農家の縁側(えんだ)には決まったように真田の道具がころがっていた。
どこの家にも真田をしていた。
真田(さなだ)は備中・備後の南部地方では内職というより副業に近い存在だった。
城見小学校の講堂は名称が「真田講堂(さなだこうどう)」で、
児童の学校自慢の一つだった。
戦前、城見尋常小学校の生徒が何年間も真田を編んで貯めたお金で建てた講堂。
ここで式や映画や学芸会をしていたが、昭和50年頃老朽化で壊された。
(城見小学校の真田講堂)
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当ブログ・2022年01月31日
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小田郡史(大正13年版)の城見村史より
生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。
1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町 二毛作27町
他
主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。
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(父の話)
真田講堂はまだなかった。
ちいとずつ貯金をしていって作った。
えっとみんなで貯金していた。
2000・5・14
真田を編む
裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。
麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。
真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。
子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。
時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。
今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。
談・2000・6・17
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(母の話)
真田
裸麦をはやめにとりょうた。
雨がふったらいけん。色が変わるけぃ。
けっこうに並べて硫黄をかけてうむす。そりょうを外へ並べて干しとく。
「うむし」はどこの家にもありょうた。
そりょうをとっとく。長屋の上へ。
ちぃちぃとだしちゃあ真田をこしらようた。
談・2001・1・1
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「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館(福山市大門町) 昭和52年発行
麦
麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。
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福山市「引野町史」
麦稈真田
当地方での麦稈真田の製造は、明治21年ごろ大津野村在住坂本弁右衛門が、
岡山県浅口郡地方に赴き、好業種と認め、自ら習得して帰ったのが始めと伝えられている。
当初は製品を浅口郡地方の商人に売却していたが、
明治24.25年になって、村では2~3の業者が、原料を供給して村内の人々に賃組みさせたことから漸次従業者が増加した。
明治26年になって原料の麦稈に改良が行われた。
すなわち、品種に長稈の「やはず」を選び、
やや青刈りしたものに硫黄漂白を施して良好な結果を得た。
こうして原料を自家生産することにより収益を得た。
また明治27.28年になると、隣村の大津野村に輸出問屋の支店が数店開業し、
商取引も活発化した。
こうしたことから、30年代に入り村内では非常な隆盛を見せ、
農家の副業として殊に手作業ということから婦女子の内職として広く普及した。
売れ行きの増加は、米国を主体とした輸出の好況によるものであった。
好況の反面、粗製乱造や競争買いが続出した。防止策として明治43年、広島県真田同業組合を創立した。
麦稈真田は、国外国内ともに夏の日除け帽子として主に使われた。
夏の日除け帽子のうち通称カンカン帽は、明治後半から大正時代流行した。
しかし昭和年代に入るにしたがいしだいに衰え、第二次大戦中は輸出は皆無となり、
以後は国内の一部需要に支えられているにすぎなくなった。
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「神島史誌」
横江小学校
昭和6年9月14日 真田競技大会
昭和7年9月20日 校内麦稈真田競技会
昭和10年9月10日 麦稈真田競技会
昭和11年9月8日と9日 麦稈真田練習会
昭和13年10月3日~8日 真田編み会
昭和30年冬休み中の真田出品により児童用雨傘25本備え付け
神内小学校
昭和10年11月20日 真田競技会
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「倉敷市史8」
麦稈真田
材料となる裸麦はヤハズなどの品種が適している。
ヤハズは太くて伸びがよく、つやもよい。
第一関節が特によく伸びる。
早生種であるから入梅までに採取できる。
上質の麦稈を確保するために、青刈りと称して適期の1~2週間前に刈り取った。
そのため麦としては収穫が減少し、麦の品質も劣るが真田の生産による収入増はそれを遥かに上回った。
「千歯扱き」で穂を落とした棹は、三節のところより押切で切り、その夜「晒小屋(さるしごや)」で晒す。
翌朝漂白した美しい麦稈ができ上り、天気がよければ2日ほどで乾燥が仕上がる。
藁の二節(にぶし)の手前を鋏で摘む。これを荒摘みという。
天日干しをして袴をそぐり(除く)、次に先節の手前をまた鋏で摘んで天日干して先の袴をそぐり、
二節は節をそろえて小束にして、押切で切り落とす。
その後、「調選(ちょうせん)」で下ろし太さの選別をする。
問屋の注文を請けて「とんび」(仲買人)が真田紐の見本をもってくる。
この注文にあわせて、先は丸のままで、二節は「突割」で二つ割、二つ半割、三つ割というように、麦稈を割って使用する。
真田を組む
真田紐を編むことを、組むといった。
現金収入の少ない田舎のことで、手の動かせるものは全部真田組をした。
組み方は簡単な三平から複雑な五菱まで30種類以あった。
麦稈真田組みは永らく農村の経済を支え、わが国の外貨獲得にも大きく貢献してきた。
大正初期~昭和5年頃が最盛期、
昭和30年代、産業構造の変化で真田組みは終幕を迎えた。
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「岡山県史」
真田組み
原料は裸麦わらで、
品種のうち、ヤハズは節間が長いので真田用に適している。
青刈したヤハズわらを麦稈燻蒸小屋に入れて、硫黄を燃やして漂白する。
麦わらは穂の方から先・中・三節といい、四節以下は切り捨てる。
麦わらで三平と五平(五ベタ)という真田に編む。
老人・子供といわず、 冬なら炬燵で、あるいは歩きながらでもできる簡単な作業のため、 重要な副業になっていた。
夏には近所中の子供が一カ所に寄って 真田組み、夕方には牛を連れて外出、牛飼い子をしながら真田組みというのが、子供の生活であった。
第二次大戦前小学校では廊下に並んで真田組みの競争をしたり、真田一反組んでくることを 夏休みの宿題に課されたものである。
真田組みの講習会があり、規格にあった綺麗な真田を組んだ者には品評会で等級をつけ、表彰状・賞品を出していた。
第二次大戦後、一時高値をよび、トンビと称する仲買い人が家々を回り買い集めていた。
昭和30年代後半に、経木真田に移行した。
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さなだ
「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行
明治20年代から農家の副業として婦女子を主体に、子供に至るまで家内中の仕事となっていた。
家では毎日の夜なべ仕事から、外では寄合いなどの始まる前など。
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