の農業も戦時体制への転換となる。
この時の農業で最も重視されたのは食糧の増産と管理であった。
供出と配給は米に始まり、次第に麦、いも、雑穀類まで適用され、
次第にすべての副食物、調味料も配給、本県では昭和14年の旱害により節米を奨励し、15年から統制。

食糧統制は昭和17年食糧管理法で供出の事前割当制、部落責任供出制などにより一層強化、
決戦態勢となり昭和16年には農地作付統制規則が制定され、不要の作物の作付は制限または禁止となった。

続いて17年からは桑園、ぶどうを除く果樹園などの整理をし、主要食糧作物に転換せしめ、これがため換金作物を制限された面では農家に不利となる。

肥料の配給は昭和12年より始められ、
肥料を施すのも制限が加えられ、主要食糧の増産の方に肥料をまわすよう指示。
農機具も昭和13年より統制され、18年には農機具生産者の整理統合。
また、昭和13年には農地委員会が設けられ、小作料の軽減を企てた。
更に小作人から高く米を買い上げ、地主米の価は安くし小作料の金納も認めた。
これにより地主は農地改革を待たずして大きな打撃を受けるに至る。

主要食糧作物のうち麦類,いも類は作付面積が多くなり、特に昭和15年には小麦の作付け面積は史上最高となった。
水稲は14年、15年と不作、昭和20年には特に不作。
しかし農家の経済面は良くなって戦後に続いた。


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「岡山市百年史」

戦時体制下の農漁村

一般農産物のほかに軍需農産物の増産がはかられた。
当時、軍需農産物といわれたものは、
大麦・乾燥稲わら・梅干・ウサギ毛皮・ウサギ肉・牛馬・むしろ類・真綿類・綿花・サツマ芋などであった。
昭和15年10月に、中央で大政翼賛会が発足し、いわゆる新体制運動がはじまった。
昭和16年10月には、農民は
スイカ・メロン・花卉・イチゴの作付けを禁止され、
蘭・白ウリ・レンコン・除虫菊などは大幅に制限されることとなった。


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復刻版「岡山県農地改革誌」  船橋治 不二出版  199年発行


臨時農地等管理令の制定

大陸の彼方に限りなく拡大された支那事変は軍需生産増強の要請を絶対なならしめ、
そのため農地が軍需関係用地に転用されるものが増加した。
更に農村においては、労働力が不足し農地の完全利用がなされず休空閑地さえ散在する状況を示し、
しかも極端な労働減は遂に安易な作物へ作付け転換をなすものすら漸増せしめる結果となった。
このような情勢から農地の保全と食糧増産の目的を完遂するために農地の潰廃を統制し、農作物の作付けを制限すると共にその調整を図ることにした。

1・農地潰廃の制限
農地を耕作している者は、農地以外に供すときは、50坪を超えるときは原則として知事の許可を要する。

2・耕作の強制
知事は休空閑地に対し、耕作するよう勧告することができる。
しかし本県においてはこの規制によって知事が作付けの強制命令を発したことはない。
3・耕作の調整
不急不要な作物も作付けされているので、国家の要請に合致した重点的な作物の作付けがなされるよう作付けの調整を行うこととされたのである。
(イ)
作付けの制限又は禁止
農林大臣又は知事は必要と認めたときは、その農地の所有者、耕作者に対して一般的に農作物の種類、作付け期間等を指定して作付けの制限又は禁止することができる。
(ロ)
作付けの命令
知事が必要と認めたときは特定の農地の管理者に対し農作物の種類、その他の事項を指定してその作付けを命ずることができる。
かくして不急不要の農産物を制限、又は禁止して緊急な農作物の増産を図ると共に農地の利用を完璧を期したのである。

・・・・・・・・・・・


農地作付制限の実施


第一次統制
昭和16年4月17日公布実施して統制すべき作物を第一種、第二種に区分しその作付に制限を加えた。

第一種制限作物
農地全般
果樹、桑樹、茶樹、庭木、柳、桐、マオラン、竹。

第二種制限作物


西瓜、甜瓜(メロンまたはマクワウリ)、越瓜、蓮根、薄荷、除虫菊、花卉、藺草、苺、綿、苗木、(・・・ほかにもあり、漢字が読めず未記・管理人)

西瓜、甜瓜、花卉、苺。

統制方針
(イ)
第一種制限作物
昭和16年4月17日以後、新に栽植することを禁止した。
(ロ)
第二種制限作物
作付せんとするときは知事の許可を受けねばならぬ、
但し自家用は除く。
(ハ)
昭和17年、第二種は許可に加え田の制限率を定めた。
(ニ)
藺草
ほかのものと切離して別途これを統制した。
農家経済の急激なる変動打撃を緩和する意図も含み、許可面積を定めた。

・・・

第二次統制

昭和16年10月16日、農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
必要に応じ食糧農産物に作付転換せしむことが規定された。

食糧農産物
稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆。
制限農産物
桑、茶、薄荷、果樹、花卉。


・・・・

第三次統制

第二種制限作物の第三次統制告示

太平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の極端なる不足を見るに至り、
更に農具、肥料等の生産資材の欠乏甚だしいものがあって、農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を告げるにいたった。

この改正に於いては田に対する作付は全面的にこれを禁止する方針をとったが、藺については軍需も相当あったので昭和18年作付面積を確保する方針で統制し、
除虫菊は南方戦場に於ける特殊作物であったので作付を認めた。

・・・・

第四次統制
不要不急作物の作付制限を一層強化し、必需農産物の作付面積を確保する趣旨により、昭和19年8月1日省令を改正。



・・・

 

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朝鮮産の米

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

朝鮮半島から、日本の都合だけで、米を移入したり、止めたりした。
計画性のなさに、半島の農民は一層疲労していった。

 



「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

朝鮮産の米

米騒動後、米を増産
日本は米騒動後の1920年代に朝鮮で産米増殖計画により米の増産を強行し、
朝鮮産米の相当な部分を日本に移入して内地の食糧を補っていた。

その朝鮮産の米が昭和恐慌の際、本土農家を圧迫した
昭和恐慌の際には、この移入米が逆に内地農業を圧迫して農業恐慌を深刻化させたために、産米増殖計画を中止する措置がとられていたが
戦時にはいり、昭和14年(1939)の大旱害以降ふたたび食糧不足が激化すると、

雑穀をあてがう
朝鮮住民には麦や高粱など雑穀をあてがい、米の消費を禁止同然にして強制供出させ、内地に米を移入しようとした。
しかし、米の対日移出量はかつての900万石から激減し、その後もうち続く不作のため平年度でも500万石に低下していた。
さらに昭和17年の大旱害により18年度の対日移出はほとんど皆無になった。
また、綿花や麻の作付けや養蚕奨励により、日本本国で不足する繊維原料の朝鮮からの取得が試みられた。

・・・

 

・・・

 

「食の歴史と日本人」  川島博之  東洋経済新報社  2010年発行

朝鮮を不幸にした日本のコメ輸入

徳富蘇峰は、台湾からの砂糖また朝鮮からのコメが日本の生存に欠かせない記述がある。
1935年(昭和10年)頃には朝鮮・台湾で作られたコメの約半分が日本へ運ばれていた。
朝鮮国内への供給量が減少している。
一方、台湾国内への供給量は日本への輸出にもかかわらず、それほど減少していない。これは、台湾南部の水田開発に力をいれたので、1920年頃から生産量が増加したからである。
増加分を日本に運ぶことができた。

それに対して、朝鮮の稲作の歴史は長く、既に全土にわたって開墾が行われていたために新たな水田を作ることができなかった。
それ故、日本への輸出が増えると、朝鮮国内への供給量が減ってしまった。
東畑精一氏は、戦後、この時期の朝鮮では「飢餓輸出」(国内に飢餓が生じるような状況になっても、無理に輸出が行われること)が行われていたと述べている。

朝鮮では1918年から1933年にかけて、コメだけでなく全供給熱量も減少している。
これは、現在のアフリカの最貧国水準を下回るから、
1933年頃の朝鮮の人々は難民キャンプ並みの生活を強いられたことになる。
食料供給をみても、日本の統治は朝鮮の人々を不幸にしたとしてよい。

日本は朝鮮を植民地にした際、関税を撤廃した。
その結果、高く売ることができる日本に運ばれた。
高い値段で買い取ってくれる日本の仲買業者にコメを売り、
その代金で中国や満州から粟などの雑穀を買ったとされる。
警察力や軍事力を背景に強制的に朝鮮からコメを収奪したわけではない。
ただ、朝鮮に関税自主権があれば、このような事態は発生しなかったと考えられる。

一方、朝鮮のコメが大量に輸入されたことは、日本国内にも複雑な影響を及ぼした。
品質は劣るが安価な朝鮮のコメはよく売れたそうである。
その結果、
国内産のコメの価格も下落することになり、戦前における農村の窮乏化に一層の拍車をかけた。
当時、国民の約半数は農業に従事していたが、コメの下落は農村の窮乏化に直結し、社会不安につながった。
大規模なものが2.26事件である。
朝鮮半島からのコメ輸入は日本農村の疲弊を通じ、戦前の日本政治をも狂わすことになった。

・・・

 

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”産めよ殖やせよ国のため・外伝” 「4年間一睡もできなかった」、女(ひと) 

2023年05月31日 | 昭和16年~19年

広島県甲奴郡上下町に3ヶ月ほど住んだことがある。
おばあさんが一人暮らしで、昔はご主人と二人で商売をしていたそうで、その家は街道沿いの大きな元商家だった。

おばあさんには男ばかし、4人の子がいるそうで、子育て時代の話が記憶に強く残っている。

「(昭和15年前後ごろ)
結婚して最初の子が生まれた、
翌年次男が生まれた、
その翌年三男が生まれた、
そのまた翌年四男が生まれた。
4年連続して子を産んだ。
出産と子育てで、一睡も満足にできなかった。

それを見たある人が、『世の中には、こうゆうもんがある』と衛生サックがあることを教えてくれた。
それからは、それを使い、子供も産むのを止めた」






・・・・

この話をのち母にしたら「サックのことは知っていた」。

・・・・

おばあさんの話を聞いてから、30年ほど経った。
今でも自分の周りの人や話で4年連続して出産した人は聞いたことがない。
3年連続の人もいない。
おばあさんが言っていたように子育て時代は、毎日がてんてこまいの4年間だっただろうな。
それにしてもご主人までもコンドームのことを知らなかったのも、ちょっと珍しい。


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靖國の家

2022年11月23日 | 昭和16年~19年

(嫁いらず観音)

 


井原の町歩きをしていたら表札の横に、「靖國の家」プレートのお宅があった。

以前笠岡市笠岡では「遺族の家」を2軒ほど見た記憶がある。
戦前や戦時中のものかと思っていたが、戦後(初期だと思う)にも発行された可能性があるようだ。
この時代の記録・資料は、どうしてはっきりしないのか、いつも不思議というより不満に思う。


・・・

誉の家

(Wikipedia)


特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。
戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。
戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる。


類似した表現・表札
誉の家
名誉の家
遺族の家
勲の家

・・・

 

(井原市井原町)

 

撮影日・2022.11.18

 

 

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兵はマラリアで死ぬ

2022年07月30日 | 昭和16年~19年

聞き書きの本を読んでいたら、父と同じ元衛生兵の話が載っていた。

父は、従軍した徐州から武漢への途中、多くの兵が戦と病気で亡くなったが、病気はほとんどがマラリアだったと話していた。

薬の不足と、「現地調達」と言う名の、略奪に近い食糧不足による栄養失調が原因での死だった。

 

本の方はビルマの野戦の話で、読んでいて涙が出た。

 

・・・・

 

「聞く、書く。3号」 聞き書き人の会 吉備人出版  2015年発行

ビルマの記憶

話し手Bさん(1912年生まれ・103才)

今から5年ほど前にな、ワシを訪ねてこの施設まで来てくれた人たちがおったんや。
会うんはその時が初めて、その人らはな、70年前の戦争で一緒に戦った仲間の息子さん達やったんやあ。
なんで来てくれたかというたら、その戦友の彼が亡くなるまでずっとワシのことを「命の恩人」やいうて家族に伝えとったらしんや。
65年間ずっとな。
その彼が亡くなったんで、息子さんたちがどうしてもいうてワシを一生懸命捜してくれたんや。
彼とは戦地で別れたまんまやった---。

 

1943年(昭和18)、ワシは3度目の召集を受け衛生兵としてビルマへ向かった。
衛生兵の一番の任務は、前線で負傷した兵士のところへ行って、後方の収容所へ下げること。
弾が飛び込んでくる中で、撃たれても倒れても、兵士は勝手に下がることはできんけんな。
上官の命令があってワシら衛生兵が行かん限り、兵士は怪我してもそのままなんよ。
収容所いうても屋根なんかない。雨が降ったら濡れたまんま。
軽傷やったらヨーチンや消毒してな、また弾が飛び交う中へ戻すんよ。
重傷者はさらに奥の野戦病院へ搬送。担架で運ぶのはしんどい。
ひどくしんどかった。

ある日、衛生部隊が本隊と合流することになってそこへ向かう途中、薬剤官だった川野さんが倒れたんや。
「熱帯熱マラリア」。
この熱帯熱いうんはマラリアのなかでも面倒なんで、致死率が高いけんな。
彼はもう一歩も歩けんようになっとった。
けど決められたとおり本隊に合流せないかんから、
彼を連れていくかどうするか部隊内で協議してな、結果彼をそのままそこに置いてゆくことになったんや。

部隊は前進。
けどワシはまだ息があった川野さんを諦めきれんでな。
彼のもとへ引き返したんや。
軍医に貰ったビタカンフル注射を持って、4本。
ほんで「川野、生きてくれ!」ゆうて懸命に看護したんよ。
一晩して少し熱が下がったけん、あとは彼を野戦病院へ連れていいった。
彼とはそこまで。

 

けどなあ。
これは当時大変なことやってんやで。
戦場で命令もなく、後方へ下がるいうんは絶対にありえんこと。
当然ワシは追及を受けた・・・・。

このとこを川野さんは、戦後家族に言い続けとったらしいやなあ、ずっと・・・。
息子さんの話では、暑いジャングルで意識がもうろうとする中、
「川野を置いてゆくぞ!」
いう声を本人がはっきり聞いとったらしい。
ここの部分は繰り返し家族に言うとったそうや。

瀕死の仲間を置いてゆかねば、自分が犠牲になるという過酷な状況。
それが戦争や。

 

 

ビルマが一番長かったけん。よう覚えとるわな。
出征する時ワシの子どもはまだ小さかったんで、ひじょうにつらかった。
ジャングルのなかをひたすら行軍。
病死が多かったんよ。
一番はマラリヤじゃ。
ワシもかかったんよ、部隊の半数近く一度はかかとった。
薬剤が不足して十分な手当てができん。
野戦病院へ搬送中死亡する人がほとんどやった。
とにかく食べる物が無い。
全く何も無い。
皆栄養失調で治るもんも治らん。
それで快復できんために置き去りもあった。
それから・・・治らん患者自ら隊を離れることは多く・・・あった。
手榴弾をな、抱えて・・・自決よ。
戦場は常に死と隣り合わせやった。

食事は瓜しか思い出せん。
基本「現地調達」。
”取って食え、取って撃て”そう教えられた。
飼い牛を殺して食べたこともある。
ビルマ語で現地の人と話もした。
ほとんど食べ物の話やったなあ。

慰安婦たちがやってきた。
ワシは彼女たちの検診担当で、性病が怖かったから、衛生隊は皆自慰をしょった。

 

敗戦後フランス軍の捕虜になった。
朝から夕方まで畑仕事。
たまに入れるドラム缶風呂が楽しみやった
仲間と話すのは、いつ帰れるのか全くわからんけど、そのことばかり。
敗戦から9ヶ月後の昭和21年5月、日本へ帰還した。

 

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