しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

弾丸列車のこと②

2015年12月30日 | 昭和11年~15年
記事がおもしろいので転記する。
笠岡近辺のルートや買収に関する、あったこと(なかったこと)を調べてみたい気がする。


幻の弾丸列車-東京発北京行昭和15年  「NHK歴史への招待24」より



昭和15年帝国議会で弾丸列車は正式に承認された。
たたちに測量・用地買収が進んだ。
なかでも愛知県御津町ふきんはもっとも早く用地が確保された。

元地主の話
用地買収というけれど戦争のときだったからどうもこうもない。いくらで買ってもらおうとかはなし、政府の方からおっしゃることはごもっとも・・・で。一軒一軒歩いてない思う。何れにしても安かった。戦争のため、国のため、みんな犠牲になった。
小言でも言えば非国民になってしまうし・・・。


こうして昭和18年までに、東京~下関間全線の27%の用地が確保された。

昭和16年8月4日、いよいよ工事が開始された。最初は難工事が予想された全長9.6キロの新丹那トンネル、両側から掘り進んだ。
対馬・朝鮮海峡についても地質調査が行われた。(佐賀県呼子から海底トンネル)

コースでは名古屋~京都間の3案あり、鈴鹿山脈の真ん中をトンネル案が有力視された。
東京発は東京駅は攻撃目標にされる、新宿は繁華街を壊す、・・・残った市ヶ谷が最有力だった。

昭和18年ごろ弾丸列車のルートはほぼ決まり、停車駅も18駅でほぼ固まった。
(東京・横浜・小田原・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・京都・大阪・神戸・姫路・岡山・尾道・広島・徳山・小郡・下関)
しかし資材難、資金難でついに昭和18年11月中止された。

愛知県の用地担当の話
戦争中は元の地主さんや地もとの方に、食料増産に全部使っていただきました。
それを今度新幹線ができるというので、みなさんがたに返してほしいと申し上げたわけです。

弾丸列車の運転計画によれば、一日42往復の旅客列車と13往復の貨物列車が走る予定であったという。

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弾丸列車のこと①

2015年12月30日 | 昭和11年~15年
記事がおもしろいので転記する。


幻の弾丸列車-東京発北京行昭和15年  「NHK歴史への招待24」より

昭和15年、東京下関間を広軌で、最高時速150キロ、9時間で結ぼうという計画がスタートし、全線開通昭和29年を目指して工事は開始された。
将来は対馬海峡と朝鮮海峡にトンネルを掘って日本と大陸を結び、東京発北京行きの直通列車を走らせようという壮大な計画にまで発展していった。
昭和18年戦局の悪化により計画は中止されることになった。

計画の背景には、第一に明治以来の広軌の鉄道への夢があった。
昭和5年に東海道線に登場した特急「つばめ」は最高時速95キロを記録し、東京・大阪間を8時間で走り人々を驚かせた。しかしこのスピードが狭軌の限界だったのである。

鉄道省調査員の話
昭和13年輸送量増加の指数を線別・区間別に調査、その結果東海道線・山陽線は早い区間で昭和18年、遅い区間でも昭和25年ごろには行き詰まるという数字が出た。
最初は現在線に並べて(狭軌を)敷こうという案だった。
将来大陸への量は予測し得ない増加があるであろう、と急速に広軌・新線が盛り上がった。
軍は在来線との互換性がなく軍事輸送のネットワークに入れることができないという理由で反対した。
しかし東海道・山陽線はほかの線区と違って、それだけで独立性を持っている点、広軌にすることによって実現するスピードアップが輸送力の飛躍的増大を可能にする点、とりわけ大陸との一貫輸送が可能となり、大陸進出を一層容易ならしめるという点で納得した。



昭和14年調査会は増設線路は現在線に並行する碑地用はない。複線がよい。長距離を集中する。広軌。東京~下関間9時間、最高時速150キロ目標。
当時世界各国はSLのスピード競争を繰り広げていた。
ドイツは試験走行200キロ、イギリスは203キロを記録した。



鉄道省技師の話
トンネルを貫くのは土木専門家が調べ、できるということになった。
鉄道省は、東京~大阪間については3時間半、最高時速210キロの電車を設計・検討にはいった。
ところが軍が反対したのである。
変電所がやられたら動かなる、絶対蒸気でなくてはだめだという。
当時南満州鉄道で「アジア号」(パシナ型)が時速120キロで疾駆していた。
パシナは2mの動輪を6つつけたSL。毎分320回転。
回転をこれ以上あげると激しいねじれ振動がおこり危険。
動輪の直径を2m30cm、8個取り付け、毎分350回転させれば、余裕を持って150キロを出すという結論に達した。
汽車が通ったときホームに立ってる人にどうゆう影響がでるだろうか?風圧を分析しホーム幅を決めた。
窓を開けて手を振ったり顔を出したりできるものか?セスナ機に乗って手や顔を出した。
窓を閉めると弁当屋さんはどうなるか?
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グライダーが燃やされる話

2015年12月12日 | 昭和20年(戦後)
太平洋戦争の開始前後、旧制中学校に突然のようにグライダー部が流行ったのは、国家の強い後押しであり、飛行機乗り要員の育成であった。
国家(軍)の思惑通り多くの予科練生を生み出した。
その事は当時の学校の名誉であったろうが、敗戦の後は学校史には一行も、ひとことも記載されていない。

ただ、機が燃え上がる様だけが書かれている。


「興譲館120年史・グライダー物語」より転記

昭和16年、太平洋戦争が勃発するや全国の学校にグライダー訓練が始まった。
本校もまずグライダー指導者を決め、グライダーを注文した。
募金募集にとりかかり、漸くプライマリー三機を購入して大正橋の下手を滑空場として毎日猛訓練が始まった。
中級機・セカンダリー一機を購入して漸く飛行機らしい感じのものとなり、なかり高いところが飛べるようになった。
更にもう一機セカンダリーを購入したところで終戦を迎えることとなった。
10月頃だったか井原市高屋町に進駐軍約30名が駐屯する事になり、その命令で彼らの目の前で全機5機を大正橋の処で焼かされ、グライダーは残骸を残すのみとなった。

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日本食物史②

2015年12月11日 | 暮らし
日本食物史・吉川弘文館より転記


15年戦争と食生活

食糧確保と食事の工夫
不足する食料を確保するには、自給自足、買出し、これまで食べなかったものの食用化の三つがある。
南瓜やさつま芋の栽培が奨励されると同時に、ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。
代用食品採取のため「よい子のみんさんへ」というポスターには、
「とち、かし、ならクヌギは乾パンやあめやパンになります。うんと拾って沢山食べましょう。農林省」という文言がある。

副食は、平時は廃棄していた部分を食用化した。
蓮の葉、南瓜の茎や葉、大根の葉、人参の葉、フキの葉、カブの葉、里芋の茎、キャベツの芯、蓮根の皮、大和芋の皮、ほうれん草の根、みつ場の根、南瓜の種、甘藷のつる、しいの種子、桜の種子、桑の種子、魚の骨、茶がら、ぬか、ふすま、豆粕などである。
食べていなかったものの食用化の例としては、
各種の野草、いなご、はちのこ、さなぎ、かえる、へび、すずめ、どんぐり粉、柿の皮の粉などがあげられる。
それらの食品は地方では常食であったものが多い。

昭和33年、米軍向けだった西洋野菜のレタス、セロリ、カリフラワーなどが普及した。
同年フレンチドレッシングも発売された。サラダが食卓にのぼるようになった。

昭和38年、砂糖が輸入自由化。サッカリン、ズルチンから脱却できた。
コカコーラの輸入自由化は昭和36年である。




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日本食物史①

2015年12月11日 | 暮らし

図書館で借りた食物史が面白かったので一部転記する。



日本食物史・吉川弘文館より①

「食べる」行為は、動物的、醜い行為ととらえられ、羞恥心からも食べる行為を見せたくない、話題にしないという考えが生じる。
いっぽうで一定の階層、儀式などに共通した食事作法が生まれた。



脚気
明治12年、5.000人の4割が脚気にかかり、57人が死亡した。
海軍軍医はパン食と野菜を多くした、死者は7人に減った。(陸軍軍医・森林太郎は細菌説だった)

食生活の地域制
明治・大正・昭和の前期を通して、食生活がどのように変化したのか論じるのは困難である。
それは地域差が大きく、都市部と農村、山間部と海岸部、北部と南部、階層差により異なっていたためである。

すき焼き
昭和初期の東京の公務員家庭では「少しごちそう」として作る。
各地では言葉は普及していたが、鶏や兎や馬肉を使った「大ごちそう」で日常食とは言えなかった。(年に1~3回)

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茂平ことば

2015年12月09日 | 暮らし
22005・2・5、父・母の話


正月は三回あった。
ヒテイ正月(旧2月1日)
新正月
旧正月

牛の子
おんたぁ 牛の雄
めんこ  牛の雌

がんつう
海にるカニを除いたカニ(川や池などにるカニ)

ぎーす
こおろぎ

ぎょーせん 
水あめ。売りに来ようた。

きりば  
まな板

クチナオ・しゃかお
長い方がしゃかお

じゃいも 
三度芋・こうぼういも・きんかいも

じいきいも 
里芋。おや芋

づく
ふざける

せど 
家の裏側

戸をたてる 
戸を閉める

デエコ 
大根

デンパチ 
竹の皮で縫うた(傘)、田植えの時に使う。「ビニールの合羽ができたらくつれいだようにあった。」軽いし、雨は漏らん。

どんごろす 
除虫菊の乾いたのや、芋を入れて(畑から)戻りょうた。

カマス 
ムシロを縫うたような。水落から帰りはカマスに入れてから。

ミシロ(ムシロ)  
稲・麦・除虫菊、ビニールのゴザになった。
干しつくしょうた。百姓家にはどことも干す場所(カド)がある。陽が当たるとこへ移しながら干しょうた。時には日にさんべんほど変ようた。

ヤニとニヤ 
松のやに

のえ


はちまん
(女性の一部の人) しっかりした人・口のようたつ人・お転婆娘。

ほっとーばり
通さん、とーせんぼ。

はんだら
鼻を垂らす

ひーご
ツバメの子

ほぼろ
竹の籠 

ぼーち 
赤ちゃん用語、子供に使う。

むこ
養子。よっけいおらなんだ。

やあとう
背中にお灸をされること。

やっこめ 
おやつで作りょうた。米をほうろくで炒る、ササゲを焚いて混ぜて。

トビ 
おかえし。子供が生まれた時は豆を返しょうた。

ちょーず 
便所・せんち。今はトイレ。

ももたぶら 
女性のももは太っとる。


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茂平「こっていだこ」

2015年12月09日 | 暮らし
「こっていだこ」は地名として呼んでいたような気がするが、屋号なのだろうか。

2005・2・5、母の話



「牛の雄(オス)のことをこっていようた、雄が生まれるとこっていが生まれたようた」
地名じゃろう
ほとんど、Sさんの土地じゃった。
おお分限者じゃったが、子供がいないんで使い果たした。」


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地図から消された場所

2015年12月05日 | 昭和16年~19年
「地図から消された島」として元毒ガス島が自らPRしているが、世界史的にも地図はもともと軍事や領土を目的に作られているので、大日本帝国陸軍参謀本部が作成する地図には消された場所は多い。


以下「岡山の記録第12号・2012年」・消された施設・残された施設より転記する。



1・公共施設
消された施設・・・水道・電力関係の施設。測候所、試験場、検査所、電話局、放送局。
残された施設・・・県庁・市役所、裁判所・税務署、農業・畜産関係、集会所・公会堂。
2・駅・鉄道
消された施設・・・複線はすべて単線、操車場。
残された施設・・・最小限の線路、市電。
3・軍事関係・・・すべて削除。
4・寺社・学校・病院・・・すべて残る。
5・企業
消された施設・・・紡績繊維、農水産加工、自動車、市場。
残された施設・・・新聞社、銀行、百貨店。
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乗客が機関車を押す話

2015年12月05日 | 暮らし
井笠鉄道の車両は、乗客が降りて後押しした話はよく知られ現在でも体験者が多い。
しかし、機関士にとっては後押し不要の下りの方が難しかったようだ。

坂道を登るのが苦しいのは、花火の日、正月の帰省時などと思えるが
不思議に、
降りて歩いた、降りて押した、という乗客の体験談には「笑い話」が多く、
会社や機関車に対して「苦情」の話は聞いたことが無い。



「高梁川68号」の「勾配に泣く」より転記

井笠鉄道には急坂が二ヵ所ある。くじばー大井村間の20/1000勾配と、大井村―小平井間の13.7/1000勾配である。
機関車はブレーキは手動、7~8両の長大編成で手動制動機だけで列車を所定の位置に止める至難の業が求められた。
大井村→くじば間は最後尾に手動制動機のついた緩急車を連結。機関士からの警笛が3回あればブレーキをかけ、汽笛2回で緩めた。

上り勾配は更に大変。
駅の途中で車輪が空転、砂撒き装置はあったが間に合わず、機関助手も車掌も列車から降りて道床の砂をまいたものである。
時には駅にたどりつくことが出来ず、くじば駅まで引き返し再度の挑戦と苦闘の連続であった。

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笠岡紡績の設立・発展②

2015年12月02日 | 江戸~明治
笠岡史談4号「笠岡紡績」より転記

笠岡紡績→福島紡績→敷島紡績(一時・敷島航空工業)と流動する中で、最初の笠岡紡績の話が少ない。乏しい資料からできる限り展開してみようと思う。

県議・村長・地方地主により設立、明治27年8月2日開業。

明治40年の状況、従業員606人、男84・女522、職工賃金男41銭・女23銭。
明治40年供給過剰により糸価低落、対支綿輸出激減。
明治41年極度の営業不振で中央資本の福島紡績と堤携やむなきに至った。
明治42年福島紡績は笠岡紡績を買収した。




(笠岡史談20号より)






笠岡史談20号「敷紡笠岡工場」より転記

明治42年福島紡績になった工場は数度の増錘を行い、明治45年今治から3.000錘を移設した。
大正10年新工場を増設した。大正13年以降は8.000錘の撚糸機をも擁し、別にコーマ―機(精流)を備えて、撚糸および40番手の細糸、高級メリヤスを生産した。
大正末と思われるが、
「総錘数14.000、男女工1000余を使役せり、生産額60余万貫、価格170余万円なり。目下増錘の計画あり」

昭和初期紡績業界も不況に見舞われた。
一時的に職員の半数と女寄宿舎の大部分を帰省させ、操業は200名程度の通勤者のみで行い寄宿舎、炊事などは閉鎖された。操業は午前6時から午後6時まで12時間労働を行い、休日は月2回(1日と15日)とした。
昭和3年福紡笠岡労働組合(総同盟)の結成式が笠岡のえびす座(大和座)で行われた。
昭和13年頃工場整備もほぼ完了、製紡機29.000錘、操業も軌道に乗った。
昭和16年の戦争開始より工場も不安定期にはいった。防府よりスフを移入し混紡機で綿・人絹・撚糸を紡出した。

昭和17年5月より極度に原綿が不足した。敷島紡績と改称した。
昭和19年2月軍部からの強い要請により木製飛行機の製造に従事することになり「敷島航空工業」と改称した。従業員も一千名を上回った。
木製飛行機の部品を作って呉の川尻の日東航空(日東紡績)に送った。一年余で終戦を迎える。

昭和21年2月、再び敷島紡績笠岡工場となった。
昭和22年4月から精紡機26.000錘で本格的な操業が開始された。
昭和25・26年は、朝鮮動乱で特需景気にわきフル操業を続けた。

昭和50年ごろ、綿糸は不況になった。
アクリル繊維、安い外国産におされ不況カルテルが結成された。
昭和52年10月5日、笠岡工場の閉鎖が公表された。
昭和53年3月25日、工場閉鎖。
従業員は昭和41年370、昭和52年260.
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