しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

西行

2021年04月30日 | 銅像の人
場所・岡山県玉野市渋川




「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行

「北面の武士」だった西行は20代で出家し、二度の東北への旅など旅をつづけた歌人として知られる。
岡山県玉野市の渋川海岸の西行像がまさに戦乱に関係する。
「保元の乱」がおき、あっけなく敗れた崇徳上皇は讃岐に配流された。
都に戻りたいという願いかなわず、
「日本国の大魔神」になってやるとうらみながら死亡した。
西行は親交のあった崇徳上皇の霊を慰めるために白峯を訪ねた。


よしや君 昔の玉の 床とても かからんのちは何にかはせん
西行


鎮魂の歌を詠んだ。












「日本史探訪5」 角川文庫 昭和59年発行
山本健吉

西行

西行には、自然を征服してやろうとか、ねじふせてやろうとか気持ちが毛頭ないわけです。
自然と自分が一体になろうという気持、自然の中にはいっていって友達になろう、
親しもうという気持ちなのです。

松だって、花だって、月だって、水だって、川だって、山だって、みんな友達にしようというわけです。
近代文化、科学的な文化が、今や反省期に入ってきていますね。
今のような時代には、こういった西行のような思想も顧みられていいんではないかと、そう感じます。









撮影日・2018年4月20日




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蜂須賀家政

2021年04月30日 | 銅像の人
場所・徳島県徳島市徳島町城内   徳島中央公園



(徳島城)



戦時中に供出し、戦後に再建の銅像は何千とあろうが、人物を変えての再建というのは珍しい。




(蜂須賀家政)



蜂須賀家政

戦争挟み父子交代



羽柴秀吉の四国征伐に蜂須賀正勝(小六)家政父子は従軍し軍功をたて、阿波の大名になった。
秀吉は正勝に与えようとしたが、高齢を理由に辞退し家政に譲った。

家政は阿波にはいると、秀吉の意向に従って兵農分離などを断行。
徳島城を造り、城下町を整備した。
製塩業、製藍業なども興し、現在につながる徳島の基礎を築いた。
ところが秀吉没後徳川家康に近づき、
関ケ原には嫡男至鎮を東軍に参加させ、自らは隠居した。
家康から至鎮に阿波が与えられた。
蜂須賀家の徳島藩は明治維新まで続いた。



戦時中までこの公園に立っていたのは、長い槍をもつ、甲冑姿の正勝の銅像だった。
大正2年に建立。







正勝像は戦時中の金属類回収で失われ、
戦後の1965年に穏やかなかみしも姿の家政像が建てられた。
丸顔の家政像に武将の面影はない。
平和な時代になって荒々しい武将から平和な殿様へのイメージチャンジをさせた。



「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行





撮影日・2013年9月19日

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桃太郎(吉備津神社)

2021年04月30日 | 銅像の人
場所・広島県福山市新市町宮内  「吉備津神社」(いっきゅうさん)


平安時代に制定されたといわれる全国の「一宮」、
備前・備中・備後の一宮は、
吉備津彦神社・吉備津神社・吉備津神社とすべて”吉備津”がつく。

備後一宮は「吉備津神社」であるが、地元では「いっきゅうさん」と呼ばれ、市民に親しまれている。








桃太郎
日の丸も背負った童話の英雄

小波が銅像建立を提唱
明治中期以降、童話作家の巌谷小波(いわやさざなみ)がまとめた『日本昔噺』や国定教科書などで、
おばあさんが川で拾った桃から生まれた桃太郎が、鬼ヶ島で鬼を退治して宝物を持ち帰る現在のような「桃太郎」が
「国民童話」として広まり、定着した。


小波は未来の国民を教育するには最適な教材だとして「国民教育のシンボル」で各地に銅像建立を唱えた。
一方で福沢諭吉は、
桃太郎は鬼が大事にしてきた宝物を取った盗っ人だと説いた。
芥川龍之介は小説「桃太郎」で、平和に暮らしていた鬼を侵略する桃太郎だ。

実は明治27年の小波の最初の『日本昔噺』では、
鬼退治に行く理由が「鬼たちがわが神皇の皇化に従わず」と記され、
皇国を背負って戦いに行く桃太郎だった。
その後の改訂で、鬼退治の理由が削除され、鬼は理由もなく攻められる。


太平洋戦争時は、
侵略の正当化や戦意高騰に利用され、桃太郎は日の丸を背負った。
戦後は、
軍国主義を払拭して再登場した。

「銅像歴史散歩」 墨 威宏 ちくま新書  2016年発行








撮影日・2018年11月24日



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川越人足

2021年04月29日 | 銅像の人
場所・静岡県島田市河原   島田宿大井川川越遺跡




「静岡県の歴史」 若井淳之  山川出版社 昭和45年発行 


越すに越されぬ大井川

関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。
しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが
大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。

遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、
橋梁のない河川ばかりであった。
こうした河川を通行者がわたるとき、
天竜川・富士川では渡船制度が、
大井川などでは渡渉方式が採用されていた。

大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。
水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。
だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。

島田代官であった長谷川藤兵衛は1660年頃、往還の川越らが旅人にたいして不作法のことがないように、
川目代を任命してその取り締まりにあたらせた。
こうして大井川の川越制度は徐々に整備されてき、元禄年間に本格的に制度化された。





川越賃銭の統制

島田・金谷両宿に川庄屋と川会所の手に委ねる。
水深
水深二尺五寸を常水ときめ、一尺増水するごとに高くなる。
川庄屋は毎朝夕六つには河原に出て、その日の川の状況を調べ、
水深などにより賃銭の決定や川の留明を決めていた。
川庄屋の決定により、川越人足は動くのであるが、
島田側でみると江戸中期に350人ほどいたといわれ、幕末には650人くらいに増加していった。


肩車や蓮台などの方法があり、
蓮台越には多様で芋手すり、四方手すり2本棒、四方手すり4本棒などの種類があった。
また大名は自分の蓮台を持参、本陣などにあずけていた。

大井川渡渉のなかで最大の問題は、
賃銭でも人足の不作法でもなかった。
川越庄屋たちの判断によって決定される川の留明であった。

雨が降り、川が増水して川留になると、
島田・金谷の川庄屋たちは、宿々にはもちろん、道中奉行にたいしても通報・報告していた。
すると参勤交代の大名も、一般旅行者ももよりの宿場で泊まらざるをえなかったし、
川明になるとその旨がまた通報されるので、先を争って渡ろうとする人々が河原に殺到し、
さながら戦場のようであったという。


川留になって困り果てたのは、大名や通行者ばかりではなかった。
参勤交代の援助をする助郷村の人々も同様であった。
かれらは逗留する大名たちが、宿場にいる間は村にかえることができず、村から食糧を運ばせて待機していたから、
その負担も莫大であった。


いっぽう海上交通・水上交通の発達も忘れてはならない。
菱垣廻船・樽廻船の発達にともない、海上交通とむすびつく清水湊の発達もいちじるしく、富士川の水運の発達ともむすびついて、米や塩の流通の重要な中継地となった。









撮影日・2014年10月9日



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呉要塞・高烏砲台

2021年04月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市警固屋8丁目 高烏台
訪問日・2021年年4月26日  



対象はロシア艦船と思えるが、軍都・広島と東洋一の軍港呉を敵艦から守るため、
出入り口の関門海峡と豊予水道に要塞を造り、さらに周辺の広島湾や呉湾にも要塞を構えた。
大正時代には無用となり廃止されたが、一部要塞は太平洋戦争で高射砲基地として復活した。


高烏砲台跡は戦時中復活したが、敵機に対する戦果はなかったのだろう。




(高烏砲台跡)




高烏砲台跡
(現地案内板)

明治19年(1886)、呉港に鎮守府設置が決まり、陸軍は広島湾と呉軍港を敵艦から守るため、
明治29年(1896)~36年(1903)にかけて周囲の島や山などに呉要塞(のち広島湾要塞)を建設しました。

山頂に八咫烏神社がある高烏山にちなんだ高烏台にも明治35年に砲台が完成しました。
高烏砲台は広湾から呉湾に進入しようとする敵艦を攻撃するためのものでした。

高烏砲台は実戦に使われることはなく、その後も沈黙したまま大正15年(1926)に廃止されました。
その後、
高烏砲台は海軍に引き継がれ、昭和期に入って高角砲設置されました。

戦後は廃墟となっていましたが、昭和36年に、この一帯は音戸の瀬戸公園として整備されています。






(兵舎跡)




旧高烏砲台 兵舎
(現地案内板)

この建物は、明治29年から陸軍が呉(広島湾)の防護のため砲台を整備した際、
高烏砲台の兵舎として建てられた建物です。
高烏砲台は、軍港として軍事的に重要な施設でもあったので、後に海軍に移管されました。
昭和20年8月の終戦後、兵舎は興廃しましたが外壁は現在も残存しています。
兵舎を含む高烏台砲台に使われている石は、
建物の位置から南西側の公園内の斜面から産出された花崗斑岩であることがわかっています。
この兵舎についての記録は残されておらず、
詳細は不明ですが、明治時代の石造建物としての形態を残しています。





(兵舎跡・手前の海が呉湾、奥が広島湾)



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土屋寛翁像 ~千光寺公園、藤が満開~ 2021.4.26

2021年04月29日 | 銅像の人



天気に誘われ千光寺公園に寄った。
ツツジがきれいだろうと来てみたが、
ツツジの場所は、「千光寺山頂展望台」の工事のため、広い範囲が立入禁止区域だった。







ツツジの場所意外の場所で、藤が二か所綺麗に咲いていた。
千光寺公園は”藤の名所”でもあることを、初めて知った。








・・・・・


土屋寛翁像


場所・広島県呉市西土堂 千光寺公園

千光寺公園、西展望台のすぐ近くにある。

栗原村長・町長、広島県議、衆院議員、尾道市長を務めた人。





(Wikipedia)

土屋寛

広島県御調郡栗原村出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。
また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。
1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。

戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。






撮影日・2021年4月26日



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平清盛像 ~音戸の瀬戸公園、つつじ満開~ 2021.4.26

2021年04月27日 | 銅像の人



テレビ放送(4.25夕)で見ごろを確認、翌4.26は全国的に晴れ予報だったので、
音戸の瀬戸公園に行ってきた。
見事なつつじで、感動ものだった。










・・・・


場所・広島県呉市警固屋 音戸の瀬戸公園(高烏台)





平清盛

清盛は、戦前の教科書によって、権勢を誇る悪役として知られていた。

ところが戦後、この清盛の衣の下に、
国際感覚に富んだ新しい人物像が再発見された。

音戸の瀬戸を修築し、船の通行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛である。
遣唐使を廃止して、閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、
清盛は、西に大宰府をおさえ、東に神戸港を築いた。
音戸はそれを結ぶ海路である。
雄大な彼の構造にあったのは中国貿易だった。

【君よ今昔の感如何】
と語りかけているのが、『新・平家物語』の作者、吉川英治の文学碑である。


「日本史探訪・源平の乱」  角川文庫 昭和59年発行










撮影日・2021年4月26日



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阿久利姫

2021年04月27日 | 銅像の人
場所・広島県三次市 尾関山公園




阿久利姫

三次藩の藩祖・浅野長治の娘・阿久利姫は赤穂藩主・浅野長矩に嫁いだ。
江戸城松の廊下で刃傷沙汰の結果、長矩は切腹、赤穂藩は改易となった。

長矩と阿久利姫の縁組は、姫がまだ生まれて間もない頃から進められ、長矩が17歳、姫が10歳の祝言があげられた。
長矩が切腹後、阿久利姫は落飾して「瑤泉院」と称し、1714年45歳で逝去するまで夫の菩提を弔ったという。

「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行








妻たちの赤穂事件

赤穂浪士の物語は、日本男子にとって、一つの美学なのであろう。
”男泣かせ”の要素に満ち満ちている。

初志を貫く清々しさは心うつ。
大義に命をかける男たち、
むくわれぬ愛に身を捧げる女、
共に崇高な精神である。
うっとりと酔い痴れ高い観劇料を払うのも、むべなるかな。


瑤泉院は、幕府より縁組の許可がおりるのは長矩9歳、阿久里2歳。
3年後、長矩の屋敷に引越す。
長矩17歳、阿久里10歳で結婚。
長矩自刃35歳、阿久里28歳。ただちに剃髪。

夫人は一室に閉じこもり、夫の冥福を祈ったと伝えられる。
長矩自刃後14年目、彼女はその生涯を終えた。41歳であった。


「歴史読本 昭和56年12月号」  新人物往来社  昭和56年発行





撮影日・2019年11月20日



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紫式部像

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・滋賀県大津市 石山寺







後宮の光と影『源氏物語』



「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり」

女御は后の下で当時4~5人、
更衣はさらにその下の階級で20人前後。
要するにハーレムである。
前者は大臣の娘、後者は大納言の娘という出身だが、その中にも家柄の差がある。
問題の更衣(桐壷)は、家柄はさほどではなかったが、すぐれて寵愛を受けていた。

閉鎖的な女性社会だから、陰湿なことはおよその見当がつく。
「参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿、ここかしこの道に、 あやしきわざをしつつ、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり」

桐壷が帝の寝所へ通う廊下に、汚物をまきちらして妨害したというのである。
そればかりか、中廊下の出入り口に錠をおろして閉じ込めてしまったことすらある。
「みやび」などとは縁遠い、重苦しい人間関係である。



重苦しいと言えば、
瀬戸内晴美さんが、当時の女性たちが身長を一尺も越すような髪をどう扱っていたのか、という疑問を呈していた。
洗髪しようものなら、重くて痛くていられない。
男と寝るときも、興奮したらしわくちゃになって、躰にまきついてしまうだろうというのである。
このようなことを調べた歴史家も、一人もいないらしい。

長い長い黒髪が裸身にまとわりついているさまは、
なかなかエロチックにはちがいないが、
女性の立場からすればわずらわしかろう。

昼の装束にしても、極端な場合は20枚も重ね着をするなど、きわめて非活動的なものだった。
およそこうした生活様式から想像されるものlは、発散の機会もなく内へ内へとこもっていく感情であろう。
単純な嫉妬は怨恨となり、燃えさかるような瞋恚(しんい)に成長する。
嫉妬に目がくらんで廊下に糞尿をまきちらすなどは、さして異常なことでもなかっただろう。

桐壷はこのような恨みの総攻撃を浴びて、光源氏を生み落とすと間もなく死んでしまう。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行










女性愛書家の生涯『更級日記』


后の位も何にかわせむ


本が読みたくて----死ぬほど読みたくて、神にまで祈るというような気持ちは、出版物があふれている現代にあっては想像もできまい。

だが、菅原孝標の女(むすめ)はそうだった。
千年も前の人々は、本が読みたければ伝手を求めて借りるほかはなかった。
ついに等身大の薬師仏をつくり、手を洗い清め、人の見ていないときに
「京へ上らせください、物語の、あるかぎり見せ給え」と額をつき、祈ったという。

『更科日記』を読んで、まず胸が熱くなるのは、この純な心の女性が書物に寄せる、深く大きな愛情である。


「日本の書物」 紀田順一郎 新潮文庫 昭和54年発行










撮影日・2015年12月14日


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仁科芳雄

2021年04月25日 | 銅像の人
場所・岡山県浅口郡里庄町  里庄歴史民俗資料館

原子力で有名な仁科芳雄博士、
里庄町出身の偉人。






仁科芳雄

明治23年里庄町浜中に生まれた。
東京帝国大学卒業後、留学し「クラウン仁科の式」を発表、
理学博士の学位を受けた。
昭和19年1月大サイクロトロンを建設。
21年文化勲章を授与され、30年仁科記念財団が創立された。
胸像は歴史民俗資料館の西側に建立され、
昭和55年11月除幕式が行われた。
福本紀孝制作

「ふるさとの想い出写真集」 森脇正之編  国書刊行会  2020年発行









撮影日。2021年3月31日

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