しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」蛤のふたみにわかれ行秋ぞ  (岐阜県大垣市)

2024年09月13日 | 旅と文学(奥の細道)

門人の露通が敦賀まで迎えにきた。
二人は大垣へ向かった。
大垣では曾良をはじめ、多くの門人が芭蕉の到着を待っていた。

 

・・・

・・・
「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

いよいよ〝奥の細道"の旅も、最後である。
大垣には古くからの門弟たちが、多勢あったし、何度か訪れた土地でもあった。
大垣へきて、やっとこの長途の旅も、終着駅についたという感じで、ほっと一息ついたのだ。
もちろん芭蕉の生涯が旅なのだし、ここを立って、さらに伊勢の御遷宮を見に行こうと計画しているのだから、 
旅が終わったというわけではない。
だが、細道の紀行文は、ここらで打ち止めにするのが適当だと思ったのだ。 
敦賀をいつ発って、どういうコースをたどって、何日に大垣についたのか、いっさいわからない。
大垣には、前川荊口その他大垣藩士のなかに門弟が多かった。

わらじを脱いだのは、元藩士で剃髪していた如行の家だ。
芭蕉の来着をきき伝えて、越人・路通などもやってきたし、
九月三日には、伊勢の長島から曾良もやってきた。
急に芭蕉の身辺は、にぎやかになった。

 

・・・

旅の場所・岐阜県大垣市    
旅の日・2012年12月2日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・

 



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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


芭蕉が大垣に到着すると、ひと足さきに帰っていた曾良が伊勢から駆けつけ、
大垣在住の友人・谷木因 (廻船問屋)らが出迎えた。

大垣は戸田氏十万石の城下町である。
関ヶ原の合戦では大垣城は西軍の拠点となり、難攻不落の名城だった。
関ヶ原の戦功で大名となった徳川譜代の戸田家が寛永十二年(一六三五)に入り、以後二百三十年以上、安定した治世を続けた。
大垣の町を水門川が流れている。
城の北と西の外濠を兼ねていたが、船町港を経て南に流れ揖斐川につながり、美濃の産物を伊勢湾に運んだ。
大垣に着いた芭蕉を迎えたのは、木因をはじめ、大垣で最初に門人となった近藤如行。 
大垣藩士で江戸勤番中に芭蕉、曾良と親交のあった前川、
大垣藩士で三人の子とともに芭薫の弟子となった荊口その息子たち、
尾張の越人、左柳・残香・斜嶺・怒風といった大垣の俳人たちであった。 
如行宅にわらじを脱いだ芭蕉は、旅の疲れを癒しつつ、弟子村宅を訪れ、歌仙を巻いた。 
敦賀と大垣は細長い日本列島の胴(ウエス ト)をきゅっと絞った地点である。
ウエストの臍が関ヶ原で、情報が集まる。


如水(戸田利胤。家老次席)の下屋敷にも招かれた。
『ほそ道』最終章に、
「曾良も伊勢より来て、越人も馬をとばして如行の家に集まった。
親しい人が日夜やってきて、蘇生のものにあうがごとく......」
とある。

・・・


「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

大垣 おおがき

路通もこの港まで出迎えて、美濃の国へと伴った。
駒に助けられて、大垣の庄に入れば、一足先に帰った曾良も伊勢から来合せ、
越人も馬を飛ばせて、如行の家にみな集まった。
前川子・荊口父子、その他親しい人たちが 日夜訪ねて来て、生きかえった者に逢うかのように、
悦んだり、いたわったりしてくれた。
旅のもの憂さもまだ抜けないうちに、九月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと思い立ち、
また舟に乗って、

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

(蛤のフタとミではないが、送る人と行く人とふたみに分れて、私は伊勢の二見を見に行くのだ。
折から秋も行こうとしている。)

・・・

・・・

「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

『ほそ道』むすびの句。
江戸を出発するとき、「行春や鳥啼魚の目は泪」と詠んで、よう やく大垣に到着したのは八月二十一日ごろであった。
旅の最初が「行春や......」だから終わりは「行秋ぞ」と対応させている。
全行程二四○○キロ、百五十日間の旅であった。
蛤を鍋の湯に入れて炊くと、固くとじた蛤の殻がゆるやかにふわりと開く。
そんな感じで、蛤がふたつに別れゆくように、われわれ(芭蕉と曾良)も二見ヶ浦のほうへ別れていく秋だなあ。

伊勢名産の蛤を、二見ヶ浦の枕ことばとして使い、蛤が貝とカラとふたつに別れるところから「別れ」につなげている。 
ふたみは、「二見」と「ふた身」であり、さらに蛤の貝とかけている仕掛けの多い句だ。


『おくのほそ道』の稿が完成するのは、この旅が終わってから五年後(元禄七年)で、
その定稿は能書家素龍が清書し、芭蕉は『おくのほそ道』の書名だけ自署した。
素龍本は故郷の伊賀上野にいる兄(松尾半左衛門)への手土産であった。
同年、芭蕉没後、遺言によって去来に譲られた。
蛤は兄の大好物であり、芭蕉はそういった配慮も忘れない。
句と俳文を駆使した東北漫遊俳句旅のスタイルになっている。
出板されたのは芭蕉没後八年(元禄15年(1702)であった。

 

・・・


「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


何日か大垣に滞在してのち、九月六日に芭蕉は伊勢へ出立した。
十日の御遷宮に間に合おうというのだ。 
水門川の船着場のほとりの、木因の家でごちそうになり、木因の世話で、午前八時ごろ舟に乗った。

同行は曾良・路通。
越人は船着場で別れ、荊口ほか一人は三里ほど送った。
この句は、このときの留別の句である。

桑名や二見ヶ浦の縁で蛤を出し、「蛤の二見」と枕詞のように使った。
「二見」はまた「蛇の蓋・身」にかけている。
「二見にわかれ」は、行く者と帰る者と二手に別れるという意味をこめ、
季節はちょうど「行く秋」に当っ ているのだ。

古い技巧の縁語や艦識を使っていて、新鮮な感銘のある句ではないが、時にのぞんでの即興の吟のとしては、
人人にある感銘を与えたであろう。 
一大決心で遂行した大旅行を終わった者から見れば、今度はほんの小旅行であり、
行く者にも送る者にも、悲壮な感情はまったくない。 
その気持が、おのずから句の調子の軽やかさとなって現われているのである。

・・・

 

大垣で「奥の細道」は終わる。
長い旅も、映画のラストシーンに似てめでたく締めている。
読む方も気持ちよく本を閉じることができる。

 


           お知らせ

ブログを暫くの間休業します。
期間・2024年9月14日~2024年10月31日(予定)


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「奥の細道」名月や北国日和定なき (福井県敦賀)

2024年09月13日 | 旅と文学(奥の細道)

名月の日に、まんまるい♪お盆のような月を・・・
見ることができれば、美しさや、大きな月に感動される。
薄さえ名画のように見える。

でも、中秋の名月は雨の夜が多い。
今でも、観月会の会場は雨を前提に設営していることが多い。

 

・・・

「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

「中秋の名月」なのに雨が降ってきた。
雨が降ろうが、見えない「名月」を見てしまうのが芭蕉の目玉である。

名月や北国日和定なき

(中秋の名月の夜だというのに、雨となり、北国の天候は、変わりやすいなあ。)

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旅の場所・福井県敦賀市   
旅の日・2015年8月4日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

名月や北国日和定なき
今夜は中秋名月の日である。
宿に泊まっても前夜は晴れて満天の星に満月が輝いていた。ところが雨が降っている。
やれやれである。
北国の天気は変わりやすいと気がつき、苦笑しつつ、雨音を聴いている芭蕉の姿が目に見えるようだ。
ところで、見ることができなかったのは名月だけではなかった。

「月のみか雨に相撲もなかりけり」

・・・

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


十五日は、宿の主人の言葉の通り雨であった。

名月や北国日和定き

今夜こそは仲秋の名月である。
ところがあいにく雨だ。
昨晩宿の亭主が、北国日和はあてにならないといったが、なるほどその通りだ。
妙なものであると、がっかりしながらも、亭主の言葉に狂いがなかったのを興じているのである。
期待はずれを必ずしも悲観しているのではない。
当然のことのように、さりげなく即興的によみだしたところに、一種のユーモラスな気持が託されている。


・・・


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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


十五日の名月の日は、亭主の言葉にたがわず雨が降った。


名月や北国日和定なき

(今こそ名月と、楽しみにしていた期待が外され、雨となった。なるほど北国日和は変りやすいことよ。)

十五夜の月見は敦賀でと、芭蕉は心づもりにしていたのである。
明晩もお天気だろうかと、あるじにきくと、越路のことだから、明日のことはわからないという答えであった。
あるじは玄流という俳人であった。 
あるじに酒をすすめられ、その夜は気比の明神に参詣し、句を作った。
翌日は、亭主の言葉にたがわず雨が降った。
そしてよんだの が「名月や」の句である。雨名月の旬である。
しごくあっさりとよんでいるから、句意についてはかくべついうことはない。
とくに名句というわけではないが、いやみはない。

このあたりで芭蕉が作った句は、ほとんど月の句ばかりである。
月が見えたら見えたで、なかったらなかったで、月の句を作っている。
名月の前後には、やはり月の句をよむことが、
その土地のたちに対する旅人の挨拶だったのである。


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「奥の細道」月清し遊行のもてる砂の上 (福井県敦賀)

2024年09月13日 | 旅と文学(奥の細道)

敦賀の宿の主は酒をすすめてくれた。
それから氣比神宮に夜、お参りした。
境内は神仏混淆、大鳥居に五重塔、三重塔あり、
堂々として木々からは月光がさしこんでいた。

遊行上人の砂持ち伝説があり、
それは現在も、神事「お砂持ち」が営まれている。

 

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

夕暮、敦賀の津に宿を求めた。
その夜、月はことに晴れていた。
「明日の夜もこんなだろうか」と言うと、
「天候の変りやすい越路の習いで、明晩のお天気は予測できない」と主人は言い、
私に酒を勧めるのだった。
氣比の明神に夜参した。
仲哀天皇の御廟である。
社殿のあたりは神々しく、松の木の間から月光が洩れて来て、神前の白砂が霜を敷いたようである。
「その昔、遊行二世の他阿上人が、大願を思い立たれて、みずから草を刈り、土や石を荷い、
悪竜の住む泥沼を乾したので、参詣のため往き来する人の煩いがなくなったのです。
その昔の故事が今につづいて、代々の遊行上人が神前で砂をかつがれるのです。
これを遊行の砂持と申します」と、亭主は語った。


月清し遊行のもてる砂の上

(代々の遊行上人が持ち運ばれる神前の白砂の上に、秋の月がすがすがしく照り輝いている。)

 

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旅の場所・福井県敦賀市曙町「気比神宮」(けひじんぐう)  
旅の日・2015年8月4日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

気比神宮は北陸道の総鎮守である。
気比神宮は第二世遊行が自ら草を刈り、泥沼をかき出し、砂を敷きつめた神宮である。
遊行(一遍上人)の柳の名所は前半に詠んだ(田一枚植て立去る柳かな)で、
後半の旅では遊行ゆかりの神宮に拝して、

月清し遊行のもてる砂の上

(遊行二世が持ち運ばれた砂の上に月光がさしているよ)

と呈した。

・・・

 


「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

宿の主人が説明してくれた。
他阿上人は字は真教、俗姓は源氏、時宗の開祖一遍上人に従って修行し、遊行二世の法位をついだ 坊さんである。 
時宗は藤沢の清浄光寺を本山とし、諸国を遊行して勧化するので、俗に遊行宗といった。
他阿上人の砂持ちにはこんな由来がある。

気比神宮と西方寺との間は三町ほどへだたっていたが、その間は泥沼になっていて、
黒白の竜が住んでいたので、気比明神が嘆いておられた。
他阿上人はそれと知って泥沼を埋めようと発起し、名号を書いて沼に沈め、西方寺の僧尼とともに砂を運びこんだ。
付近の人々も群集して、その仕事を助けたので、日ならずして平地になったと伝えられている。
その習わしは今日まで続き、代々の遊行上人が藤沢の遊行寺(清浄光寺)からここにやって来て、
敦賀湾の西海岸の常宮砂を運んで神前に敷くことになっていた。 
青竹二本に白布を垂れ、その中に真砂盛り、西方寺の住持を相棒にして遊行上人がかつぐという大がかりな行事であった。
元禄二年(一 六八九)にも、芭蕉の来る前に、遊行四十四世尊仁上人が北陸巡錫の途次砂持ちの儀式が行われた。 
芭蕉は気比神宮に参拝して、こういう句をよんだ。

月清し遊行のもてる砂の上

気比の明神に参拝してみると、 社前に美しい砂が敷かれて、おりから八月十四日の月が、その上を々と照らしている。
その砂は遊行上人が持ち運ばれた砂だと思うと、まことに尊い有難い思いがする、というのである。
「月清し」というのは、ただ月が清らかであるばかりではなく、
白砂の清らかなことや、神前の神々しいことや、遊行上人の心境の清らかなことまで説明しているようである。

・・・

 

 

・・・


「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

月清し遊行のもてる砂の上

これは『おくのほそ道』に組み込まれた一句である。 
敦賀市の気比神宮には、昔、毒竜がすんでいて危険な沼があった。
それを二世の遊行上人が人々と図って、沼を砂でうめることにした。
そして毒竜は退治されて、人びとはやっと安心して暮らせるようになった。 
そういう謂れのある砂原の上に清らかな月が輝いているという一句である。
これも故事を中心にした月の旬で、二世の遊行上人の毒竜退治という武ばった行為と、
無言でただただ清らかな月とを対比させている。
言ってみれば、現実の月が昔話と組んで、ひとつの美しい句ができあがった。

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「奥の細道」物書て扇引さく余波哉  (福井県永平寺)

2024年09月13日 | 旅と文学(奥の細道)

金沢から門弟の北枝が半月間同行した。
松岡まで来て、そこで北枝と別れることになった。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


金沢の北枝という者が、ついちょっと見送るつもりだったのが、とうとうここまで慕って来た。
彼は、道中すがら方々のよい風景を見過さず句を案じつづけて、時おり情趣のある着想の句を見せるのであった。
今、いよいよ別れに臨み


物書いて扇(あふぎ)引きさく余波(なごり)かな

(ここまで持って来た夏の扇に、無駄書きなどしては、引き裂いて捨てようとするが、いざとなると名残が惜しまれる。
そのように、長いあいだを共にした北枝との別れも、名残惜しいことよ。 季語は「捨扇」)

 

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旅の場所・福井県永平寺  
旅の日・2013年11月5日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


五十町山に入って、永平寺を礼拝した。 
道元禅師の開かれた寺である。
畿内の地を避けて、こんな山陰に跡を残されたのも、尊い理由があったという
(入宋当時の師、如浄禅師が越州の人だったので、越と聞くだけでも慕わしく、
進んで越前に下ったという)。

・・・

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永平寺を見物後、芭蕉は福井へ向かう。
そして、門人の等栽の家を訪問する。

この家の情景の描写がおもしろい。
小学生の作文のような正直さに笑える。

夕顔、糸瓜、鶏頭、帚木草の庭先を想像するのも楽しい。

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


福井は三里ばかりなので、寺で夕飯をしたためてから出たが、
たそがれの道のおぼつかなく、なかなかはかどらない。
この福井には、等裁という古い隠士がある。
いつの年であったか、江戸に来て私を訪ねた。
十年あまりも前のことである。
どんなに老い衰えているだろう、あるいは、死んではいないかと人に尋ねると、
まだ生きながらえていて、どこそこにいると教えてくれた。
市中からひっそりした一劃に引っこんで、粗末な小家に夕顔・糸瓜が生えかかって、
鶏頭や帚草が戸口を隠している。

さてはこの家に違いないと、門を叩くと、みすぼらしい女が出て来て、
「どちらからお出でなされた行脚のお坊さんでしょうか。 
主人はこの近くの何がしという者の家に参りました。
もし御用ならそちらをお尋ね下さい」と言う。彼の妻であることが分る。
昔の物語にこんな風情の場面が出ていたと、興深く思いながら、やがて彼に逢って、
その家に二夜泊り、名月は敦賀の港で見ようといって、出立した。
等裁も一緒に見送ろうと、裾を面白い好にからげて、路案内だと、浮かれ立つ様子である。

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「奥の細道」今日よりや書付消さん笠の露 (山中温泉)

2024年09月13日 | 旅と文学(奥の細道)

江戸を出てからずっと一緒だった芭蕉と曾良は、曾良の病のため山中温泉で別れた。
以後、金沢から同行していた北枝と二人で福井まで旅をつづける。

 

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

今日よりや書付消さん笠の露

(旅の門出に、笠の裏に「乾坤無住、同行二人」と書いたのだが、
今日からは一人旅だから、その笠に置く露で、その書付を消してしまおう。
寂しいことだ。)

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旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

今日よりや書付消さん笠の露

露は季語であるが、これには複雑な意味がこめられている。
露は消え易いものであるから、会者別離のはかなさとか、露は涙にたとえられるので、別離の涙という意味もある。
また曽良の旬の「萩」との関連も考えられる。
「書付」は巡礼が笠に書く「乾坤無住、同行二人」の文字をいう。
天地の間に留まることなく、仏と我と一体となって旅をするという意味であるが、転じて同伴者二人の意に用いたのである。
「笠の露」は、笠の上におりているである。
笠は檜笠の類で、行脚の僧などがかぶるものをいう。
笠の上に置く露は消えやすいものであるが、
人の世の姿も笠の露のようにはかないものだという寂寥感が、「笠の露」という言葉の中にこめられている。

これまでは笠に「同行二人」と書きつけて、一緒に旅を続けて来たが、
今日からはひとりぼっちの旅になるのだから、同行二人という文字を、折から笠に置いた露で消してしまおう。
さてさて会者定離は人生ので、笠の上に置く露のように、はかないものである、というのである。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

どこまでもしつこく芭蕉につきまとったのは北枝で、
山中温泉から福井の天龍寺までついてきて俳諧技法やあり方をたずねて、それを『山中問答』という聞き書き本にまとめた。
北枝は、芭蕉に心酔して、以後は加賀蕉門の重鎮となった。

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「奥の細道」行ゝてたふれ伏とも萩の原 (山中温泉)

2024年09月12日 | 旅と文学(奥の細道)

曾良は腹を病んでいた。
温泉療養のかいなく、芭蕉と別れることになった。

芭蕉・曾良・北枝の三人が別れの句を詠んだ。

 


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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

行々てたふれ伏すとも萩の原   曾良

(私は病気の身で旅立って行くのだが、歩いた末に行き倒れになるかも知れない。
それが折から盛りの萩の原であったら、死んでも本望である。)

と書き残した。
行く者の悲しみ、残る者の無念さ、
これまで何時も一緒だった二羽の鳧(けり)が別れ別れになって、雲間に迷うようなものである。

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旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


七月二十七日から八月五日まで、芭蕉は十日間も山中に滞在した。
ずいぶん長い滞在であったが、それは和泉屋で大事にされて居心地がよかったからであった。

しかしそれだけではなく、この温泉で曽良にゆっくり休養させ、その全快をまっていたのである。
曽良は金沢に滞在中から健康を害していた。
山中で湯治をしてみたが、完全になおるまでには至らなかった。
もともと芭蕉の労を助けるために、同行して来たのだが、
健康を害した自分がいつまでもつきまとっていては、かえって迷惑をかけることにもなる。 
苦楽を共にした長い道中も終りに近づき、 今は北枝が随行しているし、
福井には師の旧知の等栽もいることだからという安心感もあった。
曽良は芭蕉と別れて、伊勢の長島で病を養うために、ひとり先行することになった。


馬かりて燕追ひ行くわかれかな  北枝

芭蕉と別れて一足先に伊勢の長島に行く曽良を見送る句である。
馬をやとって、南に帰る燕を追うようにして帰って行く曽良の姿を想像しながら別れを惜しんでいるのである。

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「奥の細道」山中や菊はたおらぬ湯の匂 (山中温泉)

2024年09月11日 | 旅と文学(奥の細道)

北陸本線『加賀温泉駅』には、三つの温泉地が大きく観光表示されている。
それが「片山津温泉」「山代温泉」「山中温泉」で、まとめて加賀温泉郷と呼ばれる。
近接した駅に『芦原温泉駅』もある。

芭蕉一行は、芭蕉と曾良に加え北支の三人で金沢から山中温泉を訪れた。
なぜ数ある名湯のなかで、山中温泉が選ばれたかと言うと
和泉屋という温泉宿の主をしている久米之介に会うため。
和泉屋は代々風雅のたしなみがあった。

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旅の場所・石川県加賀市「山中温泉」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

山中や菊はたをらぬ湯の匂(にほひ)

(昔、菊慈童が桃源郷に、大菊から滴り落ちる甘水を汲んで、八百歳の齢を保ったというが、
この山中の温泉は、長寿延命の菊を手折るにも及ばぬ、かぐわしい湯の匂いであるよ。)

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

「菊はたおらぬ」の謎とき。


芭蕉が逗留した和泉屋前に共同浴場「菊の湯」がある。
山中温泉の総湯で、緑瓦の天平造りだ。
玄関前の植込みには松と石灯籠があり、日が暮れると軒下の提灯に灯がついた。
入浴料を払って入ると広い脱衣場があり、浴室はもうもうたる湯気につつまれている。 
浴槽の中央に大理石の柱があり、そこから四方へ湯が出ている。
無色透明のカルシウム・ ナトリウム泉でかなり熱い。
しかし入って一分もすると熱さになれる。
浴槽は深さ一メートルもある。
これが天下にきこえた山中の名湯だ。芭蕉はこの山中温泉に八泊した。

山中の湯は、湯上りがすっきりする。
いつまでも軀がほんのりとあたたかく、湯を出て和泉屋跡に立つと、「俳文・温泉頌」の石碑があった。
芭蕉が泊った和泉屋主人久米之助 は、十四歳の少年で、水もしたたる美少年であった。
乞われるまま「桃妖」の俳号をつけてやった。
桃青から「桃」の字を与えるのは、よほどのことで、それほど久米之助がかわいかったのであろう。
その思いが、この旬に秘められている。

桃妖の墓は医王寺山中の墓地にあるが和泉屋は没落していまはない。
「旅人を迎えに出ればほたるかな」のいかにも宿の主人らしい句を残している。


芭蕉は山中温泉で大垣藩士の如行へ手紙(元禄二年七月二十九日付)を出した。 
「奥州の旅を終えていまは山中の湯にいる。これから敦賀のあたりをへて、十五日の名月を琵琶湖か美濃のあたりで見る。
その前後に大垣に着く。塔山 (大垣町人)や此筋子(大垣藩士、一家そろって蕉門)らによろしくお伝え下さい」

手紙を受けとった如行は芭蕉が大垣にくるのを待っていたが、芭蕉はなかなかやってこない。
山中温泉で曾良はひと足さきに発った。
体調を崩したためという。
「山中や菊はたおらぬ湯の匂」
は難解な句である。 
「山中や」はわかるが「菊はたおらぬ 湯の匂」がわからない。
山中温泉は無色透明のサラリとした湯で匂いはない。
それがなぜ「湯の匂」なのか。
さらに「菊はたおらぬ」とはどういう意味なのか。

山中温泉の効能--皮膚や筋肉がつややかになり、湯が骨にまでしみて心がゆったりとして、顔色が生き生きとなる。
菊慈童が菊の露を飲んで長命を得たという故事があるが、菊を折らなくても、湯につかるだけで延命長寿の効能がある。
そもそも菊慈童とはなに者であるか。
菊の露を飲むと、それが不老長寿の仙酒となって七百年の長寿を得た。

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「奥の細道」石山の石より白し秋の風 (石川県那谷寺)

2024年09月10日 | 旅と文学(奥の細道)

芭蕉は那谷寺(なたでら)を訪れ、
句に那谷でなく石山寺を詠み、いっそう那谷寺をひきたてた。

学説では、石山寺でなく那谷寺の石山が多数派であるようだが、
とにかく那谷寺の奇岩は白く晒され、境内をとりかこむようにつづいている。
みごととしか言いようがない。

芭蕉は秋の風の頃訪れたが、いちばん見事な時期は紅葉。
奇岩の周辺はモミジ一色で覆われる。

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旅の場所・石川県加賀市「那谷寺」 
旅の日・2020年1月28日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

八月五日に芭蕉は曽良に別れ、北枝とともに生駒子と出会うために小松に戻った。 
この前は小松から北陸道を動橋に出て、山代から山中に入ったが、
今度は山代から別れて那谷に参詣し、それから小松に出ることにした。

那谷寺は真言宗で、世に那谷の観音という。
観音堂は岩窟内にあって岩壁に寄りかかるように建っている。 
萱葺の小堂で、前に舞台があり、自然石を刻んで階段にしている。 
養老元年(七一七)に僧泰澄の創建と伝えられ、自生山岩屋寺と号した。
その後花山法皇が三十三箇所の観音を参拝なされたのちに、
ここに大慈大悲の観世音菩薩の像を安置され、那智と谷汲から二字を分け取って那谷寺と命名されたということである。 
那智は三十三箇所の第一番目の札所である紀州の那智山青岸渡寺であり、 谷汲は最後の札所濃州の谷汲山華厳寺である。 
第六十五代花山天皇は在位三年で、寛和二年(九八六) 六月ひそかに禁中を出られ、東山の花山寺で落飾され、
叡山、熊野、 書写山などで仏道を修行された方である。

山はそれほど高くもないし深くもないが、すこぶる閑寂である。
しらじらと風に曝された奇岩怪石が多く、 老松が生え並び、風景がすぐれているばかりでなく、
霊場としてまことに殊勝な場所である。
芭蕉はこういう句をよんだ。

石山の石より白し秋の風

石山といえば近江の石山を指すのが当時の通念であった。
芭蕉も那谷の山をみて、すぐに近江の石山を連想した。
そしてこの那谷の石は近江の石山の石よりも白いと直観した。
そして「石山の石より白し」と、なんのためらいもなく表現したのである。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


石山の石より白し秋の風

那谷寺は養老元年(七一七)に開基された真言宗の古刹で、神仏混淆の寺である。
古くはイワヤ (岩屋寺と呼ばれた。白山信仰の拠点となった。
南北朝時代に足利尊氏軍の城塞となり、新田義貞軍が攻めこみ、寺の堂宇はことごとく焼失した。
多くの兵士が没した寺である。
それを加賀藩三代藩主前田利常が再興した。

小松に隠居した利常は、
寛永年間に岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造った。
山門を入ってすぐ左手にある金堂華王殿は平成二年に再建された鎌倉時代建築様式の塔頭である。
ここに祀られている十一面千手観音像が艶っぽい。
重要文化財がたち並ぶ境内のなかにあっては新らしい仏像だが、
典雅なる品格、慈愛あふれるまなざし、白山の神秘、優美なる肩、光かがやく光背。

参道を進むと、左手に白い岩肌があらわれる。
これを奇岩遊仙境という。
そそりたつ岩はヒマラヤの岩窟に似て、人間の顔にも見え、仙人が棲む岩山にも見える。 
ここには生と死の宇宙がある。
海底噴火した岩山が、水の浸食によって、このような奇岩となった。
岩壁沿いに細い石段がつながり、朱塗りの鳥居がある。
芭蕉が訪れた元禄二年(一六八九)は、利常によって復興されてから五十年近くの年月がたっていた。
芭蕉は那谷寺という名称に興味を持ち、「花山法皇が、西国三十三ヶ所の巡礼を終えたのち、
那智山(第一番)の那と谷汲山(第三十三番)の谷の二字を取って命名した」と『ほそ道』に書いている。
「奇石がさまざまの形となり、松を植え、萱ぶきの小堂が岩の上に造られている」と絶賛した。 

 

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「奥の細道」むざんやな甲の下のきりぎりす (石川県小松市)

2024年09月08日 | 旅と文学(奥の細道)

源平時代に幾多の合戦で、勇猛で名を馳せた斎藤実盛。
最晩年は白髪を黒く染めて出陣した。
合戦で馬が田んぼの稲株につまずき倒れ、そこで討取られた。

首実験後、木曽義仲は実盛の甲を多田神社に奉納した。
全国各地には今も、田んぼの虫送り行事”実盛さま”が伝わっている。

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「平家物語」  世界文化社 1976年発行

実盛

武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、
ただ一騎、
引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。
木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ
「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。
さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。
「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」

駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。
「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。
幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。
今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。
樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。
樋口を呼べ」
という、樋口次郎は一目見るなり、
「ああいたましい、たしかに斎藤別当実盛でございます」
と、涙を流した。
樋口次郎はなおも落涙しつつ、
「この首は白髪を染めております。
ためしに髪を洗わせてごらんなされませ」
義仲が、その首を洗わせてみると、なるほど白髪になってしまった。

 

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旅の場所・石川県小松市上本折町・多太神社    
旅の日・2020年1月28日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

 

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「奥の細道の旅」  講談社 1989年発行

多太神社


小松駅からバスで10分ほど北西に行った小松市上本折町にある。
芭蕉はこの神社で、平宗盛に仕え、木曽義仲追討の軍を進めたときに斎藤別当実盛がかぶった甲に接し、
「むざんなや・・・・」の句を詠んでいる。

 

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「芭蕉物語・中」 麻生磯次  新潮社 昭和50年発行

小松というところに来たが、小松とはかわいらしい名である。
その名にふさわしく可憐な松が生えていて、
その小松に吹く風が、その辺にある萩や薄をなよなよとなびかせている。
芭蕉はいたく旅情をそそられたのである。

多田神社に立ち寄り、次の句を奉納した。

むざんなや甲の下のきりぎりす

「甲」は多田神社へ奉納された実盛の甲である。
芭蕉はその甲を実際に見て、その悲壮な最期を思い浮かべたのである。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

むさんやな甲の下のきりぎりす

石川県小松の多太神社にある斎藤別当実盛の兜の下で、蟋蟀(こおろぎ)が秋の哀れを誘うように鳴く。
神社境内でみつけたきりぎりすを謡曲「実盛」の悲劇に重ねた。
小松の多太神社は格式の高い神社で、曾良が持参した『神名帳抄録』に記載されており、 最初から旅の予定に入っていた。
多太神社にある斎藤実盛の兜は、芭蕉がこの句で追悼、 詠嘆したことで一躍有名になった(いまは行方不明)。

斎藤実盛は木曾義仲軍と闘って討たれた老武将である。
義仲は幼いころ上野国で実盛に命を救ってもらった恩があった。
討ちとられた実盛の髪は白髪を黒く染めており、義仲はそれを見て号泣したという。
その故事が謡曲「実盛」となり、それを念頭において、芭蕉は「むぎんやな...」の句を詠んだ。

多太神社は荘厳な石の鳥居の横に「式内社」の石碑が建つ。
鳥居の左下に、黒石で作った兜のレリーフが奉納品として飾られている。
境内には竹垣に囲まれて「むざんやな......」の句碑があるが、摩耗してほとんど読むことができない。
境内はしんと静まりかえり、謡曲「実盛」の故事を記した史跡保存会の看板がある。

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「奥の細道」しほらしき名や小松吹萩すゝき (石川県小松市)

2024年09月08日 | 旅と文学(奥の細道)

小松市は古い歴史の町だが、現在は
地上にブルドーザー工場、空に戦闘機が飛び交う自衛隊航空基地の町。

芭蕉が訪れた当時は北陸路の”しおらしい”町だった。
白山連峰が見え、安宅関にも近い。
町には秋の花・萩が咲き、ススキが揺れていた。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


「しほらしき名」とは小松という地名をいったので、
昔の小松引きの行事なども連想されて、いかにもしおらしい名だ、といったのである。
「小吹吹萩すすき」の「吹」は小松にも萩すすきにもかかる。
小松は地名であると同時に実際そこに生えている姫小松でもあり、
小松を吹く風が同じくしおらしいさまの萩やすすきにも吹き渡るといったのである。
多分、亭前に萩やすすきがあったのであろう。
主が古風な連歌の人だから、ここでは小松とか萩、すすきとかみやびやかな景物を詠みこんで、
時に応じた挨拶句に仕立てたのだ。

 

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旅の場所・石川県小松市材木町    
旅の日・2020年1月28日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


小松は加賀藩三代藩主前田利常の隠居城があった城下町で、海沿いには安宅の関跡がある。
弁慶と義経の歌舞伎十八番 「勧進帳」の舞台である。
小松に着いた芭蕉は、

しほらしき名や小松吹萩すすき

と、小松の地名をほめている。
芭蕉が歩く小道に萩の花が咲いていた。
それが小松という地名と二重になって、すずやかな風が吹いてくる。

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