しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

伊東マンショ騎馬像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)





天正使節団


天正10年頃、豊後の受洗者は1万を超えた。
日本人宣教師がさかんに養成された。
神学校の少年の進歩に驚き、その成果をローマ教皇やポルトガル王に示すことを考え、
少年使節の派遣となった。
大友・有馬・大村の三大名を説き、神学校の生徒から4人を選んだ。

天正10年1月28日長崎を出航、マカオ・マラッカをへてゴアに着いた。
インドから喜望峰・セントヘレナ島を経て天正12年8月11日ポルトガルのリスボンに着いた。
マドリッドでフィリップ2世に謁して翌年船でイタリアにはいり、3月20日ローマに着き、
84歳の老教皇グレゴリオ13世に謁見して三大名の書状を奉呈した。

帰路は天正13年6月3日にローマを発し、ジェノバから乗船しイスパニアで皇帝・皇后に謁し、
ポルトガルのリスボン発は翌年2月14日であった。
アフリカをまわってインドのゴア、マカオを経由して、天正18年6月16日、
前後8年を要して長崎に帰着した。

「大分県の歴史」  渡辺澄夫  山川出版社  昭和46年発行







今からおよそ390年の昔、はるかな東洋の果て日本から、
ヨーロッパへの最初の使節として、リスボンではじめてヨーロッパの土を踏んだ4人の少年たちがあった。
16世紀のヨーロッパは、スペインやポルトガルの船乗りが世界に雄飛した大航海時代である。
イタリアには芸術の花が咲き誇ったルネサンスの時代でもあった。
一行がヨーロッパに到着した1584年は、日本の年号で天正12年である。

・・・

少年使節一行がエスコリアルに泊った頃は、スペインの黄金時代であった。
だが、4年後少年たちが帰国途中イギリス海軍により無敵艦隊は敗れた。
一方、8年5ヶ月の旅を終え帰ってきた日本もまた大きく変わっていた。
大友宗麟、大村純忠は既に世になく、
秀吉の宣教師追放令とともに、日本のキリシタンにとって暗い長い時代が始まろうとしていた。


千々和ミゲルが3~4年で棄教。迫害者側につく。
伊東マンショ慶長17年長崎で病死。
原マルティノ、マカオで病死。
寛永10年(1633)、長崎で老神父が殉教した。
「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである」と刑場で誇らしげに絶叫したという。


「日本史探訪11」 角川書店編 角川文庫  昭和59年発行







撮影日・2013年2月21日

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フランシスコ・ザビエル

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・長崎県平戸市








ザビエルはなぜ日本にやってきたか


天文18年にザビエルがはじめて鹿児島に着いて、それからキリシタン・バテレンというものが、
日本の社会に大きな影響を及ぼした。
それから約百年、寛永16年三代将軍家光の鎖国でいちおうカタがついた。

ザビエルは印度ゴアにきてから、南アジアの各地を布教して歩いた。
東インド地方で非常な成功をおさめたものの、文化レベルが低いのを不満に思っていた。
そうして1547年マラッカで鹿児島のヤジロウという日本人にはじめて会い、
日本人の文化的、知的の高さに非常に引かれ、日本こそ自分の布教するところだと感じた。


ヤジロウは、海賊船と関係ある、八幡船というか倭寇と関係ある、武士か町民か、よくわかりません。
海商だったようです。フロイスとはゴアで面識があった。

ザビエルは日本語は知らないので、そのお説教を日本語に直して教える。
むずかしいのは宗教用語です。
その通訳を最初にしたのがヤジロウだった。
のち「ヤジロウの無学のため、最初の教理書は日本人の物笑いの種となった」。


初期のキリシタンの教えは、珍奇なものとか、何か新しいムードをもったような感じで受け容られてきた。
ところが根を下ろすような形になると、当然いままでの宗教とぶつかる。
いちばん積極的なのは禅宗です。

種子島にポルトガル人が初めてきて、日本を発見し、航路を発見し、
日本貿易が非常に利益があることもわかった。
毎年のようにポルトガルの商船が九州各地の港に入ってきた。
またザビエルにつづく宣教師もきた。
宣教師を保護しない大名の湊には入港しないので、大名も保護した。
南蛮船が来れば京都や大坂の商人も来る、海外からの商品を手に入れようとする。
商品は中国の生糸や絹織物が主だった。


信長は九州を平定していなかった。
毛利はキリシタンに反対している。
少なくとも中国を平定するまでは、九州はそっとしておく。
つまりキリシタンに好意的な態度を見せておく。
平定したら態度を改める・・と思います。

主君のために命を捧げる、のではなくて、神のために死ぬならば極楽に行けるという、殉教の考えが日本の為政者にとっては非常に恐ろしいものになってくる。
それが衝突の深い原因だったのではないか、と考えております。


「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行












撮影日・2012年5月11日   


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西洋音楽発祥記念像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)





(大分市観光協会)

西洋音楽発祥記念碑

府内は聖フランシスコ・ザビエルがこの地で布教して以来、日本で最初に西洋文化が栄えた町となりました。

弘治3年(1557)、府内教会では復活祭に聖歌隊が結成され、オルガンの伴奏で讃美歌を合唱しました。
以降、府内の町からは、美しい讃美歌の歌声が流れるようになりました。

また神父からビオラを学んだ少年たちは、永禄5年(1562)、領主大友宗麟の前でこれを演奏し、大いに称讃を受けたそうです。









撮影日・2013年2月21日


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西洋医学発祥記念像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)






(日本一のおんせん県おおおいた)

西洋医学発祥記念像


説明
大分市の府内城跡から南へ450m続く遊歩公園。
ここは、南蛮文化が栄えた当時の〝府内〟が感じられる銅像が数多く立ち並んでいます。
歴史から学ぶ新しい文化を感じながら、あなたも歩いてみませんか。
西洋医学発祥記念像、ポルトガルの青年医師アルメイダだが、日本人助手とともに手術を行おうとする像。









撮影日・2013年2月21日

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大関魁皇

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・福岡県直方市大字山部   JR直方駅前





普通、巨漢力士と小兵力士が土俵にあがると、
巨漢力士の方が悪役的なあつかいの雰囲気になるが、魁皇だけは違った。

気は優しくて力持ちのイメージで人気があった。


今、”名大関”だった人は?と問われたら、
自分は南海の黒豹・若嶋津と魁皇をあげる。

二人とも名大関だった。


(福岡県議会HP)
大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式

平成26年10月26日、「大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式が直方市で行われ、加地邦雄議長が出席しました。
「大関魁皇」像は、大相撲史上最多の1047勝をはじめ数々の記録を残した大関魁皇の功績を顕彰し、
後世に伝えようと建立されたもので、高さ約2.4メートルのブロンズ製の像が、
元大関魁皇関(浅香山親方)の出身地である直方市のJR直方駅前広場に完成しました。
式典と除幕式には、浅香山親方(元大関魁皇関)も出席され、大勢のファンや市民が集まりました。








撮影日・2017年2月14日


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星野仙一

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市 倉敷美観地区 「星野仙一記念館」


星野の高校時代は、
岡山県の野球は「岡山東商」と「倉敷工業」、略して”東”vs”倉工”時代だった。
同学年に、中日の四番打者となった倉工・菱川。
一学年下に、大洋のエースだった東商・平松らがいた。
倉商も星野もまったく蚊帳の外だった。

大学を出るときは、”法政三羽烏”で餅きりだった。

その星野がプロ野球に入ってから、選手として、監督として、プロOBとして大活躍することになった。
「燃える男」「闘将」として名を残した。






水島生まれで父が生後すぐ亡くなっていたこともあり、
加藤六月さんを「父親」と後援会誌に寄せていた。

妻の祖父は、あの有名な”来栖三郎全権大使”で、
父(星野の義父)は、五洋建設の専務だったが、就任して間もなく亡くなっている。






(Wikipedia)

星野 仙一
1947~2018
日本のプロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。
岡山県児島郡福田町(1953年、倉敷市と合併)出身。
選手時代のポジションは投手。セ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。
中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた。
2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務め、
2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。





撮影日・2010年2月6日

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三原と水原

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・香川県高松市番町  中央公園

野球のライバル選手は数多くあったが、
極めつけのライバル、といえばこの二人になるだろう。

三原と水原。


戦前・戦中・戦後の数十年。
高校(高松中と高松商)もライバル。
大学(早稲田と慶応)もライバル。
選手、監督(主に巨人、また巨人vs西鉄)もライバル。


監督の三原はマジックと呼ばれた。
水原は3塁コーチボックスでの立ち姿がきれいだった。

こうゆう二人だから出身地の高松では、県庁・市役所前の中央公園の
そのまた中央に銅像が並んで立つ。






(Wikipedia)

三原 脩
香川県仲多度郡神野村(現・まんのう町)出身。
選手としては、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)の契約第1号
監督としては、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出し
「三原魔術」と驚嘆され「魔術師」「知将」の異名をとった。
日本プロ野球史上、日本野球連盟、2リーグ分立後のセントラル及びパシフィック両リーグ加盟球団での日本選手権シリーズ(日本シリーズ)
といった、3種類の優勝を経験した唯一の人物(セ・パ両リーグでの日本シリーズ優勝経験監督は、水原茂・広岡達朗がいる)。
監督としての3,248試合出場は日本プロ野球記録である。


水原茂
香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)
監督・野球解説者・野球評論家。1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(のぶしげ)」。
現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、
引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。
巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、
セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。
NPB初のベストナイン(三塁手部門)も受賞している。








撮影日・2019年11月30日



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捕鯨⑤ラジオは日水、野球は大洋

2021年05月30日 | 銅像の人
場所・兵庫県明石市  明石公園


小学生の頃、魚屋さんが自転車に乗って二日に一度、魚を売りに来ていた。
母が買うのはいつも決まって、いちばん安いクジラだった。

小学4年生の頃、学校給食が始まった。
決まったように出てたのがクジラ肉の揚げ物だった。
後年”竜田揚げ”と呼ぶことを知った。

ラジオ放送があった。『赤胴鈴之助』
始まりは・・・赤胴鈴之助だっ!で、「日本水産提供、赤胴鈴之助」
♪日水ニッスイ、日の丸じるし・・・。

いっぽう、プロ野球では大洋ホエールズが優勝したりした。
あのミサイル打線の大毎を破って日本一。

南氷洋で活躍する捕鯨船、
少年たちの夢は、捕鯨船のキャッチャーボートの射撃手だった。




キャッチャーボート

南極海での捕鯨が盛んだった20世紀半ば、太地町からは、多くの名砲手が輩出し、
多いときで年間300人近い男たちが乗組員として南極へ出港したという。

「おクジラさま」 佐々木芽生  集英社 2017年発行 




公益財団法人 山口県ひとづくり財団
中部幾次郎
明治・大正・昭和時代の実業家・政治家
1866(慶応2)年〜1946(昭和21)年

1866(慶応2)年、播磨国明石東魚町(現 兵庫県明石市)で「林兼」という屋号で鮮魚仲買運搬業を営む中部家の子として生まれました。
当時、鮮魚の運搬は帆船がほとんどだった中、幾次郎は蒸気船を使った運搬を始めて成功します。
1905(明治38)年には日本初の発動機付き鮮魚運搬船を建造し、その後、活魚の買付を韓海漁場にも広げます。
1924(大正13)年には「株式会社林兼商店(後の大洋漁業。現 マルハニチロ株式会社)」を設立。
翌年、拠点を下関に移します。
1936(昭和11)年、日本初の国際捕鯨母船を造り、南氷洋捕鯨を始めます。
水産業の関連業種を全て同系列に置いて運営することを経営方針として造船から水産物の保存冷蔵工場まで運営。
新しいことを先取りして日本の水産界の発展に貢献しました。
また、下関商工会議所会頭を長年務めたほか、1946(昭和21)年には貴族院議員となりましたが、その年、満81歳で亡くなりました。







日本遠洋漁業の株式会所の成功

明治33年(1899)に設立された日本遠洋漁業株式会社(のち東洋漁業→東洋捕鯨→日本水産)は、
ノルウェー式砲殺捕鯨法の発展にとって牽引車のような役割を果たした。
設立者の長州人・岡十郎は、品川弥次郎、福沢諭吉、曽根荒助などの忠言により10万円の資本を集め、
山口県先崎で日本遠洋漁業を設立した。
日露戦争でライバルのロシア砲殺捕鯨船は日本海軍によって拿捕された。
ロシアの拿捕船を購入、自由に操業し、捕獲量245頭、会社は好景気に沸いた。
翌明治38~39年も朝鮮海域は独断場で292頭。
東洋漁業は陸前鮎川、銚子、館山、紀州大島、土佐甲浦、土佐清水、阿波宍喰に事業所を事業所をつくった。


大型沿岸砲殺捕鯨の発展

明治41年には朝鮮海域と九州、土佐から三陸沿岸にかけて、そこで操業する砲殺捕鯨船も28隻に達し、
捕鯨会社も12を数えた。
捕獲増と製品乱造で価格が低迷。
特許制度で総隻数を30に制限。
東洋漁業は6社合併で東洋捕鯨、林兼商店は大正7年土佐捕鯨を買収し捕鯨事業に進出。
昭和18年、水産統制令により日本水産・大洋・極洋の三大会社が沿岸砲殺捕鯨をリードする。
隻数制限は空文化した。
 
沿岸砲殺捕鯨が鯨の減少によって先細りになっていくのと反比例ぢて、捕鯨業全体の中で、極洋における母船砲殺捕鯨の担う役割が大きくなっていった。
とくに捕頭数がピークに達した昭和30年代が、日本砲殺捕鯨の全盛期であった。



戦中戦後の沿岸砲殺捕鯨

沿岸砲殺捕鯨は、日本船員の多くが召集されたため、かわって朝鮮半島出身者が多数乗船している。
戦後、いち早く捕鯨は復興した。
ミンク鯨など小型鯨を対象とする捕鯨も盛んになった。
捕獲数も昭和26年~42年の間は年間1.000頭ほどで安定していた。
しかし次第に大型船に太刀打ちでくなくなり昭和44年以降は、網走、鮎川、和田、太地、などの拠点に合わせて7~9隻の小型砲殺捕鯨船が登録されるだけになった。
現在は国際条約の規制外であるゴンドウ鯨や槌鯨の漁を続けている。


「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行







(しものせき物語)

下関

~江戸期の古式捕鯨(長州捕鯨)と下関の役割~
江戸時代に入り、「くじら」の通り道であった長門、萩周辺の各浦に鯨組が置かれ、
沖を通る「くじら」を勢子舟(せこぶね)と呼ばれた小船で追いかけ、銛を打ち込んで捕獲する古式捕鯨(長州捕鯨)が行われます。
当時、北前船の寄港地であった下関では、長州捕鯨で捕獲された鯨の肉、油などが下関の問屋を通じ、関西、北陸や九州各地に送られていたという記録があります。
既にこの頃から、「くじら」の流通基地としての基盤が整っていったと考えられています。



~明治期の近代捕鯨発祥地~
明治期に入り「くじら」の捕獲方法も、それまでの古式捕鯨から船に積んだ大砲で銛を発射し、「くじら」を捕獲する近代式(ノルウェー式)捕鯨法に変わります。
当時山口県議であった岡十郎と資産家の山田桃作が立ち上げた、日本初の近代式捕鯨会社「日本遠洋漁業株式会社」が、
1899(明治32)年に長門に本社を、下関に出張所と倉庫を置いたことから、長門と下関いわゆる山口県は、近代捕鯨の発祥地と呼ばれています。


~戦前・戦後を通じた南氷洋捕鯨基地へ~
「日本遠洋漁業株式会社」はその後に合併・再編等を経て、現在の日本水産につながる会社となりますが、昭和初期には対岸の北九州・戸畑に移転します。
下関ではその後、中部幾次郎が朝鮮通漁やトロール漁業等で財を成し、立ち上げた林兼商店(後の大洋漁業(マルハ)、現・マルハニチロ)が捕鯨事業に進出し、
1936(昭和11)年には南氷洋捕鯨に出漁します。
戦後は食糧難解消のため、下関の唐戸岸壁から小笠原捕鯨に出漁しますが、更に南氷洋捕鯨が再開され、
下関は捕鯨船の建造、鯨肉の陸揚げ、流通・加工等の大洋漁業の捕鯨関連産業が集積した「くじらの街」として発展してきました。
昭和30年代後半のピーク時には年間約2万トンを超える鯨肉が陸揚げされ、「くじら」は水産都市下関発展の一翼を担ってきました。
中部幾次郎は兵庫県明石出身で、下関に本拠地を移し、トロールや捕鯨事業に進出します。
大洋漁業はプロ野球球団大洋ホエールズの創設や社会貢献にも積極的に取り組み、学校への体育館建設寄贈等を行いました。

~商業捕鯨モラトリアム(一時停止)と商業捕鯨の再開~
1982(昭和57)年には国際捕鯨委員会(IWC)で商業捕鯨の一時停止が決定され、商業捕鯨から調査捕鯨に移行しますが、
下関は調査捕鯨船(目視採集船)の基地として「くじら文化」をつないできました。
その後も、下関は商業捕鯨再開に向け他の自治体と連携し、様々な活動を行いながら捕鯨船団の基地化を目指してきましたが、
2019(令和元)年6月末に日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、7月1日から31年ぶりに商業捕鯨が再開されました。
下関は国内における唯一の沖合商業捕鯨基地として、
次世代に下関が誇るくじら文化を継承するとともに「日本一のくじらの街」を目指し、捕鯨母船「日新丸」の代替船建造等、捕鯨船団の基地化に取り組んでいます。

~下関のくじら文化~
下関から島根県の益田周辺までの日本海側では、古くから節分にくじらを食べる風習があります。
「大きなものを食べて大きく年をとる」、「大きなものを食べて邪気を払う」という事柄にちなんでと言われています。
下関は「くじら」の流通基地としての食文化が根付いており、
市内には「くじら」の専門料理店や専門小売店もあり、1958(昭和33)年には大洋漁業の鯨の直営レストラン「日新(※7)」が置かれていました。
マルハブランドの生産拠点でもあった下関では、「くじら」のハム、ソーセージ、缶詰等も生産され、
昭和30年代には「くじら」のソーセージの年間出荷額が約40億円にものぼっていました。
現在でも市内の量販店や飲食店でも鯨肉や料理を扱っている店舗も多く、下関のくじら文化を支えています。



     (クジラ終わり)



撮影日・2009年8月15日


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捕鯨④南国土佐では

2021年05月29日 | 銅像の人
場所・高知県室戸市甲浦町


土佐の国では江戸時代に捕鯨が盛んだったそうだ。
では、
「南国土佐を後にして」に唄われた、
♪国の父さん室戸の沖で 鯨つったといういう便り・・~は、
昭和30年代には、実際にあり得えた話だろうか?疑問だ。






ペリーが日本にやってきたのはクジラのせい?

1853年(嘉永6)、ペリーのひきいる4隻の「黒船」が浦賀にあらわれ、江戸幕府に開国を要求したひとつに、
アメリカの捕鯨事情がありました。
19世紀、アメリカの捕鯨がアメリカ沿岸から広がり、日本近海で操業する船も出てきました。
ペリーは日本に対して、アメリカの捕鯨船に燃料や水、食料などの支援をすること、
遭難した場合の救助を求めたのです。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行


日本近海での捕鯨に進出した米国は捕鯨船の寄港地の必要から、ペリー提督を日本に派遣した。
ペリーは1853年、1854年に来航し、
米国捕鯨船の補給基地として日本に開国を迫った。
ほぼ同時期にペンシルベニアに油田発見があり、鯨油の下落、捕鯨業自体も衰退した。

「クジラは誰のものか」  秋道智彌  ちくま新書  2009年発行






「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行

捕鯨業の衰退

弘化(1844~1848)頃から慢性的な不漁が起こった。
アメリカを中心とする欧米各国の突取捕鯨法をおこなう捕鯨母船が日本近海で盛んに操業し、
沿岸に接近する鯨の数が激減したものと考えられる。

明治に入るとボンブランスを用いる銃殺捕鯨法、各種の砲殺捕鯨法が導入された。
明治の後期、ノルウェー式砲殺捕鯨法が普及する。







(高知まるごとネット)

土佐の「鯨」について
くじら鰹と並んで鯨は古くから土佐の人々の暮らしに身近な存在でした。
土佐の民謡「よさこい節」に、こんな一節があります。
「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」太平洋に面した高知県では、古くからこんな歌が歌われるほど親しみのある存在です。
土佐湾は、日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。
いまでは、大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングが土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われており、観光客に人気です。
近年、捕獲量が制限され、貴重な食材となった鯨ですが、高知では、南氷洋調査捕鯨のミンク鯨などを使ったさまざまな料理がいまも食べられています。

「鯨」はここがおいしい
土佐の味と言えば、「鰹のたたき」をイメージされる方が多いと思いますが、
「鯨の刺身」も美味!肉は空気に触れると鮮やかな色に変化するので、半解凍ぐらいが食べ頃です。

土佐の鯨文化
土佐の鯨文化高知県東部の街、室戸市では、藩政時代、捕鯨が盛んに行われていました。
当時の捕鯨方法は“古式捕鯨”と呼ばれています。
“古式捕鯨”とは、20隻が1チームとなり、鯨を網で追い込んだ後、銛を使って仕留める形式のものです。
一隻ずつに役割があり、網を張って鯨を絡ませる「網舟(あみぶね)」や、鯨を網に追い込み、銛を投げて仕留める「勢子舟(せこぶね)」、
捕らえた鯨を運搬する「持双舟(もっそうぶね)」などの種類があったと言われています。
現在では、その中の「勢子舟」を再現し、チームごとに競う「鯨舟レース」が、毎年7月に室戸市で開催されています


鯨は豊かな生態系の証明
鯨高知県西部の黒潮町の沖合でも、ニタリ鯨が頻繁に見られます。
鯨は海の生態系の頂点に位置し、森・川・海の全てが豊かな自然の下でのみ生きられます。
栄養分豊かな土をつくる森。その森に降った雨水はスポンジ状の土に蓄えられ栄養分豊かな水を川に送ります。
川は森から送り出された水で植物プランクトンを育てます。
植物プランクトンは動物プランクトンのエサとなり、動物プランクトンは小魚のエサとなります。
そして、小魚やプランクトンは鯨のエサとなるのです。
鯨の存在は、地域が本来の自然の姿を保っていることの証拠だと言えるでしょう。









日本大百科全書(ニッポニカ)「甲浦」の解説
甲浦
かんのうら


高知県北東端、安芸(あき)郡東洋町の中心地区の一つ。
徳島県に接する。
湾入の多い沈降性海岸に位置する天然の良港で、古くから土佐と阿波(あわ)、上方(かみがた)を結ぶ中継港であった。
江戸時代の参勤交代の際、この港から出国したこともある。
明治期にはカツオ漁、捕鯨漁の基地となり、
阪神との間に定期航路が開設され、その後は神戸、土佐清水間にフェリーが就航していたが、2005年(平成17)廃止となった。
国道55号が通じ、阿佐海岸鉄道の終点となる甲浦駅がある。










撮影日・2012年4月5日



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捕鯨③備後田島の鯨網

2021年05月29日 | 銅像の人
場所・広島県福山市内海町横島  うつみ市民交流センター

曲がった橋、福山市の「内海大橋」。
橋は本土と、田島・横島の2島を繋いでいる。




網を使った捕鯨は紀州の太地で始まったが、「しばり網」の伝統漁法をもつ田島・横島・鞆の漁師は、
九州の鯨組から重宝されたようだ。

笠岡の漁師も江戸期に九州捕鯨への出稼ぎがあるか調べてみたが、記述は出てこなかった。




「えっと福山 ふくやま観光・魅力サイト」

内海町には、水軍時代から明治末期にかけて、約300年にわたり九州西海の捕鯨に参加した歴史があります。
それは、鯨を追う操船の技術やこの辺りで製作された鯨網の精度の高さと、独創的な技を買われてのことでした。
現在、商業捕鯨は禁止されていますが、かつてあったその歴史をいまに伝えるため、捕鯨網船「双海(そうがい)船(ぶね)」を復元しようとするプロジェクトがあります。
内海町田島出身で、現在はスタンフォード大学の客員教授を務める宮本住逸さんにお話を伺いました。

≪インタビュー企画≫

内海町田島出身、スタンフォード大学客員教授・宮本住逸さん










捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎

日本人は鯨の肉を食べるだけでなく、油は灯明やウンカ駆除に、ヒゲは文楽人形を操るひもに、さらに骨や皮も有効利用し、余すことなく活用したということ。
そして戒名を付けて葬っていたという話に、スタンフォードの研究者が興味を持ったようでね。
鯨に対する敬意や感謝、愛情を感じます。

けど、捕鯨に対する日本と諸外国との認識には大きな溝がありそうですね。
民俗学で扱う信仰と、なによりも備後の生業の歴史の中に大切な要素があるということ。
そして日本の捕鯨文化の特殊性です。
日本には世界に例のない鯨に対する鯨霊供養という文化が根付いています。

日本の開国をプッシュしてくれたのが鯨なんです。
当時の日本沿岸には多くの鯨が回遊していました。
欧米は多い年では700隻以上の捕鯨船が日本沿岸の沖合で鯨を取っていたのです。
乱獲ですね。
幕末まで鎖国日本はその事実を知りませんでした。
日本の鯨組は、櫓漕ぎ船で網とモリを使って鯨を取っていた状態ですから、欧米の近代化された捕鯨船には追い付かない。
そんな中で九州鯨組からオファーを受けた備後田島・横島の「鯨網づくり」集団は頑張っていたのです。
その技は当時の九州各藩の鯨組に採用され、日本の古式捕鯨業に大きな足跡を残したということです。












内海町歴史民俗資料展示室に展示している「双海船」の縮小模型

日本の沿岸は鯨が多かったんです。
季節によって鯨の通るルートは違うんですが、旧暦でいう11月は日本海側を通ってアラスカ方面に向かう。
そして、向こうで出産し、対馬・五島を通って南下してくる。
それを追いかけまわすのではなく、待ちぶせして捕るんです。
日本は長らく鎖国していたため技術の発展が遅れ、当時は手漕ぎと帆で走るような船で漁をしていました。

最初は突き取り式で漁を行っていましたが、突き取りと網掛け式を組み合わせるように発展したんです。










鯨組

沖組といわれた役割におよそ400人を越える漁民が従事していました。
一艘の乗組員は約10人。
勢子船といって、キャッチャーボートの役割をするのが20艘くらいで、
捕った鯨を船に縛り付けて帰ってくる持双船が3艘、
網船(双海船・双海付船)が12~24艘、万一の際の代替船などを合わせると50艘ほどの船団を編成していました。
それらがすべて連携を取って、一頭の鯨を追尾するんです。
元水軍出身者の一糸乱れぬチームプレイですよ。
当時、日本最大であった平戸生月島の益富鯨組は2000人をゆうに越える規模の大組織でした。
これは世界初で最大のマニュファクチュアといわれています。


元禄期に益富鯨組が五島列島で87頭の鯨を捕獲しています。これはやや多い頭数です。捕れない年は0です。
呼子の中尾鯨組などは「田島納屋」を建ててまで優秀な網職人の確保に腐心します。
福山藩の脇港に指定されていた田島浦は北前船の出入りが許され、網製品の取引で活況を呈していたといわれています。
江戸期の絵図に描かれている軒を連ねる街並みが現在の姿と変わりない。
鯨は20メートルから30メートルに達する巨大なもの、網に掛かると必死で暴れますね、
1000メートル以上の長い網を三枚かぶっても、すさまじいパワーで逃げようとします。
切れた網は鯨の体からは決して離れません、鯨は息継ぎをしますから網が抵抗の役目をし、浮かび上がったところを仕留めるという具合ですね。
九州の海に合った網を作った、我々の先人の仕事ぶりに勇気と誇りを覚えます。
復元した双海船は1/10サイズの模型です。
それをここ歴史民俗資料展示室にある資料と共に常設展示しています、多くの市民に鯨漁の歴史を知ってもらえたらと思います。
少子化による人口減少問題が顕在化しています。
身近な故郷の歴史を通して、一人でも多くの子供の、「聞く耳を育てていく」お手伝いができればこの上ない幸せと考えています。
ふるさとの歴史はふるさとに学ぶことが必要なのではないでしょうか。








古式捕鯨300年の歴史
(田島・横島・鞆・常石)

備後田島の鯨網

1600~1900年の間の約300年間、北部九州各藩で盛んに鯨を捕っていた時代がありました。
田島横島は、しばり網の歴史が古く、鯛・いわし等の漁が盛んにおこなわれ、
田島鯛・田島イリコなどが、古い文献に記されています。

鯨網は、この「しばり網」を改良したものと考えられ、網の長さや、2艘の船で網を広げていく方法が鯨網に引き継がれており、
北部九州の鯨組資料の中にも「鯨網職人は、まず備後田島の者から雇う」と記されています。

福山藩第3代、水野勝貞は「藩主覚書」という法令の中で、
「・・・毎年、287人のものが平戸・五島・対馬などへ鯨取りに出かけている」と諫めている。





(阿伏兎観音)



撮影日・2020年9月14日



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