しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

福山城①遺構を見る 入江・木綿橋・天下橋・築堤・御水門

2021年11月28日 | 令和元年~
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福山城・古写真



天下橋付近から見る福山城。
正面に築堤、御水門二重櫓も見える。

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場所・広島県福山市
日時・2021年11月27日
福山城神辺二番櫓跡現地説明会に参加する。その会場に行く途中、
福山城遺構に寄ってみた。



入江遺構
場所・福山市船入町
今月初め、入江(瀬戸内海から福山城への水路・運河)の石垣が道路工事中に見つかった新聞報道があった。
それらしき場所に行くと、落葉拾いのおじさんいたので聞くと、
「埋め戻して、いまは跡形はまったくありません」とのことだった。


(入江)



木綿橋
場所・福山市笠岡町
入江に架かる橋、モニュメント。


(木綿橋)






天下橋
場所・福山市宝町
入江に架かる橋、モニュメント。


(天下橋)




築堤
場所・福山市伏見町
入江の終点、海と福山城外堀を区切るため、築城後50年ほど経ってから築かれた。
記念碑とか標識はなし。


(築堤ふきん)




御水門・二重櫓
場所・福山駅前
10年前、駅前に二重櫓の再建の市民運動があったが、行政が反故にしたのが極めて残念。
この場所に来るたびにそう思う。






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伊勢大神楽、鴨方往来をゆく

2021年11月27日 | 令和元年~
名称・国指定重要無形民俗文化財「伊勢大神楽」
場所・岡山県旧鴨方往来
日時・2021年11月26日

伊勢大神楽は、時代と地方と社中によって違うのだろうが、
昨日鴨方往来で遭遇したので書き残す。

3人一組で家々を訪れる。
過去帳を見ながら行くので、素通りする家と、門前で止まる家がある。
止まる家は、事前に訪問日・その時間が記載の葉書等が届いているようで家人が待っている。





挨拶のあと、太鼓と笛と獅子舞を1分程度行う、
一年間の家内安全等を祈願の舞で、終わると、次の家に向かう。
それを毎年繰り返す。





浅口地方では毎年11月の下旬に訪れる。
笠岡市も、同じ社中が一部の地区に訪れているが、来ない地区の方が多いようだ。



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「天空の城」に登る 竹田城の雲海

2021年11月24日 | 「天空の城」に登る
竹田城
場所・兵庫県朝来市和田山町竹田 竹田城跡

天気予報を調べ、竹田城の雲海を見に行く。
笠岡駅始発・山陽本線 5:02 (真っ暗)
岡山駅発・新幹線 6:01  (真っ暗)
姫路駅発・播但線 6:39
竹田駅に着いたのが、8:14。
駅に降りて、すぐに裏山(竹田城)に走り上っていった。


雲海が消えないうちに竹田城に登らなくてはいけない。



竹田城三の丸の雲海。






竹田城二の丸の雲海。






竹田城本丸、天守台の雲海。







天守台で眺めていたら、雲海は消えて行った。

満足しながら、竹田城山城から麓の寺町へ下りて行った。
欲を言えば、もう30~40分早く着けばいいのだが、但馬の国竹田は遠い。







撮影・2021年11月16日


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楠公父子--桜井の別れ--

2021年11月24日 | 銅像の人
場所・大阪府三島郡島本町桜井 桜井駅跡史跡公園

♪青葉茂れる桜井の・・・、で有名な桜井駅跡に行ってみた。
都市化が進んでいたが、この公園には700年前の雰囲気がほんの少し漂っていた。





「太平記」  新潮古典文学アルバム  新潮社  1999年発行
正成戦死

尊氏が都を落ちたのは、建武3年(1336)2月であった。
4月にはもう態勢を整え、京都をめざして東上の途についた。
足利軍が海・陸両路を攻め上ると、義貞がこれを防いだ。
しかし敗れて退き、兵庫から援軍を求めると、天皇は正成に兵庫へ下ることを命じた。
勝利の見込みのない戦いであった。
彼は死を選ぶしか道がないことを覚り、討死を決意する。

そこで兵庫に下る途中、桜井の駅で、息子正行に遺言した。

兵庫に下った正成は、5月25日、湊川の西に打って出、
総大将の義貞は和田御崎に陣を構えた。
足利軍は海陸呼応して攻めかかった。
正成は、弟正季と刺し違えて死んだが、
”七度生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい”と語り合ったという。






明治37年版『尋常小学校』~昭和16年版『初等科国語』に至る国定教科書の中で、
楠木正成は日本歴史上最大の忠臣であり、また英雄であった。
しかし、終戦とともに、彼は栄光の座から一挙にすべり落ちてしまった。
現在、小学校教科書の中に,楠木正成の名を見つけることはむずかしい。
戦争を機に、これほど評価の逆転した人物も少ないであろう。

「日本史探訪8」 角川文庫 昭和58年発行



撮影日時・2021年11月4日





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聖武天皇・光明皇后

2021年11月10日 | 銅像の人
場所・奈良県奈良市 奈良公園バスターミナル屋上 「奈良大菊人形展」


奈良に観光に行ったら菊人形をしていた。
文字通り、”薫う”ような美しい菊人形だった。






聖武天皇の天平時代、奈良の都は全盛を極めた。

青丹よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり  小野老

聖武天皇と光明皇后との篤信によって仏教の国教化が確立した。

「奈良県の歴史」 永島福太郎 山川出版社 昭和46年発行









撮影日時・2021年11月5日


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奥村太平

2021年11月10日 | 銅像の人
場所・奈良県奈良市春日町 奥村記念館 





関西系ゼネコンの奥村組は、奈良県が創業地。
奈良国立博物館前に「奥村記念館」があり、市民に開放されたスペースもある。

奥村太平さんは奥村組の創業者で、戦後の大阪通天閣の再建に取り組んだ。






撮影日時・2021年11月5日
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日像と一条兄弟

2021年11月10日 | 銅像の人
場所・広島県福山市南町  妙法寺

この銅像は、福山のバラ公園近くの妙法寺にある。



(Wikipedia)

日像にちぞう(1269―1342)
鎌倉末~南北朝時代の日蓮宗の僧。
下総の人。 日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨(ひごあじゃり)と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。
7歳のとき日朗(にちろう)に従って出家し、身延に隠棲した日蓮のもとで修学す.

一条兄弟はよくわからない。
刀鍛冶師で、熱心な日蓮宗徒だったのだろうか。



日時・2015年5月15日

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鉄人28号

2021年11月06日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市長田区若松町  若松公園





小学生のとき、漫画は大好きだったが、
漫画といえども、ちょっと現実と飛躍しすぎている物語が、いくらかあった。

その代表的な漫画が、
横山光輝の「鉄人28号」、堀江卓の「矢車剣之助」や「天馬天平」、杉浦茂の「猿飛佐助」。

「鉄人28号」は、鉄人が現実離れというのでなく、操作する少年”金田正太郎くん”をさす。


金田正太郎くんは、一見、読者であるわれわれと、ほぼ同じ時代、同じ年齢であったが、
やること、なすこと、すべてが違い過ぎていた。

最大の違いは少年でありながらピストルを持っていて、しかも、すぐに乱発射する。
パンパンパン。





他にも服装。
半ズボン(田舎の子は半ズボンをはかない)、ワイシャツ、ネクタイ、背広。
頭は長髪。
靴はズックでなく、革靴のようなもの。長いソックス。
社会悪と戦うこの少年にとって、まわりの人は子供でなく、大人というのも変わっていた。




そういう、年齢はほぼ同じでありながら、行動が少年離れしたのが、この漫画の魅力だった。
主人公の名前も国鉄のエース・金田正一投手に似ていて親しみやすかった。

後年、笠岡市図書館に行くようになり、本棚に横山光輝作の「三国志」が陳列されていた。
少し、うれしい気分になった。




撮影日・2021年11月4日



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敦盛と熊谷

2021年11月06日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市須磨区須磨寺町  須磨寺

2021年11月4日、神戸市の源平の史跡関係地を何カ所か訪れた。
須磨寺は初めてだったが、都会の市街地の中に歴史と静寂の両方を感じるお寺だった。








「平家物語」 世界文化社 1976年発行 

敦盛の最後

熊谷次郎直実は、何とかよい大将軍と組みたいものだと、渚の方へ馬を進ませていくと、
練貫に鶴をぬいとった直垂に,萌黄匂いの鎧を着て,鍬形に打った兜の緒をしめ、
黄金づくりの太刀をはき、二十四差した切斑(きりう)の矢を負い、滋藤(しげどう)の弓を持ち、
連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者一騎が、沖のほうの船をめざして、
馬を海へ乗り入れ、三、四十間ばかり泳がせているのが目にはいった。

「それなるは、よき大将とこそ見まいらせる、
みぐるしくも敵に後ろを見せたもうものかな。
お返りなされ、お返りなされ」





その武者が引き返し渚にあがろうとしたところを
熊谷はむんずと組みつき、どうと落ち、
取って押さえて首を掻こうと兜をおしあげてみると、
年は十六、七の若武者で薄化粧をし、歯を染めている。
わが子の小次郎くらいの年の美少年であった。
「どういうお方か、お名乗り下さい。お助けしましょう」という。




「さっさと首をとれ」
熊谷はあまりのいとおしさに目もくらんだが、泣く泣く首をかききった。
泣きながら首を包もうとして、鎧直垂を解いてみると、
錦の袋にいれた笛が腰に差してあった。
「東国勢何万騎のうち、軍陣に笛を持ってきている風雅者はよもやあるまい。
さすが平家の公達は風流なものだ」
と思い、義経に笛を見せたところ、涙をしぼらぬ人はなかった。
あとで聞けば、太夫敦盛といい生年十七歳であった。





撮影日・2021年11月4日

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稲作

2021年11月01日 | 江戸~明治
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日本の米

米は主食であると共に、酒や醤油、味噌、酢などの原材料。
うるち米ともち米に分けられる。
ごはんはうるち米で、餅やおこわはもち米。
今から2500~2600年前、縄文時代晩期に大陸から伝わり北九州から広まったという説が有力だ。

食糧管理法(1942~)
不足する米を国民に平等に分配する目的で食管法が制定された。
米の過剰(1971~)
農村と都市の所得格差が開いたため、生産者米価を引き上げた。
1960年から8年間で2倍になった。
米の消費は1962年をピークに減少し、米が余り始めた。
1971年から減反政策、最初単純休耕だったが、後に大豆・小麦などの転作が推進された。
自主流通米(1969~)
政府は在庫が増え、赤字が増え、
ヤミ米(自由米)が売れたので、1969年食管法を改正して、自主流通米がスタートした。
ウルグアイ・ラウンド(1993)
冷夏で、中国やタイから米の緊急輸入。
現在まで毎年輸入されている。
食糧法(1995~)
米を直接統制から間接統制へ大転換した。

うるち米の品種
2019年の作付割合は、
コシヒカリ 33.9% 
ひとめぼれ 9.4%
ヒノヒカリ 8.4%
ほか。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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「岡山の歴史」 柴田一 岡山文庫  昭和49年発行

稲作

岡山県の稲作は、明治30年代になると幕末・維新のころの7~8割がた増加している。
増加したのは綿作から稲作へ転換したなどによる。

また二毛作も70~80%に達し、菜種にかわって小麦の栽培が増加した。
外綿の輸入や石油ランプの普及によって圧倒された。

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コメ(米)
日本では縄文時代の終わりから稲作がはじまった。
現在にいたるまで多品種の米が作られています。
丸みがあるジャポニカ種と、細長いインディカ種があります。
うるち米ともち米に分かれます。
精米後、時間と共に酸化するので、精米したてのものがよい。
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
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