しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団  満蒙開拓青少年義勇軍

2024年07月31日 | 昭和11年~15年

「団塊の世代」と呼ばれるのは戦後のベビーブームで、昭和22~24年頃に生まれた世代。

「軍国少年」「軍国少女」と呼ばれる世代は、たぶん、昭和ヒトケタ生まれだろう。
学校にあがる頃、急に日本は神の国になった。
世界に一つの神の国、強い国、世界三大大国、と学校で教えられて育った。

初期の軍国少年は、進学先に海兵・陸士を目指し、
中期・後期の軍国少年は、卒業待たず学校の途中で予科練や陸軍幼年学校を受験した。
後期の軍国少年で、小学校を出て働いていた少年が”義勇軍”に誘われた。

小学校を卒業し、地元で農業しながら青年学校に通う少年が勧誘の標的にされた。
勧誘の言葉は、”五族協和””王道楽土””東洋平和”。
学校出たばかりの貧しい農民である少年にとって、
先生や村長さんから甘い言葉で大義名分で勧められると、皇国民として、その気になるのははやい。

 

・・・

「福山市史 下巻」 福山市史編纂室  昭和53年発行

「大陸鍬の拓士」 

昭和13年(1938)1月、満蒙開拓青少年義勇隊が創設された。
先述の分村計画が一戸ごとの移住を主としたのに対して、
この義勇隊は16~19歳の少年を団体で渡満させ、開拓の中堅としようとしたところに特色がある。
その人数は県ごとに割り当てられたが、第1次の1.500人の割当てに対し、県下からは福山市の40人を加え237人の応募しかなかった。
その後応募者は徐々に増加し、14年末には570人全版第、翌年7月には473人、16年4月には備後地域の247人を含め761人を送り出し、
17年以降は毎年1.000人以上の割当てをいずれも充足している。

充足率が上昇した理由は、「入植当初は10里も20里も離れたところに水田を作りに出かけたが、
今では近所に600町歩の田を開墾しています、もっとく後継者が渡満してきてほしい」という義勇隊の話が伝えられたり、
また高等科の新卒業生を集中して組織したりしたためである。
彼らの年齢はいまでいえば中学3年生の年ごろに相当するが、19年5月13日、市主催の壮行式に臨んだ藤江国民学校出身の少年は、
「大戦争のまっ最中に 満州に渡って存分御奉公し、戦争に勝抜くやうに食糧を作ります、死んでも鍬ははなしません」
と答辞している。
当時の教育がどのようなもので、どのような力を発揮したかが理解されるであろう。 

義勇隊は中隊、小隊のごとく、と軍隊なみに組織され、
茨城県内原で約二か月間の訓練を受けたのち渡満した。 
その人数は明らかにしえないが、設以来一市三郡で少なくとも1500人以上、県下では数千人にのぼったと考えられる。
最後の義勇隊は、20年3月、一市五郡下の備後中隊200人を含む新卒生650人で組織され、内原での訓練を終え、
知事から「八紘一宇」と書いた宮島杓子を記念にもらい、5月下旬満していった。
彼らの多くは、分村計画の入植者と同じく満蒙の土と化した。
その人数もまた明らかにすることができない。

 

・・・・


「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和13年この制度が開始されたもので、拓務省は「日満両国の特殊関係を強化し、
五族協和・王道楽土の理想を実現して東洋平和の確保に貢献するため、
優良なる青年を多数満州国に送出し、 大量移民国策の遂行の確実かつ容易ならしめんとす」
の考えから数え年16歳~19歳で尋常小学校の課程を終えたものを対象とし、
意志強固で満州に永住を決意し、父兄の承諾を得た者を
県は人物考査・身体検査をして移民に適当なりと認め、採用者として決定した。
現笠岡市域においても各学校で募集をし、多数の義勇軍を送出したのである。 

訓練所に入所するものは、出征兵士と同様
町・村民の壮行会、
歓呼の声に送られて壮途についたのである。
内地訓練 は茨城県内原訓練所で、第一次義勇隊開拓団は4年、第八次義勇隊まで順次短縮して2ヶ月で訓練を終え渡満した。
渡満後現地訓練所で訓練をした後、
国境警備隊、
飛行機製作工場、
製鉄所、
あるいは開拓団に「土の戦士」として派遣された。

 「土の戦士」 と呼ばれた義勇軍は、
祖国の生命線は満州国開拓にあり、君たち若人の双肩に国の安全がかかっている等々の言葉に何の疑いを持つことなく応募して行った若者であった。
戦争も終結に近い昭和19年度第7次満蒙開拓青少年義勇軍として、岡山県から二個中隊編成された村上中隊(岡山市および県東部出身者) 赤木中隊(備中一円の都市部出身者は19年内原に入所、
翌20年3月、風雲急を告げる満州へ渡ったのである。
赤木中隊総勢221名、そのうち小田郡出身者は26名の(現笠岡市城出身者6名)多数にのぼるのである。
それが敗戦によって「王道楽士」の夢破れ、絶望的な飢餓と病魔の混乱の中で、集団は乱れいつ日本に帰られるか希望の持てない中で、苦力となって働くもの、
永住覚悟して養子となるもの、放浪するもの、運よく工場で待機するもの、
筆舌に尽くせぬ困難辛苦の日々を送り、ようやく21年から23年に内地へ帰るのである。

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「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年(1937) 12月から、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が実施され、
16歳から19歳までの少年を対照に応募させ、二か月間の基礎訓練を茨城県の内原訓練所で行い、
満州各地へ、開拓義勇軍戦士として送り出した。
昭和20年(1945)まで、五次にわたり243団の義勇軍開拓隊が入植、一般開拓団の過半数を占めた。
しかし、昭和20年8月、日本の敗戦によって、国策として送り出された約25万の開拓団関係者は、
終戦時ソ連軍の進攻により、最も大きな犠牲を強いられたのである。
引野村から出征した義勇軍は次のとおりである。
(一覧表略、16名の義勇軍がいる)

・・・

 

「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

戦争の長期化により兵力の動員が相次ぎ、また戦時経済の労働力の需要増によって、
成人の移民送出は困難となって青少年層にその代わりを求めていった。
昭和13年、新たに満蒙開拓青少年義勇軍が創設され、14~19歳の青少年が武装移民として送り出されていった。

同13年2月の「中備時報」は、「非常時局下の農山村対策」を論じた。
平時生産労働に従事していた青壮年が次々と戦線へ召集され、農村・都市を問わ 労働力の低下・不足を来しており、
しかも兵士の65~70%は農山村出身者が占め、農山村における労働力不足が極端に甚だしいと結論づけた。 
満蒙移民の主力を青壮年層におくことのできない実態がうかがえる。

同18年、小田郡では、「満蒙開拓青少年義勇軍小田郡後援会々則」を作成した。 
郡内の青少年、一般民に対し義勇軍についての啓蒙活動を行い、義勇軍・女子拓殖者を募り満蒙への送り出しをはかった。
また、義勇軍に満蒙開拓の大理想の貫徹と慰問激励を行うとした。
同19年3月には、青野村から4家族を含む36人が満州分村開拓団本隊として渡満の途についた。
村長以下の人々が岩野坂村境に参集して壮行式を挙行し、一行を見送った。


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「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年7月に日中戦争が勃発すると、多くの壮年男子が召集され、開拓団を構成することが困難になると、
その補充策として、まだ兵役の年齢に達しない数え年16歳から19歳の青少年で構成する満蒙開拓青少年義勇軍の創設を行った。
昭和18(1943)年12月28日付の『合同新聞』は「割当悠有々突破 県下の満蒙開拓義勇軍合格者」という見出しで
県下一次二次の658名、浅口郡は45名と報じ、
「合格者一同は明春2月下旬内原訓練所へ入所、3ヵ月の訓練を実施、5月頃渡満するか」と記事にしている。
岡山県の青少年は昭和13年から昭和20年までに約2700人が満蒙開拓青少年義勇軍に採用され、浅口郡では131名の方が満州に行った。
これらの人々はソ連との国境方面に入植した方が多く、昭和20年のソ連軍の侵入により苦難の途を辿った事が語られているが、
金光町では果たして誰が義勇軍になり渡したか、またどのようにして帰郷したか、記録をみつける事ができなかったことは残念であった。


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「広瀬村誌」(福山市加茂町)  広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

昭和12年(1937) 満蒙開拓青少年義勇軍制度が確立し、16才以上19才までの男子を志願させ検査の上、
茨城県内原訓練所で2ヵ月間特別訓練の上、
満蒙(中国東北地区)に渡らせ、
現地訓練所に於て3ヵ年間訓練を施し、独立した農業経営者とすることにした。
深安郡でも昭和16年1月小学校長会に於て高等小学校卒業生の中から希望者を募集し、深安小隊を編成し、
昭和19年まで継続して送り出した。
広瀬村では小林冨貴男が内原訓練所の幹部で指導員を兼務しており、再三広瀬村に帰郷し募集に務めた。
広瀬村でも多くの方々が志願に応じた。
記録にある氏名は次の方々である。
(9名)
以上の方々であるが昭和20年の敗戦にともない開拓義勇軍の青少年も敗戦の渦中に巻き込まれ、
多くの帰らざる戦没・死没者を出したが本村出身者は全員無事帰国した。
全国では約86.000人が渡満しており、その内15.000人以上が戦没・死没している。


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満蒙開拓団  分村移民

2024年07月30日 | 昭和16年~19年

大正時代に農家の長男に生まれたので、人生は決められたように農業いっぽんだった父には、
たまに口癖的に話す言葉があった。
「国が作れいゆうて作ったもんで、儲かったもんは何んもねえ」
両親が手掛けたが、僅かの期間で止めた
豚・ひつじ・養鶏・ミカンなどが代表と思える。
だが、それは儲からないだけで済んだ。


いちばん悲惨なのは、
「国が行ってくれい」と言われて、
行った先が満州だった農家の人。
行って長くて数年、短くて数ヶ月で、
昭和20年8月9日の未明、
国から”棄民”となってしまった。

 

棄民の状態になってからの、本土帰還までの絶望的な、生と死の日々は多くの人々によって語られ、伝えられているが、
結果的に棄民の基になった勧誘者の言葉が聞こえない。
県知事、村長、先生、議員等・・・仕事に忠実だったといえばいえるが、
現地の情報を知らさず語らず、甘い勧誘した責任は大きい。


また、生死をさまよった日々からは解放されたが、
生きて本土帰還した人たちの、それからの日々は、
棄民時代に負けないほどの、生きる・食べる苦労があったはずだか、それもほとんど語られてはいない。
あれから79年、多くの史書がある割には、
決まったような内容の開拓民の本が多く(団長や勧誘責任者の語りや執筆)、知りたいことが書いてある本が少ない。

 

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「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行

 

浩良大島開拓団


満州事変が終結しても、満州の治安は匪賊などの跋扈によって、厳しいものがあり、
「満州への移民は不可能である。」の世論の中で、政府は昭和9年末「農業移民は困難ではあるが不可能ではない」との結論に達し、
広田内閣(昭和11年3月組閣)により、満州開拓を重要国策として採択され、
20ヶ年100万戸 500万人の移住計画が立てられた。
遂行の機関として満州移住協会が日本側に、現地満州に満州拓殖公社が設立され、以来大量にかつ急速に推進されることになった。
更に満州開拓こそ日本生命線の維持であると教えられ、土の戦士として鍛えられ養成された青少年「満開拓青少年義勇軍」の大量派遣となる。
さらに昭和14年末には「満州開拓基本要綱」も制定され、開拓事業は 「五族協和、王道楽土」建設の中核として着実かつ本格的なものとなった。

昭和12年(1937)は日中戦争が始まり、厳しい世の中となっていたが、
海外発展の使命と光栄を持ち、特に満州は国づくり要員として、開拓団という性格を持っていたのである。
大島村は農村の余剰労働力の解消と、国策にそう両面から真剣に大島村分村の計画を考えることとなった。
大島村は当時浅口郡に属し、平凡ながら進取的な農村であった。
村勢昭和12年現在の人口は、7142人 戸数1321戸 農家一戸当たり4反2畝(42アール)の零細な規模であった。
しかも農地の生産力については「米麦作中心のしかも用水が掛かりで、水利の不便なるをもって早損の恵ある条件の下で、ほとんどの農家が1町以下の零細規模であるため、
農間男子は出稼ぎ、
女子は白布を制しあるいは酒造りに出稼ぎしなくては生計を維持できないという自給的零細農村ということができるのである。
一方出稼ぎの酒造りは「正頭出身の浅野弥治兵衛 (通称忠吉)が元禄年間に酒造り場の臼踏みとして雇われ、
次いで杜氏となり、広島県忠海の酒場を振り出しに各地を転々とし、その間に郷里の人々を杜氏に育成したといわれている」。
その杜氏の2/3が、大島村零細な農家から出ている。
杜氏は格別に優遇されて賃金も高かったので、それを知った若者が杜氏を志して、酒屋へ出稼ぎに行ったもので、大正12年には156名であった。

村議会で村長坪田旭一は次のように述べてい
「国家が我々に何を要求し、我らも又何を為すべきかを考えるならば、
大島村が現在のような過小農地によって、生活の安定をはかるよりも、
もっと多くの農業生産によって国家に御奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行なうの要あることを覚るべきである。」
皆を力説し、村民も一刻も早い分村を望んで昭和15年11月分村決議をしたのである。


村長に対する絶対的な信頼は全村民を動かし、日本一の理想農村建設のための、先遣部隊20名の派遣は、
満州東北部ソ連の国境近い佳木斯(チャムス)の北西に位置する所に決定した。

時は昭和16年(1941)4月1日
団名を「第10次浩良大島開拓団」とした。
北満の大原野にトラクターの響き、耕された黒土はやがて二頭立て、三頭立ての馬・牛が、往復し、更に土を小さく砕き大豆、馬鈴 麦、麦、とうもろこしの穀物や、野菜が作られ、水田も造成されていく。 
備中杜氏の本場から来た隊員にとって良質の水、米のとれることから酒造りの夢も広がる。

気候風土に恵まれた大島村出身の開拓団員も、広い未開の大地に放り出された寂しさから脱落者が続出して、
先遣隊20名はわずか8名に減じた。
後続の隊員を迎え、国民学校の開設を見たのが昭和17年(1942) 5月5日、 生徒は小学1年の女子1名、
あとは4年から高等2年まで9名であった。

しかし赤痢の大流行があり、団も滅亡の危機に瀕した。母村に分村を見殺しにするのかと訴え、
後続の団員募集を続けたが、皮肉なことに、軍需経済の発展につれて、農村の労働力は吸収され、戦況が激しくなるにつれ、村の青壮年労働力は兵役に動員されることになったから、鐘や太鼓で誘っても派遣が困難とったので、
寄島、里庄、鴨方、六条院、黒崎の隣接町村にまで募集をした。

昭和20年(1945) 8月ソ連の宣戦布告によって、17歳以上45歳までの開拓男子は、根こそぎ動員され8月14日避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ大流行、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いた途端発疹チフスが流行し全員その洗礼を受ける。 
長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸、大島村に帰着したのである。 

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「福山市史」


満州分村計画

内地の人口過剰・食糧不足の解決策として満州入植が奨励された。
誰でもすぐに自作農になれるという「甘い勧誘」で、小作農の応募が期待されたのである。
なかでも芦品郡は、拓務省から満州開拓指導郡とされ、1.400戸移住の計画を立てるなど、各地で移住の計画が立てられた。
この地方では福山市を中心に300戸渡満させ、 備南村を建設することが計画された。
満州は
「設備もゆきとどき水田牛馬も豊富」と宣伝され、
昭和18年3月には第一陣が北安省太平荘に送り込まれた。

しかしあとが続かず、19年11月までに移住したのはわずか56戸で、そのため、
20年3月までに1市2郡で少なくとも150戸、1町村4戸以上の移住を募集したが、わず3名の申し込みがあっただけであった。
この間、入植者向けに「花嫁候補」を送ったり、写真結婚を行なったり、
また備南村は「生活に不自由はなく内地に比べると天国である」などと宣伝したが、まったく効果はあがらなかった。 
市大津野など5ヶ村の村長が、
「本事業(分村計画)、所期ノ目的到達セザル様考ヘラレ候」と県拓務課長に報告しているのをみても、
その効果のほどは知られるであろう。 


入植者の生活が伝えられるほど「天国」ではなく、
移住場所が軍事目的も兼ねて北満の荒地であり、そのうえ、農地は現地人の土地を奪ったものが多く、
採草地は原野に近いものであったから、それは当然の結果であったともいえよう。
なお、これら移住者のうち、敗戦後無事故郷に辿りつくことができたのは約半数といわれる。

・・・・

 

「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行


対満蒙移民政策は、4ヶ年の試験移民期をへて、
昭和11年、広田弘毅内閣が20ヵ年100万戸移民計画を策定し、本格的に移民政策は実施され、終戦まで継続していった。

昭和14年3月、大阪朝日新聞岡山通信局が、本紙に連載するため各通信員に帰還軍人の体験談の記事を募集した。
特色ある面白い題材の一つとして、
「日露の老勇士である父親ともに一家を挙げており、報道機関は国策としての満蒙開拓団募集の一翼を担っていたと言える。
同15年の青野村方面委員会・同村報国連盟本部は方面事業の具体策として、
「健康ナル貧困家庭」はなるべく満州農業移民に送出する計画とした。 
30戸余りを予定し、すでに2家族を送出した。


・・・


「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行

 

昭和11年に成立した広田弘毅内閣は満州開拓移民推進計画をたて、
国策として今後20年間に100万戸を送り出すという計画を策定した。
目的は耕地の乏しい農村の分割で分村移民の形をとったものが多く、府県・都・町村を単位として構成されていた。
昭和20年の敗戦まで日本全国の農村部から送り出された満州民は約27万人に達している。
その中には16歳から19歳の青少年達からなる満豪開拓青少年義勇軍があり、
戦後移民とともに帰国に当たって辛酸を舐めることになる。

岡山県の場合敗戦までに開拓移民と青少年義勇軍は合せて約3.500人といわれている。
この移民について芳井町をみる前に、大政翼賛会文化部が編集している啓蒙書があるので紹介しておきたい。

昭和17年 高陽村(現赤磐市)、農民文学を得意とする小説家丸山義二が書き上げた著書
「高陽村」(翼賛図書刊行会) から抜き出してみると、

校長は高陽村の将来をして、「この村は、今、非常によくなりつつあります。
しかし、このまま進んでいって、30年後には、かならず、ゆきつまるでせう。
それは耕地不足といふ問題から、ゆきつまるのです。 
夫婦2人に子供1人ぐらゐの労力で、すくなくとも1町8段歩の自作ができるといふのでなければ、
この村の農家経営が理想的にいかないといふ計算が立つからです。
それが現在では1戸あたり平均が、田畑あはせて1町4敵なのですから、どうしても、農家数がおほすぎるのです。
この解決を国塩村長は、どう考へておいでか? 
私は、分村計画をたてて、第二高陽村を満州大陸にうち樹てよ! 
さうして、あとの元村では、耕地整理をし、土地の交換分合を断行し、労力の合理化をはかるのでなければ、
眞の、理想農村は完成しないと、考えてゐます。」

満州に日本人を移住するに当たって、いかなる土地取得が現地民との間に行われているのか、
その辺りの充分な思慮はなく、 国策に沿った政策を地方に実施させようとしている。
では後月郡下ではどうであろうか。
昭和14年9月27日に明治村の明治青年学校女教室で満開拓女子青年募集懇談が行われ、
大陸開拓民結婚相談所の係員を囲んで座談会があった。
その年12月にも明治村では同村小学校で満蒙移民開拓懇談が開かれ、 
第8次満蒙開拓民の募集と分村計画などについて話し合いが持たれている。

開拓民の送り出しが本格化するのは、日中戦争と同時であったが、
昭和16年に太平洋戦争が始まっても 依然衰えることはなかった。
昭和18年1月18日に開かれた後月郡町村長会の協議では、満州開拓移住の件は
後月郡130戸、小田郡70戸に決定した。
また同年12月28日の合同新聞によると、同19年度の送り出し予定の青少年を対象とした満蒙開拓義勇軍の選考が行われ、
志願者706名中合格者658名に達し、然に2ヶ中隊編成が可能になったとある。
特に岡山、小田、後月、川上、真庭の各郡市は小隊編成ができると報じている。 
ちなみにこのときの小田・後月両郡の合格者は49名であった。

明治村からの入植は昭和15年より始まり、満州国三江省柳の開拓に向かった。
ここは佳木斯の東南45kmの地点で地勢は良く、大変肥沃の地質・水質も良いであったので、
同年春早々に先遣隊4名が渡満して、受け入れ準備をした。
参加者は県道場である上道郡角山村(岡山市)の三徳塾で訓練を受け、開拓士の資格を得た。
出発に当たって 明治村の忠魂碑の前で村長 村会議員、学校児童など多くの見送りを受けて出発し、
10月15日鼻が刺すように 感じる寒さの中に到着した。
翌年春には岡山の本隊の入植があり、結局125戸、450名となった。
子教育の学校も作られ、岡山病院もできた。
農地は昭和18年には1戸当たり10町歩を得て自作農として完成した。
しかし、戦の悪化によって男たちは現地招集を受け12~13人の老人を残すだけになった。

昭和20年8月9日のソ連参戦によって避難が始まり、
死亡者は出征軍人を併せて140名を数え終戦後の翌21年8月、帰国したのは300名余であった。

 


芳井町からの入植は、
柳樹河開拓団の団員家族70名と阜新芳井開拓団の団員家族約300名の2回に分け送り出しと
県単位で送られる満蒙開拓青少年義勇軍の約15名で、
満州各地で推定385名であったという。
阜新への渡満の契機は太平洋戦争が熾烈になり、多くの青年は戦場に出て、
銃後を守る者のほとんどは老人と婦人になり、勉学中の高学年は学徒動員で軍需工場で働き、
食糧事情は年々低下していく事情にあった。
耕地面積は狭隘で、農業経営には苦労も多かった。
こうした一般的状況の中で昭和16年の終りごろから17年にかけて、当時芳井町長であった藤井円太郎が中心となって計画を立案、
町会の議決を経て戦時下の農村振興計画を樹立した。
これが満州分村の計画で、同町1030戸(農家771戸) 中200戸の農家を、満州国錦州省阜新にある約二千町歩の分郷に入植させることとなっていた。
国は芳井町を「興国農村」に指定し満州開拓は具体化にむかって歩みはじめたものの、
芳井町のみで団員の確保がむずかしく、芳井町を中心に後月郡で希望者を募ることになった。

『合同新聞』によると昭和19年2月6日、第一次先遣隊45名は午後零時20分から同町氏神で祈願祭を執行し、
1時から町国民学校で壮行式をあげて直ちに井笠鉄道で笠岡町へ向かい、1泊の上7日に出発勇躍渡満した。
2月11日の紀元節の良き日に役所、現地人代表を招いて形ばかりの入所式を挙行している。
阜新市は人口13万人、内日系人は1万5千人もおり、炭鉱の町で阜新炭鉱は撫順炭鉱を凌ぐともいわれ、
日本軍の部隊もおり地方産業の中心地で気候も満州国内では一番住みよい所といわれていた。
そして入植地はすべて既耕地ばかりであったという。
こここでの農業は炭都阜新に対する新鮮野菜、その他食料品の供給を主たる目標としており安定感はあった。
しかし、昭和20年になると毎日の如く召集令状が届き、兵役対象者は根こそぎ動員となった。
そして8月15日終戦を迎えた。
終戦時には136戸320人の団員・家族が居た。
5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、6月2日送出母体の芳井町に帰った。
帰還できた者は247人であった。

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満洲国建国と「試験的移民期」

2024年07月29日 | 昭和元年~10年

「満蒙開拓団」は、
農民家族ごと移民する「分村移民」と、未成人・青年による「青少年義勇軍」がある。

時期的には、
昭和11年までを「試験的移民期」で、昭和12年以後の「20ヶ年100万戸移住」移民がある。

移民の勧誘は、国からのノルマ数があり、達成に苦慮したようだ。
日米開戦後は「分村移民」と「義勇軍」とは同じ移民扱いに統一される。
移民は終戦の年までつづいたが、
ソ連の侵攻後は逆に国から棄てられ、さまざまな苦難と悲劇が生じた。

 

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


満洲国建国

つぎの大きなエポックは、またも突如として日本と中国の秩序関係をくずした「満洲国」の建国、
すなわち中国からの分離である。
日本陸軍が満洲の領有計画を修正したものの分離独立を強引にすすめた結果であった。 

その建国式典は1932(昭和7)年3月1日にあげられた。 
満洲国の最高の地位についたのは、 日本軍によってつれてこられた溥儀元清国皇帝で、執政として、一応の形をととのえた。
しかし、日本陸軍(関東軍)が経営するのは誰の目にも明らかだった。
世界のほとんどすべての国がこれを日本の傀儡国家と見て、日本の敗戦までその評価は変わらなかった。
結局これはアジア・太平洋戦争の遠因になるが、日本国内は湧いた。
というべきか、少なくとも表面的には祝賀行事一色になるが、識者の見方はもはや表面には出なかった。
日本の帝国主義的行為を批判する社会主義者は、この期間を通じて回復不可能な弾圧を蒙っていた。
この陸軍的植民地の出現は、在郷軍人にも影響を与えることになる。
卑近な事例では、満洲国に必要な 警察官への転職斡旋を本部はしてくれるかという問い合わせがふえてきたというのである。
日本人一般においても、ここで一旗あげられるかと思う者もでてきた。
農村の恐慌はまだつづいていたのだった。
そしてこれより少し後になるが、満洲国軍がつくられると、日本陸軍の指導のもとに補助軍隊として利用されることになる。
その軍隊への就職の道も開かれた。
日本陸軍で下士官だった者は満洲国軍の将校に任用されることになる。

・・・・・・・

試験移民

「第一回満蒙移民」の現況と募集が発表された。 
現在、満蒙にある第二、第八、第一四の東北各師管から農業従事者で既教育在郷軍人の中から選定されたとした。
気候風土が似ていること、移住した時風俗習慣を同じくすることで、統制、親和に便利であるという理由であった。
選定された者は9月に予備教育を受け、10月中旬に移住地へ行く予定とされた。
移住者には、旅費、農具費、家畜費、被服費、家屋建築費など計635円相当の移住関係費補助が見積もられた。
ほかに、移住してからの月間補助、収穫までの補助若干もみられた。
これが満蒙武装移民のはじまりである。

この第一次武装移民416人は10月中に満州佳木斯に到着した。
以後この実験的満州移民はなくなり、やがては日本農村の分村移民が主体になり、
村を二分して満州に移住した。
百万戸移住が拓務省の移民政策であった。

・・・

どこまでつづくぬかるみぞ

日本軍が満洲での軍事作戦をほぼ終了し、満洲国を建国した後も、満洲は不安定な治安状況であった。 
パルチザンによる抵抗がつづけられ、在満の日本軍は絶えず戦闘をつづけていた。
日本軍による表現でいえば、匪賊の討伐である。
その表現は早くから使われた。 
満洲国内に出没する匪賊の潰滅をはかる軍事行動がとられた。
その作戦を討匪行という。
満洲在地中国人の表現では反満抗日運動(戦争)とする。 
満洲国の樹立に反対し日本軍と戦うの意である。
藤原義江が歌った「討匪行」はそのころ国民の間でも広く歌われるようになった。

どこまでつづくぬかるみぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜

という歌詞が哀調のあるメロディにのって歌われた。

この匪賊=反満抗日軍は、当初は中国軍隊の残存兵だったが、
やがて、日本人移民が極めて安い土地代を与えて収奪した土地で農業を営んでいた現地農民、生業を奪われたものたちが主体になっていた。
「住民は匪賊の群に投ずるか或はこれと連絡をとらねば生命、財産の安全は期し得られないやうな悲惨な境遇にあった」。
そういう状況で何度か匪賊の襲撃にあい、屯墾団も何人かの死者を出した。

 

・・・

「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行


満州へ

昭和初期の世界恐慌は日本にも及び、昭和恐慌となって企業倒産や失業者の増大が相次いだ。
それは全国の農村においても米やその他の農産物の価格が下落し、農家の生活は慢性的に困窮していった。
その上人口増による耕地面積の不足が予測されるようになると、満州への移民が考えられるようになってきた。
特に昭和6年(1931)の満州事変、
そして翌年日本によって作られた満州国の建国によって、国民の間に満州進出への機運がたかまり、
農業移民の送り出しが関東軍や拓務省によって進められるようになってきた。

 

・・・・

「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

満蒙開拓団


日本では満州と内蒙古を満蒙(中国東北部)と称し、昭和6年(1931)の満州事変以後、
満蒙の安定支配を目指した関東軍の要請を請けて農業移民送出論が高まっていった。
また相次恐慌の打撃をうけて農産物価格の下落が激化して、慢性的な疲弊が深刻化した農村の経済問題の打開策が求められた。
政府は満蒙の開拓武装集団として治安維持・支配強化をはかるとともに、
農山村救済の一端として過剰人口の解決をはかるために次男・三男を農業移民として集団的に送り出した。

昭和7年6月、自治農民協議会が3万2千人の署名を添えて農民救済請願書を衆議院に提出した。 
農家負債の三年据置き、満蒙移住費5千円などを請願した。 
破綻した農家や零細農民に広大な満蒙の地への移民による再出発、自作農民になれるとの幻想を抱かせたのであろう。
同年9月、拓務省は第一次移民団を大連に送り出し、満州移民が始まった。

 

・・・

「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


農村窮乏の緩和、
満州での日本人の増加、
さらに、関東軍の戦力の補助をも兼ね、
現地人の土地を収奪した後に、
昭和7年から昭和11年にかけて 4次にわたる武装移民団が試験的に満州に送り込まれた。

・・・

 

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満州事変と爆弾三勇士

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

36人が各3人1組となって導火線の点いた爆弾かついで敵の鉄条網へ向かった。
ところが、そのうちの1組が途中でこけた。
それを見た隊長は、「戻るな!」と命令。
それで戻れず3人は爆死した。


その二日後の新聞記事。
隊長「国の為に死んでくれ」
隊員「皇軍万歳」
と叫びつつ3人は壮烈無比なる戦死を遂げた。


新聞と同時に国民は熱狂した。
新聞、ラジオ、芝居、銅像、歌、玩具、雑誌、映画に、
軍神であり英雄であり知らぬ人のない著名人となった。

子どもたちは”三勇士ごっこ”で遊び、
運動会では”三勇士競争”。


・・・

三人で爆弾をかかえた勇士のことは、
(我が家では)戦後もつづいた。
母はよほど感動していたのか、
小学生である管理人に何度も同じ話を聞かせてくれた。

・・・

 

(Wikipedia)

・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


爆弾三勇士


軍部は鉄条網爆破の三人の死を誇大に報道することになった。
この三兵士は爆弾三勇士、あるいは肉弾三勇士と呼ばれるようになった。
そして、新聞紙が別々にたたえる歌を募集、競作になって三つの歌ともに国民に歌われるようになった。
なかでも有名になったのは当時詩壇の長老、与謝野鉄幹の作詞「爆弾三勇士」(『東京日日新聞』選定)である。
そして 劇化されて上演される。
やがて、銅像もつくられる。
日清戦争の木口小平、日露戦争の広瀬中佐(海軍)、 橘中佐(陸軍)につぐ昭和の軍国美談になった。
戦場の激戦が連日報道されると、銃後が湧く。
緊張もひろがる。

愛国号献納運動は上海事変の戦況報道でさらに拡大した。
ほとんどの飛行機献金はこの上海事変期間中に飛躍的に伸びた。
実際に上海戦では航空機の動きが目立ち、両軍の空中戦闘もあった。
それが銃後に反映されたのである。

・・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

新聞の役割

もう一つの慰問金運動については、新聞の役割がもっとも大きかったことを認めておかなければならない。
新聞は一方で戦況を伝えて戦争をあおる役割を果たしつつ、
多数の一般市民を献金に動員した。
その献金の届け先は陸軍もしくは海軍で、その取扱いにあたっては在郷軍人会の全国組織が利用されたわけである。
こうして、新しい戦争イベントの中に在郷軍人分会は地域の大衆の一部分として、また在郷軍人会の全国ネットの枠組みの中での役割をえたというべきであろう。
こうして、この時期、在郷軍人会は銃後の要に位置するようになった。


映画の役割

また、この時期の”情報”においては映画の役割にも注意が必要である。
三原分会が活動写真会を開い観衆を集めたように、
在郷軍人会は国防思想の普及宣伝に映画(活動写真)を利用した。
講演と同じくらいに在郷軍人会本部は映画フィルムを貸し出している。
1931年以後年々増えて、1934年には1434回に及んでいる。
映画の利用は大正末期から始まっていた。
満洲事変の原因の一つにあげられる中村大尉事件が開戦後すぐに映画化されていたのに驚かされるが、
当時の映画製作は短期間で事件の余韻のあるうちに上映された。
1932年に入って上海事変が起きると、 爆弾三勇士の劇化映画化もそのスピードで行なわれている。
そして、“活動写真”でありさえすれば大衆は先を争うように見に行った。
大衆動員の大きな道具になったのである。


銃後の形成

新聞社の慰問献金は1931年10月16日の『朝日新聞』(東京・大阪とも)社告ではじまったようである。
2ヶ月後には約23万円、さらに半年後には約45万円に達した。
これが満洲事変の銃後形成に果たした役割は大きい。
愛国機献納運動の嚆矢(こうし)は10月下旬、東京市駒場青年団の10銭拠金だが、軍用飛行機献納運動は府県と大都市の地方行政機構に献金の主導権が移った。そうでなければ実現不可能であった。 
こうして満洲事変ではじめて「銃後」の形成をみた。

満洲事変の銃後は上海事変の勃発によって全国的に固まった。
上海事変は、最初、1932年1月28日の中国正規軍と上海駐留の海軍陸戦隊との武力衝突で始まった。 
陸戦隊は苦戦をつづけ、ついに陸軍の出動になる。
まず、金沢の第九師団、ついで宇都宮第一四師団、善通寺第一一師団が派遣される。 
満洲に送られた兵力より多い出動になった。
全国的な動員を見たわけである。

上海に上陸した最初の陸軍兵力、第九師団はすぐに激戦にさらされた。
攻撃路を開くため鉄条網の爆破が必要になり、
爆薬を抱いた三人の工兵がその身もろとも突っ込んで爆破に成功したという兵士の美談。


・・・


「福山市史 下」 福山市 昭和58年発行


満州事変下の福山 

昭和6年9月19日早朝、市民の耳目をいっきょに外に向けさせる事件の発生が伝えられた。
関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、以後15年間に及ぶ戦。
満州事変、日中戦争・太平洋戦のきっかけとなった。15年戦争という。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞・ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・恤兵金・肉弾三勇士などのキャンペーンを行なったので、
福山においても、そうした動きが活発になった。
9月24日、朝日新聞社の主催で市内3ヶ所(大黒座、盈進商業、誠之館)で開催された満州事変映画会には、 
木曜日の昼間であったにもかかわらず、2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼間に劣らぬ盛況で、 
「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会排日資料展や、
第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などが開かれるが、
福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、
福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東 ・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

3円の為替を呉海軍鎮守府へ送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。
満州事変は、国民の間に起こった恤兵金・慰問袋などの慰問運動をはじめとするさまざまの行為が「美談」に仕立てられたことで、きわだった特色をもっている。
こうした「美談」は、子どもから大人までも巻き込み、
学童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行なった献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報ぜられている。
また、第五師団や在郷軍人会の首唱により、兵器献納資金の酸金も全国にさきがけて行なわれ、67万円を集めて軽爆撃機4機が献納され、
うち一機は「第33福山号」と命名された。

慰問袋は愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、
日用品のほか子どもたちの図画や作文がそのなかに入れられた。
そのすさまじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。

このほかさまざまのことが「美談」に仕立てられた。
春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、 
金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり孤を作ってえた金を寄付し、
増川・門田高女生徒が千人針やお守り袋を送付し、出征・看護婦従軍志願者が血書を提出して志願 したことなどが、
「自発的=国家主義!懸念ヲ発揮」した「時局美談」として、市町村の手で宣伝された。

・・・

 

 

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昭和6年満州事変起こる、昭和7年上海事変起こる

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

昭和の初期、「不景気」「娘の身売り」など社会不安の中、
「満州事変」は起こり、海軍は陸軍に遅れずと「上海事変」を起こした。

戦勝の報道に、国民は興奮し旗行列・提灯行列で迎合した。
以後は一貫して太平洋戦争へと戦争の一本道。
”15年戦争”の始まりであった。

 

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


満州事変起こる

「(昭和6年9月)18日の夜は降るような星空であった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
時刻は10時過ぎ、轟然たる爆発音と共に切断されたレールと枕木が飛散した。 
こうして柳条溝事件にはじまる「十五年戦争」の幕は落とされた。

 

・・・


「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

関東軍の独走ぶりに、政府はもちろん、西園寺公爵あたりも、「実に今日は困った状態に なった」「実に困った実情である」と嘆息をくり返した。
若槻首相は嘆き、
「日本の軍隊が日本の政府の命令にしたがわないという奇怪な事態となった」
「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という関東軍独立説までささやかれた。

暴走したのは、関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、「軍司令官が管外に出兵するときは、奉勅命令による』という規定に背き、
天皇の御裁可もまだ届かぬ先に、関東軍応援のために、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州へ送った。


昭和6年12月、若槻内閣が「事変処理に対する政治力の欠如と内閣改造に対する閣員の意見不一を理由に退陣。
政友会単独の犬養内閣がつくられると、青年将校に人気のある皇道派の荒木貞夫中将が、まだ五十四歳の若さで陸軍大臣となった。
この荒木の人事によって、軍は参謀総長に閑院宮載仁親王をかつぎ出した。
参謀総長が外務大臣あたりに文句をいわれてはおもしろくない。
皇族であり軍の長老である閑院宮を戴くことで、統帥部として威圧を加えようというのである。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。
この新しい軍中央は、積極策に寛大になった。そして、 翌昭和7年1月には、事変は、上海に飛び火した。

関東軍は独走し続け、3月には満州国建国宣言が行われた。
5月15日、犬養首相は海軍将校の一団に襲われて斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。 

9月15日に、日本政府は満州国を承認。
議会も満場一致でこれに賛成した。


満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清、日露の両戦争に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、また「生命線」と考えられるようになっていた。
そこは、「10万の英霊、20億の国幣」が費やされた土地であり、単なる隣国の一部ではないという感覚が育っていた。
事実、昭和5年におけるわが国の満州への総投資額は16億を越え、これは満州における全外国資本の七割を占めていた。
そして、朝鮮人80万人をふくむ日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、長春・旅順間の南満州鉄道の整備をはじめ、大連の拡張が行われ、多くの炭鉱や鉱山の開発がなされた。
また満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。
これらの地域は、関東軍や日本の警察が警備するところから、治安も良く、
それまで軍閥や匪賊に悩まされていた民衆が、他の地域から流入し続けた。
万里の長城以北に在る満州は、「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、その間に匪賊 が跳梁する土地でもあった。

一方、日本の国内は、世界恐慌の波にさらされて、不景気のどん底に在った。
失業者は街に溢れ、 求職者に対する働き口は10人に1人という割合。
それにもまして農村、とくに東北の農村地帯は、冷害による凶作も加わって、困窮を極めていた。 
娘を売るだけではない。
事変で出征する兵士に、「死んで帰れ」と、肉親が声をかける。
励ますのではない。戦死すれば、国から金が下りる。その金が欲しい。

植民地らしい植民地を持たぬ日本にとって、満州こそ、残されたただひとつの最後の植民地に見えた。
しかも、関東軍の石原莞爾参謀たちは、これを植民地としてでなく、 
日本人をふくめたアジア諸民族の共存共栄の楽土にするという意気ごみであった。
「五族協和」そし 「王道国家の建設」がうたわれた。
ロマンチックな夢を、石原たちは抱き、これがまた、国民の多くに受け容れられる夢にもなった。

関東軍の突出は、屏息寸前の日本に 活路を拓いたという見方も強かった。
大方の新聞論調がそうであり、議会が満場一致で満州国を承認したのも、そのためであった。

 

・・・

「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


戦争の拡大と町民の生活
昭和恐慌

昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の暴落と海外金利の低下という世界経済の中で、
昭和5年1月21日、米ナショナル=シティ銀行は日本から米国に正貨(金)を現送した。
前年11月に決まっていた金解禁が現実化したのであった。
これにともなって金貨の大量海外流出を招き、日本円は円高になった。
円高になると日本製商品の価格は上昇し、輸出は減少しだした。 
世界恐慌は日本に波及し、昭和恐慌と呼ばれ、この不況は昭和7年頃まで続いた。
当時の状態を『山陽新報』でみたい。 

昭和6年5月10日から10回にわたって「浅口郡青年座談会」を玉島で開き、それを記事にしたものである。 
金光町からも2名が参加し総勢20名の座談会であった。
新聞の見出しは、
「好い副業でもなければ貧乏人は食えぬ」、
「火の消えた様な真田」
「里庄から出る酒屋働き2千人」
「漁村は全く引合はぬ」

 

満州事変勃発

金光町には
昭和4年金光温泉が開業することに決定、
昭和5年金光駅構内に公衆電話が設置、
昭和6年金光教上水道完成。東北地方は冷害・凶作となり、農村不況はさらに深刻化した。

中国では国民政府の主導による国権回復の運動が盛り上がり、
関税の自主権の獲得、
治外法権の撤廃と関東軍の撤退と満鉄の回収要求であった。

中国はまず満鉄の独占的地位の打開をめざし、東三省で日本が求めていた新鉄道の建設を拒否する一方、 
自国鉄道敷設を進め、運賃を値下げし貨客の吸収に務めた。 
満鉄の経営不振は中国鉄道との競合の結果でもあった。
ここで台頭してくるのが関東軍の軍人達で
「満蒙の権益がおかされる」という危機意識を抱く、満蒙領有構想を持つ一派であった。
彼らは「経済上・国防上、満蒙は我が国の生命線」を合言葉としたが、
マスコミもこの言葉を抵抗なく受け入れていった。
そして、満州を日本の勢力下におこうとして武力占領を計画した。 
昭和6(1931)年6月27日中村震太郎大尉事件、同年7月2日の万宝山事件を経て、
同年9月18日柳条湖事件を起こし中国軍に攻撃を加え、満鉄沿線の主要都市を占領した。 
これが満州事変とよばれたのである。

・・・

 


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行


第一次世界大戦の戦後恐慌から始まって、
関東大震災による震災恐慌、金融恐慌、更に世界恐慌の波をかぶった農村恐慌と、
大正末期から昭和初期にかけての我が国は、息つくひまもないほどの不景気のあらしに襲われた。
特に、昭和5年(1930)に入ってから、米価・農産物価格が暴落して、農村社会の貧窮は深刻であった。
このような国情の中から、満蒙地方を日本の「生命線」として、
この地帯への民族的な進出を図ることによって、国内の矛盾を解消しようとする考えが、軍部や右翼思想家を中心に強く唱えられるようになった。
こうして、昭和6年(1931) 9月、関東軍の謀略によって始まった満州事変を手始めに、日本はいわゆる「十五年戦争」の時代に突入することになった。

戦火は、翌7年の上海事変、昭和12年(1937) 7月からの日華事変(日中戦争)へと拡大し、
更に第二次世界大戦とも連動して、昭和16年(1941) 12月8日、ついに太平洋戦争が引き起こされたのである。 

・・・

 

「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号


保阪正康の昭和史を味わう (第4回)

昭和四年から八年ごろまでの、いわゆる昭和初期、
農村は工業恐慌の影響と豊作・凶作からくる市場価格の不安定さにより、未曽有の苛酷な状態に置かれた。

昭和六年九月の満州事変は、軍部による満蒙地域の利権拡大を意図したものだが、
つまるところ日本は軍事主導による戦略で解決策をめざすことになったのである。 

・・・

 

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不要作物の作付制限

2024年07月28日 | 昭和16年~19年

古来より日本人は五穀を食べてきたが、
明治維新後洋風化が進み、
肉や野菜や果物も食べるようになった。

ところが日中戦争の勃発後より食糧が不足してきた。国家総動員法等により、農家に作物制限が行われた。
農家は”食糧生産物”のみ耕作して、
それ以外は作付けしてはいけないことになった。

作っていいものは、稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆。
果物も、養蚕も、野菜も、家の自給以外は作れないようになった。


不思議に思うことがある。

果物農家が、国から「果物」作りを禁止されると死活問題となるが
父母も、祖父母も、隣近所のおじさん・おばさんも、
その事についての話すのを耳にしたことがない。
何故だろう?




昭和14年~20年頃、管理人の家で耕作していたと予想されるうち、
主要なものは、(太字は作付け統制や禁止

米・麦・黍
除虫菊・薄荷
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜

このうち
米・麦・黍はほぼ自給用、多少売り。
除虫菊・薄荷は100%商品。
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜も、ほぼ100%商品。



下記の対応と思える。

除虫菊と薄荷は食糧ではないが、軍の需要があった。
梨・桃・枇杷・イチジクは老木の植え替えをしない。
西瓜は作付け中止。
つまり事実上、西瓜やメロン程度が制限・禁止されただけ。
野菜・芋・豆・茶等は自給用で、元から、買わないし売るほど作らない。

国家の統制に対して、甘藷の作付面瀬を少し増やした程度と思われる。
家では作ってなかったが、タバコ栽培も軍の需要で影響はなかった。

「岡山県史」では養蚕が打撃と記されているが、昭和恐慌で生産は減り、
戦時中は人手不足で農家に魅力的な商品ではなかっただろう。


・・・


「新修倉敷市史6 近代・下」 倉敷市史研究会 2004年発行

農業も厳しい統制下に


農家は昭和14年11月公布の米穀配給統制応急措置令、続いて翌15年11月から施行の米穀管理規則で、
作った米を政府へ供出しなければならなくなり、米の自由な取引ができなくなった。
さらに岡山県は昭和16年4月、農作物作付制限規則を公布して、果樹・桑・ 茶・庭木などの新植を抑え、
翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付け制限は昭和18年秋にいっそう強められ、
農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
都窪郡農会は昭和17年1月、農作物統制規程を定めて大麦・裸麦・小麦の作付け反別などを統制し、
共同作業統制規程で田畑の管理・播種・苗代・田植え・除草・収穫・脱穀。籾摺り・病害虫防除を共同で行うように決め、
人を雇ったり雇われたりして農業することも制限した。
石油発動機から噴霧器まで、農機具の使用方法も統制した。
その一方で農家は、米麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求められた。
食糧不足が激しくなると、自家米の節米・食い延ばしをして、余剰米を供出するよう要求される事態にもなった。
農家は次第に供出割当てが増える食糧の増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならな かった。
玉島町(現、倉敷市)では学童を動員して家庭の灰を集め、
市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底 の泥まで肥料に利用している。
同町に限らず、化学肥料が入手できない農家は同じような方法で肥料を自給 していたのである。

 

・・・

「岡山県農地改革誌」  船橋治  不二出版 1991年発行

【第一次統制】

 

【第二次統制】

かく県令をもつて戦時下不急、不要作物の作付を抑制して戦争遂行上の重要農産物の確保を企画して来たが
日華事変の進展は食糧増産の重要性を更に加えるにいたり、
ついに昭和16年10月16日臨時農地等管理令第十条 第十三条の規定に基き農林省令第八十六号をもつて農地作付統制規則の公布実施を見るにいたった、
本令は農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
なお食糧農産物の生産拡充のため制限作物を必要に応じ食糧農作物に作付転換せしむることが規定された。
食糧農作物
農林大臣の指定する農作物並期日は次の通りである。

食糧農作物
稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆

 

一、第二種制限作物の第三次統制告示の改正

大平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の戦場或は軍需工場への吸収は
農業労力の極端なる不足を見るに到り更に 農具、肥料等の生産資材の欠乏しいものがあつて、
農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を受けるにいたった。
ここに於て第二種制限作物の作付統制を更に強化する方針をもつて昭和18年11月左記の通り告示の改正を行った。

・・・

 

 

・・・


「愛媛県史 近代・下」 愛媛県 昭和63年発行
  
農業の戦時統制と食糧増産運動
第二次産業組合拡充三か年計画

昭和13年(1938)より第二次産業組合拡充三か年計画が実施に移された。
その計画立案最中の昭和12年7月、日中戦争が勃発し、政府及び軍部の意図に反して、戦争は長期戦の様相を呈していった。
非常時下における国家統制が強化されていく中で、農業の面では、産業組合が、統制のための組織として利用されることになった。
一方、産業組合運動自体からも、「戦時体制の運行を円滑にし広義国防の完璧を期し、以て奉公報国の至誠を効する確固たる覚悟を堅持する事を要す」として、積極的・意識的に国家統制に協力してゆく姿勢が打ち出された。

県内では、昭和12年11月22日、県公会堂において開かれた第七回県下産業組合長会議において、
「日支事変対策に関する件」とともに、「第二次産業組合拡充三か年計画に関する件」が決議され、
昭和13年1月より計画が実践に移されることとなった。
尽忠報国、人格陶冶、斉家治産、共存同策、八紘一宇の組合員精神綱領が採択され、
産業組合の全組織をあげて戦争協力体制が進められていくこととなった。

農業会の成立
農業会の役割は、国の農業政策に即応して食糧その他重要農産物の生産を維持すること及び農業全般に対する指導統制であった。

食糧増産運動の開始
戦時下の農政にとって、最大の眼目は戦争遂行のための食糧確保である。
米・麦・酒精原料甘藷などの重要農産物増産の、その概略を示すこととする。


米穀の増産

県では各年度ごとに米・麦・藷類・豆・雑穀などについて具体的な生産目標を立てて増産を目指したが、
米穀は、多収穫品種の植え付けによって増産を図るため、昭和17年度より、県及び農会が一体となって種籾管理計画が実行に移されることになった。


麦類の増産

麦は、米と並ぶ重要食糧であり、混食によって米の消費を節約する観点からも、その増産が奨励された。
増産のための具体策として特に力が入れられたのは、
休閑地の開墾、桑園・果樹園の転作、暗渠・客土などの土地改良による湿田の二毛作田化であった。
麦踏み、追肥、土入れの時期が指示され、増産のための具体的で細かい配慮がなされている。


甘藷の増産

甘藷は、当初酒精原料としての役割が重要視されていたが、戦争の長期化に伴う食糧事情悪化の中で、
米麦の不足を補う重要食糧として期待されるようになり、その増産に力が入れられた。
昭和13年1月、県が策定した最初の増産計画の中に、甘藷は、玉蜀黍・茶・苧麻と共に対象作物として取り上げられ、
県農会も同年より増産指導を始めた。
その後、米麦需給の逼迫とともに、戦時下食糧としての甘藷の重要性が認識されるようになり、
果樹園・桑園の転換、空閑地の開墾などによって栽培面積は急増した。
昭和19年度には、県の主導のもとに戦力増強甘藷倍加運動が展開されることとなり、
開墾地・休閑地・既栽培地利用、果樹園の転換・間作・周囲作により作付け面積増加が計画された。

その進展を図るため、中等学校・青年学校・国民学校長宛に出され、増産のための具体的方策として、
(1)校地・校下の空地などを利用し、各学校一反歩以上の甘藷を栽培する、
(2)学童生徒を通じ、学校育苗園にて育成した甘藷苗を各家庭に配布し、
一戸当たり六株以上を宅地、垣根を利用して植え付ける、
(3)学童生徒を通じ、甘藷皆作空地撲滅の県民運動を推進する、
(4)勤労奉仕などを通じ、甘藷増産意欲の高揚、栽培技術改善に努めることが指示された。
利用可能な土地は、寸土も余さず食糧増産のために活用した当時の状況がよく示されているが、
食糧事情の窮迫を如実に表している現象でもあった。
昭和18年7月には、着任直後の相川知事の発案により、県庁の庭もすべて開墾して大豆・そばを栽培し、
県自らが県民に対して範を示す措置もとられた。


食糧生産の減退

戦時下における食糧確保を目指して進められた増産政策、農業統制にもかかわらず、
労働力不足及び肥料を中心とする生産資材欠乏によりこれらの政策は所期の目的を十分達成することはできなかった。
全国的にみて、米は昭和15年、麦は16年、茶・木炭は17年から生産が漸減し始めた。
県内における耕地面積は、昭和10年ころから増加に転じ、15年に頂点をむかえたが、以後は漸減していった。
一方、作付け面積は15年以後も増加し、17年に至って耕地利用度は185%を示した。
これは、国、県などによる増産政策の成果と考えられるが、
これを頂点として、以後は耕地面積と同じく漸減をみせることとなった。
藷類を除く主要食糧作物は、減退の傾向がみられた。
全作物を通して特に19年以降の減退が激しく、物不足・人不足の中で進められた国・県の細部にわたる増産策、農民の増産努力の限界を示すものであろう。

 


・・・


「岡山県史 現代Ⅰ」 岡山県 1990年発行


蚕の衰退と畜産の復活

戦中・戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積一万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年 (昭和21)には桑園面積1427町歩 養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。
同年養蚕復興五ヵ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、
1950年には、桑園面積、戸数、産繭量とも一段と減少している。

養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
和牛の飼養頭数は増加に転じ1950年には11万頭に達した。また水田の裏作に牧草を栽培する水田酪農が普及し、乳牛の頭数も増加の勢を見せ始めた。


・・・

 

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「平家物語」厳島御幸  (広島県宮島)

2024年07月21日 | 旅と文学

高倉天皇は後白河天皇の第7皇子で、
8歳で高倉天皇となり、
20歳で天皇退位。上皇となった。
21歳、高倉上皇は崩御した。

実父(後白河法皇)や義父(清盛)が命じるような感じで
天皇になり、そして退位した。
宮島訪問は、高倉上皇の短い人生の最期の表舞台となった。

 

・・・

旅の場所・広島県廿日市市宮島町  
旅の日・2023年6月10日                 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行

・・・

 

厳島御幸---三歳の新帝誕生


治承四年正月一日。
鳥羽殿には参賀に参る人がありません。
入道相国が朝臣の参賀を許さず、後白河法皇もまた気兼ねなさっていたからです。


二月二十一日。
高倉天皇はべつにこれといったご病気でもいらっしゃらなかったのに
無理にご退位させ申して、春宮が皇位を継がれたのでした。
もちろん入道相国の、「すべては思いのままになるから」となされたこと。
平家一門は、自分たちの時代が到来したぞとばかり、みな大騒ぎです。
高倉天皇は高倉上皇となって、
灯火も減り、宮中警固武士たちも途絶え心細いのでした。
新帝は今年三歳。
幼帝も幼帝。まさに幼君。
「ああ、このご譲位はあまりに時期が早すぎる」

 

 

治承四年三月。
高倉上皇が安芸の国の厳島神社へ御幸なさる話が伝わりました。
人々は不審に思いました。
なぜならば、
天皇がご退位になった後の諸社御幸の初めには、
八幡、賀茂、春日などへお出になるのが常の習いでした。
遠い安芸の国までの御幸とは不思議でならないからです。

三月二十九日。
高倉上皇は今年おん歳二十。
お姿はひとしお美しくお見えになるのでした。
鳥羽の草津という船着場からお船にお乗りになりました。

 

 

 


還御---帰路の風雅

三月二十六日。
上皇は厳島へご到着になりました。 
入道相国がたいそう寵愛された内侍の邸が上皇の御所となりました。
中二日ご滞在なさって、御経供養や舞楽が行なわれました。 
導師は三井寺の公顕僧正であったということです。
この僧正が高座に上り、鐘を鳴らし、表白の詞に
「九重の都を出て、八重の潮路を分け、はるばると参詣なさったおん志しの、忝さ」
と高らかに申されたので、君も、臣も、みな感涙を流されましたよ。
高倉上皇は本社の大宮や客人の宮をはじめ、各社残らず御幸になりました。
それと大宮から五町ばかり山をまわって、滝の宮へもご参詣になりました。
公顕僧正は一首の歌を詠み、その滝の宮 拝殿の柱に書きつけられました。

三月二十九日。
上皇は船出の用意を調えられて帰途に就かれました。
しかし、どうにも風が熟しい。そこでお船を漕ぎ戻させて、厳島のうちの有の浦というところにお泊まりになりました。
上皇はお供の公卿や殿上人におおせになります。
「さあ、皆の者、厳島大明神とのお名残りを惜しんで、作歌しなさい」
そこで少将藤原隆房が詠みましたのは、この一首。

たちかへる 
なごりもありの 
浦なれば 
神もめぐみを 
かくる白波

 

 

夜半になって波も静まり、あの烈風も収まりましたので、上皇はお船を漕ぎ出させ、
その日は備後の国の敷名の泊にお着きになりました。
今日が何月何日かと申せば、もう四月の一日。
「そうか、今日は衣更えの行なわれる日だ」と、上皇も供奉の人々もそれぞれ都のほうを偲んで、お遊びに興じられます。


四月二十二日。
この日、新帝のご即位の儀式が行われたのです。
安徳天皇でございます。

 

・・・・

 

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「平家物語」富士川の戦い  (静岡県富士川)

2024年07月21日 | 旅と文学

斎藤実盛(さねもり)といえば、
岡山県では「実盛さま」と呼ばれ、田んぼの虫送り行事で知られる。

奥の細道では、芭蕉の句も有名。
【むざんやな甲の下のきりぎりす】

元はと言えば、斎藤実盛は平家物語に多く登場する。
富士川の戦いでも、主役をつとめていると言っていい。

 

・・・

旅の場所・静岡県富士川
旅の日・2022年7月9日
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

・・・

 

富士川

その日の暮れ方、平家の陣の前を、急ぎ足で西の方へ行く下男の男があった。
怪しいと見て、平家の兵はこの男を捕え、侍大将忠清の前へひっ立てて来た。
すぐに尋問がはじまる。
「そちはどこの何者か。」
「はい、常陸(今の茨城県)の源氏、佐竹太郎殿の下男でございます。」

「して、どこへ行く。」
「はい、都へ参ります。」
「時に、そちは鎌倉を通って来たであろうが。」
「はい、通って参りました。」

「では尋ねるが、鎌倉には源氏の軍勢がいかほど集まっておったかの。」
「さあ、私のような下郎の身は、四、五百、千までは数えられますが、それから上は数えられませぬ。」
「いや、そちがいちいち数えなくとも、人のうわさでは、どれくらいと申しておったか。」
「はい、たしか二十万騎とか申しておりました。」
「なに、二十万騎!」

「それはたんに人のうわさであろうが.........」
「もちろん、うわさでございます。しかし、私がここまで参ります間、八日九日と歩きつづけて参りましたが、
野も山も海も川も、みな源氏の武者で埋まっておりました。」

 

 

平家の遠征軍の中には、斎藤別当実盛という老武者がひとり加わっていた。
彼はもと源氏の家来であったのだが、今は平家につかえているのである。
平素は武蔵の国に住んでいたので、坂東の事情に詳しかった。

大将軍維盛
「いかに実盛、坂東八か国には、そちほどの強い弓を引く者が、何人くらいあるかな。」
そうはあるまいと思って、雑盛は尋ねてみたのであった。


実盛
「はっ、はっ、はっ。」

大将軍維盛
「実盛、どうしたのか。急に笑い出したりして。」

実盛
「殿はこの実盛の弓を強いと思われますか。
矢の長さはわずかに十三束にござりまする。
坂東に強弓矢と申しますは、十五束以上をさしまする。
かような大矢に当たりますと、鎧の二つ三 つは、ぶつりと射通されてしまいまする。

だいたい、東国の大名は、ひとりで五百崎の敵を相手にいたしまする。
それに坂東武者はみな馬の達人、どんな足場の悪い悪所をかけても、馬を倒すことはありません。
いざいくさともなれば、たとえ親が討たれ、子が討たれても、その死骸を乗り越え乗り越え戦いまする。
それに比べ西国のいくさは、
親が討たれれば引き退き、その仏事供養をすませてから戦います。
子が討たれれば親は泣き、もはや戦う気力もなくなってしまいます。
兵粮米が尽きればいくさはやめ、夏は暑いとていくさをきらい、冬は寒いとて出陣いたしません。
こんなことでは勝てるいくさにも勝てません......」


そこまで話して実盛はひと息つき、並みいる平家の武士たちを見まわした。
恐ろしさのために青い顔をしたのもあり、恥ずかしそうに下うつ向いているのもある。
かくするうちに、源氏の軍勢がようやく富士川の対岸にあらわれた。
あとからあとからと、それはつづく。平家の赤旗に対して、源氏の白旗が野にも山にもへんぽんとひるがえった。
十月二十四日の卵の刻(午前六時)に、源平の矢合わせが行なわれることになった。


その夜半、富士川付近の沼におびただしく群がっていた水鳥が、何に驚いたのか、いっせいに ぱっと飛び立った。
何千、何万という水鳥の羽音が水面にこだまして、雷のように聞こえた。
平家の兵たちは、これはてっきり源氏が夜討ちをかけてきたものと思い込んだ。

「おお、夜討ちだ! 夜討ちだ! 源氏が押し寄せたぞ!」
「親が死んでも子は知らぬという坂東武者だ!」
平家の陣営は上を下への大騒動になった。だれかがどなっている。
「取りまかれては全滅だ。逃げろ!」
と、ひとりが言い出すと、あとはもう総崩れだ。

弓を持った者は矢を持たず、矢を持った者は弓を忘れる。
他人の馬には自分が乗り、自分の馬には他人が乗る。
中には瓶につないだままの馬にあわてて飛び乗って、馬の尻をひっぱたいたからたまらない。
馬は枕のまわりをグルグルとまわる。こうして平家軍は、一兵も残さず、夜なかのうちに逃げて行った。


平家が戦わずして逃げ帰ったといううわさは、すぐに京都や福原へも聞こえてきた。
平清盛は、ひたいに太い青筋を立てて怒った。
「なんというぶざまな負けようだ。維盛は鬼界が島へ流してしまえ!忠清は死罪にしてしまえ!」 
と思いたが、なだめる者があって、それまでの罰は行なわれずにすんだ。

 

 

それにしても、水鳥の羽音に驚いて逃げたという例は、今までの歴史にないことだ。
そのただ 一つの例を作った平家の軍勢は、後世の物笑いになった。

 

 

 

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風林火山  (長野県川中島)

2024年07月21日 | 旅と文学

第二次世界大戦中、
皇居や大本営や政府機関を、東京から日本本土の中央部分に移転することが決まった。
その工事は完成をみないうちに終戦となった。
今は一部が「松代大本営跡象山地下壕」として一般公開されている。

信玄と謙信の川中島の戦いの場所は、
その「松代大本営跡」と数キロと離れていない。
つまり、信玄と謙信の両雄は、日本の中央部分で華々しく戦ったともいえ、
戦国時代を代表する合戦として現在まで語り継がれている。

 

・・・

旅の場所・ 長野県長野市小島田町 「川中島古戦場」
旅の日・2014年7月19日
書名・風林火山
著者・井上靖
発行・新潮社 2006年発行

・・・

 

 

信玄の本隊一万は予定通り十八日に古府を出発すると、二十日に大門峠を越え、南信の部隊三千を加え、二十一日に腰越に到着、その夜は上田に宿営した。
海津城からの急便は次々に到着した。
謙信は 千曲川を渡り武田陣の背後に廻り、自らが退路を断った形だった。
二十九日、信玄は再び千曲川を渡り、全軍を海津城に収容した。
妻女山の謙信と海津城の信玄は指呼の間に相対峙したまま九月を迎えた。

 

九月九日の重陽の節句の日、海津城の将兵は本丸付近に集まり、そこで祝宴が張られた。
高坂昌信の率いる一万二千の大部隊が、卯の刻(午前六時)に妻女山の謙信の陣営を衝くために、
深夜、城を出て丘陵の急坂を登って行ったのは月の出の少し前であった。
広瀬で千曲川を渡った。
平原には濃霧が立ちこめていた。
武田の旗本軍はその霧の底を這うようにして、次第に幅広く横隊となって展開して行った。
信玄の本営が陣したのは八幡原であった。
風林火山を初めとする何十本の旌旗は霧の中に立てられた。
「まだか」
妻女山の方向を注意させていた。
依然として霧は深く、一間先きの見通しは利かない。
「上様!」
「前面の部隊は越後勢と見受けます。推定一万数千」
言った時、烈しい銃声が西方で起った。

 


いつか霧は上がろうとしていた。。
勘助は見た。
それは彼が生を享けて初めて見る世にも恐ろしいものであった。
勘助は思わず息を呑んだ。
はっとして見惚れていたいような、見事な敵の進撃振りであった。

敗退した武田隊に替って前線に出た山県隊は、左翼から中央へかけての広い戦線に亘って長い間攻勢を持していたが、これまたいつか守勢に立ち、一歩一歩後退の余儀なきに到っていた。
こうした情勢下に、右翼では諸角豊後守が乱戦の中に討死した。
大将を討たれて、右翼方面 は一度に浮足立った。

 


「山本勘助、首級を頂戴する」
ひどく若々しい声が聞えた。
勘助はその方を見ようとした。何も見えなかった。
突き刺された槍の柄を握ったまま、勘助は三尺の刀を大きく横に払った。手応えはなかった。
烈しい痛みがまた肩を走った。
勘助は半間ほど、突き刺されている槍で手繰り寄せられるようによろめき、松の立木にぶつかった。
勘助はそれに寄りかかりながらなおも刀を構えていた。 
勘助の一生の中で、一番静かな時間が来た。 
相変らず叫声と喚声は天地を埋めていたが、それはひどく静かなものに勘助には聞えた。
血しぶきが上がった。
異相の軍師勘助の首は、その短い胴体から離れた。

 

 

 

そして、またその時、越軍の総帥謙信は、金の星兜の上を、白妙の練組をもって行人包みにし、
二尺四寸の太刀を抜き放つや、いままさに月毛の馬に鞭を入れようとしていた。
単身信玄を襲い、いっきに宿敵と雌雄を決せんとするためである。
平原はその頃から全く表情を改め、
陽は翳り、西南にはどす黒い雨雲がもくもくと沸き起りつつあった。

 

 

 

・・・

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昭和13年「国家総動員法」兵隊さんのおかげです

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和12年7月、日中戦争勃発。
昭和12年11月、大本営が設立。
昭和13年4月、国家総動員法が成立。
議会の承認なしで、人も経済も物資も調達が可能になった。
内閣は軍部の代行機関ともいえる存在になった。

・・・・


「ニイタカヤマノボレ1208」 和歌森太郎他 岩崎書店 1995年発行


昭和13年「国家総動員法」

 

♪兵隊さんのおかげです 


兵隊さんよ ありがとう
兵隊さんよ ありがとう

1938年(昭和13年)の4月に、すべてを戦争のためにさしだすことをきめた「国家総動員法」がでてから、
国民の生活をしばる法律や規則がたくさんできました。
中国との戦争が長びき、はたらきてと物資が、どんどん戦争につかわれていたからでした。


まず、綿製品をつくったり売ったりすることが制限されました。
もめんのかわりに人造せんいのステーブル=ファイバーが「代用品」としてでまわりはじめました。
これをりゃくして「スフ」とよびました。
スフということばは、「代用品」「粗悪品」の代名詞のようになり、まじりけのないもめんを「純綿」といい、
これは貴重なものとなって、まじりけのないことの代名詞につかわれるようになりました。
純綿は、戦地の兵隊の軍服や下着そのほかの軍需資材としてつかわれました。

また、ガソリンが統制され、切符制になりました。
自動車の後部を改造し、木炭をたいてエンジンを動かす、「木炭自動車」ができました。
木炭では不経済だとばかり、「薪自動車」が、しりからけむりをはきながら町をはしるようになりました。

1939年(昭和14年)の6月には、昭和のはじめに日本に伝わり、そのころたいそうはやっていた女性の頭髪のパーマネントは、
戦時下にふさわしくないからと、やめることにしました。
農村の仕事着であったモンベが、都会の女性のあいだにも、もちいられるようになりました。

また、男性が、長いかみの毛は「質実剛健」でないからと、坊主がりにしだしたのも、このころのことでした。


この年の7月8日には、おおくの国民がしんぱいしていた「国民徴用令」が、ついにしかれました。
戦争に直接かんけいのないしごと、戦争にとくにひつようでないしごと、とくにいそがないでもすむしごと、
などにたずさわっている国民は、国がひつようとしたときには、いつでも、軍需工場に徴用してはたらかせることになったのです。
いつ戦争にひっぱっていかれるか、という不安のほかに、
このときから、いつ軍需工場に徴用されるか、という不安が、国民ふえてしまいました。
国民を兵隊として戦地へつれていく召集令状は赤紙でしたから、これを「赤紙応召」といい、
徴用は青い色をした令状でしたから「青紙応徴」などとよばれました。

このころ、都会のめぬき通りには、
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」
という立看板が、町をいく人の目をひきました。

こうするうちに、1940年(昭和15年)の7月6日には、「奢侈品等製造販売制限規則」という、規則がだされたのです。
奢侈品とは、つまり「ぜいたく品」のことで、
たとえば、ゆびわ、うでわ、ネックレス、ネクタイピン、ベンダント、銀製の飲食器具、家具、装身具、絹レース、象牙製品などをはじめ、戦時下ではぜいたくだとかんがえられた品じながたくさんふくまれていました。
この規則できめられたものはつくらない、売らないという品じなですから、家のたんすやおしいれにしまわれてしまいました。

それまでの
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」という看板が
「ぜいたくは敵だ!」
と書きかえられました。

毎月一日を「国民精神総動員の日」ときめられましたが、1939年(昭和14年)の9月1日からは、
毎月一日を「興亜奉公日」と名をかえ、この日は国をあげて戦争に協力するとされました。

戦争に積極的な婦人団体はまちにでて、かつやくをはじめました。
東京では、銀座や新宿などのめぬき通りに進出し、目をつけた女性には、
華美な服装はつつしみましょうなどとすりこんだビラをつきつけるのでした。

農村では、若いはたらきてをはじめ、年のいったはたらきても「赤紙」で戦地へいき、
「青紙」で軍需工場にひっぱられなどして、労力がひどくたりなくなっていました。
そのうえ、工場では軍需物資の生産にいそがしくて、肥料や農機具の生産がへっていました。
あれやこれやで、お米の産額も、しだいにへってきました。

「節米運動」ではまにあいません。
そこで「代用食」をたべることになったのです。
うどん、そば、パンなどはいいほうで、
ジャガイモ、サツマイモなどをごはんにまぜたり、そのままたべたり、すいとんをたべたりするようになりました。

興亜奉公日の東京では、食堂や料理店はお米の食事をださないことにし、ふつうの日でも、売る時間を制しました。
飲食店では、昼間からお酒をだすことをやめ、あまい歌やアメリカ調・ ヨーロッパ調の歌のレコードをかけることもやめるようになりました。

そのころのレコードは、軍歌や軍国歌謡(軍国調の歌謡曲)がはんらんしていました。
それにまじって、道中ものとか股旅ものといわれる「やくざ渡世」の歌。
軍歌や軍国歌謡は、
政府(内閣情報局)
軍部(陸海軍省)
新聞社・放送局(NHK)が募集し選定して、レコード会社とむすんで国じゅうにひろめました。

 


・・・・


「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


国家総動員体制

国家総動長期化する戦争に対して政府は昭和12年9月軍事機密保持のため使途を明示しない臨時軍事費特別会計を設けて膨大な戦費調達をはかった。
そのため軍事費は歯止めがなくなり、財政の軍事化が進んだ。
また同年9月10日には軍需生産を優先させるため、軍需工業動員法の適用に関する法律を公布し、
同日に輸出入品等臨時措置法を公布し(戦時における貿易・物資統制の基本法)・臨時資金調達法等を制定し、
戦時統制経済を強化した。

このような中で 昭和13年4月1日国家総動員法を公布した。
これは議会の承認を得ることなく勅令によって戦争に必要な人的・物的資源を動員できるものであった。
これ以降勅令が、
国民徴用・価格等統制令・賃金臨時措置令・小作料統制令などつぎつぎと制定され、
労働力・資金・価格・報道など全てのものが統制され、戦争に動員されていった。
議会は形骸化し、軍部が実権を握り政府の力は強まっていった。

このような軍事力強化の政策は物資・労力を不足させた。
そこで政府は生鮮食料品などに公定価格制を導入し、
ついには配給制度・切符制度を実施して消費の抑制制限を行った。

昭和13年7月4日『合同新聞』によれば、浅口郡の産業組合郡部会では「産業組合報国貯金」と銘打って各組合の貯金割当額を示し、 
占見2万8千円、金光2万6千円が割り当てられている。
同年12月21日の同紙は「農家貯金激増 農家は朗らか」と伝えている。

同年5月1日にはガソリンが配給制になり、 木ガスで代用することを奨励し始め、木炭自動車がみられ始めた。
農家にとっては重要な化成肥料が配給制になった。
浅口郡では昭和15年7月20日から砂糖が切符制となり、
マッチは1日1人4本の切符制が実施された。


また、この年頃から金属献納運動が始まり、
金光教本部でも全国の教徒に対して「退蔵金属献納運動」を呼びかけたと報道された。 
このような戦時体制のもとでは輸出産業は壊滅するのは当然であった。
昭和13年3月15日の『合同新聞』によると
「バンコック帽子輸出全く頓挫す 全工場の打撃甚大」と報じ、
婦人・子供の作業も入っていた家内工業が壊滅していく不安を伝えている。

翌昭和13年1月30日には、金光町軍人後援会主催による「時局講演会」が金光小学校遙南講堂にて行われた。
このような時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

 

・・・・

「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 

国家総動員体制


昭和12年に各市町村に銃後会・軍人後援会・恤兵会・軍友会などの組織が相ついで結成された。
この年11月には 備後地方3市10郡8万人を統合して大日本国防婦人会福山支部が発会し、「銃後の力」になることがうたわれた。
13年には福山高女勤労報国団、福紡福山工場の防諜団紅眼、
14年に福山警防団、
15年には福山市銃後奉公会・福山地方産業報国連合会などが結成されている。
これらのうち銃後会は、急成長したために、各地に専任の職員がおかれるに至った。

銃後会や後援会はおおむね市町村長が会長、
学校長が副会長となることが多く、有力者を幹部として市町村をあげて組織運営された。

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「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

銃後奉公会の設置

日中戦争勃発以後、県下各地に銃後後援会・軍人援護会などが生まれてそれぞれ活動していたが、
戦争の長期戦の様相をみて軍部と政府(内務・厚生省)は銃後団体の統一を市町村を単位にはかろうとした。
岡山県は1939年(昭和14)1月、市町村に対して銃後奉公会の設置を通達した。
会長は市町村長、部落代表者・各種団体代表者を評議員に、市町村内の世帯主を会員として、町村補助金・寄付金・会費をもって、
兵役義務心の高揚、隣保相の道義心の振興、現役・準召傷痍軍人や留守家族の援助、労力奉仕や家業の援助、
弔慰と慰問、軍事思想の普及などの諸事業を達成しようとしたものであった。

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