しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

中庄の「倉敷高校」

2023年01月28日 | 昭和41年~50年

笠岡で「かさこう」と言えば、「笠岡高校」と「笠岡工業高校」の二つある。
話の内容で”笠高”と、”笠工”とを聞き分ける。
慎重な人は”千鳥”と、”工業”と言葉を使い分ける。

 

岡山県で「くらこう」と言えば、倉工だったが、今は「倉敷工業」「倉敷高校」が並ぶ。
以前は「岡山日大」高校だったので、まぎらわしくなかったんだけど。
ちなみに倉敷の娘婿は倉敷高校を「くらしき」と呼んでいる。これはこれで意味する幅が広くて、聞く方も一寸悩む。

 

 

・・・・

ベビーブーマーとか団塊の世代と呼ばれる世代が、高校に入学する頃、
日本全国に高校や高専が新設されていった。

・・・・

 

「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会  創文社 平成三年発行

 

昭和38年をピークとする高校生急増と昭和41年からの急減の時期においては、

公私立及び私立相互間における募集定員調整の問題は私学関係者の最大関心事であった。

 

高校志願者急増に対し、文部省は昭和36年に高校生急増対策の全体計画を発表し、

昭和40年度において、昭和34年度より約112万増になると見込み、

公立で67万人、私立で43万人の増加となるとし、

私立では約120校に相当する学校の新設、課程増などによる9万人、

臨時学級増により18万人、一学級の定員増により16万人の増を図るものとした。

 

昭和36年2月、岡山県高等学校生徒定員協議会が設置され、

「公立高校への進学者数を70%、私学への進学者集をおよそ30%とする」、

とした建議書が提出された。

公私立分担の努力により、

急増期において進学率を上昇させながら乗り切ることができた。

 

・・・

 

新設、移転、校名変更

 

昭和30年当時の私立高等学校は、

関西高校、

吉備高校、

山陽女子高校、

就実高校、

真備高校、

清心女子高校、

城北女子高校、

片山女子高校、

美作高校、

作陽女子高校、

津山基督教図書館高校、

淳和女子高校、

山陽高校、

金光学園の16校であった。

 

昭和35年から新設校が次々に誕生した。

 

昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。

同じく昭和35年1月福井学園により御津町に中国商業高等学校が設立された。

同校は昭和37年岡山市に移転し、岡山女子商業高校と改称、昭和40年に岡山日本大学高等学校と改称、普通科、商業化を設け、昭和41年倉敷市鳥羽に移転した。

現在の倉敷高校の前身である。

 

昭和37年には加計学園により岡山電機工業高等学校が設立された。

(昭和39年岡山理科大学附属高等学校と改称)

 

昭和44年には新見高等技芸学校に通信制の高校として新見女子高等学校が併設され、

昭和47年から定時制(昼間)となり、昭和50年には全日制に移行した。

 

昭和45年には川崎医科大学の開学と共に附属高等学校が設立された。

昭和51年には兵庫県姫路市の学校法人三木学園が中高一貫の英才教育を目指して赤磐郡熊山町に岡山白陵高等学校・中学校を設立した。

 

この間、

岡山市にあった片山女子高等学校は昭和32年本拠を倉敷市に移し、昭和48年には倉敷松翠高校と改称した。

 

城北女子高等学校は昭和37年岡山女子高等学校と改称し、

作陽女子高等学校は昭和38年に男女共学制とし作陽高等学校と改称し、

清心女子高等学校は昭和39年倉敷市の現校地に移転した。

 

・・・

 

 

 

画像・2022.11.6 「高校駅伝・岡山県大会」 笠岡市走出  12月の全国大会も優勝した。

 

 

 

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岡山県西大寺市の「西大寺女子高校」

2023年01月28日 | 昭和41年~50年

かつて、同僚に西大寺女子高出身の人がいた。

その人は、聞きも問いもしないのに「うちは西大寺女子高をでとる・・」と何度も言っていたので、今もその言葉と人を忘れない。

当時、西大寺市の女子中学生の進学の大半は西大寺高校か、西大寺女子高のどちらか二つに一つのようだった。

 

それから数十年経ち、西大寺市はとうに岡山市西大寺になり、

「西大寺女子高」もまた新聞等で見ることがなくなった。

あの”西大寺女子高”は今、どうなっているのだろう。

 

・・・・・

 

「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会  創文社 平成三年発行

新設、移転、校名変更

 

昭和35年から新設校が次々に誕生した。

昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。

市長・市議長も発起人の学校法人金山学園が普通化女子高校として開校した。

昭和38年定時制課程を併設し、昭和41年校名を金山学園高等学校と改称し、

英語科と衛生看護科を増設し、普通科と英語科を男女共学とした。

・・・・

その後、

平成6年(1994年)に、校名を「岡山学芸館高等学校」に変更。

 

(2023.1.9 毎日新聞WEBより)

 

サッカー部は2023年1月に全国優勝。

野球部は甲子園に出場一回。

 

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学校は英語教育と、進学に力を入れている。

西大寺にある、ひとつの高校でなく、全国的な勢いの高校になってきている。

 

(2014.9.19 JR赤穂線西大寺駅ホーム 背後の山が金山)

 

 

 

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「一六銀行って、知っている?」

2022年04月29日 | 昭和41年~50年
中学校のクラスにも、高校のクラスにも質屋の息子がいたが(息子と書くのは、女生徒の親までは知らないので)、
その質屋のことを「しちや」・「ひちや」と呼ぶ人はいたが、
「いちろく銀行」と言う人はいなかったような気がする・・・けど。




「家計簿の中の昭和」 澤地久枝 文芸春秋 2007年発行 


若い人に「一六銀行(いちろくぎんこう)って、知っている?」
とたずねると、みんな首を横にふる。
質屋(しちや)のことである。
江戸時代から質屋はあり、日本だけでなくアメリカにもある。
庶民の銀行が質屋だった。


質草は、3ヶ月ごとの利上げをつづけていれば、流されない(所有権の移転はない)。
元本と利息を払えば、もとの姿で手許にもどってくる。


質屋の蔵は堅牢にできていて、預かった衣類に虫がつくこともないし、少々の火事にはビクともしない。
客の秘密を守るのが質屋の歴史的な鉄則である。


その日必要な現金の手当てに,人びとがかけこんでいったのは質屋であり、質草はつつましい。


・・・


いま、「街の金融」は全盛のように見える。
見まわせば、広告が溢れかえり、24時間営業の店舗が目につく。
その現在も、借金が独走する「消費者金融」などより、「質草」という自前の担保で「自由」を守れるという理由から質屋の利用者はたえない。
昨今の質草の主流は、貴金属という。



・・・・・・・・・・


大学生になって、夏休みの前に布団を質屋にいれて帰省のお金を借りる人がいた。
夏休みが終わると質屋に行って、お金を払い蒲団を戻してもらっていた。
それ以前は、学生服をそうした人もいたようだ。


私は中学校3年の時の時計をしていたが、型が古く、質屋に行って質流れを買った。
二度目はテープレコーダーが欲しくなったが電気店では高いので、質流れを買いに行った。その時、1.500円で買ったのを覚えている。



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山陽新幹線岡山開通50周年 

2022年03月23日 | 昭和41年~50年

2022年3月15日は、山陽新幹線が開通して50周年だった。
テレビニュースを見ながら、それを思い出していた。
が、何も思い出せなかった。
その程度のニュースでは、たぶん関心がなかったのだろう。


当時の日本経済は日の出の勢いだった。
5年間くらいで日本経済は、規模が倍増し、年々目に見える生活の変化があった。

 

 


ネットで1972年を検索すると、
沖縄が米領から日本へ復帰した。
田中内閣が誕生し、ベストセラーは「日本列島改造論」。
岡山駅が開業の頃、鉄道工事は西へ西へと延びていた。
人々の関心は岡山でなく福岡開業の方だった。


街も山も海も開発一辺倒の時代だった。


・・・・・・・

 

岡山開業のセレモニーに写る岡山県知事は武徳さん。
この半年後に知事を退いた。
小学校の大先輩・武徳さんが県知事をしていた8年は、県境の村に生まれ育った管理人が、
”岡山県民”を意識した8年間だった。

 

 

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浅間山荘 昭和47年2月19日

2022年02月23日 | 昭和41年~50年
広島県呉市の中通りに会社の事務所があり、そこへ勤務していた。
一階の事務所の壁にテレビ台があった。
勤務時間にもテレビが付いたままで、浅間山荘を中継していた。
役職の人はテレビ画面にくぎ付けで、仕事をする素振りもなかった。
ヒラの人は仕事をはんぶん、テレビをはんぶんの感じだった。

その年は未曽有の好景気で、日本中が沸いていた。
勤務先も絶好調で、社の内外の人が次々に商談や報告や打ち合わせで来ていた。
年度末で、迫った工期の打合せに来た担当者が、
微動だにせずテレビに食い入る上司に啞然・呆然の姿が今も強い記憶になっている。

結局その日は、役職者はテレビでまる一日終わった。
テレビ画面は雪深かったが、呉の街も小雪が舞っていた。


・・・・・・


(Wikipedia)

・・・・・・

リアルタイムの浅間山荘事件

昭和47年2月19日、雪深い浅間山荘で、管理人女性を人質にして赤軍派5人が立てこもった。
テレビは終始リアルタイムで放映していた。
人々はテレビに釘づけとなり、かたずを飲んで現場の動静を見守った。
視聴率89%。
巨大鉄球で山荘を破壊し、警官が突入して事件は終わった。
二人の警官と一人の一般人の尊い命が犠牲になった。

「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行


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笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

2020年12月18日 | 昭和41年~50年
「岡山朝日研究紀要」 岡山県立岡山朝日高校  平成12年発行

校長・巻頭言
笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

昭和37年に教職の道に入り、邑久高校牛窓校舎に2年勤務。
昭和39年から笠岡高校。
赴任当時は地元の評価も低く、あの地区で行われていた備西テストでは常に金光学園がトップでそれに井原高校、矢掛高校が続きいつも最下位は笠岡高校の定番であった。
合同採点を行うため、くやしくてくやしくて、いつもその場を一刻も早く逃げ出したい衝動にかられた。
しかし、このテストは輪番で出題することとなっており、校内で総力を上げて問題検討を行うため、大いに勉強になったような気がする。
問題の品位に至るまで先輩に指摘され、まけじ魂に火をつけてくれた。
授業を工夫する日々を送り、数学教員としてのある程度の自信ももてたと思う。

担任指導では、最初はたよりないと思われたのか副担任とされ、少し不満もあった。
2年目から正担任となった。
クラスの数も多くいろいろな制約があり、窮屈なものもあった。
不登校の生徒に、かかわり方がわからず本を読んで頑張ったが、頑張るほど悪い方向にいき、ゆとりをもって考えるまでには、かなりの時間がかかったようだ。

笠岡高校では前半は教務課の時間割り係と管理係、後半は進路指導を担当した。
管理係は用品の管理で、もっとも苦痛なことは定期的に輪転機の掃除をすることで、手が真っ黒になり数日は痕跡がのこった。
最後の学年まで進路担当をしたときは定員205名中120名が公国立大学に進学し、祝杯をあげたことは楽しい思い出である。

趣味の世界では海の好きな生物の先生といつも行動を供にし、神島や高島によくでかけた。
漁の楽しさを学んだのはこの学校だ。



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歌謡界の王者 美空ひばりが来井

2020年08月25日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和47年11月1日


歌謡界の王者 美空ひばりが来井
賑やか晩秋の興行街






百年に一人出るか出ないかといわれる、不世出の天才歌手、
戦後二十数年間、常に歌謡界のトップにすわり続けてきた大御所、
近来益々その貫録に重みをつけてきた世紀のアイドル、
美空ひばりの豪華歌謡ショーが、愈々来月7日(木曜日)井原市民会館でふたあけする。






普通の場合、前座を若手歌手、万才などで半分の時間を費やしかんじんのご本尊の出演は約半分だが、
ひばりの場合、前座は実弟一人だけ。
殆ど一人で歌いまくる二時間余の大熱演で、早くも爆発的人気が起こっている。
公演は昼二時、夜六時の二回だが、前売り券は飛ぶような売れ行きをみせている。
井原市地方での公演は将来二度と不可能と思われる。


また11月11日には、現代日本浪曲界の超一流を集めた、豪華浪曲大会が井原市民会館で行われる。



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ボール井原

2020年08月24日 | 昭和41年~50年

ニュー井原新聞・縮小版 昭和45年3月11日


「ボール井原」が発足


株式会社「ボール井原」の設立総会は、昭和45年3月9日井原商工会議所会議室で開かれた。
同会社は遊技場、ボーリング場、食堂喫茶の業務を行う。

井笠鉄道井原駅舎跡に建設される、井笠バスのターミナル二階に、ボーリング場「ボール井原」を開設する。
ボール井原は、約400坪の二階一面に18レーンのボーリング設備を施す。

最近では、商店にお顧客に対するサービスにまでとりいれられるほど、
折角招待した顧客を福山、笠岡方面にまで連れ出さねばならぬという。
一人でも多くの客を集め、多く売りたいという商店街の悲願の現象を見せてきており、
こういった観点からみるとき「ボール井原」の出現は甚大な顧客の吸引力となるばかりか、勤労者、青年・婦人、
また一般市民にとっても、清潔で明るい、健康と娯楽のセンターになることが確実視せられている。





写真はボール井原の完成予想図であるが、正面は現在の駅前通りで、階下約400坪の半分がバス発着場、半分がボール井原駐車場。
鉄道は近い将来廃止の予定だが、廃止が決まるまでは駅舎もこの中に入る。


なお井笠鉄道では、引き続いてこの建物の北側に、現在の井原駅前通りに向けてショッピングセンターの建設を計画しており、両三年を出ずして面目を一新、
岡山市における”天満屋付近”を想はすいん賑の日も間近いわけである。

◎資本金4.000万円(井笠鉄道と地元有志の折半出資)


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井笠鉄道の廃線問題

2020年08月24日 | 昭和41年~50年
井笠鉄道の鉄道事業は、昭和46年3月31日で終えた。


(2016.3.27 笠岡市山口・井笠鉄道祭にて)

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和44年11月11日




井笠鉄道の廃線問題
全体では会社に同情的


井原市議会では、去る昭和44年9月29日井笠鉄道株式会社から、笠岡井原間鉄道の全面廃止について賛同方の申し入れがあったことについて11月5日全員協議会を招集。
井笠鉄道から関藤社長、北村専務、高浦常務ら会社首脳の出席を求め、第一回の話し合いを行った。
関藤社長から、最近の鉄道はバス、乗用車に顧客を奪われ、過去5年間の累積赤字は1億5千万円に達している。

一時はバスの収益によって鉄道の赤字を補填できたこともあったが、近ごろではこれも不可能な状況になった。
ついては笠岡井原間を廃止したいが、廃止と同時に井原笠岡(小田西経由)の運行系統を新設する。木之子、宮の端経由の井原笠岡線を新設する。
バス部門の拡充強化によって、これまで鉄道利用の沿線住民の不便解消に努める旨確約したといわれる。

年間3000万円になんなんとする赤字を背負い込んでいる会社側には、各議員とも等しく同情の声が強い。
強い反対運動をしている木之子地区住民の、ある程度の納得いく対案が示されれば、廃止に賛成はやむなしのようだ。


なお、井笠鉄道は大正2年に開業。
井原、笠岡、矢掛、神辺をつなぐ37キロの沿線地域の、産業、文化、福祉の招来に至大な寄与をしたが、
時代の趨勢には勝てず、昭和42年3月31日には矢掛、神辺線を廃止している。



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井笠ボーリングセンターが開場

2020年08月23日 | 昭和41年~50年
井笠ボーリングセンターには2~3度行ったことがある。

大ブームの年が1971年(昭和46年)で、日本中のボーリング場の多くはブームが去る時に竣工した。
井笠ボーリング場は数少ない、良い時にオープンしたボーリング場だ。

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和43年9月21日


井笠ボーリングセンターが愈々開場

期待される健全娯楽の殿堂


(写真は2004.11.7)





井笠鉄道では、かねてから旧本社址(跨線橋西側)にボーリングセンターを建設中であったが、
9月15日同センターに加藤知事を始め地元笠岡・井原両市のほか、周辺郡一帯の各界層の関係者300余名を招いて、
これの開業披露式を盛大に挙行した。

式は、松本井笠鉄道総務課長の司会で始まり、徳田専務の開会の辞、関藤社長のあいさつがあって、小野笠岡市長、木村参議、伊藤県議、石津岡山県ボーリング場協会長らの祝辞のほか、
佐藤総理や、橋本、加藤県選出国会議員た多数の祝電が読み上げられた。
次いで関藤社長がテープ切断のあと、中央レーンでボールの投げ始めを行い、壮厳ななかで、然も和やかに儀式をおこなった。

同ボーリングセンターは、一階をバスの発着場、二階三階に各10レーンのボーリング場を設けているが、
ほかに喫茶コナー、ミーティングルームなど、至れりつくせりの施設を完備しており、超近代的な外観内容は、県西部地域における健全娯楽の、文字通りセンターとしての機能を果たすものと、多大の期待をもって迎えられている。

営業時間は10時~23時 (土日祝日9時~24時)
入場料は、だいたい150円から250円、外に貸し靴券50円、予約料300円となっている。
このほか井笠ボーリングセンター友の会に入会すると、数々の特典がある。
建設費は約2億円、年中無休。




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