しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天声人語 【昭和25年】

2023年08月25日 | 昭和21年~25年

・・・


元号廃止と紀元考


「天声人語」 昭和25年2・14  荒垣秀雄  

元号を今年いっぱいで廃止しようとの法案が参議院の文部委員会で練られている。
来年から二十世紀の後半期に入るのだから時期としてちょうどよいのだろう。

日本には元号と神武紀元と西暦の三つが雑居していて、世界史の理解に大きな妨げとなっている。
元号は大化の改新で西暦六四五年に初めて採用され、天皇一世に八回も改元があったこともある。

明治いらい皇室典範で一世一元とされて今日に至ったが、
天皇とともに年代を起算することは、豊臣時代、徳川時代などと支配者の名によって歴史を分類することと共にもうやめてもよかろう。
紀元の起こりは、明治五年十一月、その年を紀元二五三三年としたものだそうだが、神武紀元に大きなサバをよんでいることは今さらいうまでもなく、
これも名実ともに速やかに廃止すべきだ。

西暦は六世紀のなかばころから用いられ始めた。
キリスト降誕と伝えられる年とは四年ほどずれている。

紀元には世界中に五十種ほどあるそうだ。
初紀元の由来はとにかくとして、西暦はいま世界的に通用しているのだから、
日本を含めてこれを用いるのが合理的であり便利である。
神武紀元や昭和元号を捨てたからとて今さら”国威”を失墜することにもなるまい。

 

・:・


蠅・蚊・回虫の楽園

「天声人語」 昭和25年5・19  荒垣秀雄  

急に暑くなって蠅がめっきりふえてきた。
この不潔物の小運送屋がブンブンたかっている。

蠅退治の方法も相変わらず一匹一殺主義である。
大の男が蠅叩きをもって追い回し、
慈悲深い淑女は扇をあおいで、食卓の占める空間だけを不法侵入地帯に保とうと務める。

家庭菜園は野菜の副産物として蠅と回虫との養殖場でもある。
蠅と蚊と回虫を四つの島から追放する政策を掲げる政党があるなら、真ッ先に投票したい。

馬鹿なことを言うなと笑うなかれ。
こいつらを駆除するためには、下水を全国的に完備し、一切の肥しを化学肥料にし、
塵芥処理を完全にし、水たまりには殺虫剤を一日も怠らず注ぐだけのことはせねばならぬ。

蠅叩きや蚊帳を製造する中小企業が破産するような世の中になりたい、
といっても”放言”にはなるまい。

・・・

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天声人語 【昭和21年】~四等国~ほか

2023年08月24日 | 昭和21年~25年

進駐軍の占領政策で、天皇制護持は補償されたが、
敗戦による民主制天皇の誕生には、昭和21年当時、手探り状態であったのが読み取れる。

 

・・・

「天声人語」 昭和21年

・・・


 昭和21年 1・1

焦土日本 

建国以来かくも悲惨な、かくも深刻な新年はいまだかつてなきところ、
満州事変の直後、内田康哉外相によって無考えに放言せられた焦土外交なるものは、
その直後松岡洋右外相の放胆無比な仕上げにあって、
ついに文字通り国を挙げて焦土と化してしまうのであった。

この沈痛な昭和21年の初頭に当たって、君民相互の信頼と敬愛とを提唱し、
単なる神話、伝説に即する現御神(あらみかみ)などの架空的観念を排する画期的詔書の渙発を見る。
まさに科学的日本への一発条たるべきものであろう。

 

・・・

「天声人語」  

昭和21(1946)年  1・6

四等国

昨年9月2日降伏調印によって日本は世界の四等国になったのであるとは、
マック元帥の断案であるが、
その前には、またもっと遡った開戦前に何等国であったのであろうか。

日清戦後が三等国、
日露戦後が二等国、
第一次世界大戦後が一等国になったと一応の説明はつく。

 

・・・・

4.21
ウォーナー博士 


奈良や京都が爆撃されるかどうかについて二つの説があった。
米国は古代文化を破壊するような暴挙はすまいという説と、ドイツの場合ドデスデンには開戦以来一弾も落とさなかったので、ここだけは残す気だろうと、
同市の人口は十倍くらいに膨張したが、結局最後には灰塵に帰した、
日本の古都の場合も同じ囮戦術でくるだろうという説である。

だが奈良も京都も無傷で残された。
その陰にはウォーナー博士の尽力があった。

一美術館長の進言が、米空軍をして一指も触れさせなかったのだ。
同氏がマ司令部の顧問に迎えられたのは日本文化の幸福である。

 

・・・

「天声人語」  

昭和21年 4・29

嵐の中の天皇 

敗戦後、初の天長節である。
天皇を神格化しないようにして祝賀会を行っても差支えない、
という文部省通牒の表現が、占領下の天長節の性格を物語っている。

天皇に関する国民の考えもずいぶん変わったが、
天皇の性格そのものも大きく変貌した。

第一は去年の9月27日、陛下のマ元帥御訪問である。
これで天皇が連合軍最高司令官の下位にお在ることを親(みずか)ら国民の前に示された。

第二は新年の詔書で、親ら神性を否定された。
それから陛下は人間として国民の中に入ってゆかれ、天皇と国民の間に、
奉上や御下問ではなく自由な会話が初めて生まれた。

家庭的なお集いの写真も出た。
以前は、天皇は神なるが故に親子夫婦の愛情を国民の前に示されるべきでないという不文律があったのだ。

天皇の性格も改正憲法が本極りになれば、落ちつく処に落ちつくわけである。
嵐の中に立つ天皇陛下のお誕生日に際し、
国民何れの論客といえども、感慨なき能わぬであろう。

 ・・・・

5.9

皇族と人間性 

満員電車の三笠宮をみて、お疲れでしょう、大変でしょうと同情されたのに殿下はご不満で、
気楽になって満足でしょう、社会学の勉強になりましょう、と云った人が二人しかいないと嘆かれたという。

皇室や皇族方は、今までのような楽な生活は許されないが、人間的解放には新しい感激を覚えておられよう。
人間社会から隔離された生き方は、人間として決して幸福とはいわれなかった。

皇太子さまが幼い頃、動物園にゆかれた。初めての試みとして、交通止めのない行啓だったが、
何が一番面白かったですかとお付きがお尋ねしたら、「電車が動いていた」とおっしゃった。

電車はいつも止まっているものと幼心に思っておられたのだ。

・・・・・

5.12
季節感の回復  

日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。
つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、
それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。
目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。

花や緑も何年かぶりに接する心地がする。
平和になって季節感をとりもどしたのである。
五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。

本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国体を護持するとか、あのまま続けていたら、
コロネット作戦、オリンピック作戦をまたずとも、原子爆弾で国も山河も亡びつくしたに相違ない。


・・・・・・・・・・

6.11
子供を粗末にする国  

マ元帥の四月占領報告にの中に、少年犯罪は上昇をつづけている、とある。
東京における犯罪の五割八分が少年によるものだと指摘している。

今の日本ほど子供を粗末にする国はあるまい。
国家として子供に、とりたてていうほどの保護を与えているか。
赤ん坊の食糧たる牛乳は、ヒゲの生えた赤ん坊たちが喫茶店でガブガブのんでしまう。
学校では腹が減れば休めという。
戦災孤児がいつくような保護施設もない。

子供のことなどかまっておれぬとうのが、今の状態であろう。

・・・・・

6.13

復員者への愛情  


現在の失業者は二百万と推定されている。
そこへ最近までの復員者は約二百万人とみられ、あと数百万人がまだ帰っていない。

これらの大部分が失業群の中に投げこまれるとみられ、社会不安の大きな原因となる。
復員者の採用にはどこでも用心深い風がある。
速やかに新たな大きな手がうたれねば、社会不安は、食糧危機とともに内攻してゆくばかりだ。


・・・・・・・・・・・・

6.18

お米に愛国心なし 


ガダルカナル島はガ島といわれた。
それが転じて餓島とよばれた。

この島から帰って栄養失調で死んだ兵隊の消化器官を解剖すると、
胃壁も腸壁もヒダがなくなりノッペリと坊主になっていたという。

都会で一番困っているのは、多子家庭と疎開やもめだ。
ことに戦災の多子家庭などは金に替える物もない。
きものを売り食いするタケノコ生活はまだ良い部類に属する。


・・・・

6.25

若き飢えるてるの悩み 

一高記念祭がこの二十三日終戦後はじめて開かれた。
数々の飾り物のなかに「若き飢えるてるの悩み」というのがあった。
骸骨のようにやせ衰えている学生が白線の帽子をかぶってヒョロリと立っている。

若き飢えるてるの悩みのために、大学から国民学校まで、これから三ヶ月余の長期食糧休暇にはいろうとしている。
この百日間をどう過ごしたらよいのか、大きな悩みである。

教科書も参考書もない。
本はあっても高くて買えない。

風紀問題でも憂うべき危機が伏在している。
食べものがないから休めッ!というだけでは文部省もあまりに無責任ではないか。

・・・・

7.7

知恵者の愚 

極東軍事裁判における満州事変発端に関する発言内容は、百も承知の人もあれば、初耳の人もある。
日本の上層部や政界、新聞界では常識となっている範囲をあまり出ていない。

しかし大多数の大衆にとっては、うすうすは知っていても
「そんなこともあったのか」とおどろくことが多い。
国民の九九パーセントまではツンボ桟敷に追いこまれていた。
しかもそれが小さい出来事でなはなく、国家民族の運命に至大な関係のあることばかりである。

満州事変前後からの言論報道の暗黒というものが、いかに国民の知らぬまに、国民を破滅の淵へひきずっていたかがわかる。
愚かのようでも最も賢明なものは、国民大衆である。
この戦争はやるべきか、悪い者は軍閥か、という大きな問題については、国民は本能的に、皮膚で、毛穴で感じ分け、最も正しい判断を下すものだ。

・・・

 

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昭和22年4月、6・3制学校が始まる頃 (新制第一回小学1年生の話)

2023年08月01日 | 昭和21年~25年

戦後の教育改革で、
昭和22年4月1日から6・3制度が施行。
昭和23年4月1日から6・3・3制度が施行。
昭和24年4月1日から6・3・3・4制度が施行された。

 

・・・

これは、
昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。
談・2023.7.23


・・・

 

(「一億人の昭和史」占領下の市民生活 毎日新聞 昭和50年発行)

・・・


食べるもの

だいたい麦飯とサツマイモ。
朝サツマイモを炊く、家族全員ぶんのサツマイモを炊く。
それを食べて学校に行きょうた。
(麦飯は?)
そんなものを朝から食べるもんな。もってーねい。
中学生になるころ麦飯を食うようになった。

弁当
ある正月あけに、兄嫁が弁当に餅を焼いていれてくれたんじゃ。
昼に食べようとしたら餅がカチンカチンになっとって、顎が折れるくれい噛んだ思い出がある。

晩飯
夏はうどん。冷やしうどん。
なんでウドンかというと、
そのころは物々交換なんで、小麦を作る。
追分にウドン屋があった。
小麦を持って行ったら、粉に替えてくれたり、うどんに替えてくれた。
お金はいらん。
豆腐は、豆腐屋に大豆を持っていったら、その分量だけ豆腐や油揚げを入れてくれる。
お金はなくても、なんとかしのげてはいけた。

晩ジャコ売り
西浜(よーすな)から「晩ジャコはいらんかー」を売りにくるんじゃ。リヤカーに積んで。
百姓が終わって家に帰るころ、リヤカーに引いてきとった。
それを買うにはお金がいる。
そのお金はおふくろが真田を編みょうた。
真田を売って金にしょうた。
親父はハッカを植える、イグサを植える。それは換金作物な。
それで文房具を買うたりしていた。


ニワトリの肉
肉(牛やブタや馬)は喰うたことはねえ。
鶏を祭に首を絞めて料理しようた。スキヤキに。
それも大人な酒の肴で、その残ったのを子供が食べとった。
肉は吉田の方から売りにきょうた。
じゃけど地区に一軒だけある大地主の家に行くだけで、
われわれの家の前は素通りして行きょうた。
われわれの家は買わんから、金がねえから、


荒神様の”ボタ”
荒神田(こうじんだ)といって、荒神さんの小さい田んぼがある。
秋になってお祭りになると、その田んぼで穫れた米で「ボタ」をつくる。
ボタは、キナコやボタモチとかでなく、単なる”にぎりめし”。
円く握ったボタをぎゅっとしめて赤ん坊の頭くらいの大きさ、これを、じいさん・ばあさん、子どもも同じいっこづつくれる。
これが、うれしゅうてなあ。
米の飯じゃろ。
普段はサツマイモやうどんしか食べてない。
何日もかけて食びょうた。
うれしかったなあ。
みんなもらいにいきょうた。


学校の畑
小学校の畑があった。
そこへ小麦やサツマイモを植えとった。
宿直の先生が、小麦はうどんに換えるとか、
サツマイモは焚いて食わしてくりょうた。
そんな楽しみがあったなあ。

 

茸(きのこ)
あの頃は生活は充実しとった。ゆたかじゃった。
秋になったらマッタケは採れる。
キノコは採れる。
キノコは採った後、乾燥させると一年中食べれる。
バラズシに入れるとおいしい寿司ができる。
ゆたかじゃったよ。

 

換金作物
おやじは、
ハッカを植える、イグサを植える。換金作物じゃな。
それを売って文房具やこ買うてもらようた。
基本は自給自足。

 

乾パン
家の近所に陸軍のエライ人になった人がいた。
その人が東京から休暇で帰ってくるときなどは、
乾パンとかお菓子をもってかえって「おい、やろう」と言ってもらった。
ぼのすごいご馳走だった。
あの乾パンはおいしかったなあ。
今は非常食なんじゃけど。

 

・・

砂糖・甘味

砂糖など貴重品で、
”さとーぎ”は穂が出る、それが甘みがある。
”さとーきび”を絞る工場があった。
小麦から飴をつくる方法があるのか、それが甘かった。

 

・・・

着るもの

女の子は金持ちの子はパンティをはいとるが、
そうでない子は着物。
そうしたら、しゃがんだら見える。だいじなところが。

男はぞうり
藁ぞうりで、2~3年生になったらゴムぞうりがでてきた。


配給制度がまだあった。
戦前のが残っとった。
僕は靴が当たった。
”うれしいなあ”、とお母さんと喜んだ。
履いてみたらぼれえ大きかった。
それで大事にしてタンスにいれとった。
そして3年生か4年生になったころ、タンスから出して履いてみた。
いちんちかふつかで履けんようになった。
いわゆる再生ゴムじゃから、朽ちてパー・・・。(笑)


・・・


茶屋町のおじ

茶屋町に住んどるおじさんいた。
おじさんは国鉄に勤めとった。それじゃけえ食い物がなかった。
おじさんは線路をずーーーーと歩いて来とった。
僕の従兄妹になるのを連れてリュックサックをもってきとった。
そのリュックサックのなかへサツマイモやダイコンや米を詰めてやりょうた。
そしたらまた背負うて帰りょうた。
汽車に乗ったら金もいるしヤミで捕まる恐れもある、それで歩いて帰りょうた。


稲泥棒
庭に干した稲がはぜが無くなっている。
今日はイネ漕ぎをしにゃああいけんど、
道具を積んでいったがはぜから半分ほどなかった。
隣村の〇〇じゃあなかろうか、と親父が言っていたが、見たわけでなく泣き寝入りです。

 

乞食
”へぇとう”はようきょうた。
ていねいにあつかようた。
なんかちょびっと入れてやりょうた、追い払うようなことはしょうらなんだ。
「ちょっとナンキン取ってけえ」いわれて、さえんから取ってきて渡しょうた。

 

・・・・

幼稚園・保育園

この地区に幼稚園も保育園もなかった。
ストレートで小学校に入りょうた。
ただ、
まだ疎開に来た人で残っていた人がいた。
その中にワシの好きになった人がいた。
その人は”すみれちゃん”というかわいい子じゃった。
2年生の運動会の時分に帰っていった。どうしょうるんかなあ。


・・・

小学校の卒業写真

(あの貧しい時代でも)
写真はいろいろ残っとる。
小学校の卒業写真見ると、ワシは学生帽をきとる。
誰に貰うたんじゃろう?

・・・


「井原町史」

藺草(いぐさ)
昭和初期から十年代を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。
特に稲倉村や県主村では、藺染用の土が搾取できたことも良条件となった。

はっか除虫菊全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

・・・

 

 

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一つの鍋 (満州引揚の話)

2023年07月04日 | 昭和21年~25年

昭和20年8月8日、
ソ連軍の満州侵攻でたちまち、日本人は棄民となった。
これは、おば(父の妹)の引揚時の話。

昨日、姉と雑談していたら高齢のおばのことが話題となり、
記録として書き残す。

 

 

一番困るのが・・・

おばの話(2002・4・30)

吉林から葫蘆島(ころとう)まではゴットン車ででた。
ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。

食事は日に一食。
高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。
汽車が止まるのは一日一回。
止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。

野宿。
一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。
野宿じゃから毛布を頭から被って寝んと顔に露がつく。
とにかく私らはづっと野宿をしとった。
若かったけぇなあ。何日かかかってコロ島へでた。

一番困るのが・・・
吉林から葫蘆島(ころとう)までで一番困ったのが・・・おしっこ。
汽車は走りだしたら止まらんし。
満員でみんな立ったまま。
私が「おしっこがでたい」言うたら、身体へ毛布を巻いて、それからカナダライの洗面器にして。
それを、びっしり(満員)乗っとるひとの頭の上を、みんなで運び動いている貨車から外へ棄てていた。
そのカナダライは洗いもなにもせん。

 

管理人記
ここに出る「カナダライ」は、カナダライでなく、・・・じつは「鍋」だった。↓

 

・・

姉の話 2023.7.3 (姉とおばの会話日時は不明)

一つの鍋

日本に引き揚げる時、かね(金属)の手荷物は鍋一つだった。
この鍋で全部の用を足した。
オシッコをするのも鍋にした。
大便もするのも鍋にした。
水を飲むのも鍋にくんで飲んだ。
食糧を受けるのも鍋に貰い、鍋で食べた。


・・・・

 


ソ連軍の侵攻後、何度も生命の危機があり、
その中で一子を失ったおばは、
引揚時の苦労程度は、たいした問題ではなかったような話しぶりだった記憶がある。

 

 

 

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真備町「岡田更生館事件」その5・・・「ゆうれい人口撲滅せよ」

2023年05月21日 | 昭和21年~25年

真備町岡田は、静かな田園都市だが、けっこう全国的にも知られている。
その訳は、名探偵・金田一耕助氏がこの地で横溝正史により誕生したから。

横溝正史は、昭和20年4月から約3年半、真備町岡田に疎開し、家族とともに暮らした。
そしてかの有名な名探偵・金田一耕助が真備町岡田で誕生した。

「岡田更生館事件」が起こった時と2年間重なっている。
”金田一さん”も、この事件を見ていたのかもしれない。

 

・・・

 

(角川文庫「犬神家の一族」)

・・・


「続・ぼっこう横丁」  岡長平 岡山日日新聞社 昭和47年発行

捨子
捨子も大流行した。
食うために肉を売ったその因果の報いよりは、
痴情のはてのテテ(父)無し子が多いので、問題になっている。

刑務所
強盗が馬鹿に増えてきた。
とらえてみれば、ほとんどが引揚者の旧軍人ばかりである。
食う物も着る物もないのでつい出来心の俄強盗なんだ。
刑務所は満員だと新聞は報じている。

性の恐怖
闇の女のばら蒔く病毒で岡山でも一か月に千人以上の罹患者が現れだした。
とうとう9月1日から性病予防法が実施されることになった。
性病中の売淫は2年以下の懲役、1万円以下の罰金。
性病者はキッス厳禁。
・・・どれだけ利き目があったか。

岡山駅前には浮浪者が横臥
終戦後三度目の正月を迎えた。
6月29日の戦災記念日には、その後のたくましい再建岡山の歩みを発表している。
昭和20年5月 戸数 38.500、人口 164.000
昭和20年戦災直後 戸数 13.500 人口 88.300
昭和23年5月 戸数 28.400 人口 140.000
六・三制への整備費(新制中学)の起債は各学区の割り当てでまとまった。

8月22日の山陽新聞に「岡山の玄関から浮浪者群一掃」という見出しで、
駅前広場、車道、植込み、安全地帯へかけて毎晩、数百名の浮浪者が足の踏み込めぬほど横臥し、無料宿泊所になっているので一斉検挙を行った。
家出娘、街の与太者、不良少年、スリなどの多数前科者を連行しているが
これらは中筋を背景とする悪の温床なのだった。
そのうえ5月6日の新聞には岡山駅へ毎日数人の戦災孤児の流れ込む日本版「家なき子」の記事を載せている。

この浮浪者や戦災孤児は、むろん前記の「常住人口」の中にはおらない。
あの人口は「米穀通帳」によったものと思われる。
そうすると全然アテにならない。
5月7日の新聞に「ゆうれ人口撲滅せよ」と農林省が全国へ指令した旨を書いている。
その推定人口は60万人を越え、東京だけでも悠に10万人以上の見込みだと言っている。

 

・・・

 

「戦後教育史」  小国喜弘 中公新書 2023年発行

 

焼け跡

街を放浪する浮浪児は、1947年時点で全国で約7.000名いた。

一般的に浮浪児は戦災で身寄りをなくした孤児とされるが、

家出児童も多かった。

背景には戦争で兵士としての心の傷を負った父親たちによる家庭内虐待があったとされる。

さらに、親たちによる少年少女の身売りも1950年代を通じてしばしば新聞を賑わした。

家庭があっても栄養状態すらままならなかった。

子どもたちは弁当を持っていける子どもばかりでなく、

弁当泥棒・弁当強盗に気をつけなければならなかった。

 

浮浪児たち

靴磨き、新聞売り、煙草巻き、闇屋の使い走り、街頭売春婦の客引きなどに従事する彼らは

「成人の給料生活者の何倍かにおよぶ」収入を得

「外食券の闇買して白米の上に車エビの天麩羅の載った天丼を食べ」

あるいは、

「ほんもののチョコレエト、チューインガムの類を間食」を間食し、

児童保護施設に収容されても繰り返し脱走する者もいた。

 

(戦災孤児たち 東京・上野 1948.5)

 

・・・

 

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男女共学①昭和22年男女共学前夜「青い山脈」

2023年05月15日 | 昭和21年~25年

中学校2年の時の担任の先生には、決まったフレーズがあった。
「いや~~ぁ”青い山脈”はいいですねえ」。
何度も言うので、よほど、その映画に感動や衝撃を受けたことがわかった。
先生の年齢からみても、映画の主人公と同年代で共感やあこがれがあったのだろう。

その後、テレビの放映で何度か見たが、確かに日本人が解き放たれ、新時代をよく感じさせる映画だった。
中2の担任の先生が思わず何度も言っていたことも、よく理解できるような気がした。


・・・

「NHK歴史への招待」 鈴木健二  日本放送協会 昭和57年発行

 

昭和22年男女共学前夜「青い山脈」

 

石坂洋次郎の『若い人』が昭和13年告訴された。
「先生、天皇陛下は黄金のお箸でお食事をなさるってほんとうですか?」
と女学生が質問する場面が”不敬罪”となった。

 

 

戦後日本の再建は、GHQ指導の下に進められた。
マッカーサー元帥は、民主国家日本を築き上げるべく、
「五大改革の指令」を発した。
一、女性を解放すべし
一、経済を民主化すべし
一、労働組合を結成すべし
一、人権を制限する制度を廃止すべし
一、学校教育を民主化すべし

六・三制の施行、男女共学の推進、PTAの設立、などの勧告を行った。
昭和22年「教育基本法」、
第五条(男女共学)
男女は、互いに尊重し、協力しあわなければならないものであって、
教育上男女の共学は、認められなければならない。

教科書が足りない、校舎も足りない、机も足りない、椅子も足りない、教職員も足りない。
教職員も、新しい民主主義に、自分たちはいったい何を子供たちに教えたらよいのか苦悩していた時代である。


・・・


「男女七歳にして席を同じうせず」は国民学校令まで一貫して続いていた。
女子教育は、
「温良貞淑」「良妻賢母」が目的とされ、
男尊女卑の思想がまかり通っていた。

映画「青い山脈」には、
戦後間もない暗鬱としたムード、斬新なストーリーも、
今となってみれば、そう目新しいものでもない。
封切りは昭和24年7月。
原節子、竜崎一郎、池辺良、杉葉子、若山セツ子らが熱演して、
人々の心を強烈にとらえていった。

映画主題歌「青い山脈」は、小説よりも2年後の昭和24年4月のこと。
藤山一郎・奈良光江のデュエットであった。

 

 

・・・

 

昭和23年3月卒業写真・笠岡高等女学校

上下とも着ているものがいろいろ。

セーラー服あり、スカートやモンペの人。

 

昭和24年3月卒業写真・笠岡高等女学校(高等女学校最後の卒業)

 

(笠岡高校七十年史より)

・・・

 

 

 

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木山捷平

2023年02月24日 | 昭和21年~25年

近くに住むおば(父の妹)と、木山捷平は共通部分がある。

戦時中に満州に行き、戦後の満州で生死をさまよったこと。

 

・・・・


「木山捷平の世界」 定金恒次 岡山文庫  平成4年発行

渡満
昭和19年12月28日満州国の首都新京へ着任。
日本国内よりははるかに自由気ままな新天地での生活を味わう。
翌、昭和20年8月12日現地召集を受けて即日入隊。
その後、昭和21年7月14日引き揚げの途に着くまでの約一年間、
生死の間をさまよいながら難民生活を続ける。
文字通り極限状態の生活であった。
みさお夫人によれば、捷平は
「敗戦後の長春での一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた。」
と語ったという。

飢えて死に 凍えて死なん日もあらん されど我は人は殺さじ

 

 

帰国
昭和21年8月23日
引揚船から佐世保に上陸した捷平は、翌日夜郷里笠岡にたどり着く。
みさお夫人は次のように記している。
笠岡駅の出口で私は降りて出る人を待った。
リュックを背負った真っ黒い顔の小男が、ゆっくり降りて㑏ち止まっていた。
それが捷平であった。
「お帰りなさい」
「飯はあるか、酒はあるか」
これが出迎えた妻への第一声であった。
駅前の宿屋に一泊の約束をしておいた、玄関へ入った。
「酒をどしどしたのむぜ」
といいながら握り飯を食べた。
佐世保を出てからまだ飯を食べていないことを私に告げた。

・・・

おばは逃げまどう中、一子を亡くした。
生きて笠岡に帰ってきたが、
「それからがまた、たいへんじゃった」と話した。

捷平さんが言う、”満州での一年間の生活は、百年を生きたほど”
で、おばの年齢をいうと、
もうすぐ、おばは200歳になる。

 

撮影日・2023.2.20

 

 

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朝顔の咲かない夏

2022年05月07日 | 昭和21年~25年
子どもの頃の夏休み、どこの家にも朝顔とヒマワリは咲いていた。
花が終わると種をとり、それを翌年咲かせていた。それが毎年つづいていた。

しかし朝顔の咲かない夏があった。
昭和20年頃から24年頃までだろうか。





季節感の回復  昭和21年5.12  天声人語

日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。
つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、
それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。
目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。

花や緑も何年かぶりに接する心地がする。
平和になって季節感をとりもどしたのである。
五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。

本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国体を護持するとか、
あのまま続けていたら、コロネット作戦、オリンピック作戦をまたずとも、
原子爆弾で国も山河も亡びつくしたに相違ない。


・・・・・


朝顔  昭和21年8.26  天声人語

朝顔は清潔可憐な花である。
その朝顔がこの夏,都鄙(とひ)をとわずどこの庭先にも見られなかった。
この花が姿を消したのは、食糧事情が窮迫し家庭菜園がはやりだしてからである。
朝顔のみならず、草花という草花が、われわれの庭から追放されてしまった。

日本人が花を愛さなくなったからではない。
花を愛する余裕が物心両面ともになくなったのである。
咲く花は、食える実の生る花ばかりである。
南瓜、茄子、胡瓜は、空地という空地に花盛りだった。
生きるか死ぬかのせっぱつまった心境で、咲かせた花である。

しかし南瓜の花も案外いい香りをもっているのを発見した。
武者小路実篤氏は好んで芋の絵を描くが、
自分で作ってみると、
じゃが芋や南瓜のたたずまいにも、驚嘆に値する美を見出すのである。



・・・・

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会社に行って鍋ややかんを修理する

2022年04月20日 | 昭和21年~25年

就職した会社はもともと、海軍呉鎮守府からの土木・建築の請負業だった。
ところが、
敗戦で海軍は無くなり、広島の本社は原爆で破滅し、無の状態のところにさらに復員兵が復職してきた。

その時代をベテラン社員が話す中で、「会社に行っては鍋やヤカンを修理していた」ことをよく覚えている。どんな仕事なんだろう?
少し参考になるような本があった。↓

 

 

 

「少年時代」 安野光雅  山川出版社 2015年発行

戦後すぐのころはすることがないのでアルバイトをした。
土建業の堀内組の堀内さんは、
鍋の底に黒いものを塗って火にかけると、黒い方がはやく沸騰する。
「それを実演販売して、鍋の底に塗る墨を売るのだ。
あ、そういえば穴のあいた鍋を修繕するというのもあったなあ。
ああ、あれは硫黄に墨を混ぜて型に入れて固めればいいんだ。
熱した鍋の穴にあててこすると硫黄がとけて穴をふさぐ。
水を入れて火にかけても水がある間は硫黄もとけないんだ」
といって笑った。
堀内は土木課が仕事をくれないから、
「役所になぐりこみをかけてな、悪いことをしたもんだ」という。
ほかにも何をしたかわかったものではない。

 

 

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「夢の万能薬」ペニシリン

2022年03月20日 | 昭和21年~25年
注射=ペニシリン、とも感じるほど、ペニシリンは名を馳せていた。
昭和20年代、30年代、「病気で注射した」と言えばペニシリンしかイメージできなかった。

・・・・・




「昭和二万日の全記録6」 講談社  1990年発行

人命を救ったペニシリン

昭和20年9月、アメリカから大量のペニシリンが空輸されてきた。
同年暮れ、幣原喜重郎首相が肺炎にかかった。
GHQの軍医長が駆けつけてペニシリンを射った。
その効果は強力だった。
それまで、ペニシリンは庶民の手に届かない高価で貴重な薬であり、闇で一本一万円したこともある。
GHQの指導で森永薬品や東洋レーヨンで製造。
ペニシリンは、肺炎、中耳炎、破傷風、結膜炎、性病など
細菌性の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。
昭和21年に3.930円していたものが昭和23年には513円まで下がった。
昭和25年の朝鮮戦争時には、既に米軍に買い上られるほどの生産国になっていた。

「昭和二万日の全記録6」 講談社  1990年発行





・・・・・
「今は昔のこんなこと」  佐藤愛子 文春文庫  2007年発行

時は流れて昭和20年。
日本は戦争に敗れ、欧米の文化がどっと流れ込んできた。
その中にペニシリンという抗生物質の新薬があり、
それはイギリスの首相だったチャーチルの肺炎も治療したというので一躍名が轟いた薬である。
当時は肺炎は死につながる重病だったのだ。
今まで心配しいしい買春していた男たちは気も晴々と遊里へ赴くようになった。
もう淋病なども怖くはない。
ペニシリン注射一本で忽ち快癒するのである。



・・・・

「天声人語」  
昭和21(1946)年 2・15

アメリカではドイツの技師たちを招聘して、必要な研究と生産とに協力せしめ、
大戦前からナチスの異分子の多くを大西洋を渡らせしめた結果、
アメリカの国力を引き上げることにどれだけ役立ったか計り知れない。
アインシュタインもトマス・マンもその例であり、
ペニシリンもアトム爆弾もかくしてアメリカで完成せられるに至ったのである。

米英華ソを知る人々、知らんとする人々を恒に白眼視し、スパイ扱いして来た日本は、もっと真剣に世界を知る努力を急がねばなるまい。



・・・・



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